内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

禁断の木の実を食べたアダムとイヴが最初に見たものは何か

2021-07-29 19:24:21 | 講義の余白から

 今日が遠隔集中講義本演習初日。予告通り、日本時間で第4限・第5限に行った。こちらの時間で午前7時45分から11時まで(15分の休憩を含む)きっちりやった。前半は、昨日の事前演習で取り上げた旧約聖書の創世記第三章の冒頭十一節を読んでの率直な感想を述べてもらうことから始める。昨日の演習の終わりに感想を用意しておいてほしいと頼んでおいた。
 二人のコメントで大変興味深かったのは、禁断の木の実を食べるとたちまち二人の眼が開かれて、自分たちが裸であることが分かり、無花果樹の葉を綴り合せて身の一部を隠したという話を、旧約聖書の当該箇所にはない「はずかしい」という感情を導入して理解しようとしていたことだ。
 確かに前章最終節に、二人とも裸で、たがいに羞じなかったとあるから、禁断の木の実を食べたとたんに裸でいる自分たちに気づき、急にはずかしくなったと解釈するのはけっしてまったくの見当違いではない。
 しかし、問題は、眼が開けたとたんに、なぜ自分たちが裸であることが急にはずかしくなるのか、ということである。言い換えれば、知恵の樹の実を食べ、神の如くなり善悪を知るに至ったアダムとイヴは、何が見えるようになったのか、ということである。
 禁断の木の実を食べる以前、アダムとイヴはけっして盲目だったわけではない。ただ、エデンの園は二人にまったく違って見えていた。そもそも「裸」という概念すらなかっただろう。何も隠されてはいなかったし、隠すべき何ものもなかった。
 善悪を知るということは、自分たちの身には最初から隠すべきものがあること、それを自分たちは神に対しても隠せると(誤って)思うことだ。素っ裸の自分が人目に晒されていることに気づき、「はずかしくなって」体の一部を隠したのではない。そもそもあの場面で人目はまだ存在しない。あるのは、アダムとイヴの自己視認と相互視認と神の眼差しだけだ。
 善悪を知るとは、自分が見ている自己の身体が自己そのものであり、神もまた私をそのように見るはずだと思いこむことであり、その自己が過ちを犯したのなら、その身を隠さなくてはならないし、神に対してもその身を隠せると思い誤ったから、「汝は何処にをるや」との神の問いかけに恐れをなし、エデンの園の樹の間に隠れようとしたのだ。
 乱暴を承知で言えば、この原罪をどう合理的に解釈するかが西洋近代哲学の根本問題の一つであり、この原罪そのものの否定が近代と現代を分かち、ニヒリズムへの途を開く。
 この見込みを一応の前提として(つまり、それ自体を結局は破棄することもありうるという前提で)、西谷啓治は、なぜニヒリズムを徹底化することに近代の超克の可能性を見、空の思想へと至ったのか、これが本演習の主たる問いである。
 本日後半は、『宗教とは何か』「三 虚無と空」の前半についての学生の一人からの報告をまず聴き、それを手がかりとして、空の思想がなぜ現代哲学において取り上げるに値するラディカルな問題提起であり得るのか、その理解に努めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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