内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「海坊主も河童も知らない子供は可哀想である」― 中谷宇吉郎「簪を挿した蛇」より

2021-02-01 00:00:00 | 読游摘録

 中谷宇吉郎の『科学以前の心』(河出文庫 二〇一三年)には、中谷宇吉郎の次女で美術家の中谷芙二子さんの「父の言葉」と題されたエッセイが巻末に収録されています。本書出版年に書かれた文章であることが冒頭の一文でわかります。それに続けて、「父が残した多くの随筆の中には、私の好きな言葉がたくさんあります。折に触れて随筆を読み返すと、そのたびに新しい発見があり、自分が年を重ねるにつれて初めて理解できるようになったものもあります」と書いています。
 自分の父親が書いた文章についてこのように書ける娘の幸いを思うと同時に、それは中谷宇吉郎が生前良き父親であったからこそであろうと、随筆「イグアノドンの唄―大人のための童話―」を読みながら感じ入った次第です。
 中谷芙二子さんは、最近読んだ中で特に印象深かった一文として、随筆「簪を挿した蛇」から次の一節を引用しています。

人間には二つの型があって、生命の機械論が実証された時代がもし来たと仮定して、それで生命の神秘が消えたと思う人と、物質の神秘が増したと考える人とがある。そして科学の仕上仕事は前者の人によっても出来るであろうが、本統に新しい科学の分野を拓く人は後者の型ではなかろうか。

 一九四六年十月に発表されたこの随筆は、「戦後の科学教育に対する苦言、疑問として書かれたものです」(中谷芙二子「父の言葉」)。この随筆の中で中谷宇吉郎は次のように述べています。

本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも科学の重要な要素であろう。不思議を解決する方は、指導の方法も考えられるし、現在科学教育として採り上げられているいろいろな案は、結局この方に属するものが多いようである。ところが不思議を感じさせる方は、なかなかむずかしい。

私には自分の子供の頃の経験から考えて、思い切った非科学的な教育が、自然に対する驚異の念を深めるのに、案外役に立つのではないかという疑問がある。幼い日の夢は奔放であり荒唐でもあるが、そういう夢もあまり早く消し止めることは考えものである。海坊主も河童も知らない子供は可哀想である。そしてそれは単に可哀想というだけではなく、あまり早くから海坊主や河童を退治してしまうことは、本統の意味での科学教育を阻害するのではないかとも思われるのである。

 中谷宇吉郎がこの文章を書いてから七十五年経った今日、日本は当時よりよい科学教育を行えているのでしょうか。それは私にはわかりませんが、問題は科学教育だけにとどまらないようにも思えます。
 仕上げ仕事をきちんとこなしてくれる人が各所に必要なだけいてくれなくてはそもそも社会が機能しませんから、そういう「有能な」人たちを育てる教育も必要です。他方、新しい分野を切り拓けるような人材を確実に養成することはそれよりはるかに難しいことでしょう。しかし、そういう人材が必要なことも確かです。それにはどうすればよいのか、私にはいい考えがありません。ただ、海坊主や河童の棲む世界に遊べる想像力を育てることは大切だとは思います。そこに文学の存在理由の一つがあるとも思います。