昨日の記事で取り上げた寺田透『正法眼蔵を読む』の初版は法蔵選書の一冊として一九八一年に刊行された。そのとき、同じ選書の一冊として唐木順三『禪と自然』も一緒に刊行され、寺田はその「解説」を書いていることが寺田書の「はしがき」からわかる。
この唐木の本は未見だが、寺田によれば、「道元を無常の形而上學者として把握した雄編」がその中に収められている。一九六四年に唐木の名著『無常』の初版が筑摩書房から刊行されているが、その最終章がまさに「無常の形而上学―道元―」と題されている。手元にある『唐木順三ライブラリーⅢ 中世の文学 無常』(中公選書、二〇一三年)で五十頁余りの論考である。『禪と自然』の中の道元論がそれと同一の論考であるかどうか今確かめようがないが、唐木の道元の把握の仕方は『無常』に収められた道元論によって代表されると見て大過ないだろう。
『無常』の「あとがき」で、唐木は、その道元論について次のように感懐を述べている。
私がいちばん書きたいと思い、また力をいれ、苦労したのは、道元を扱った「無常の形而上学」である。無常を観じ思って、道心を発し菩提を求めるという、普通のところから出発した道元が、ついに無常そのものを究め尽し、「無常仏性」にまで至ったそのことを私は書き尽くしたかった。無常を、ありきたりの無常感や無常観から解き放して、即ち心理や情緒や詠嘆から解き放して、まさに無常そのもの、もののリアリティにいたりつくした「無常の形而上学」を書きたかった。(五三五頁)
唐木にとって、道元の全体的思想は、「無常の形而上学」という一言に集約される。その全体像と『正法眼蔵』のテキスト群との間に自ら立ち入り、像とテキスト間での思考の往還運動を通じて道元の思想を生動させることが唐木にとって道元を読むということにほかならなかった。その読みの実践記録が「無常の形而上学」である。それは次のように結ばれている。
身心脱落者の共同世界においては、無常ならぬ何物もない。一切は無常であるままに、それは法の起滅である。無常な時間が音もなく一切存在を透過している世界である。一切が無常であるというところでは、無常への詠嘆は意味をもちえない。無常ということすら意味をもたない。一切が白色である場合、白いということが意味をもちえないと同様である。無常がそういう場面でとらえられたとき、それを「仏道」という。少くとも道元の仏道とはそういうものであった。(五三三頁)
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