内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

離脱論(四)「女である処女」の魂の限りなき豊穣

2022-01-27 23:59:59 | 哲学

 エックハルトのドイツ語説教二の一部を一昨日の記事で引用した。その文言を今一度受け止め直した上で、先へと読み進めよう。
 私の知性が最高度の知性であり、この世にあらゆる像(あるいはイメージ)、そして神自身の内にあるあらゆる像(イメージ)を知性の内にもつことができるとして、それらすべての像から完全に自由であるときにはじめて、神の意志に従うことができ、その意志を不断に完遂しつづけることができる。一言で言えば、あらゆる像から解放された魂においてはじめて神はその意志を働かせる。
 しかし、離脱の最終目的はそのような魂の解放に終わるものではない。そこから可能になってくる神の賜物の「結実」がさらに善きこととされる。

人が神をみずからのうちに迎えることは善きことである。この受容性において人は処女であることになる。しかし神がその人のうちで豊かに実を結ぶことはさらにいっそう善きことである。賜物が豊かに実を結ぶことこそが唯一、賜物への感謝となるからである。(25頁)

 しかし、この結実は、人間の魂とは独立に、人間の魂の内で、いわばまったく自発的に神によってもたらされることかというと、そうではない。魂は「イエスを父である神の心の内に生みかえす」とエックハルトは言う。この生みかえしは、魂による感謝の表現である。この生みかえしがなければ、受け取られた賜物もいずれすべて無に帰す。
 魂によるこの感謝は、一切の所有物から解放された魂において、魂自身によって為され、成される。このような実り豊かな魂をエックハルトは「女である処女」と呼ぶ。このような発想自体は、エックハルト以前のキリスト教神学者にも見出すことができる。例えば、クレルヴォーのベルナルドゥスは、ある説教の中で、「もし多産な処女であるほどに完全な魂があるとすれば、父なる神はその魂の内に生まれることばかりでなく、その魂から生まれることも受け入れられるだろう」と言っている(Traités et semons, traduction et présentation par Alain de Libera, 1995, p. 419, n. 21)。

彼女たちは毎日毎日、百たびも千たびも数え切れないほど、その実りを最も高貴なる根底より生み、実らせながらもたらすのである。さらに適切にいえば、父がその永遠なる言を生む、実にそれと同じ根底より、彼女たちは実り豊かに父と共に生むものとなるのである。(27頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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