内的自己対話-川の畔のささめごと

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「自殺への漸進的な馴致」とはどういうことか ― レヴィ=ストロース『遠近の回想』に触れて

2017-09-23 20:46:07 | 読游摘録

 エルンスト・ゴンブリッチが対談の名手ディディエ・エリボンを得てその質問に答える形で語った知的自伝 Ce que l’image nous dit, Arléa, 2009(初版は Adam Biro 社から1991年刊)を数日前から息抜きに読んでいる。実際の対談は英語で行われたのだが、エリボンの仏訳は、簡明卒直なゴンブリッチの語り口をよく伝えていて、読むのが愉しく且つとても興味深い読み物になっている。
 昨日、ふと、同じエリボンを相手にレヴィ=ストロースが知的自伝を語った De près et de loin, Odile Jacob, 2001 (初版は同社から1988年刊。その二年後に刊行された増補新版の邦訳は、『遠近の回想』みすず書房、2008年)をちょっと読み返していて、レヴィ=ストロースがアメリカで親交を結ぶことになり、後にパリで頻繁に会うことになる人類学者 Alfred Métraux(1902-1963)の思い出を語っている箇所で、その当時は思いがけなかった彼の自殺に触れて、« Mais, quand j’y réfléchis aujourd’hui, il me semble que sa vie privée fut une acclimatation progressive au suicide » (op.cit., p. 56) と言ってるのがひどく印象に残った。
 Acclimatation というのは、climat(気候・風土)を語源とする動詞 acclimater([動植物などを環境などに]順応・順化させる)という意味の動詞から生まれた名詞であり「(生物の)順化」を意味する。だから、基本的に、acclimatationとは、新しい環境に適応して生きていけるようにすることであり、生への存在を前提としている。
 それゆえ、« acclimatation progessive au suicide »(「自殺への漸進的な馴致」)というのは、この語の本来の意味を転倒させた表現ということになる。自らの生を自死への環境へと馴致させるとは、どういうことだろう。見境のない自暴自棄とは違う。計画的な自殺とも違う。
 エリボンとの対談では、この表現の直後に話題が変わってしまうので、レヴィ=ストロースがどういう意図でこの表現を使ったのかよくわからない。Métraux がどのような人であったか、レヴィ=ストロースの記述以上のことは私にはわからないから、推測も難しい。しかし、レヴィ=ストロースが単なるその場の思いつきでこの表現を使ったとも思えない。それだけにこの表現が昨日から棘のように心に引っ掛かったままである。











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