内的自己対話-川の畔のささめごと

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夢は人と繋がる生命線 ― 西郷信綱『古代人と夢』を読み返しつつ

2017-12-12 18:36:11 | 読游摘録

 毎晩のように夢を見るが、碌な夢ではない。いい夢など見た記憶がない。
 目が覚めるとすぐにストーリーはあらかた忘れてしまうことがほとんどだが、夢の気分といったものは、覚醒後も少し心身に残存する。ときには、精神的に少し引きずることもある。大抵の場合、そのときの現実生活の中で原稿の締切りが迫っていたり、一向にはかどらない仕事があったりして、気分的に追い詰められていて、夢もそのことを反映した内容になっている。バカバカしい。覚醒時にもしんどい思いをしているのだから、寝ているときくらいそっとしておいてくれと言いたいが、いったい誰に言えばいいのか。
 古代人にとって、夢は、現代人にとってとは比べものにならない重要性をもっていた。それはある意味で、現実生活の一部、あるいは、もっと正確に言えば、「夢もまた一つの「うつつ」、一つの独自な現実である」ということになるだろう(西郷信綱『古代人と夢』、平凡社ライブラリー、1993年、12頁)。
 事実、『万葉集』にも夢を詠んだ歌は少なくない。それらを読むことで、古代人にとって夢がどのような役割を果たしていたのか、知ることができる。例えば、次の歌を読むと、相手を絶えず恋つづけていると、その相手の夢の中に姿を現すと信じられていたことがわかる。

間なく 恋ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が 夢にし見ゆる (巻第四・六二一)

 個別の身体の中に個として閉ざされた存在にとっては、夢はその内部での脳内現象とそれに付随する生理現象に還元されてしまう。しかし、古代人にとって、夢は人と繋がる生命線の一つになりうるのだ。こんな話、現代に生きる私たちにはもう縁なき迷信と片付けてよいであろうか。
 西郷信綱の名著『古代人と夢』の次の一言に私はとても共感する。

私がここに古代人の夢をとりあげるのは、近代人において大して価値のないものとして、いわば脇の方に追いやられたままになっている諸要素の一つ ― つまり夢 ― をもう一度主題化することによって、人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたいというにすぎない。昔を想い出すことが忘れていた今を想い出すことであるような、そういう想い出しかたがありそうな気がする。(12頁)

 西郷の主題を私なりに変奏すると、なんか小林秀雄調になってしまって少し気が引けるけれど、昔を上手に想い出すことは、今をより良く生きることにほかならない、となろうか。













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