川口常孝『万葉歌人の美学と構造』所収の論文「“花”の流れ」を水先案内人として、記紀歌謡から万葉にかけての〈花〉の移りゆきを先月二十八日から辿り始めて、万葉第四期の家持歌中の「花」の歌に見られる無常性にまで昨日の記事でたどり着いた。〈花〉を訪ねる旅の先はまだまだ長いのだが、今日は一息入れることにする。
実は、この連載は「趣味と実益」を兼ねている。というのは、ちょうど一週間後の火曜日に、学部二年生向けの « Initiation à la recherche » という二時間の授業の枠で一回だけ講義を担当するのだが、その中でこのテーマを扱うからである。今年度から新たに導入されたこの講義では、日本学科の専任教員たちが学部二年生たちに研究の最初の手ほどきをそれぞれ一回ずつ行うというのがその目的である。来週が私の番というわけである。
二年生は、現代日本語の一般的なテキストを読むことさえまだ覚束ない程度の日本語力しかないから、研究の手ほどきになるような日本語のテキストをいきなり読ませるわけにはいかないし、ましてや専門性の高い術語の知識を要求する話もできない。
私が担当するのは、何らかの仕方で日本思想史にかかわる問題であるが、さて、いったいどんなテーマをどのように扱おうか、しばらく思案した。それで、彼らが間違いなく知っている一つの言葉がある時代にいかなる価値を表現し、それがどのように変化していくかを具体例を挙げて示せば、日本文化への研究的アプローチの一つの導入になるかと考えた。というわけで、上代文学における「花」を例として、日本詩歌史の中である一つの言葉が担う価値の変遷を示してみようというわけである。
ただ、一つのテーマについて二時間話を聴くというのは、彼らの集中力ではかなり困難であろうと予想される。そこで、「花」を主題としつつも、彼らの様子を見て話に変化を与えた方がよいとその場で判断したときのための「小ネタ」もいくつか仕込んでおくつもりである。