内的自己対話-川の畔のささめごと

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古典の読み方 ― 内在的理解の方法としての翻訳

2013-12-29 21:09:50 | 読游摘録

 今回の帰国に合わせて購入しフランスに持ち帰る和書は二十冊余りあるが、その中の一冊が大隅和雄『愚管抄を読む』(講談社学術文庫、1999年。初版は平凡社選書の一冊として1986年刊行)。『愚管抄』は、歴史を絶対者との関わりにおいて扱った、日本人の手になる最初の歴史書であり、その文章は晦渋をもって知られる。著者は、名のみよく知られ、実際にはその全体が読まれること稀なこの古典を現代語訳するという難事業に取り組まれた慈円研究の第一人者である。ほぼ一年没頭したというその苦心惨憺の訳業から得られた『愚管抄』の内在的理解に基づいて、この日本史上稀有の歴史書についての知見をいくつかの観点から明快に論述しているのが、この『愚管抄を読む』なのである。
 同書の「あとがき」で、著者は、国文学者と国史学者とが同じ日本の古典に取り組みながら、その古典の読み方には歴然とした違いがあり、前者は文章や表現に興味を持つのに対して、後者は事実とそれに関わる或る種の観念に関心を持ち、前者の研究会では、古典の文章そのものが朗々と暗誦されることしばしばであるのに対して、後者の研究会では、そういうことはめったになく、ことばや文字が主な関心の対象として話題になると言う。ところが、史学者である自分が訳業に取り組み、そのために『愚管抄』の文章を「地を這うようにして」読み、学校で繰り返し講読しているうちに、いくつもの文章を朗誦している自分に気づいて驚く。
 その直後、西洋の哲学者や思想家の研究者たちが質問に答えるときの自信に満ちた態度に触れ、「どうして昔の外国人の考えが、あんなによくわかるのだろうかと不思議に思い、不信の感じすら持つことが少なくなかった」(同書290頁)と、取りようによっては痛烈な皮肉にも聞こえるくだりの後、ところが、このことについて『愚管抄』を訳している間に著者自身思い当たることが多かったと言う。そこから著者の翻訳論が展開される。

翻訳ということは、単に一つ一つの文章を別の言葉に移してゆく作業の積み重ねで出来るものではなく、個々の行文の中で適切な訳語を探し、その配列を決めるためには、つねにその書物全体との関わりを考えていることが必要であり、その書物に書かれていないことまでも推測を続けていなければならないという、いわばあたりまえのことに、それまで翻訳という仕事をやったことのなかった私は、はじめて気がついたのである。つまり、広い意味でつねに翻訳という作業と密接に結びついた仕事をしている西洋の思想の研究者は、一人の思想家や或る古典について考える場合いつも、その全体を考えており、一字一句も洩らさず古典を現代語、自分の言葉に移し尽くすという作業を省略することができる日本古典の研究者は、特別な言葉や、部分的な記述だけにこだわっているのではないかと思った(同書290-291頁)。

 すべての西洋哲学研究者が著者の言う通りの作業に取り組んでいるわけではないから、彼らに対する評価としては妥当な記述だとは必ずしも言えないが、学問的作業の一環としての翻訳、原テキストの内在的理解のための方法としての翻訳のあり方としては、まさに勘所を押さえていると言うことができるだろう。私自身翻訳の経験があるが、翻訳はこうありたいと思う。しかし、この態度を忠実に守ることは、取り組まれる古典が偉大であればあるほど、その翻訳作業と全体理解の努力との間にはより多くの往復運動が繰り返され、その過程でテキストの理解は徐々に深まっていくとしても、訳業の完成への道のりはそれだけ遠く、困難なものになる。だが、翻訳出版そのものが目的でなく、あくまでテキストの内在的理解ということが目的ならば、この往復運動は無限であってよく、その過程でのもろもろの発見こそ学問の継承・発展にとって大切であろう。












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