内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

集中講義事前ミニ演習第4回目 ― 原始仏教の根本概念とキリスト教の原罪概念はざっくりと説明して済ますわけにはいかなかったの巻

2021-07-28 21:02:05 | 講義の余白から

 正式日程は明日木曜日からの集中講義の事前ミニ演習の第四回目を今日おこなった。この事前ミニ演習の位置づけはどんなものであるかというと、様々な物議を醸しつつ現在進行中の東京オリンピックになぞらえて言えば、開幕式前に始まる予選競技のようなものである。
 「開幕式」前夜の今日、メイン・テキストである西谷啓治『宗教とは何か』の「予選的」読解がいよいよ始まった。今回の演習のメイン・テーマは「空の思想のアクチュアリティ」であるから、本戦での読解作業はそこに集中したい。だから、今日の「前夜祭的」演習では、「緒言」「一 宗教とは何か」「二 宗教における人格性と非人格性」を思いっきりざっくりと要約するつもりであった。
 ところが、いくらざっくりとは言っても、テキストの理解のためにはこれとこれは押さえておかなくてはならない、いや、そのためにはあれにも言及しておかなくてはという老婆心がずきずき疼いてしまった結果、予定の半分もこなせなかった。
 例えば、西谷があたかも自明の概念のごとく言及しているカントの「根本悪」をきわめて図式的に紹介するだけでも、それがカント哲学の立場からする原罪の神話の解釈であり、単なる理性の限界内で聖書の伝承の内容を解釈する試みであることを説明する必要がある。ところが、学生は聖書を読んだことがないし、キリスト教についての知識も皆無に等しい。だから、『創世記』第三章冒頭の失楽園の箇所をまず読み、そのアダムとイヴの寓話(と言っていいかどうかも問題であるが、それは措く)が何を意味しているかについての解釈の歴史を説明しなくてはならない。ついでだが、ユダヤ・キリスト教的文脈で根本悪の問題を考えるときには、グノーシス派の思想もしっかり押さえておく必要があるからそれにも言及(これじゃあ、チャッチャと進むわけないじゃん)。
 西谷が何気に(じゃないだろうけれど)「無我」とか言い出せば、原始仏教にはそのような発想はないことを説明した上で、いつどこでそれが仏教思想史の中でせり出してくるかを指摘しておく必要がある。
 サルトルの無神論的実存主義とキルケゴールの有神論的実存主義とはどこで決定的に異なるか、ちゃんと押さえておきましょうねとか、ニーチェにおけるニヒリズムに関しては、積極的でアクティブなニヒリズムと消極的・受動的なニヒリズムとを区別する必要があるから、要注意ですよとか、もういくら時間があっても足りません。
 そんなわけで、一時間半の予定を二十分ばかり超過したところで、「じゃあ、続きは明日ね」という中途半端な感じで演習終了(でも、こういう「てんやわんや」でとっちらかった状態、嫌いじゃないんだなぁ。だって、こういうカオス的状態こそクリエイティブじゃないですか?)。
 それはともかく、気分を切り替えるために、演習終了後すぐに着替えてジョギング。でも、二日続けて二時間走った翌日だからだろうか、それに早朝と違って気温も二十五度以上を越えていたからだろうか、三十分走ったところで目眩がしてちょっとふらつく。で、あとはウォーキング。それでも一万二千歩、十キロの最低ノルマはクリア。
 明日から、空の思想の頂上目指してアタック開始。