修士一年後期の近現代思想史の演習で三年ぶりに三木清の『人生論ノート』を再び読むことにした。三年前に同じ演習ではじめて取り上げたときには、学生たちが関心を持つかどうか、開始前はいささか不安だった。ところが、取り上げられているテーマの中には自分の関心と重なるものがあり、それぞれのエッセイは短いからしっかりと読み切ることができ、難しい箇所があるにしても何か引きつけられるものをそれぞれに感じたからであろうか、読解作業には概して熱心に取り組んでくれた。最終レポートとして、演習では読まなかったエッセイの中から一つ自分で選ばせ、その読解ノートを書かせた。なかなかの力作ぞろいで、授業中はあまり積極的ではなかった学生がよく考えた内容のレポートを提出してくれて、驚かされもした。今回はどうであろうか。
明後日の初回は、読解の準備段階として、三木清の人と思想を紹介する。しかし、年譜に沿って通り一遍の紹介をしてもつまらないので、いくつかのポイントに絞って話そうと思う。
フランス語で読める三木清の紹介としては、 Michael Lucken, Nakai Masakazu. Naissance de la théorie critique du Japon, Les presse du réel, 2015 の中の記述が最も詳しい。その最もまとまった紹介箇所(142-145頁)は、三木清の獄死への言及から始まる。その最初の段落で参照されているのが、日高六郎の『戦後日本を考える』(岩波新書 1980年)の冒頭である。そこで日高は自分が大学で「戦後思想史」という題で行っている講義の内容について話している。直接三木の獄死に関する部分を引こう。長い引用になるが、演習で学生たちにも読ませたい箇所なのである。
私は、三木清が一九四五年(昭和二〇)八月一五日以前にではなく、八月一五日から一ヵ月以上たった九月二六日に獄死したという話をする。私は、中島健蔵さんから聞いた思い出話を伝える。三木清は、祈癬で、栄養失調と不眠とで死んだらしい。三木清が祈癬になったのは、祈癬の病気をもつ囚人の毛布を三木清にあてがった疑いがある。それは、巧妙にしくんだ殺人である。九月二六日朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下へ落ちて、床の上で死んでいた。千物のように。
日本政府は、敗戦後にも、三木清を釈放しなかった。そして日本人民は、三木清を救いだすことができなかった……。日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った……。
そして私が次のように語ったとき、すなわち三木清の獄死が東久週宮内閣を崩壊にみちびいたと話したとき、そして、ひとりの人間の人権が蹂躙されたことにたいするひとりの人間の怒りが、ひとつの政府を倒した、と語ったとき、学生たちは緊張した眼になった。もちろん学生のほとんどはそのことを知らない。
三木清の獄死のニュースを聞いて、ロイター通信の記者がすぐに事情をしらベた。そして、政治犯のすべてがまだ獄中にいるということを知った。おどろいた外国人記者は、山崎巌内相に面会をもとめる。すると山崎内相は答えて「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行なう共産主義者は容赦なく逮捕する……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と語る。そのインタビュー記事は『スターズ・アンド・ストライプス』紙(日本占領米軍将兵向けの新聞)に一〇月四日に発表された。これが問題となり、マッカーサー元帥は、四日夕刻に「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令した。なすすべを知らない東久遡宮内閣は、辞職。九日に幣原内閣誕生。一〇月一〇日に、獄中一八年組をはじめとする政治犯が解放される。
敗戦後ニヵ月半たって、山崎内相は平気で、しかもおそらくマッカーサー司令部によってさえ支持されるだろうと信じて、こうした信念を吐露したというのは、ひとつの喜劇である。その喜劇のおかげで、三木清の獄死という悲劇がある。
八月一五日、敗戦と同時に、あるいは数日後に、あるいは一ヵ月後に、だれひとりとして、政治犯釈放の要求をかかげて、三木やその他政治犯の収容されている拘置所・刑務所におしかけなかったということは、いうまでもなく日本敗戦の性格を物語っている。私は、学生たちに、敗戦直後の日本の新聞を、一枚一枚めくって、自分の眼でたしかめることをすすめる。八月一五日を境にして、軍国主義がたちまち崩壊し、民主主義の時代がはじまるなどといった歴史記述が、むしろ事実に遠いことを知ってほしいからだ。それは、スローモーション・フィルムを見ているほどに、緩慢な変化である。
イタリア、ドイツの敗戦、フランスのナチス協力政府の崩壊。そのさいには、戦争が終わるやいなや、たちまちはっきりした変化が起こる。過去はただちに断罪される。政治犯はすぐさま解放される。戦犯ははやくに逮捕される。日本では、軍国主義という瀕死の病人に、まず重湯を、次にカユを、次にやわらかい米飯をあたえていくように、指導者も新聞も最大限に配慮する。まず君民一体が民主主義であると説かれ、五箇条の御誓文が民主主義であると説かれ、大日本帝国憲法も民主主義の精神にもとづくと説かれ、議会主義は明治からあったと説かれ、やがて英米的議会制民主主義だけが民主主義だと説かれる。その変化のゆるやかさのなかで、そしてそれをたくみに利用して、戦争協力新聞のすべてが、題号も変えずに、戦後に生きのこる。これまた、ドイツ、イタリアの諸新聞、フランスのナチス協力新聞には見られない。
私は、もちろん、三木清の死を知って、山崎内相のもとをおとずれたのは、日本人記者ではなく、外国人記者であったことを、学生たちに話す。外国人記者には、少なくともそうした人権感覚があった。彼らは山崎内相に怒ると同時に、マッカーサー司令部に怒って、そこを訪れる。マッカーサー司令部も抗議をみとめざるをえない。
この成り行きからも明らかなように、敗戦直後に、拘置所・刑務所のまえに釈放の要求を持ってあらわれなかったのは、日本人民だけではなかったのである。日本政府もマッカーサー司令部も対日理事会もまたそうであった。提案は、民間人としての外国人記者によって行なわれたのである。
だから私は、「ひとりの人間の人権が蹂躙されたことにたいするひとりの人間の怒り」が、東久邁宮内閣を倒したと言ったのである。