森公章『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』(講談社選書メチエ 一九九八年)によれば、「白村江の敗戦後の不安定な世相の中、中央豪族たちは、天智大王が慣れ親しんだ飛鳥の地から畿外の近江に都をうつし、新しい政治を展開しようとしていることにとまどいを覚えていたのに加え、百済人を登用することに抵抗を感じていたものと思われる」。
柿本人麻呂が近江荒都歌の第一反歌で「大宮人」と詠い、第二反歌で「昔の人」と詠うとき、その中には近江大津宮に仕え、大友皇子とも親しくしていた百済からの渡来人たちも含まれていたであろう。何かが決定的に過ぎ去ってしまい、もう二度と戻っては来ない、という痛切な想いが人麻呂にこれらの歌を詠ませたと思われる。
すべての百済人が近江方についたわけではない。天武朝以後も、数多くの百済人が学問や技術で朝廷に奉仕している。ただ、「一方で天武朝以降は新羅との通交が活発におこなわれ、新羅の影響を受けながら、中国風の律令制が導入されたことも事実である。したがって壬申の乱は、天武天皇の朝廷が亡命百済人との関係や百済文化に依存する度合いを考え直す契機になったと位置づけることができよう」(森公章上掲書)。
これらの政治的背景を念頭に置いて近江荒都歌を読むとき、歌そのものの文学的解釈の彼方に、その歌の背景として織り成されていた人の世の綾が見えてくる。