内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

今必要とされる天皇機関説事件についてのリテラシー、あるいは現代日本の立憲主義の危機について

2019-03-24 13:57:54 | 講義の余白から

 昨日の記事で話題にした天皇機関説問題について、その近代日本政治史における重大性を、今日の政治状況とリンクさせて一般読者にもわかりやすく懇切丁寧に説明している良書が山崎雅弘の『「天皇機関説」事件』(集英社e新書、2017年)である。授業の準備も兼ねて、ここに何箇所か本書から摘録しておく。そこに含まれている問題は、しかし、単に近代日本史学習にとっての一重要項目という枠におとなしく収まるものではなく、現代日本に直結する重大な問題の一つである。

 天皇機関説は、天皇という古い制度を近代国家の枠組みに整合させる「仕掛け」であったと同時に、天皇の特権的地位を根拠とする政治権力が、コントロールを失って暴走するのを防止するための「安全索(ワイヤー)」のような存在でもありました。

 その仕掛けを不敬であると攻撃し、葬り去った結果、どうなったか。

 その結果、「天皇」あるいは「権力」と「近代国家」をかろうじて結び付けていた、天皇機関説という「ワイヤー」が、バチンと大きな音を立てて切断され、「権力の暴走」を止める安全装置が失われました。

 太平洋戦争での破滅的な敗北にいたるまでの昭和史を、「軍部の暴走」の一言でまとめることはできないことはいまさら言うまでもないとしても、その暴走を許してしまったのは大日本帝国憲法そのものにある欠陥だと短絡的に結論づけることもできない。同憲法の危険性に気づき、国家の暴走が起きうることを想定し、あらかじめ制度面で何らかの対策を講じておく必要があると考えた人たちが、明治・大正・昭和初期にも少なからずいた。その一人が美濃部達吉であった。
 著者が本書を書こうと思い立った動機は「あとがき」に詳しく述べられている。そのもっとも重要な論点は、「一九三五年の天皇機関説事件が、日本における立憲主義を停止させた」ということである。ここ数年、日本では、安保法制の採決(二〇一五年)をめぐる議論など、さまざまな場面で「立憲主義」という言葉を多く目にするようになった。少なからぬ憲法学者たちが、その立憲主義が今脅かされていると、天皇機関説事件を引き合いに出しながら警鐘を鳴らしているのを見て、著者は不安を覚える。

 もちろん、天皇機関説事件が起きた一九三〇年代と現在では、立憲主義の基になっている憲法の内容そのものが大きく異なっているので、単純な比較はできません。それでも、権力者と国民の関係を規定する憲法と、それに基づいてさまざまな社会制度を構築する立憲主義が失われた時、国民の将来が大きく変わってしまうことを、一九三五年に起きたこの事件は、後世の日本人に教えています。

 美濃部が一九三四年に雑誌記事で書いた「過度の国家主義を信奉する者が、それに反対する者を、不逞不忠の非国家主義者と決めつけ、これを圧迫しようとする傾向を生じやすい」という文言も、ここ数年の日本における社会の変化と照らし合わせると、不気味な説得力を持つように感じられます。

 天皇機関説事件を同時代史の問題として、つまり現在の私たちに直接関わりのある重大な問題の一つとして読むリテラシーが今の日本には必要なのだと思う。












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