内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

王権賛美に奉仕する自然美の構成要素としての「花」

2018-11-01 14:07:57 | 読游摘録

 引用ばかりが続いて恐縮だが、拙ブログには後日の研究のための予備ノートという機能もあるので、ご寛恕願いたい。
 さて、伊藤博『釋注』は、昨日引いた巻第一・三六の長歌とその反歌三七(第一群)、三八(長歌)~三九(反歌)(第二群)からなる吉野讃歌について、その特徴を次のように指摘している。

舒明天皇の国見歌(二)が代表するように、国ぼめは、従来、天皇みずからが地霊と向かいあいながら行ってきた。ところが、ここでは、三六~七の第一群においては、地霊と対等に向かいあう天皇の姿を第三者が描き出す形に変わっている。そして、三八~九の第二群では、もっと徹底して、山の神も川の神も、つまり吉野の地霊いっさいがこぞって現人神である持統女帝に仕え奉っている、とうたっている。「天つ神」と「国つ神」の地位は完全に逆転し、天皇は地霊(自然神)を支配する絶対神として位置づけられている。天皇賛美を言葉の上に客観視した、言いかえれば、賛美が純粋に歌の主題となりおおした、まったく新しいかたちの讃歌というべきで、宮廷歌人の第一人者といわれる人麻呂の面目が躍っている。

 対象としての国土への讃歌でもなく、ましてや叙景歌でもなく、王権の賛美をその目的とする歌において、「花」から具象性が捨象され、その観念性が前面に打ち出されるのは必然的な結果だと言える。

 人麻呂のこの吉野讃歌は二群とも、「山」と「川」との対比を心がけて叙述が進められている。[中略] 万葉の時代には倭歌においても、漢詩においても、吉野にあっては山川の対比によって対象をとらえるのでなければ、自然の賛美は完結しないという習慣があったが、倭歌においてこの習慣を作ったのは人麻呂の吉野讃歌で、人麻呂のこのいとなみは日本の漢詩におけるそれよりも先んじていた。こうして人麻呂によって樹立された方法は、以後、天平の宮廷歌人、笠金村や山部赤人たちにうけつがれ、やや下って田辺福麻呂や大伴家持たちになると、吉野に関せず山川の対比が登場するようになる。
 吉野賛美の歌にかぎって山川対比の構成が表われるのは、吉野が山水の充足をそなえていた実情にも一因はあろう。が、より大きくは、吉野が大和朝廷の格別の聖地であり、聖地には、国土形成、五穀豊穣の二大要素である「土」(山)と「水」(川)とが相ともに充ち足りているのでなければならぬという思想がはたらいている。

 そうであってみれば、「花」もまた、肉眼で見た花々の美しさを指すのではなく、自然のうちに繰り返し咲き散るものの華麗なる美という観念性を帯びるのも当然の帰結だと言えるだろう。