今日、集中講義事前ミニ演習の第二回目。立川武蔵『空の思想史』を読む。西谷啓治『宗教とは何か』に展開されている空の思想のよりよい理解のための準備作業。「諸法実相」が日本における空の思想の鍵鑰であることを強調する。参考文献として末木文美士『日本仏教史-思想史としてのアプローチ-』(新潮文庫 1996年 初版単行本 1992年)を挙げておく。とくに「FEATURE 2 本覚思想」が参考になる。
昨晩、佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』の第二章「護摩をのむ」を読む。深く感動する。
宮本が住んだのは、昭和二(一九二七)年に役場が改築され、そのあまった資材で建てられた教員住宅だった。泉州沖をのぞむ松林のなかにポツンと建てられたその教員住宅に、毎晩のように子供たちが押しかけた。
宮本は子供たちがくると自炊する手を休め、何時間でも話しこみ、日曜日には、村を中心に十キロくらいの範囲を子供たちと一緒に歩きまわった。そういうとき、宮本はきまってこんな話をした。
「小さいときに美しい思い出をたくさんつくつておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。いそがしく働いてひといきいれるとき、ふっと、青い空や夕日のあった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」
宮本はとりわけ被差別出身の生徒や、片親で育った生徒には肉親同然の愛情を注いだため、女生徒たちはみな宮本を兄のように慕ったという。宮本は孫普澔という朝鮮からきた少年にとりわけ目をかけていた。
宮本は貧しい孫に目をかけ、朝鮮はいつか必らず日本から独立する、それまで頑張れと励ましていた。あるとき、孫が行方不明になった。別の先生がきつく叱ったのが失踪の原因だった。
警察に捜索願いを出すと、一週間ほどして、信州の木曾福島の山中でそれらしき少年を発見したとの連絡が入ってきた。その夜、宮本が信州へ行く旅仕度をしていると、校門のところにたたずんでいる黒い人影がみえた。学生帽をまぶかにかぶって、小わきには風呂敷づつみをかかえている。
宮本が「孫くんか、入りなさい」というと、孫は宿直室に飛びこむなり宮本にむしゃぶりついて、うめくように泣きつづけた。信州から飲まず食わずの旅をつづけ、家にも帰らずまっすぐ宮本のところにやってきたという。宮本は、「いい経験だったね。私にもいい経験になった」とだけいった。
その後、宮本は、無理が祟って肺結核を発症する。
宮本の発病を知った子供たちは毎日のように教員住宅につめかけた。
家出した孫は、自分の家から布団を運びこみ、それを敷いて宮本のそばで寝た。夜半に目をさますと、台所で水枕の水をかえる孫の小さな姿がみえた。宮本は眠ったふりをしていたが、孫の小さな冷たい手が額にあたるたび涙があふれた。
学校の近くに、春日神社というかなり大きな社がいまでもある。孫はその神社に毎朝、裸足まいりの願をかけた。
数日後、宮本は危篤におちいった。医者が枕元で、「今夜がヤマでしょう」と、郷里からかけつけた両親に伝えているのを朦朧とした意識のなかで聞いていた。
熱はその日から次第に下がっていったが、数日後、宮本はまた危篤におちいった。その知らせを聞いた孫は一日じゅう泣きつづけ、学校も休んだ。裸足まいりが通じなかったことに憤った孫はその日から、一里近い道のりにある別の神社へ日参し、水垢離をとりはじめた。
宮本は、孫のためにだけでも元気になりたいと思った。