内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「サムライ」の虚像を超えて武士の精神に近づくために ― 相良亨『武士道』精読

2021-02-26 13:22:04 | 読游摘録

 フランスの Amazon でも英国の Amazon でも構わないが、全カテゴリーを対象として「Bushidô」と検索エンジンに入力すると、一万件以上ヒットする。書籍に限定しても、千件を超える。その中には直接武士道とは関係ない書籍も含まれるが、新渡戸稲造の『武士道』の英語原文だけでも数十件ヒットするし、それにヨーロッパ諸言語への翻訳を加えれば百件を優に超え、ヨーロッパ言語で書かれた武士道解説書の類になると数百件を数える。表紙を見みるかぎり何ともいかがわしそうな代物も少なくないが、それにしても Bushidô の海外での人気には恐れ入る。「サムライ」は日本が輸出したブランドとしては最も成功したものの一つと言っていいだろう。しかし、そのことは同時に、それだけ誤解も世界中に蔓延していることを意味するだろう。
 新渡戸稲造の『武士道』を真剣に読み、称賛する人たちであっても、いやそうだからこそ、歴史的根拠を欠いた虚像を個人的な祭壇に祭り上げているだけのことも少なくないであろう。新渡戸が「武士道」として理想化した、非歴史的 ― というのが言い過ぎであれば、近代化された ― 「伝統的」倫理観は、実際に武士たちによって生きられた倫理的態度に直接基づくものではないし、それを根拠として構築された思想でもない。相良亨の『武士道』(講談社学術文庫 二〇一〇年 初版 塙書房 一九六八年)の解説で菅野覚明氏は、本書を一読すれば、「新渡戸稲造の『武士道』が、決して武士道そのものを論じた書ではなく、近代人新渡戸その人の道徳思想を述べたものである」ことがわかるだろうと言っている。
 同解説で菅野氏は、「数多くの原典資料の精緻な読解の上に立って、武士的な精神の本質・骨格にまで迫りえた論説となると、明治以降今日に至るまで、ほとんど五指にも満たない。もしかすると、「武士道」の名を冠したまとまった著作としては、本書、すなわち相良亨の『武士道』がその唯一のものであるかもしれない」とまで言っている。
 ところが、その著者である相良亨自身は、「武士的なるもの――武士気質についても、まだ十分に理解したとは思っていない。現在私が理解しえている限りのものの輪郭を、若干の章にわかち、書きまとめてみるという段階である。したがって、本書は試論の域を出ない」と「まえがき」で述べられているのである。
 武士道とは何であるか、という問いは、今もなお私たちの前に突きつけられたままである。とすれば、海外でのサムライ人気は、本来の武士道とはほとんど何の関係もない虚像をめぐる空騒ぎに過ぎない。しかし、それ以前の問題として、私たち日本人自身が武士道あるいは武士の精神についてどこまでわかっているのかと問われれば、私は口ごもり、俯かざるを得ない。
 相良亨は、同じく「まえがき」の中で新渡戸稲造の『武士道』について、「伝統に対する愛情と理解をもった、しかも世の国民道徳論者・武士道論者とはことなり、伝統に対する冷静な批判眼をもった明治の一思想家の発言としてうけとっても十分注目に値する」と敬意を込めて言及している。新渡戸の『武士道』固有の価値を見極めるためにも、まずは相良亨の名著『武士道』を精読することから始めよう。