内的自己対話-川の畔のささめごと

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「離脱・放下」攷(一)― ハイデガーからエックハルトへ、解釈の捻れを超えて

2015-03-29 20:37:25 | 哲学

 昨日の記事の中で、「放下(Gelassenheit)」という言葉が、現代の科学技術万能社会にあって私たちが取るべき態度を示す言葉としてハイデガーによって用いられていることに言及した。この語は、ハイデガー自身がそう言明する通り、マイスター・エックハルト神秘主義思想の根本語の一つ « Gelâzenheit » に由来する。
 この « Gelassenheit » の意味するところについてハイデガーが詳しく説明しているのは、まさにこの語そのものをタイトルとした、一九五五年に生まれ故郷メスキルヒで行った同地出身の作曲家コンラディン・クロイツァー(Conradin Kreutzer、1780-1849)の生誕一七五年記念講演と、その講演にその註釈として付加された対話篇の中でのことである。
 その講演の中で、ハイデガーは、技術世界が私たちに提供する諸事物を前にしての「魂の平等性」あるいは「魂の平穏」を指し示す語として「放下」を用いている。このような「単純で平穏な」態度は、同時に、技術世界の隠された意味への開けを私たちに与えもするという。
 ところが、このような意味をハイデガーによって与えられた「放下」は、エックハルトにおける「放下」とは厳密に区別されるべきことが、アラン・ド・リベラ訳『エックハルト論述・説教集』(Eckhart, Traités et sermons, trad. fr. Alain de Libera, 3e étidtion, GF Flammarion, 1995)の訳注の一つ(p. 188-189)の中で詳述されている。

 この訳注を一つの手がかりとして、「離脱(Abegescheidenheit)」と「放下(Gelâzenheit)」 という、エックハルト神秘主義思想の根本語の理解に少しでも迫って行きたいと思う。
 急にこのテーマを思いついたのではない。むしろ私にとって十数年来の懸案と言ったほうがよい。とはいえ、その間、この問題への取り組みを意識的に準備してきたわけではない。ただ、折に触れ、エックハルトを読み返してきたに過ぎない。
 だが、何事も機縁がなくては始まらないだろう。今回、その機縁が与えられた、ということだと思う。入念な準備の後、機が熟して、実行に移す、というのではない。ふと、「始めようか」と思ったのである。
 きわめて困難なテーマであるから、記事の継続には、多大の難渋が予想される。しかし、それもまた道行である。その難渋そのものが哲学的思考の実践の場でもあろう。先の見通しを立てることなしに、ゆっくりと粘り強く続けていきたい。途中でときどき小休止を入れることはあるだろうけれど。

 さて、上に言及した同じ訳注の中で、アラン・ド・リベラは、このハイデガーの « Gelassenheit » が、一九六六年に出版された仏訳では、« sérénité »(平静、平穏)となっており、以後、フランス哲学界では、「Gelassenheit=sérénité」 という等式が数十年に渡って流通することになったことを指摘している。つまり、この等式がフランスにおけるハイデガー技術論の解釈の方向性を決定づけたばかりでなく、仏語圏におけるエックハルト解釈にも何らかの影響を及ぼしてきたと考えられるわけである。
 おそらく、それゆえに、アラン・ド・リベラは、多数の引用を交えた懇切な注によって、エックハルトの « Gelâzenheit » は、ハイデガーの « Gelassenheit » とは厳密に区別されるべきこと、後者は、その源泉が聖書そのものにまで遡るキリスト教神学の中の « aequo animo esse »(魂の平等性=諸事物に対して等しく距離を取る魂)という思想の伝統に連なっていること、そして、そのかぎりにおいては、ハイデガーもまた、エックハルトやヤコブ・ベーメと同じ伝統の中に生きていることなどを示しているのであろう。
 私たちは、ここでハイデガーの思想圏を離脱し、明日から、まずはアラン・ド・リベラを「導師」として、そして他の碩学たちの教えにも学びつつ、一歩一歩、ドイツ神秘主義の最高峰エックハルトの「気圏」へと登っていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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