内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自由と形式 ― 独仏間の文化的差異について ―

2013-08-25 04:24:11 | 哲学

 2005年からのことだったと思うが、東京のある私立大学が科研費を使って「哲学教育」についての総合的研究を行った。その一部は、独仏の哲学者それぞれ4人ずつに対して行われた「哲学教育」についてインタビューから成り、フランス語でのインタビューを日本語に訳す仕事を私は請け負った。インタビューを受けたのは、ジャン・リュック・マリオン、ナタリー・デプラズ、フランソワ・ジュリアン、ハインツ・ヴィスマンの4人。この最後の1人ハインツ・ヴィスマンは名前からも分かる通りドイツ人だが、長年にわたってフランスに在住しフランス語で哲学を講じているので、前3者に準ずる扱いを受け、フランス語でインタビューに応じた。
 そのインタビューの中で、ヴィスマンは、独仏間の文化的差異を、エルンスト・カッシラーの『自由と形式(Freiheit und form)』(1916)を引き合いに出しながら、教育の順序という問題において、次のような仕方で際立たせる。
 ドイツでは、まず自由、それから形式。つまり、まず自由が与えられ、充分にそれを享受させたあと、形式を強制していく。最初は、子供たち各自に自由に言いたいことを言わせ、好きなようにさせる。思う存分にそうさせた後で、徐々に形式を与え、その枠の中に押し込めていく。一旦形式を受け入れたら、誰であれそこから逸脱することは許されない。フランスでは、まったく逆に、まず形式、それから自由。つまり、まずこれだけは誰でも守るべきとされる形式を小さいうちから叩きこむ。それはいわば最小限の社会的ルールであり、これをまず徹底的に仕込む。そして、一旦それが身につけば、後は各自の自由にさせる。
 ちなみに、このインタビューを訳し終えた後、私は十数人の職業も年齢も異なるフランス人男女にこのヴィスマンの話の内容を紹介して、それに対する意見を求めたが、フランスの教育スタイルはまさにその通りだと全員が同意した。実際それは私自身がフランス社会で観察してきたこととも一致する。学校教育の中だけではなく、家庭でのテーブルマナー・日常の挨拶などのいわゆる躾は、少なくとも中流以上の家庭では、小さいうちからとても厳しい。
 インタビューの中では、ヴィスマンはどちらかと言えばドイツ方式に対して点数が辛かったが、それでも、これら2つの相対立する教育スタイルについては、優劣の問題としてではなく、それらがヨーロッパ文化にもたらしうる文化の幅と奥行きの問題として捉えるべきであることを強調していた。その上で、日本のことがドイツと一緒に引き合いに出されるところを引用しておこう。
 
 「フランス式建築にバロック的なけばけばしたところがないのは理由のないことではないのです。ドイツはバロックだらけですが、フランスはそうではありません。バロック時代においてさえ、フランスではルネッサンス的なもの、端正な輪郭からなる建築をしていて、ほとんどバロック的な断絶が見出されません。それはフランス人たちのデカルト主義と呼ばれるものですが、それは一つの言い方です。実のところは、それは最小限の順応主義であり、それがフランス人たちに広大な自由を与えているのです! それは順応主義によって保証された自由、逸脱への自由です。ところが哀れなドイツ人たちは最初に自由があり、学校で『腹の中にあることを見せてごらん。とことんまでやってごらん。お利巧さんにならないで。好きなようにやってごらん』と言われます。それからすぐ強制的に規律を守らされ、言ってみれば脅迫されているような状態を強いられます。私が世界で見たもっとも強迫神経症的な国民はドイツ人と日本人です。この両国民は社会的動乱を避けるために強制的に自らに規律を課しているのです。」

 ヴィスマンの日本についての上記の見解に賛成するかどうかは別として、この自由と形式の順序と関係という観点は、日本の教育、さらに一般的に日本文化を考えるためにも1つの手がかりにはなるだろう。日本には、時代と社会階層によって、2つの順序、つまり「自由から形式へ」と「形式から自由へ」との両者が混在していたとは言えないだろうか。時代と階層によって、どちらかの順序が優位を占めたとはいえ、他方が社会からまったく排除されてしまったことはなかったのではないであろうか。そして、それだけではなく、「自由における形式」あるいは「形式における自由」という両者の高次の融合を、文学・芸術・建築・作庭において、実に洗練された形において成功させていると見ることができないであろうか。


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