内的自己対話-川の畔のささめごと

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もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(七)

2020-01-17 21:37:42 | 哲学

 谷崎が『陰翳礼讃』で実行していることの一つは、対象の実在を自明のものとして受け入れている自然的態度をひとまず括弧に入れて,その対象の意識への立ち現われ方そのものに観察の目を向けることである。谷崎がことさら意図してそのような哲学的態度を取ったわけではもちろんない。しかし、その態度を「現象学的還元」の一事例として考察してみることは、あながち的外れでもないし無駄なことでもないのではないか。それが今回の連載を動機づけている作業仮説であった。
 この作業仮説を前提とした上で、『眼と精神』に提示されている論点のうちのいくつかに即して、次のように問題場面を限定した。『眼と精神』と『見えるものと見えないもの』でメルロ=ポンティが企図した新しい存在論は、現象そのものに秘められた無尽蔵な〈存在〉の元素の再発見の試みであり、その表現の探究であったとすれば、『陰翳礼讃』の言語表現はその実践例の一つとして読むことができるのではないか。
 谷崎においては、現象の観察が煌々たる光の中に照らし出された対象の現われに対してではなく、陰翳の深みの中に隠された対象の現われ方に向けられているところに特徴がある。谷崎に即して言えば、陰翳こそ、まさしく逆説的な仕方で、実在の仮現に過ぎない現象という先入見から私たちを解放し、現象としての現象への、現れることそのことへの回帰を可能にしてくれる存在論的次元である。そのことを谷崎は知覚的経験に即して「非哲学的な」表現によって繰り返し述べている。
 覆う影も隠された面もないような「明るい」対象を目の前にするとき、そのあまりも「明白な」形姿がかえってその現われ方から私たちの注意を外らしてしまう。陰翳こそ、五感への対象の漸次的で微妙繊細な現われ方に対して私たちをより注意深くする。現われは、存在の「不完全で貧弱な」仮現ではなく、厚みと深みをもった存在の織地そのものである。そのことを陰翳は私たちに教えてくれる。冥闇を追い払い不分明さを許さない理性という光の下では隠されてしまう〈存在〉の奥行を陰翳は知覚可能なものにしている。陰翳は、知覚世界への〈存在〉の緩やかな、つねに「未完な」到来に対して、私たちをより忍耐強く、敏感にしてくれる。
 『陰翳礼讃』は、失われつつある日本の伝統美へのノスタルジックな回帰願望の披瀝などではない。この作品は、日本固有の歴史的・文化的偶有性の経験を通じて、そしてそれを超えて、存在の本質的な次元としての陰翳への私たちの感度を高めてくれる稀有な詩的散文である。陰翳は汲み尽くしがたい存在の織地への招待状であり、その差出人は私たちがそこで生きるこの世界そのものに他ならない。













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