内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ゴッホ書簡全集決定版 ― これから死ぬまでの愛読書

2021-02-21 21:43:17 | 読游摘録

 昨年十二月からやたらと書籍購入費が嵩んでいる。冊数にすると月平均四十冊(電子書籍が七割強)。そんなに読めるわけがない。もっとも全部隅から隅まで読むつもりはそもそもない。授業と研究のための参考資料として購入した本も多い。この三ヶ月、総額がいつになく大きくなったのは、単価の高い書籍を購入したからである。
 今月はここ数年で一番高い買い物をした。ゴッホ美術館が二〇〇九年に刊行した書簡全集(全六巻)の仏語版を買ったのである。定価二〇〇ユーロのところ、FNAC会員特典を利用して五%引きで買った。それにしても日本円にすれば二五〇〇〇円近くになるから安くはない。
 しかしである。この書簡集の驚異的な完成度と品質からすれば、安いと言っていいと思う。それぐらいすごい仕上がりなのだ。そのすごさについては、圀府寺司氏の『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』(角川ソフィア文庫 二〇一九年 初版 角川文庫 二〇一〇年)の「おわりに」に詳しく説明されている。その一部を引用する。

ファン・ゴッホ美術館が十五年という気の遠くなるような歳月をかけて準備した決定版の書簡全集である。そのプロジェクトがスタートした時のことはよく覚えている。ファン・ゴッホ美術館が新書簡全集刊行のために専任のスタッフを二人雇ったと館員から聞いた。二人は書簡全集の仕事だけをする専任スタッフである。この二人を美術館は十五年間雇いつづけ、途中からはさらに一人加えて三人になった。刊行の前年、いよいよ来年辺りに刊行できそうだ、という話を聞いて、ファン・ゴッホ美術館に行ったおりに、編集者の一人ハンス・ライテンにその内容を見せてもらった。その完成度の高さに唖然とした。
 作業は手紙の書き起こしの再チェックから始まり、日付の洗い直しももちろん行われた。ファン・ゴッホの手紙にはほとんど日付が書かれていない。そこで消印の他、書かれている内容、当時の天候の記録、当時の郵便配達日数など、ありとあらゆる情報をもとに、日付が特定された。ヨーの編纂した書簡全集については手紙の順序や日付がまちがっていることはかねてから指摘されていて、研究者が逐次修正してきたが、今回の書簡全集では、たとえば未刊行のファン・ゴッホの家族(母親や妹など)の手紙や、友人知人の手紙なども参照している。また、ヨーは書簡を編集するにあたって、存命中の人に配慮して人名の一部をイニシャルで表したり、都合の悪い箇所をとばしたり、場合によってはインクで塗りつぶした形跡すらある。もしかすると、廃棄した手紙もあったかもしれない。新しい書簡全集では、すべて手紙のオリジナルをもとに旧版の誤りを訂正し、紛失した手紙についても、誰宛の手紙が紛失したかすべてリストアップされている。
 書簡中にふれられている文学作品、新聞・雑誌記事、美術作品などもすべて可能な限り洗い出している。これがどれほど気の遠くなるような作業かは、すこしでもやってみたことのある者にはよくわかる。

 説明はまだまだ続くのだがこの辺でやめる。ご興味を持たれた方は圀府寺司氏のこの好著を是非お読みください。
 この書簡全集の完成度の高さだけでも充分に驚倒に値するのだが、同書簡全集のウェッブ版はなんと無料で公開されている(こちらがリンク)。圀府寺氏によると、ゴッホ美術館の書簡全集編纂スタッフは、「ウェッブ版は検索もできて非常に便利だけれど、通読できるようなものではないので、ウェッブ版が宣伝になって書籍版も結果的に売れるとふんでいます」と言っていたらしい。確かにその自負は充分に根拠のあることだと、書籍版を紐解き、その素晴らしさにため息をつきながら納得している次第である。
 「ウェブ版は手紙が書かれた言語(オランダ語、フランス語、英語)と英語翻訳のみ、冊子版はオランダ語版、英語版、フランス語版、中国語版の四種類が出版されている。ウェブ版は専門家にはきわめて便利なツールだ。何よりも検索機能が便利で、たとえば「ひまわり」という言葉で検索すれば、この言葉を含む手紙と註のすべてが数秒以内に表示される。また、書籍版は紙面に限度があるので註もある程度の分量までで止めているが、ウェブ版は註を惜しげもなくつけてあって、随時更新していくのだと言う。つまり今後ずっと改訂版が出つづけることになる。また本文に訂正の必要が出てくれば、それも随時改訂される。」(圀府寺司上掲書)
 この書簡全集、死ぬまで愛読し続けます。