内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みによって失われたものが促す新しい存在の生成、あるいは自由の勇気 ― 受苦の現象学序説(13)

2019-05-24 11:49:03 | 哲学

 身体的苦痛がある程度を超えると、たとえ毎日肉体を鍛え抜いているアスリートでさえ、本来の調子は出ないし、記録も好調時に比べて落ちる。一般的に言って、痛みが度を超せば、普段のように行動できない。いずれの場合も、普段の自分の状態から何かが奪われているか、失われているか、欠落している。つまり、痛みは私たちに何かを失わせる。それが取り戻すことができるものであっても、しばらくは自分から何かが失われている。
 しかし、それを知っているということは、痛みのないときにはなかったことである。痛みというマイナスによってはじめて得られるプラスである。しかも、痛みについて正確に知れば知るほど、意識の中に以前にはなかった新しい存在が生まれる。
 痛みは、私たちに厳しい現実を突きつけるかも知れない。しかし、その痛みについての意識もまた現実なのである。この痛みの意識は、痛みに抗して、痛みのおかげで、痛みにもかかわらず、痛みを手立てとして、私たちにとってのより本来的で、深く、個別的な現実を形成する。
 このあたりの展開は、いかにもラヴェルらしいところだ。ラヴェルにとって、存在とは、acte (おこない・はたらき)であって、意識はまさに acte であり、したがって、意識がそれまでになく鋭くなるということは、新たな存在の生成にほかならないからだ。
 痛みのないときの溌剌とした自発性は、痛みのせいで失われたかも知れない。しかし、その喪失が私に反省的思考を促し、新たな意志をもたらす。無意識の自発性が本能的なもの或いはそれに近いものであるのに対して、反省と意志は、私たちの活動をそれだけ精神的なものにする。失われたものをなんらかの獲得に変換させられるかどうかは私次第だ。この意味で、悪を善に変えられるかどうかは私次第だ。誰もがというわけにはいかないが、人によっては、喪失の試練の大きさがそれだけその人の精神を純粋かつ豊かにするということがある。
 痛みに起因する喪失あるいは喪失の痛みに直面させられるとき、私たちの自由の勇気が試されている。












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