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城郭探訪

yamaziro

中島城 近江国(湖北)

2013年04月24日 | 平山城

お城のデータ

 

所在地 : 東浅井郡湖北町丁野   

 

map:http://yahoo.jp/lNAoAYこの地図のURL

 

築城期:織豊期・ 元亀3年(1572)

 

築城者:中島宗右衛門直親

 

区 分 : 平山城

 

標 高:133.2m 比高差20m

 

遺  構 : 土塁、横堀、虎口、堀切、土橋

 

訪城日:2013.4.24

 

駐車場(日本硝子独身寮の)に!

副曲輪をみる

 

元亀4年(1573)織田信長の小谷城攻めの時に、中島宗右衛門直親が守備していたと伝えられている。

主曲輪内部

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 歴 史

元亀元年(1570)浅井氏が姉川合戦に敗れ、織田信長方に包囲されはじめると、小谷城の西に点々と分布する独立の山丘は、小谷城攻防にとって重要なものとなった。


 織田信長は、元亀3年(1572)の小谷城攻めにおいて、小谷城根小屋のある清水谷の正面に位置する虎御前山に陣を築かせた。


 浅井・朝倉軍は、虎御前山の北北西にある山丘の丁野山(岡山)および東に伸びる支尾根に城砦を構え、織田軍と対峙したと考えられる。
この山丘に構えられたのが丁野山城で、東に伸びる支尾根に築かれたのが中島城でる。浅井氏家臣の中島宗右衛門直親が守備したとされる。


 天正元年(1573)4月12日武田信玄が信濃国駒場の陣中で亡くなると、信長は小谷城攻略を本格化させ、同年8月8日山本山城を開城させ、12日に大嶽城を、13日には丁野山城を落とした。
中島城も丁野山城とともに落城し、守将の中島宗右衛門は木之本の田部山城に退いたとされる。

 

 中島城は小谷城を守る支城のひとつで、浅井氏の家臣である中島直親の居城であった。いつ頃築かれたのかは明らかとなっていないが、元亀3年(1572)には織田氏の侵攻に対して浅井長政と朝倉義景が合議し、中島城の守りを固めた上で尾根続きの岡山にある丁野山城を修築して朝倉勢を迎え入れている。

 天正元年(1573)8月に織田勢は小谷城を包囲し、支城の大嶽城を落城させた勢いで中島城と丁野山城を攻めた。十倍程の敵に包囲された両城は攻め手の勧降を受け入れ、中島直親は織田勢に投降し、両城には火が放たれたという。

 

 一般的に連郭式城郭の曲輪配置は、主曲輪を中心にして前後に曲輪を配していく。ところが曲輪が2つの小振りな城の場合、主曲輪の前面に副曲輪を置くのが常識である。これは主曲輪が直接敵の攻撃にさらされないことを配慮する当然の措置である。

 この常識からすれば中島城は副曲輪(Bの曲輪)のある西側に敵を想定して築城されているのだが、西方には丁野山城が位置している。つまり、中島城は西方の丁野山城を敵方としていたことになる。

 丁野山城一帯は元亀4年の織田軍による小谷城攻め以降は、軍事的な緊張、および戦いはない。湖北では、唯一天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いがおこなわれているが、賤ヶ岳の戦いは余呉湖周辺の局地戦であるため、この中島城の遺構は元亀4年当時のものであると断定しても間違いはない。
だとすれば、丁野山城に立て籠もった朝倉氏に対して、中島城は織田軍が改修し丁野山城に対する付城として機能していたということになる。


 付城といえば、元亀元年(1570)に姉川の戦いで敗れた浅井氏家臣の磯野員昌が佐和山城に籠城した時、織田軍が4つの付城を築いている。

 

また、天正6年(1578)高天神城の武田軍に対し、徳川家康が獅子ヶ鼻砦や小笠山砦、火ヶ峰砦など6つの付城を築いているが、いずれの場合も付城は1~3kmほどの距離で、丁野山城に対する付城・中島城の距離は異常に近い。
これは元亀4年当時、織田軍が浅井・朝倉軍に対して軍事的に極めて優勢であったことを物語っているのではないだろうか。
 こう考えると、元亀4年8月12日に織田軍によって大嶽城を落とされただけで、田上山に陣取っていた朝倉義景が夜半に越前に向けて撤退した疑問も解ける。


 元亀4年当時の丁野山城、および朝倉義景が撤退したことについて、「信長公記」の元亀4年の条に記述がある。

 

信長公記の内容を要約すれば

 8月12日に浅見対馬守の手引きで大嶽城の下にある焼尾砦に入り、大嶽城へ攻め入った。大嶽城には朝倉勢の斉藤・小林・西法院を大将として五百人ほどが立て籠もっていたが降参してきた。信長公は、本来なら打ち首にするところであるが、夜中の風雨のこととて朝倉義景は大嶽城が落ちたことを知るよしもないので、敵陣に送り返し大嶽城が落ちたことを知らしめよと下知された。

 信長公は、朝倉義景は疋壇城,手筒山城、金ヶ崎城を頼りに退却するであろうから、疋壇口に伏兵を置いておけと指示された。

大嶽城が落ちたとの知らせを受けた朝倉義景は、手勢を北国街道の河内方面から越前に向かわせ、義景自身は馬廻り衆だけを従えて刀根街道から敦賀へ逃れるところを織田軍は刀根峠にて追いつき、敦賀までの11里の間に3,000人余りを討ち果たした。

 こうして8月12日に織田軍が落とした城の数は、大嶽城、焼尾砦、月ケ瀬城、丁野山城、田部山城、義景の本陣・田上山城、疋壇城、手筒山城、金ヶ崎城、賤ヶ岳砦、若狭栗屋越中守の居城・国吉城への付城など、併せると10城となった。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


山田城 近江国(永源寺)

2013年04月23日 | 平城

所在地:滋賀県東近江市山上町   map:http://yahoo.jp/FlqJ_p

遺 構:和南川が前堀カ、切岸、石材等

区 分:丘陵  

築城者:小倉氏   

築城期:室町期

目 標:山上小学校

訪城日:2013.4.23

 

  山田城は、和南山から嘴状に突きだした支尾根の先端部を利用した城だ。 西と北側は急斜面で、西を流れる和南川と北を流れる愛知川が堀の役目を果たし、西側にある八幡神社から見ると比高もあり、築城に適した要害の地と云える。

 現在は、山上小学校の旧敷地となっていて、城の遺構は何も残っていない。 八幡神社から小学校への登る「肥後坂」(旧小学校敷地東側)辺りが城跡の雰囲気を残していた。 

歴史

山田城は、室町時代に山上城主小倉氏によって築かれた。 小倉氏は、小掠荘・柿御園荘に勢力をもっていたが、応仁の乱後に山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城を築い。

 さくら -小倉殿の戦いー  より 小牧山へ

中略(抜粋)

夜が明けても、鳥居平城周辺では合戦が続いていた。

 
翌日、なお長寸城と鳥居平城の間で激戦が繰り広げられていたが、その分、愛知川沿いは比較的安心で、お鍋の一行と共に高野へ向かった。

「ご夫君が右近大夫殿に従うとすれば、それは八尾城が、山田城と山上城に近すぎるためです。両城から攻められることを恐れてのこと。でも、山田城の左近助殿がご本家側になれば、ご夫君もご本家側になられるかもしれません」

 左近助は和南山の戦いでは静観していた。本家側ではなかったが、右近大夫に加勢したわけでもない。

 お鍋は納得したのだ。「先ず高野に帰って、ご夫君を説得するのです」「息子の命がかかっているのですもの。必ず説得します」 お鍋は強く頷いた。


「右京亮様は、八尾城でございます。山田城への攻撃のために──」

 八尾城に着いた時にはすでに宵の口で、戦支度は万端整っている。これは攻撃を止めさせることは不可能ではないかと、第六感が語っていたが、焦りがそれを否定していく。

  結局、翌日、右京亮は山田城を攻撃した。 右京亮に山田城を攻めさせたのは右近大夫だが、それには理由がある。

 長寸城の本家側はしぶとく、鳥居平城に何度も仕掛けてきていた。そして、蒲生家がいつ参戦してくるかわからない。

 右近大夫は確実に味方を確保しなければならなかった。鳥居平城を一旦諦めてでも。いつまで経っても態度をはっきりとさせない左近助を脅す目的で、山田城を攻撃させたのである。

まさしく右京亮が、山田城を攻撃しては誘ってきていた時分。 山田城が随分破壊された後であった。

**********************

 翌日は突然の激戦となった。

永源寺が突然、高野に繰り出してきたのだ。 永源寺の僧兵を率いているのは、九居瀬城主の小倉行国。永源寺は六角家に深く帰依されているから、謀反人は許せないのである。 攻められたら、応戦するしかない。右京亮は永源寺の兵に当たる。

右近大夫は永源寺に攻めて行くと、焼き討ちを開始した。永源寺はびっくりし、慌てて高野館から引き上げると、消火に奔走。その後はなりをひそめてしまった。

 右近大夫は勢いのまま、行き先を近くの相谷城に変更し、一気に押し寄せて行く。

 相谷城の面々はろくに戦わずに敗走。残された城兵たちは降伏した。

 その兵たちに、今度は九居瀬城を囲ませ、右近大夫の本隊はついに小倉城へ向かって行った。

  右京亮が行く前に、右近大夫が小倉城攻撃を開始してしまうだろう。「とりあえず、八尾城に行こう」 いったん高野を捨て去って、八尾城で陣を立て直すことにした。

 小倉城にはすでに、右近大夫が永源寺焼き討ち、相谷城を落とし、さらに九居瀬城への包囲などが伝わっている。

 左近助は山田城を右京亮に攻められたために、兵をそちらにも多く割いていたため、小倉城はやや手薄気味である。

 右近大夫についに取り囲まれたこと、そして、右京亮が永源寺と戦ったことなど、すでにお鍋の耳にも達している。右京亮が永源寺と戦になったのは、やむを得ない状況だったわけだが、そこは正確には伝わらないのが戦場だ。

「織田家家臣・滝川一益の手のものにござる。お助けに参りました」音もなくお鍋の傍らに寄った。(忍の者?)「主・滝川は甲賀の人なれば、ご存知やに存じまするが?」 しかし、今、織田家家臣と言ったような。



「相谷城の面々が敵に降伏、寝返って九居瀬城を包囲し──永源寺と戦った高野の面々は八尾城に籠もった──なるほど、右近大夫に囲まれても、この城に助けに来る軍勢は一つもないわけか。仕方ない……」 左近助は覚悟を決めたらしい。

ついに開戦となり。しばらくして小倉城は落城寸前にまで追い込まれる。城主・左近助の命は風前の灯火であった。小倉良親と言う人がいる。彼は相谷城にいたが、辛くもそこから逃走して、小倉城に向かおうとしていた。小倉城の現状を知る由もなかった。

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


沖島頭山城 近江国(近江八幡)

2013年04月23日 | 平山城

CIMG8858.JPG

お城のデータ

所在地:近江八幡市沖島町 map:http://yahoo.jp/wTlKvE

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:島民

遺 構:削平地・土塁・見張り台

標 高:130m  比高差:75m

目標地:堀切新港より定期船で沖島港へ・奥津島神社

駐車場:堀切新港の周辺空き地に路上駐車(桟橋周辺は沖島住民の駐車場で駐車禁止)

訪城日:2013.4.19

 

お城の概要

沖島頭山城は近江八幡市沖島の西端、標高130mの頭山一帯に築かれた城で、いわゆる海賊城である。


 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)

 頭山の南から東斜面は崖状地形で、南斜面の奥津嶋神社への階段を利用し、奥津嶋神社から山頂の曲廓に出る。この間に斜面は階段状の小さな削平地の連続。階段状削平地の切岸には土留めの石積みが見られるが、石積みのない曲輪と差別化が図られている様子はない。山頂はまともな広さをもった曲輪であるが、雑木で確認出来ず。
 北斜面、および東斜面も南斜面と同様に階段状に削平地がつくられているが、両斜面は斜度が緩やかなこともあって面積も確保され、曲廓らしい体裁を保っている。この頭山城は曲廓をつくることが目的ではなく、切岸を造り出すことに主眼が置かれている。

 沖島は、(おきしま・おきのしま・沖ノ島)などと呼ばれ、琵琶湖のほぼ中央、近江八幡市の沖合約1.5kmに浮かぶ琵琶湖最大、約350人が居住する有人島である。島の沿岸周囲は約6.8km、面積は約1.5平米を誇るが、ほとんどが山林に覆われ、南西沿岸のわずかな平地に集落が営まれている。
集落西側には半島状突出部に独立丘がある。これを頭山と呼び、のどかな島の風景とは相反して一歩入山すると山全体が城塞化している。
 尾山城と同様に雛壇状の阻塞群が斜面を埋めつくしている。本土では水茎岡山城や円山城に類似遺構が存在するが、緩傾斜面に切岸的機能を多用することにより防御性を強化する縄張だと考えられる。雛壇は合計140にもおよび、段違いと行き止まりの連続で、個性がないため迷路のようである。
尾山城や坊谷城とは異なり、頂部に明らかに主郭だと比定できる削平地がある。北東隅には土塁が築かれ、北直下の帯曲輪には見事な石積みが見られる。南斜面の雛壇は高い所では4~5mの切岸となり行く手を阻む。西側3分の1は石の採掘により遺構が破壊されていると思われる。

北斜面の雛壇状縄張南斜面の大岩の間を埋める石積み

お城の歴史

 沖島頭山城は、延元3年(1338)に南朝方が越前と新田義貞軍の中継基地として頭山一帯に城を構えたとされている。現在の遺構がその時のものなのかなど詳細は判っていない。縄張の手法も鎌倉期から戦国期まで中世全域でみられるものである。
沖島は、沖合から縄文土器や和同開珎が発見され、古くから人々の往来はあったようだが、

本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156-1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされている。室町8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされる。
また応仁2年(1468)には比叡山延暦寺に敗れた堅田衆4千人が、約2年間沖島に避難生活をしたとされる。

戦国時代に入っても関所が設置され、琵琶湖水運の重要拠点として機能した。

当初は近江守護六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系自治区堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が許され、少なくとも豊臣政権下の天正13年(1585)頃までは存在していた。そんな背景の中、沖島は戦乱の世に重用され続けた。

 

近江八幡の城

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

 

 

 

織田 信長織田 信長豊臣 秀次豊臣 秀次

また、沖島資料館には、「織田信長や羽柴秀吉の安堵状・感謝状」が大切に保存されおり、入館料(閉館していれば、沖島コミセンにお願すれば開錠して頂ける)が必要だが拝見できる。

沖島資料館の古文書

近江八幡の城マップ 

 

 近江八幡市内の主な城跡

1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江八幡の城

   今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


一色城(松井石見守邸) 近江国(永源寺・一式)

2013年04月23日 | 平城

 

お城のデータ

別 称:松井石見守邸

所在地 : 滋賀県東近江市一式町(旧神崎郡永源寺町一式) map:http://yahoo.jp/OGYYDx                                                                                        

区 分 : 平城

築城者:一色相模守相吉(一色氏は、足利泰氏の子公深が三河吉良荘)が、一色を領して一色氏を称した。

城 主:一色相模守相吉(一色氏)、松吉石見守重吉(六角の臣)

遺  構 : 堀跡、物見櫓台

訪城日:2013.4.22

お城の概要

『近江蒲生郡志』には、松井石見守邸阯は、市原村一式に在り、四周に濠と土手を回らし東北角に物見櫓中央に井戸あり、此邸は始め一式氏の住せし所なりしが後ち松井氏代り住せり。と記す。

城は、一式町の中心部が城域で、一式のバス停のある集会所に案内板がある。 

道路を挟んで北側に見える【戦いの神若宮八幡】が祀られ、本丸跡と見られ、外側の現在道路辺りが堀跡とされている。

 神社の太鼓堂が建つところが、物見櫓があったところとされ、本丸内でも一段高くなっていて、今は大石による石垣が組まれている。

 

 一式城は、築城年代は定かでないが、一色相模守相吉によって築かれたとか。

 一色氏は、足利泰氏の子公深が三河吉良荘一色を領して一色氏を称した。

 一色は、室町幕府四職家の一つで丹後・若狭・近江に一族が所領。 

 一色氏没落後、戦国時代には佐々木義賢の物頭 松吉石見守重吉が居城し、六角氏滅亡と共に廃城となった。 

 歴 史

愛知郡志に「此邸は始め一色氏の住せし所なりしが後ち松井氏(松吉氏の誤り)氏代り住せり」と記している。
『大洞弁天当国古城主名札』には城主 松居石見守を、『江州佐々木南北諸士帳』には松吉石見守を記す。

現地説明板は、永禄年間(1558~70)一色相模守相吉、一色石見守重吉が城主としている。

なお、永禄11年(1568)9月織田信長の近江侵攻に際し、六角氏を見限り蒲生氏、速水氏らと共に信長に降ったと見られている。

 明治初期の一式村地誌に「近世迄一重小堀土隄等アリテ四囲セシカ、今開墾シテ畑地或ハ草生地トナル。此面積三百五拾坪許」、近江蒲生郡志八には測量図を載せ、四周に壕と土手を巡らし東北隅に物見台、中央に井戸があったとするが、現在は詳細不明である。 と記されている。
また、集会所の南側に上門・下門、北西に城ケ塚など、城郭に関連する小字名も残されている。若宮八幡神社付近や北側と西側の水路に若干遺構らしさが残る。、二重に堀があったと伝承されている。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「神崎郡永源寺町一式」、創建者は「一色相模守相吉」、形式は「平城」です。城の歴史は「一式城の由来は一色氏がこの城に常住したことによる。一色氏は足利氏の支族で、足利泰氏の子公深が、三河吉良荘一色に住んだのに始まり、その子範氏は足利尊氏に従い九州で活躍。のち、丹後・若狭・近江に分散し、四職家の一つとして重きをなしたが、義貫が足利義教に嫌疑をかけられて自殺して以後衰退し、佐々木六角氏の臣松吉石見守重吉と交代した。織田信長が千種越や、八風越で当地へ進出すると、浅井長政は鯰江城を攻略し、一式に一揆を起こさせ成功しているのは、一式城があったことと松吉石見守がいたためである。しかし、佐々木氏の滅亡と同時に一式城も焼亡した。(後略)」とあります。なお、神崎郡永源寺町一式は現在東近江市一式町になっています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、愛知郡志、蒲生郡志、淡海の城 他

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝

 


山上城 近江国(永源寺)

2013年04月23日 | 平城

 安養寺小倉山上城址の石碑(東近江市(旧:神崎郡永源寺町)山上)

安養寺が城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】

お城のデータ 

所在地:東近江市山上町(旧神崎郡永源寺町山上) map:

別 名:山上陣屋(江戸期)

区 分:平城

築城期:平安末期 明応8年(1499)頃

築城者:小倉右近大夫賢治

遺 構:堀・石積・城跡碑

目標地: 安養寺

駐車場:安養寺の参拝者用駐車場

訪城日:2014.4.22

お城の概要

安養寺がありここが城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】

山上城は愛知川の左岸、鈴鹿を超えて伊勢に通じる八風街道(国道421号線)沿いに築かれており、現在の浄土宗向上山安養寺、および旧永源寺役場一帯が城址である。

 安養寺境内には石碑が建てられており、この石碑付近が本丸跡とされる。
安養寺東側の竹藪との境には堀跡が残っている。

 和南川の氾濫で流出した、山上城の跡地に安養寺を生保4年に建築した。

 

 

歴 史

愛智郡小椋(現:東近江市(愛東町)小倉)に平安末期より小倉城を本拠とした小倉氏一族の城です。

小倉氏は室町中期に分裂し山上城を居城とする小倉氏は西家と呼ばれるようです。

 山上城は小椋荘、柿御園荘一帯に勢力を持っていた小倉氏が、伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に目をつけ、応仁の乱の頃より山上城を主力に山城として山田城、八尾城を築いたものである

 山上城は南北朝時代より小倉氏累代の居城として栄え、元来小倉(愛知郡愛東町小倉)を本拠としていたにもかかわらず、戦国時代になると、高野にも本拠が置かれるような形になった。

 小倉氏の居城は発祥の地愛知郡小椋庄に小倉城を有したが、室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城・鳥居平城・長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄(山上郡)を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城・山田城、相谷城・九居瀬城・八尾山城等の支城を設けた。

小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。

 

お鍋の方

佐々木六角承禎の家臣 高畠源十郎(真二郎とも)の娘として近江八幡小田で生まる。佐々木六角承禎の重臣 はじめ高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が戦死した後は信長の側室となり、織田信高(七男)・織田信吉(八男)・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。

 その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸・布施九郎らと共に討ち死にした。

鍋は信長の2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は鍋は、豊臣秀吉の奥向きの女房(侍女)として取り立てられる。秀吉や、秀吉の正室の高台院、側室の京極龍子から多大の信頼を得る。

 近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。
また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉と共に、石田三成側に立ったため、母子共に、徳川家康によって領地を没収される。
その後、高台院と豊臣秀頼から禄を与えられ京都で暮らし、慶長17(1612)年に没した。
 その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

小田(近江八幡)には、お鍋さんの屋敷跡」が残されており、お鍋の弔いお鍋塚の伝承地の「お鍋の松」は枯れ、今もその後に植えられた3本の松が残されている。

 信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

山上城は、和南川の氾濫で流出し、跡地に安養寺を生保4年に建築した。

  元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名稲垣安芸守重定が1万3000石の諸侯に列せられて常陸の国より、近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜って神崎郡山上郷に山上陣屋を設けたのが山上城の跡地である。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布、近江小倉城、滋賀県観光情報「江のふるさと滋賀」、神崎郡志、他  

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!!


最上陣屋(大森陣屋) 近江国(八日市)

2013年04月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)大森町 map:http://yahoo.jp/SVx2Uz

別 称:最上陣屋

築城期:江戸期 明暦元年(1655)

築城者:最上氏

目標地:玉緒小学校

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.4.20


 

 

お城の概要

 現在、陣屋が構えられた大森の地には、遺構は何も残されていない。大森町交差点の南側を旧道に入った玉緒小学校の反対側に、最上氏「大森陣屋跡」の石碑が置かれているだけです。近くの長福寺には、陣屋の玄関が移築され残り、大森から一山越えた所(車で約10分程度)にある石塔寺には門が移築されて残っている。大森の地には、陣屋の遺構は不明。

発掘調査によって大森陣屋の地には、戦国時代に上大森城(大森城)の平時の館があったことが判明しているとか。
陣屋跡地の玉緒小学校

民家に残る石垣カ

最上家の家紋(二つ引両)の長福寺

 徳珍法師が延暦2年(783)、玉緒の里に旅された時、會て天智天皇(在位 668-671)の頃、七仏薬師を祀る伽藍があったが、災火で焼失した跡の岩窟に、59㎝ばかりの薬師如来に出会われた。


 そこで八幡宮(現在の大森神社)の傍らに安置して後、伽藍を創建して玉尾山長福寺と名付け、その後八幡宮にも坂本より山王十禅師大権現を観請して十禅師宮となり、長福寺が守護した。
 その後元亀・天正年間(1570-1591)に兵火にかかり焼失したため、八幡大菩薩と薬師如来は布引山のふもとに移寺したが、元久元年(1204)布引山の麓に移り、寛永14年(1637)9月、光忠上人により現在の地に移された。

 明治の初めの版籍奉還まで、藩主最上家の祈願所として、藩主の庇護を受けてきた。とくに、最上家の中から出家得度して、長福寺住職として護寺に努めた。
 本尊薬師如来の来たんは近郷近在に知れ渡り、「薬師」「薬師」といって信仰を集め、明治の初めに住した即曜上人代には、近郷より一家一本の大般若六百巻が奉納されている。
 昭和20年頃、水口にあった長福寺の近江西国観音札所が、同寺号の当山に移された。

最上陣屋の移築門、石塔寺に移築された

最上家の家紋(二つ引両)が、門内に下されて(土に直置き)。

 

引両紋

 

 引両紋は、じつに簡単な紋である。簡単すぎて文様としての美しさがないともいわれて、人気がない。しかし、引両紋は高貴で強運の紋である。引両紋の線は「竜」をあらわし、二本の場合は二匹、一本の場合は一匹の竜が点に昇ることを意味しているという。この紋は足利将軍家の紋であった、ということでもその強運がうなづける。(二つ引両)

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長浜城(長浜城歴史博物館) 近江国(長浜)

2013年04月22日 | 平城

所在地滋賀県長浜市公園町10-10(豊公園)

遺 構模擬天守、石垣、堀、井戸跡

形 式平城(水城)

築城者:羽柴秀吉

築城期:天正元年

訪城日:2013.4.21

 天正元年(1573年)浅井氏の小谷城を陥落させた武功により浅井領12万石を拝領した羽柴秀吉は、はじめて城持ちの大名となりました。当時今浜と呼ばれていた地を「長浜」と改名し、城づくりに必要な材木を小谷城などから転用して築城されました。後に三代目の城主として、大河ドラマでおなじみの山内一豊が5年間在城しています。
そして江戸時代になり、徳川家康によって廃城された長浜城の石垣や部材は、大通寺(長浜市)などの寺社や彦根城の築城に利用されました。彦根城天秤櫓は長浜城の遺構と伝えられています。
昭和58年に安土桃山時代の城郭を模して天守が復元されました。内部は長浜城歴史博物館となり、秀吉・一豊・石田三成・小堀遠州など湖北ゆかりの人物や長浜の歴史・文化を紹介しています。

 長浜は古く今浜と呼ばれ、京極道誉が築城した。 天正元年、織田信長は浅井長政を滅ぼすと、浅井氏の旧領湖北12万石を羽柴秀吉に与えた。
 
 秀吉は、交通の不便な小谷城を廃して、今浜城跡に新城を築き地名も今浜から長浜に改めた。

 清洲会議の後、柴田勝豊、山内一豊が城主となった。 関ヶ原の役後に内藤信成が城主となるが、元和の一国一城令で廃城となり、内藤氏は摂津高槻に移った。


 『城跡には、3層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっている。 天守台は、模擬天守を建てるときに新たに築かれたものだが、本の丸(天守台西側)には、一部であるが築城当時の石垣が残っている。

 太閤井と呼ばれる井戸が湖岸にあって、石碑が建てられているが、琵琶湖の水位が高いと湖面に石碑だけが顔をのぞかせている。

 長浜城天守は、近くから見るのも良いが、竹生島めぐりの観光船に乗ると、琵琶湖に浮かぶようにその姿を見ることが出来る。 築城当時の長浜城の姿を、垣間見るような気分にさせてくれる。

今浜城の戦い

 北近江の守護大名は京極氏で、戦国初期の段階では京極高清(たかきよ)が当主だっが、その跡継ぎを誰にするかで争いが起こった。
高清の子供のうち、弟の高慶(たかよし)が選ばれた。高清の意向と同時に、京極氏の重臣中の重臣であり、守護代をつとめていた上坂信光(こうさかのぶみつ)が高慶を推したからといわれている。

これに対し、上坂信光の専横的な行動を日頃から快からず思っていた部将たちは、高慶の兄高延(たかのぶ)への守護職継承を主張し、京極高清・上坂信光と敵対する行動に出たのである。

高延への相続を主張したのは浅見貞則をはじめ、浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らで、京極氏譜代の家臣であり、国人領主として位置づけられ、「国人一揆」の名で呼ばれている。
彼等は浅見貞則の居城、尾上城に集結した。これに対し上坂信光は機先を制そうと、軍兵を率いて安養寺まで出陣した。
ところが、国人一揆の方が上坂軍に攻めかかり、上坂軍は今浜城に退いて、ここで合戦が繰り広げられたのである。

上坂信光は今浜城を支えることができず、高清の本拠である上平城に逃れ、さらにそこから尾張へ落ちて行った。
結局、国人一揆に擁立された高延が新守護になったのだが、今度は国人一揆の盟主だった浅見貞則に不満が集中。やがてその不満をたくみに利用した浅井亮政が貞則を倒す事に成功し、北近江一の実力者にのし上がって行ったのである。
浅井氏の台頭を物語る一戦であった。

 その浅井攻めの功績により、浅井の旧領と小谷城を与えられた秀吉が今浜城跡に目を付け、ここに築城した秀吉の最初の居城、長浜城はあまりにも有名であり、そして皮肉な物である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

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週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2013年04月21日 | 番外編

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浅小井城 近江国(近江八幡) 2013.4.18

2013年04月18日 | 平城

本丸跡

浅小井城の別名を「武双山湖月城」といい、湖畔に築かれた水城であったが、現在の浅小井城跡の周囲は、戦後の干拓・宅地開発で、【浅小井ふれあいセンター】の東にある。

撮影:2004年07月本丸跡

2004年07月の集落の水路(堀跡カ?)

【現況】
浅小井町内の方々により、町内各所(北出馬場・加賀殿馬場・邸跡など)に説明板が立てられています。遺構は残りません。

【歴史】
大古、沙々木神社豊浦冠者行実の息浅小井次郎盛実の後裔深尾氏第十代加賀守元泰が足利将軍義政の幕下にあって当地を領有後、十一代元範は佐々木(六角)高頼の命により文亀元年(1501年)に築城しました。

十二代元秀、十三代元忠と続き 、永禄年間にこの城を伊庭氏が領有を画策したが、六角承禎義賢はそれを避け、甲賀武士の山中大和守俊好に与えますが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。

 その後の安土城築城後、城はこの地の豪族の伊佐志摩守に預けられ、信長の鷹狩の際は伊佐氏別邸に立ち寄り休息したと伝えられます。天正十二年(1584年)秀吉は池田秀氏<池田氏は近江源氏佐々木氏の流れで甲賀池田を発祥と六角氏に属していたが観音寺騒動の際六角氏を離れ、信長の近江侵攻時は織田氏に属しました>にこの城を与えますが、池田氏が文禄四年(1595年)に伊予大洲に転封し当城は破却されました。 <現地案内板より 浅小井まちづくり委員会 >

浅小井城の位置

宅地の裏の埋戻し中【奥の茂み本丸の駒札】

 

 曳山とイ草の館田船

 

深尾(浅小井)氏
四つ目結
(近江源氏佐々木氏流)


 近江源氏佐々木氏の一族で、はじめは浅小井氏を称した。しかし、近江源氏の一族とはいえ、宇多天皇を祖とする宇多源氏ではなく、古くから近江国佐々木庄に先住していた、沙々貴または狭々城などと称した古代豪族の流れを汲むといわれる。いずれにしても浅小井氏は佐々木経方の四男、豊浦冠者井上行実の孫、井の源太家実の五男長家に始まる。
 長家は佐々木荘の蒲生郡浅小井村に住し、地名をもって氏として浅小井四郎と称した。元暦元年(1184)、伊賀国の平氏、平田家継、富田進士家助らが甲賀郡大原荘に侵入したのに対し、これを討伐に向かった佐々木秀義に従い武功を立てたことが伝えられている。
 長家の跡は嫡子清長が継ぎ、治承年代の初め、伊勢・近江・美濃三国の国境に位置する三国岳に立て籠った盗賊を退治するため、三国岳の東、北伊勢郡員部郡の深尾谷村に住した。そして深尾谷の深尾をとって姓を深尾と改め、以後、子孫は深尾氏を名乗った。とはいえ、当時源氏に対する平家の追究が厳しかったことから、それから逃れるために深尾谷に身を隠したところ、たまたま盗賊の横行があり、清長は一族郎党と力を合わせてこれを征伐したとも伝える。
 鎌倉時代末期、当主氏輝の弟師方は北条師時の猶子となり、その一字をもらって師方と名乗ったもので、その妻は。これも北条氏一族の大仏宣時の女であった。深尾氏は幕府の権力者北条氏一門と、なぜか深い関係をもっていた。これは、当時、深尾氏が大きな勢力を有していたことを物語るものであろう。
 その後、時代は南北朝の内乱となり、世は挙げて南朝方か、北朝方のどちらかに属して全国いたるところで合戦が繰り広げられた。氏輝の長子義輝は北朝方足利氏の麾下に属して歴戦、勲功を立てたが、貞和年中に戦死した。

近江の戦乱と深尾氏

 室町時代になると、深尾氏は江北の京極氏に属するようになった。当時、京極氏は近江北半国の他、飛騨・出雲・隠岐の三ケ国を領有支配し、京極高数は幕府の相伴衆に列する権力者であった。ところが、嘉吉三年(1441)将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に誘殺されるということがあった。このとき、京極高数も義教ととみ殺害され、高数に従っていた深尾忠房はそばずえを喰って赤松邸で殺されてしまった。
 京極氏は持清が継ぎ、深尾氏では元泰がこれに仕えた。持清は京極高氏(道誉)に次ぐ京極歴代切っての英傑であり、佐々木氏宗家たる六角氏とのライバルでもあった。しかし、持清はすでに壮年期を過ぎて諸事に熟達し、幕府の四職に列した権勢並びない大大名であった。そして、この持清が没すると、京極家内部では家督相続に対しての内紛が起こり、その威勢は著しく失墜してしまった。
 一方、六角氏は高頼が出て、権勢大いに振るうようになった。そして、元泰の跡を継いだ元範は六角高頼に従うことになった。元範は深尾加賀守と名乗り、高頼の命を受けて浅小井城を築きその城主に命じられた。そして、六角家中で権勢を誇った永原越前守の娘を娶り、おおいに勢威を有することになった。その跡を継いだ元秀も加賀守に任じ、浅小井城主として深尾氏の全盛時代を築いた。
 ところが、元秀の嫡子秀長は、当時佐々木四天王の一人と称された、神崎郡伊庭城主の伊庭下総守資長が反乱を起したとき、これに味方し、結局、浅小井城を捨てて蓄電、行方知れずとなってしまった。秀長の弟元忠は兄の謀叛のあと、浅小井城を召し上げられ、禄を失い、侘びしく暮らしすことになった。その後、一族の取りなしを得て、わずかに禄を与えられて深尾家を再興することができた。
 その後、佐々木六角氏に仕えたが、昔日の面影はすでになかった。そして、六角氏が織田信長の前に敗れ去ると。主家を失った深尾氏は、郷士となって浅小井村に住したという。

参考資料:田中政三氏「近江源氏」から】

■参考略系図

 

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浅井三代記 第十六(全文) (転載)

2013年04月17日 | 番外編

浅井三代記(16)

第十六(全文)

 

本文

備考

朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近討死の事

斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井朝倉が役人共悉く討取旨、浅井朝倉両将の許へ注進有しかば、味方の諸勢いろをうしなひ、あはて騒ぐ事おびたゞし。浅井朝倉家老共を近付被レ申けるは、東近江越前への通路を敵堅田にてとりきらば、誠に鳥ならではかけりがたし、兎やせん角やあらんと評議したまふに、朝倉義景被レ申けるは、とかく信長の本陣へ切入、一戦をとぐるか、又は朽木越を可レ落かと被レ申ければ、備前守長政の曰、敵陣へ切入といふ共、敵籠城したる数万の勢なればやはか利有べしとも不レ覚、又ぬけ道へまはるとも敵よも落さし追討にうたれ、末代迄の悪名をとゞめむより、明日は未明に堅田へ人数四五十計出し、無二無三に一刻に責つぶし、坂井右近が首を刎んに何の子細候べきと被レ申ければ、義景の家老朝倉式部大輔、山崎長門守進出て、長政の仰誠にゆゝしく御座候。明日の御先は某等両人可レ仕と申により、評議一統してあけゝれば、十一月廿四日に義景方には朝倉式部大夫、山崎長門守を侍大将として三千餘騎、浅井方には赤尾美作守、浅井玄蕃亮、侍大将として二千餘騎、都合其勢五千餘騎なり。浅井勢は朝倉勢の後陣也。斯而三千の勢を三手に作り堅田へ押寄る。坂井右近は是を見て一千餘騎の勢を五百余騎は引かへす。残る五百の勢にて堅田の町面へ討て出る。越前勢五百計弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を敵を以あいしらふ。越前勢敵を小勢成と勝にのり、はや鑓を入、面もふらず突懸る。右近は本より巧者也。しばしさゝへ敵の色を見てかゝれ/\と下知すれば、右近が五百余騎一度に撞と突かゝる。越前勢引色に見えたりけるが、山崎は是を見て、きたなし味方の者共よ、我一軍してみせんとて五百計おめきさけむですゝめば、右近此いきほひに突立られ、一町計引退く跡をしたがふて突かゝる。右近能時分を引請、取て返し、火花を散して戦へば、右近がかくし勢五百計撞と喚て真黒にて成、面もふらず突かゝる。越前勢足をしどろにみだし、既に崩れんとせし處に、式部大輔は其を引なと云まゝに、馬煙を立てかけ込ば、浅井が勢も備へて待て何にかせんとて、相かゝりに突かゝる。てき味方入違へ、互に命も不レ惜たゝかへば、右近は寺内へ引入むとする處を、味方堀きは迄ひしと付、寺内を付入にせんとせしを右近取て返し、敵を四方へ追払ひ、其透に寺内へ懸入ば、朝倉浅井が兵ども寺内をおつ取巻より、はや堀へひた/\と飛込/\、我先にと乗込ば、右近も大剛の兵なれば、走り廻て下知すれ共、敵は多勢味方は小勢叶はずして、遂に討死したりける。浦野源八父子、坂井十介、馬場居初もはしたなく働、右近は小勢叶はずして遂に討死す。味方にも前波藤左衛門尉、堀平右衛門尉、中村木工之丞きらびやかに相働討死す。是は朝倉が兵也。浅井方には浅井甚七、赤尾甚介、田那部平内、八木又八郎ゆゝしき働して討死す。總じて其時の責口にては、敵味方にて寺内の堀は平地と成、かくて義景長政寺内を取かへすといひ、坂井右近討取事浅からざりし次第なりとて、喜の事は限なし。則堅田を拵て朝倉よりは堀江七郎平、浅井よりは月ガ瀬若狭守を入をかる。去程に信長卿は坂井右近討死の次第をきゝたまひ、われらが命にかはるといひ、数度の忠功報しがたしとて鎧の袖をぬらし給ふぞ忝なき。

 
 

信長與2朝倉浅井1和睦の事

斯而元亀元年の歳も極月にせまりければ、雪いたく降積りぬれば、敵味方の足軽せり合も止けれ共、軍兵殊の外勇気をつからし侍れば、信長卿より御内意こそ侍りけめ。室町殿時分をはかりたまひ、信長も浅井朝倉も対陣につかるべし。曖を可レ入と思召、双方中和せしむべき趣、信長卿の本へ仰こされければ、本より信長卿は内通したまひける事なり。其上森三左衛門尉、坂井右近、左右の臣は両月の間にうたれぬ。朝倉浅井は山門を城にかまへ陣取いきほひをなせば幸と思ひたまひ、とも角も御諚次第と御請申上させたまふゆへ、浅井朝倉両人の方へも将軍の御使として中和可レ仕旨被2仰越1ければ、両人右の趣承、将軍の仰尤忝奉レ存旨侯へ共、信長卿はよく契約を違へ被レ申、人の事にて御座侯へば、相心得難く奉レ存旨申上承引申さゝれ共、御使再三に及び、其上将軍御諚として向後よりしては、互の領分へ手さし有間敷旨誓紙を取かはし、和睦重て相調りける。それよりして信長勢を引取たまへば、朝倉浅井も諸勢悉く叡山面を引取ける。其時浅井朝倉叡山にて対陣をはり、越年して大坂野田福島といひ合せ、後巻をせさする物ならば、なんなく信長卿を討取べきものを児童の様成浅き曖かなと、京童は笑ひける。扨信長卿は室町殿に御いとまごひしたまひて、坂本を立て佐和山の麓鳥井本に着せたまへば、丹羽五郎左衛門尉、水野下野守御迎に罷出被レ申けるは、今度は永々御対陣被レ成候之所に、味方無レ恙渡らせたまひ、朝倉浅井と御和睦被レ成候段、目出度奉レ存旨申上ければ、信長卿たはぶれさせたまひ、世間の世話にて被レ仰けるは、我等の無事は申待の夜の歌なりと宣ひ打わらはせたまひ。やゝ有て丹羽五郎左衛門尉を近付、潜に被2仰付1けるは、汝は随分智謀をめぐらし、當城磯野丹波守を味方に引入可レ申と被2仰置1、極月十日に岐阜に帰城したまひける。

 
 

磯野丹波守佐和山城を開退事

斯而丹羽五郎左衛門尉、内縁を以信長卿の仰の通を城中へ申入けれ共、丹波守も先同心せざりける。され共、此事度々におよべば、員正が口も少やはらかにぞ成にける。かゝりける處に、信長卿、元亀二年二月中旬に、其勢二万余騎を引率し、佐和山面へ発向し、佐和山の城を幾重ともなく取巻たまひ責させたまふ。磯野元来剛の者なれば、敵近付ば切払ひ、勇気をはげましければ、たやすく可レ落とも見ざりける。丹波守員正たび/\小谷へ後巻をこひけれど、終に其沙汰あらざれば、防ぐ兵も勇気いよいよおとろえければ、丹波はよき時分と心得て、員正が方へ申遣しけるは、今度信長卿へ忠節したまはゞ、ゆく末迄も可レ然候はん。同心あれと申越、員正心に思ふやう、兎角當城を開渡、小谷へつほみ、味方の雌雄を可2見届1とおもひ、丹羽に返事申けるは、此方よりもたしか成。人質を指上べし。信長卿よりも慥なる人質たまはるにおいては、當城をあけ渡すべしと申越ければ、丹羽大によろこび、信長卿へ此旨申上れば、信長卿不レ斜おぼしめし、さあらば人質を可レ遣とて織田おきくを被レ遣ければ、員正は男子壹人も持ざれば、女子一人を指上、佐和山をあけ渡し、小谷をさして来りけるが、長政内々磯野二心有よし聞たまひ、磯野が人質老母を張付にかけ、丁野山にさらし置、小谷の内へ入ざれば、己が知行處西近江高島郡へ引退きける。此時取置たる人質おきく殿すぐに養子に信長卿より申請たりける。後織田七兵衛殿と申せしは、此人質なり。斯而木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門両人として江北中大名小名によらず、町人郷人によらず、まいないをし引出物などをいたし、侍には信長より本領安堵の御教書を取つかはしければ、国中の者共なびかぬものはなかりける。爰に米原太尾の城には中島宗左衛門尉楯籠りしが、磯野佐和山をあけのけば、己も太尾を開退き、小谷をさしてひきこもる佐和山より一里計西、浅妻といふ所に、新庄駿河守二百五十餘騎にて楯籠りしが、小谷へ注進申けるは、佐和山城磯野は信長卿へ開渡しければ、當城無勢にてかゝはりがたし。加勢を可レ被レ下と申越、其儘降人と成、信長卿の人数を引入る。斯而信長卿は近江へ至り、其間七八日の間二三不所の城、手に入れば當春の首途よしとて、佐和山の城には丹羽五郎左衛門に近辺五万貫の所領を相そへ、同廿六日に岐阜に帰城したまひける。其後沙汰して申けるは、今度は磯野を味方に可引入、ために発向したまひぬると聞えける。惣じて時日をうつす其間に、浅井が人持悉くみかたに引入べきとの手立とぞ聞えし。

 
 

浅井軍評定之事

浅井備前守長政、家老の者共を近付被申けるは、去年信長にだしぬかれ、中和せし事味方大につかれしゆへなれ共、是大にあやまりなり。しかりといへど信長を可レ討手立有。味方の人持共、小谷近辺一里二里の間、所々つまり/\に要害をかまへ入置、大坂顕如上人を頼、江北三郡の本願寺下坊主共に一揆を催させ、近所なれば堀が籠る本江の城を責さすべし。其時横山に籠る木下藤吉みつくべし。其透に當城より軍兵一二千も出し責べし。然者大形十に七八は責取べし。其時信長即時に馳来、虎御前か矢島野に本陣をすえらるべし。さあらんにおいては當城ひそかに持かため、打しづまつて寄る敵を待うくべし。其刻越前へ一左右して越前国中の軍兵を引率し、義景木之本辺へ出たまはゞ、信長勢を四方八方より出戦はゞ、勝利有べしと被レ申ければ、一座同音に尤よろしかるべしと決定す。それより越前へ使を立て、右の手立申入ければ、尤可レ然とて重而日限相究、使節は小谷へ帰りける。長政よろこび、いにしへより有所の小城に普請等を申付、人数分して籠られける。一番に国友の要害には野村兵庫頭、同肥後守を入をかる。宮部の要害には宮部世上坊を入をかる。月ヶ瀬の要害には月ヶ瀬播磨守子息若年なるにより、伯父若狭守楯籠る。山本のしろには阿閉淡路守、今村掃部頭(父は先年太尾うしろ巻の時討死す)、安養寺三郎左衛門、今井十兵衛(先年切腹せし十兵衛が子息)、熊谷忠兵衛(弥次郎が嫡子)彼等五人を籠をかる。賤ヶ岳の城には東野左馬之介、西野壱岐守、千田釆女、西山旦右衛門楯籠る。雲雀山の要害には浅見大学之介、八木與一左衛門楯籠る。小谷山の焼尾丸には浅見対馬守を籠をかる。小谷中の丸には浅井玄蕃亮、三田村左衛門大夫、大野木土佐守彼等三人をこめ置る。丁野山には中島宗左衛門尉ぞ籠りける。是は敵を包打に可討との手立とぞ聞えける。

 
 

浅井大坂顕如上人を頼一揆を催す事

去程に、浅井備前守長政大坂へ以2使札1被レ申けるは、我等領分北三郡の道場本へ被2仰付1、一揆を被レ催候はゞ、悉可存旨深く頼みて越れければ、顕如上人幸と思召。則顕如より御書をたまはりければ、長政よろこび事はかぎりなし。斯而越前と一揆と一図にしめ合せ可責とて、其日限をしめられ、長沢の福田寺へ彼顕如の御書を相渡す。それよりして三郡の一向坊主、我檀方共にふれければ、我も/\と進みたるしか、堀次郎が楯籠りたる本江の城を可レ責とて、箕浦の誓願寺四千二百人、先懸にて押寄、新庄の金光寺二千餘人、榎の乗願寺千五百人、上坂順慶寺五百余人、ゆすきむらの清動寺木之本新敬坊いまだ又右衛門の時、此人々都合八千七百余人後備へにひかへたり。尊照寺の称名寺二千餘人、唐川長照寺、増田真宗寺、此三人は三番にひかへたり。長沢の福田寺四千五百余人、坤村の福照寺三千二百余人は同勢なり。其日の軍奉行は浅井七郎、野村兵庫頭、中島日向守に仰付らる。元亀二年五月六日の未明に、堀が居城へ押寄、四方町屋を焼払ひ、我先にと責よせたり。城中にも四方より弓鉄炮を放ち、かくれども事ともせずおめきさけむで責かくる。秀吉は横山の城にいたまひしが、堀が住所と其間わづか一里余の事なれば、このよしを見て一揆は定て猛勢なるべし。一手立して敵を追払はんとて、内々用意やしたりけんかみのほりさし物など少々拵、日比なさけを懸置し百姓をやとひ越、其者共に申付、美濃海道筋の山の嶺に立置、我身は五百余騎にてふきぬきののぼりを立、福田寺陣取たる小屋山甲山へ取登る。斯而長政は越前よりの義景、出陣を待居けれ共、時刻もうつり行は、浅井玄蕃亮、赤尾新兵衛を侍大将として一千余騎横山の城へ押寄る。横山の城は無勢なれば、上を下へとかへしける。されども竹中半兵衛物なれたる兵なれば、走廻て下知をなす。浅井勢いさみにいさんで責入ば、城中は無勢なりはや惣構打破、二丸迄乗取、敵本丸さして付入に切入んとせしを、半兵衛取て返して追散す。浅井玄蕃亮一刻責にもめや者共と下知すれば、野一色介七と名乗かけ、加藤作内(後云遠江守)と渡し合せ、火花をちらしてたゝかひける。介七ふみ込で打太刀にて作内がひざの口をぞわつたりける。介七は首を取んとせし處に、苗木左介と名乗かけ、介七えたりとて左介をひきよせ、むずと組取ておさへ、首を取。此介七後には頼母之介と申ける。其後青野合戦に大垣面にて無比類働して討死をぞしたりける。かくて本江一揆の者共、秀吉加勢に来りたまうを、岐阜より信長進発にて先勢向ふとおもひ、気をうしなひ、福田寺が人数はや裏崩れしてにげぬれば、秀吉は五百計さつと懸入、四方八面に打破かけ通れば、一揆の者ども一さゝへもさゝへずして散々に敗北す。武者す武者奉行の浅井七郎敵は小勢成ぞ、かへせ/\と言れば、上坂の順慶寺にくい味方の者共の働かなとて、箕浦川を楯に取、しばしが間はさゝへしが、多良右近が郎等鎗を振て馳来る順慶寺と仕合しが、順慶寺がかたのはづれを一鎗突たりしが、物の數ともせず飛かゝり、おしならべてむずとくみ、上を下へと取てかへす。順慶寺組勝、頓て首を取立あがらんとせし所を、多良右近走かゝり、順慶寺を一鑓に突伏せ、首をかゝんとはしり寄、順慶寺ねながら腰の刀にて切ければ、多良は薄手なれば終に首をぞ取てんける。木之本藤田又右衛門は深いりして敵に取まかれしを、追払ひ/\二三度取てかへし、其をなんなく突抜、箕浦の辺にて息つき居たりしが、林甚之丞と名乗かけ、又右衛門に突かゝる。其時又右衛門持たる鑓を取なをし、しばらく戦ひけるが、甚之丞がたゞ中を突通し、田の中へはねたをす。かゝりける所に、香鳥介七と名乗又右衛門とむずとくみおさへて、首を討たりける。斯而秀吉はにぐる一揆を追打に四方へさつと追払ひ、横山さして引たまふ。扨横山寄手の者共は、敵不レ来先にもめやもの共すゝめや兵共と玄蕃身をもむて下知すれ共、城中の兵必死非生と思ひ切防ければ、すゝみかねてぞ居たりける。秀吉は一揆のやつはら思ふまゝに討取追散しかけぬけ、横山へ馳付給ふ。寄手の者共秀吉の後へまはり給ふを見て、勢を小谷へ引取ける。此時竹中粉骨をぬき働しゆへ、當城は落さるとて秀吉大によろこばれ、本江面にして討取たる一揆の耳鼻千八百信長へ進上せられしかば、頓而感悦に預り給ふ。秀吉其後近江の一向坊主にあひたまひて、我五百の勢にて一千八百討取たるとて御一代の御荒言とぞ聞えける。

 
 

浅井朝倉を呼出すに不レ出事 附信長卿江北へ押寄給ふ事

斯て浅井備前守長政は、去る夏越前と示合、一揆をもよをすといへども、義景事の子細有レ之出張せざるゆへ、味方の手立相違して立腹する事かぎりなし。かゝりける所に、又近日信長卿江北発向のよし注進すれば、越前へ使者を立、今度は是非出張せらるべき旨申遣しければ、早速可2打立1とかたく契諾す。それゆへ長政は其手あてをぞしたりける。かゝりし故、信長卿は分国の人数をかりもよほし、五万餘騎にて八月十六日に打立、同十八日には坂田郡横山に陣取給ひ、江北悉く焼払ひ、小谷をはだか城にすべきとて、先山本の城には阿閉淡路守、安養寺三郎左衛門、今村掃部、熊谷忠兵衛、今井十兵衛彼等五人楯籠りければ、此城と小谷の間をゝさへ置、放火せしむべきとて、柴田修理亮勝家、佐久間右衛門尉、市橋九郎左衛門などを宗徒の大将として四万余騎にて小谷と山本のあはひ二里計の間を人数にて立切、所々の要害共に手あて/\を申付上、海道筋會弥村馬渡迄焼払ひ、翌日横山へ引とらんとせし時、浅井備前守は同姓七郎、同玄蕃亮を侍大将として二千餘騎、小谷の城よりおしいだす。山本山の城よりも阿閉淡路守を初、所々の小城より討て出る。又江北所々の一揆共、我をとらじと催して出れば、信長卿も其日の殿ひ大事とやおもひ給ひけん。柴田修理亮に原田備中をいひそへ、弓鉄炮の者多く加勢被レ成、諸勢引取給ふとひとしく、浅井勢爰のつまり、かしこの山合へ人数を引つゝみ切てかゝれば、原田勢を一足もためす、追散す。浅井勢競ひをなし、息をもつかずたゝかへば、柴田が勢も敗北す。勝家是を見て味方をのゝしり、鑓を横たへ、二三度返し合せ敵を突、しりぞけ/\しけれ共、味方事共せず十四五町もしたひ行。備前守も雲雀山迄罷出、敵味方の様子を見居たまひけるが、味方深入してはあしかりなんとやおもはれけん。使番を以、はや引取れと下知すれば、玄蕃尤とこゝろへ、味方を引つれ小谷をさして引入れければ、山本勢も上道筋へ引にけり。此時柴田すでにあやうく見えけるが、味方はやく引取故なんなく信長卿の御本陣へ引付ける。もとより信長も殿ひ大事とや思ひたまひけん。三度迄使番を以被2仰付1けるが、其中に猪子兵介といふ者かけ引の體見はからひ様子申上る。其次第少もたがはずとて御感有けるとぞ聞えし。其夜は坂田郡が横山に陣取たまひ、翌日犬上郡が佐和山の城にうつらせ給ひ、近辺所々の残徒共の城取可2責取1手分被2仰付1、我身は佐和山に本陣をすえ給ふ。

 
 

世上坊逆心之事

斯て秀吉宮部の城に楯籠る世上坊が方へ申遣しけるは、汝は城にて本望をとげ給はむ事、九牛が一毛成べし。信長卿の幕下に成給はゞ、本領相違有べからず、行末よろしかるべしと申越れければ、世上坊同心して秀吉へ人質指遣し、頓而信長の味方に参。世上坊心に思ふやう御味方を申上るしるしに、近所国友の城野村肥後守、同兵庫頭に一矢射て、信長の御機嫌に可レ入とおもひ、手勢二百余騎にて国友面へ押出す。肥後兵庫は是を見て、己心替するのみならず、剰へ當城へ勢を寄るは、あますなもらすな討捕とて、三百余騎にて姉川をさつと打渡り、世上坊に切てかゝる。それよりして宮部勢と国友勢と追つおはれつ戦ふたり。国友勢つよくして宮部勢一二町引退く。世上坊取て返し、討死せんと切てかゝる。国友勢此競ひに追立られ、我先にと敗北して川中迄追入れける。かゝりける所に富岡藤太郎取てかへし、二つ玉の鉄炮にてねらひ打に打ければ、世上坊が高もゝを打ぬき、馬より下へどうと落る。富岡飛かゝり首を取んとせし所に、郎等の友田左近右衛門尉とつて返し、富岡を突しりぞけ、主の世上坊をかたにかけ、しりぞかんとせし所を国友勢追かくれば、世上坊いかに友田汝はしりぞけ、我は爰にて討死せん、二人うたれて何かせんと有ければ、主を捨る法や候とてかたにひつかけのきければ、それよりして敵味方あひ引に引にけり。

 
 

信長卿江北進発の事

斯而信長卿は、今度小谷面へ押寄敵を防ぎ置、虎御前山に向ひ、城を取立御勢を入置、小谷の士卒をつからせんと思召、元亀三年三月五日に二万余騎の勢を引率し、濃州岐阜を御立有。翌日六日に横山の城に着陣したまひて、柴田修理亮は山本の城をおさゆべし。佐久間右衛門尉、市橋九郎左衛門尉、丸毛兵庫頭等三人は小谷山と虎御前山との其間へ人数をわりこみ立置べし。木下藤吉郎は残る勢を引具し、虎御前山に要害をとり立べしと被レ仰付ける。信長卿の本陣は矢島野にすえさせたまふ。斯て佐久間右衛門佐、小谷面へわりこみ、備へを立んとせし時、備前守長政は居城間近く敵に足たまりを拵させてはかなふまじと思ひ、二千餘騎にて小谷面谷より打て出、佐久間が陣へ討手を揃へ、さしつめ/\射立ける。佐久間しばしが間はさゝへしが、小谷勢案内はよくしったり、爰かしこよりひらき合せて戦へば、佐久間も本陣へ引取、小谷勢跡を追てすゝみける。長政の其日の先手は、浅見対馬守なりけるが、深入して大勢につゝまれ、あしかりなんと思ひ、長政の本陣田川山へ引取ぬ。又西の方山本の城よりも、阿閉淡路守父子、安養寺三郎左衛門尉、熊谷忠兵衛一千余騎にて討て出る。国友の城よりも横鑓に突かゝれば、信長卿の勢防ぎかねてぞ見えにける。味方深入せしと人数さつと引取、己々が城中へ入にける。信長卿此由を見給ひて、御旗本を崩し田川迄押出し給へ共、浅井勢はや引取ければ、可2責入1手立もなくして人数横山迄引取たまふ。信長卿今度は何とか思案侍りけん。同十一日に横山の城を御立有。西近江志賀郡へ発向したまふ。かゝりける所に高島郡伊黒の城には、浅井方より新庄法泉坊を入置けるが、浅井に企2逆心1、信長卿へ忠節可レ仕旨申上。則人質を差上ければ、信長卿感被レ成。頓而安堵の御教書をぞくだされける。

 
 

高島伊黒の城責取事

去程に、伊黒の城主新庄法泉坊、信長卿へ味方して近辺の傍はい共を押寄/\責取乱入し、家財道具なんどをうばひ取けるが、梅津信濃守小谷に籠城して居たりけるに、己が一家の者其妻子等迄おかし押なびくるの旨、注進有ければ、不レ安思ひ、長政に右のむね申上ければ、長政聞たまひて、汝無念に思ふ段、左至極せり。しかりといへど海上をへだて人数を出すといひ、當城のふもと皆敵なり。いかゞ有べきと案じ煩ひたまふ。されども海津達て討手を望みける故、長政も又此法泉坊、忽にすて置なば、高島一郡をゝしなびけ、此方へもぜいを可レ出、急ぎ責とるべしとて、海津信濃守に浅見対馬守、山田順哲斎、赤尾與四郎、日根野弥次郎右衛門子息弥太郎を相添られ、其勢一千三百余騎、伊黒の城の討手として、同四月十四日に小谷を出したまへば、翌日海津に付、日根野本より軍法は得たり。一千三百を二手に作り、一手は城の後へまはし置、七百余騎にて城中を取まかんとせし時、法泉坊は是を見て、其勢雑兵八百計の勢を三百は城中に残しをき、五百の勢にて町面へ打て出る。味方七百余騎にて弓鉄炮を以て四方より射立打立しに、法泉坊も射立切立られ、我先にと敗北す。しかづし所に伊黒勢勝にのり、浅見が勢を追かくる跡に、日根野はひかへしが二百計鬨を作りかけ/\、面もふらず切てかゝる。法泉坊も火いづる程に戦ひけるに、後へ廻し、味方の勢ときを撞と作り、一度に塀際迄責寄れば、法泉坊かなはじとや思ひけん。城中さして引取べき所に、法泉坊が家老堀江伝左衛門と云しもの、よき時分にふみ留り、向ふ敵を追払ひ、門をかためてふせぎける。それよりして味方息をもつかず責たりけり。城中にも爰を先途と防ぎたゝかへば、日根野浅見に向て申けるは、此近所敵多し。其上信長も京都に居給ふべし。一刻に揉落すべし。先我等は責口の様子見るべしとて、裏手へ廻るとひとしく、進めや兵、のれや兵どもと下知をして、塀に手をかけ、日根野父子乗込ば、赤尾美作守が子息加兵衛、同新介(後改赤尾伊豆守)続てのりこめば、味方の兵五百計我おとらじとのりこむたり。城中の兵敵にまぎれて落るもあり、或はうたれて死るもあり。暫時に城は乗取ぬ。され共法泉坊は軍兵共の討るゝ透に、何く共なく落うせぬ。其時日根野弥太郎は敵數多きりふせ、其身も討死したりける。此日根野父子は美濃国斎藤右兵衛佐龍興が侍なりしが、龍興岐阜退散の時より、浅井が家に来りしなり。赤尾新介もてき二騎討とり、我身も深手負て、今をかぎりと臥居たりしが、郎等二人馳来り、かたに引懸退にけり。斯て浅井が兵共、大将の法泉坊は打みらせども、敵の首三百八十余討取は、味方も百七十もうたれにける。伊黒の城を破却して、海津信濃は残りけるは高島郡の仕置のためなり。扨小谷勢はさゞめき渡て帰陣して、長政に此むね申上れば悦ぶ事は限なし。

 
 

浅井三代記第十六終

 

(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。


浅井三代記 第十三(全文) (転載)

2013年04月17日 | 番外編

浅井三代記(13)

第十三(全文)

 

信長卿江州佐和山に来長政と初て対面の事

永正十一年七月二十八日に信長卿より浅井備前守方へ使節を以申させ給ふは、貴殿数年我等と対面の儀を被2申越1けれども、路次のたよりもいかゞと思ひ堅く留置候。相談を遂べき儀候條来る八日に犬上郡佐和山の城にして対面可レ申候間、内々左様に心得給へと被2仰越1ければ、備前守は佐和山の城主礒野丹波守が方へ被2申越1けるは、信長はじめて当地へ被レ越事なれば、随分掃除等とりつくろふべしとありければ、丹波守畏候とて、其催をぞしたりける。備前守は一門家老召連れ、佐和山へ罷越、相図の日限にはすり針峠まで迎に罷出て待たまふ。かくて信長卿は小姓二百四五十騎にて出させ給ふ。備前守御迎に是迄被レ出る事不レ浅とて、御感悦不レ斜、先へ被レ参候へと被レ仰けるに付、長政は佐和山へ信長卿もそれより佐和山の城へ御着座あり。備前守には一文字宗吉の御太刀並に鎗百本、しちら百端、具足一領、御馬一疋を引給ふ。父久政には黄金五十枚、御太刀一振を給はる。浅井が家老一門不レ残御禮申上ければ、それ/\″に引出物を賜はる。中にも磯野丹波守には銀子三十枚、祐光の太刀一振、御馬を給はる。三田村、大野木、浅井玄蕃三人には御太刀馬代をひかれける。かくて備前守不レ斜に悦び善をつくし、美をつくし、御馳走申ばかりはなかりけり。御酒宴数献めぐり、幾千歳と舞うたふ。翌日小谷の御前にも久しく対面不レ被レ成候故、御逢被レ成度と被レ仰、則小谷より迎よせ、信長も奥へ御入なさむ。つましく語らせ給ふ。其の夜、信長被レ仰けるは、備前守長政は義深き仁にて候へば、某が方へも可レ参などゝおもはるべし。只今天下の御大事をかゝへて置ながら、あなたこなたと日をついやすもいかゞなり、明朝は當城をかり、爰にて禮をうくべきと被レ仰ければ、長政辞退す。信長達て被レ仰に付、其御請を申ける。扨其夜は信長、長政両人、奥へ御入被レ成、夜中密談し給ふ。後に承るに、箕作攻手の事、三好退治の御談合諸事、義昭公の御上洛の御相談とぞ聞えける。翌朝は長政父子を信長卿佐和山の城にて御振舞なり。其時長政は家重代の備前兼光の太刀、名を石わりといふ一腰、近江綿二百把、同じく国の名物布百疋、月毛の馬一匹、定家卿の藤川にて被レ遊し近江名所つくしの歌書二册進上して御禮申上る。父下野守久政は太刀折紙にて常ある通のさゝげ物、一門家老それ/\″のさゝげ物にて御禮す。長政よりは今度信長卿供の者共に不レ残あらみの太刀脇指をひかれける。今度信長卿へ進上せらるゝ備前の兼光の太刀は亮政秘蔵せし打物なり。備前守より備前兼光を信長へ送られしは、備前守長政、信長の為に滅亡せられし前表なりとは後にぞ思ひしられたる。かくて信長卿は濃州より兼てたくまれし事なれば、さま/\″の珍物を相とゝのへ、其日終日のもてなしにて残る所もなかりしうへに、信長卿、長政の家老共に宣ふは、面々よくきかれよ、長政かく某が子分に罷成上は、日本国中は両旗にて可レ治、随分粉骨を抽てらるべし、さもあらば各を大名に取立べしとさもありげに仰られける。かくて翌日十一日には佐和山浦にて大網をおろし御馳走有しに、鯉鮒其外の魚類夥し。信長卿御威尤甚しくして美濃にしては如レ此なぐさみはあるべからず、ことさら当国の名物なれば、御帰城にもたせらるべきとぞのたまひける。其夜備前守と内談ありて、翌日佐々木一家の者共方へ先心をうかゞひ見ばやとて、義昭公の御使節に信長、私の使相添申入給ふは、京都の逆徒三好を追、罰被レ成度思召に付、某其仰承候て、此地迄罷越候味方に参るべし。本意をとげらるゝにおひては無二の忠節たるべき旨申入させ給へども、曾以御請申さず、おし返し/\三度被レ遣けれども、終に承引せされば、重て軍勢を率し攻べし。長政も勢をもよほし出張せらるべき旨堅く契約まし/\て、二十日あまり御滞留被レ成、同じく二十日に岐阜へ御帰座可レ被レ成と有ければ、御名残の酒宴数刻に及し故に、其日は柏原の常菩提院に御一宿と相定て、長政もすり針峠迄御送り申されしとなり。領分の事なれば御馳走にとて、遠藤喜右衛門尉、浅井縫殿助、中島九郎次郎、三人承りにて彼御宿所に馳参じ、御座の用意をつくろひける。

 

遠藤喜右衛門尉小谷へ馳帰る事

かくて信長卿は常菩提院へ御入被レ成、此地は長政領知なれば、御心安くおぼしめさるゝとて、御供の侍共は町屋に置給ひて、御近習の小姓衆当番役の者共ばかりにておはします。去程に遠藤喜右衛門尉は馬にむち打、もろ鎧にて小谷へ馳帰り、長政に逢ひ一間所にて申けるは、此中信長卿の様體見奉るに、物毎に御気をつけらるゝ事誠に猿猴の梢をつたふが如し。発明なる事鑑に影のうつるが如くなる大将なり。御前行末まで信長卿の御気にあはせ給ふ事なりがたかるべし。所詮只今此地にて、御討被レ成事御尤と存るなり。信長卿はいかにも打解させ給ひて、馬廻の面々も皆宿々へ返し給ひて、御傍には小姓当番役十四五人ならではこれなし。御同心にて御座候はゞ私一人として討奉るべし急ぎ思立給ひ、御人数被レ出、二百余騎の侍共悉討取、其いきほひに濃州岐阜へ押寄する物ならば、大将はうたれ給ふなり。残る武士共は皆味方に可レ参。然らば尾張国も早速に御手に入可レ申、其いきほひを以て佐々木一家を追払ひ、都に旗をあげ給ひ、三好を追討に被レ成に何の子細の候べきと一口に申上ければ、長政は聞給ひ、遠藤が詞も用ゐずのたまひけるは、信長我等を心安く打とけ、親子の如くにおもはるゝ故、人数もめしつれずして当国に永々滞留したまふなり。是非可レ討と存なば、此中佐和山にして一刀にさしころすべきは安けれど、武将となる身の心得あり。謀を以て打は是をゆるす、頼みて来るを打事是をゆるさず。今信長のごとくに御心もおかせ給はずして居給ふを打なば、一旦利有とも終には天のせめをかうふるべしと宣ひて、少も同心し給はねば、遠藤は承り、後には御悔み、草ともなるべきなり。よく/\御思案被レ成よとて、又引返し、柏原に懸つけさらぬ體にて、御馳走申上、翌日関ヶ原まで見送り奉る、

 

信長卿朝井長政入洛 附江南落城の事

備前守長政は信長卿より御入洛の日限兼て示合せし事なれば、留主中国中の仕置申付、永禄十一年九月六日に佐和山の城にいたり、信長卿を相待處に江南所々の城主共、浅井方へ通して信長卿の御味方可レ仕といふもの多し。其比江南には承禎子息義弼、事の子細候て後藤父子を討し故、家中我がちになり、箕作をうとみはてたる故浅井を頼み来たる者数をしらず。されども家老分は魏を守る故か、三好に心をかよはしけるゆへにか、降参すべき気色もなし。かくて信長卿は御入洛有べきの間、加勢可レ被レ成の段被2仰遣1ければ、家康卿より小笠原与八郎に二千余騎の勢を相添上せらる。信長卿も尾州濃州三州の三ヶ国の勢をかりもよほし、同じく八日居城岐阜を御立有ければ、先勢は江州醒ケ井柏原に着陣すれども後陣は濃州地をはなれず人数みち/\たり。急ぎ給へば、其夜は江州浅井の領内常菩提院に本陣をすへ給ふ。翌日佐和山の城へ打入給ひ人数くばりを浅井と相談ある。浅井当国の事なれば兼て案内残所なし。一々御指図申上らる。重て信長卿のたまひけるは、長政は観音城の押へを可レ被レ仕と有ければ畏存候。併我等の者共は爰許の案内よく鍛錬仕候間、攻手を一方被2仰付1候へかしと申上られければ、信長卿観音城のおさへ大事と浅井存する故、如レ此申と思ひ給ふが、其儀に候はゞ箕作を攻らるべしとぞ仰ける。浅井其時の内意は佐々木六角の家には代々久敷当国に任ぜし家、又は只今信長と縁者によりさへぎつて働とおもはれんもいかゞと思ひ給ふゆへなり。一には一戦おはりなば中和をつくろふべきとの所存なり。度々此承禎とは相戦ふといへども、同国なれば情深くぞおもはれける。
箕作落居の次第信長記にあらまし出申候ゆへ略仕候。

 

浅井江南の路次の押へに箕作の城に籠る事

かくて信長卿箕作の城、観音寺の城、長光寺の城、八幡山の城を初め打破り通り給へども、承禎は愛知郡鯰江の城に楯籠る所の城主其数を不レ知。しかりといへども信長都へ御急ぎ被レ成故、先道筋計を追払ひ、同じく二十三日迄観音城に逗留ありて、長政に被レ仰けるは、承禎父子の逆徒三好を兼て何事を計置もしれざるなり。其上義昭公の御供仕、某上洛せば近所なれば相坂辺へ馳集り、前後を可レ包と計置もしれざれば、貴殿は箕作の城観音城両城の留主を頼なり。跡に残り江南の城持共を味方にまねくべしと被レ仰ければ、長政承り被レ申けるには、仰は尤にて御座候へども、今度の御大事の供にはつれ申事残多し。是非上洛をと望給へども、信長達て仰けるは、当国の残徒、所々に楯籠る間無2心許1存るなり、偏に頼とおほせば、長政は其勢六千余騎にて箕作の城観音城両城に楯籠り、佐々木が残党をまねき寄る。かくて信長卿は京都制法事故なく取行ひ給ひ、其年の霜月下旬に帰国したまふ。又観音城に入たまひ一日滞留被レ成、長光寺の城に柴田修理、美作の城に木下藤吉郎に与力数多相添入かへられ、浅井は本城小谷へと被レ帰ける。

 

長政上洛 附二條喧嘩の事

斯て京都本国寺におはします義昭公の許へ三好が一家、正月三日に押込て、急難にあはせ給ふ旨、岐阜へ注進有しかば、信長聞かけに馳上り給ふ。浅井も聞よりはやく上らるゝ間、信長卿よりは一日先へ打て参着す。されども将軍恙も渡らせ給はずして、寄手悉敗軍する故、長政は清水寺成就院を宿坊と定めて居給ひける。信長卿も同じく十日の日、御上着被レ成一條妙覚寺を御宿坊と被レ遊けるに、洛中の名人等我も/\と縁を取、御目見申上る。信長卿御前へ召出され、対面し給ひ被レ仰けるは、清水寺に着坐する浅井備前守長政は我等が大切に存するむこなり、彼者が方へも見まはれよと被レ仰ければ、浅井威勢はつのりけり。かくて信長卿、将軍義昭公へ被2仰上1けるは、今度の急難に被レ為レ逢事も偏に御坐所あしき故なり。今度は本の御所を普請可レ仕と被2仰上1、則畿内近国の人歩を入、二條の御所をば四方へ一町づゝひろげ可レ申との評議なり。御普請は信長卿と長政と両将として請取給ひける。則信長卿の奉行には佐久間右衛門尉、柴田修理亮、森三左衛門に弓鉄炮者相添らる。浅井方の奉行には三田村左衛門大夫、大野木土佐守、野村肥後守三人に申付らる。かくて去年浅井箕作の城の攻手の時働にぶく候故、信長卿の弓鉄炮の者共、浅井足軽共を内々雑言す。又奉行に付居る者共も是を聞、内々無念におもひしに佐久間右衛門尉丁場より三田村左衛門大夫が丁場へ水をかへ込候處に、左衛門大夫が侍是を見て、某が丁場へ水をかへ入る筈にて候や、子細可レ承と申ければ、佐久間が侍共申けるは、其方の請取の丁場へすてずして何方へ持ほこぶべき、何浅井のぬる若が者共とていよ/\水をかへこめば、浅井が足軽共は聞かねて、三百計一度に簀の棒をはづし、佐久間が者共とたゝき合けるが、浅井が者共つよくして佐久間が者共を追立る。それよりして森、佐久間、柴田見かね、打物のさやはずし、かゝれ/\と下知をする。浅井方にも兼て無念に思へば、三田村、大野木、野村三人一度に切立売堀川迄追立る。又信長の物頭共にも聞かけに出合、浅井が勢を二條迄追下す。又浅井が荒手二百計馳来り、信長の者共を立売迄追立、双方相引にのきにけり。其時両方にて討るゝ者百五十とぞ申ける。野合の合戦にもか程多くは討るまじきに、かく大きなる喧嘩は候はじと京中にての評議也。森、柴田は信長卿の御前に伺候して、右の次第を申上、浅井に御目見せ、よきゆへ如レ此の狼藉仕候間、今度は浅井に一入付可レ申と御訴訟申上る。信長卿喧嘩の次第一々御吟味被レ成被レ仰けるは、去年箕作を攻る時、浅井がふりにふきゆへ汝等が者共雑言かな申つらん。浅井が家は弓矢取てほまれあるぞ、かさねてもかまへて/\がさつなる事申かけ不覚を取など被レ仰て、さらぬ體にておはしましければ、森、柴田も信長卿取上させ給はねば、いきほひかゝつて居たりし者共もせん方なくてぞ居たりける。浅井此喧嘩の旨を聞、自然信長方より人数を可レ寄かとて清水寺に人数の手あてをしてぞ居たりける。翌日に公方より信長浅井両人が者共和睦可2申付1とて御宿坊に被2仰付1、各和睦したりける。かくて普請成就して公方御座をうつされける。公方わたまし信長記に詳なり。

 

浅井備前守心替りの事

徳川家康卿年始に御上洛ましませば、御同心なされ越前国へ発向有べきと内談し給へば、森三左衛門尉、坂井右近と申上けるは、御諚の通尤には奉レ存候へども、此由浅井に御しらせ候て、其上にて御進発可レ然御坐候はんと申上る。信長聞召、浅井にしらせなばよし越前を攻よとは申さじ。其上朝倉のぬく若は我等方へ使節をも越されば、よも此信長に属せんとは申まじ。とかく浅井が方には案内なしに越前を攻る事勝手よかるべしとぞ被レ仰ける。森、柴田重て申けるは、浅井恨はいかゞと申上ければ、我等とは親子の間なればいかで思ひかへんとて、元亀元年四月二十日諸卒引具し、西近江路にかゝつて若狭路に出させ給ひ、手筒金崎の城を攻給ふ。かくて此旨浅井下野守久政聞付子息長政の舘へ行、近習外様の者迄もよびよせ申されけるは、今度信長此方へ一言の案内にも不レ及して越前へ攻入、手筒の城を攻取たると聞えたりといふぞ、いづれも其段聞つらん。越前を攻取其引足にて定て当国へみだれ入、一門顔にて当城へ馳来り可レ攻との事なるべし。とかく越前の国の堅固なる間に越前と一味して、信長を可レ討なりと申出されたり。子息備前守をはじめいらせなみ居たる面々とかくの言語もなくしづまりかへつて居たりける。久政重て申されけるは、信長の軽薄者は先年長政縁者になる時に天下平均におさむるとも、越前の国の儀は浅井が指図にまかすべきと堅く誓紙をかゝるれど、それをも事としたまはず、越前へ踏込て、今かく攻らるゝ人なれば、頼がひはあるべからざるぞ。備前守と申されける長政、心に思ひ給ふは、今かく信長は国多く攻取、虎狼の勢をもあざむく程の威なるに、義景と同心して信長を可レ討とも不レ覚。とかくの返事もしたまはねば、遠藤喜右衛門尉進み出て申けるは、長政公の御意なきこそは道理なれ、双方御背被レ成がたき所なり。併信長卿は最早只今は美濃尾張三河伊勢若狭当国丹後五畿内の主として発明なる大将なり。越前勢と此方の御勢を以て信長を討奉らん事憚多き事なれども、越前は先代に恩ある国の事なれば、誰なりとも人持衆に御人数相添られ、一千計も御加勢候て、其上にて無事を御つくろひ可レ然と推参申す。野洲此旨を聞、大に立腹して申されけるは、汝等末坐の侍として推参申様かなとあらゝかに怒り座敷を立てぞ被レ帰ける。長政も家の子も此儀いかゞと案じける。赤尾美作守、下野守方へ行申されけるは、只今信長の越前を攻給ふ事は尤なり。ゆへはいかんとなれば信長上洛度々なるに、義景より一度も使節なし。近国悉信長御手に入候に、我々は構なきとおもひ、其禮儀もなき事立腹したまひ、攻らるゝ物にて御坐あるべし。遠藤が申如く磯野丹波守に被2仰付1、信長へ万事の御かまひなく御見廻に被レ遣、此越前国は浅井が家に恩ある国にて御坐候間、其表へ罷出不レ申候と被2仰遣1尤と申ければ、久政立腹して汝等迄も左様に義の違ひたる事申か、所詮此年寄にしは腹切との事なるべしとて身をもだえ怒ける。中にも浅井石見守、木村日向守などは久政の御意ある旨も尤なり、信長に付奉るとも、行末頼母子くも不レ覚候間、越前へ使者を立、よく/\諜し合せらるべきと同音に申せば、久政も時の急を逃るげきとゝかく天運の末と思ひ切、其儀にて候はゞ長政の仰にはしたがひ可2申上1候へども、此朝倉はか/\しく働出る事なるべき人と不レ思候間、諸事対陣の義は此方指図可レ仕候間、あしかるに駆引せらるべき旨久政公よりよく/\被2仰遣1可レ然と宣へば、久政やがて同姓福壽庵、木村喜内助を越前一乗谷朝倉の許へ申遣されける。両使越前にいたり、義景へ書札相渡し、かくと申ければ、義景大に喜悦して一門家老近付、浅井書札の通よみ給ひ、誠に浅井父子の心底は金鐵ともいづべし。先代の恩を思ひ出て、現在縁者の信長をそむき某に組すべきと申さる事古今稀なる弓取かなと満坐一同に感悦す。其後両使朝倉へ申入けるは、信長此表を引取給はゞ、江州小谷へ取かけらるべし。其時節、早速御出馬被レ成、矢島野にして無二の一戦を被レ成、信長を討取御分別肝要にて御座候と申ければ、何時なりとも一左右次第即時に馳付可レ申とぞ申ける。浅井両使左様に思召候はゞ、誓紙を一通可レ給と望みければ、義景も此際に候へば、望所の幸と被レ存、長政父子指図に違背候はじとて、やがて誓紙を出されける。それより両使小谷に帰り、義景一家の誓紙をさし出す。久政父子一門家老よろこびは限なし。かくて長政申されけるは、先年信長と縁者になる時、誓紙越され候なり。明日為レ持候て返すべし。其者に引つゞき山中道を差ふさぎ、越前勢と近江勢として前後を取切包討に可レ討とありければ、久政此由を聞いや/\其儀に非ず、義景と相談しよきつぼへをびきよせ、心静に可レ討なり。此度人数出す事堅く無用と制しければ、長政力及ばすして信長卿より内室の家老として付越さるゝ藤掛三河守、熊谷忠兵衛を相添、信長卿の許へぞ遣しける。かゝりける處に、信長卿の御前には浅井謀叛の旨取々評議すれども、長政やはか心替せしと御承引をもしたまはねば、御前なる人々慥に左様に申などゝいひもはて、さるに藤掛三河守、熊谷忠兵衛両人、右件之誓紙を返上申上、浅井口上の趣申上ければ、信長卿をはじめ宗徒の人々上を下へと周章き十方にくれておはします。信長既に御腹めさるべきとて御身をもませらるゝ處に、徳川家康卿信長卿の御前に進み出させ被レ仰けるは、無2勿体1御事なり、命を全して敵をほろぼすこそ良将ともいふべけれ、御腹なさるべきとはあさましき御心底なりと忠諌をなし給へば、信長卿は聞給ひ、御辺仰らるゝ事はさる事なれども、我等足永に出張し敵の中に居るといひ、難所は前後にかゝへつ浅井が方より人数を出し、切所のつまり/\に立置鳥も通ふ事なるべからず。当国勢につゝまれ賤敷者の手にかゝらんよりは心しづかに腹切べしとて御手に汗を握り給ふ。家康卿重て被レ仰けるは、今度の議は某次第に可レ被レ遊、先某若狭路より西近江路へ懸とほり様子を見候べし。某難なく通りなば敵なきと思召追付引取給ふべし。若江州山中辺に敵出合なば、其所より一左右可レ仕、其時は御分別次第になさるべしと被レ仰ければ、ともかくも御辺次第とのたまへば、路次中の事かたく手筈を御申合、越前敦賀を御立被レ成、若狭路へ懸り、それより江州山中を過給へ共、敵一人も出ざれば、舟木の浦へ着給ひ。其村の長多羅尾治郎大夫を深く頼ませ、それより御舟にめされ、南近江佐津磨浦へ上らせ給ひ。それより千種越に濃州つやせいしへ出、三州岡崎に帰城したまひける。
越前敦賀表しつはらひの次第信長帰国の次第以前信長記の抜書にしるし差上申候條略仕候

 

浅井朝倉を呼出すに不レ被レ出事 付重て使を遣す事

かくて浅井備前守長政は物頭共をよび集め軍評議して申けるは、信長越前を引取、京都に逗留と聞えたり。就其江南佐々木承禎も所々の味方を駆催し、信長帰国を相待といふ。是よき幸なり。越前の朝倉左衛門大夫義景をよび出し、彼を同勢として濃州へ切入、岐阜を即時に切落し申べし。其時信長馳帰、可レ被レ申江州路へ被レ来ものならば、佐和山表にて可レ戦伊勢路へかゝりなば、濃州の内おこし洲の股にて可レ戦。此儀利有べしと相談をこはれけるに、一座同音に尤と請たりける。左候はゞ越前へ一左右すべしとて川毛三河守、浅井福壽庵を指越さる。両使越前に至り義景へ軍の段々申入ければ、義景も一門家老打寄評定とり/\″なり。やゝあつて家老共申けるは、いかに信長留守なりとも、はる/\美濃路へのり出し敵に跡先をつゝまれなば、いかにたけくはやるとも、利有べきともおぼえず。よく/\御思案可レ被レ成と口々に申ければ、義景もげにもとおもはれける。中にも魚住玄蕃、山崎長門守進み出て申様には何も家老中の御分別尤には候へども、軍と申ものは昔より今に至る迄手きれたる事候はでは、勝利すくなき物にて御座候と聞及び申候。其上浅井、信長に敵をし味方に組せじ事頼もしき心底なり。是非思召立給ひ、浅井と示合、一戦とのぞめども、残る人々は少も承引なかりける故、浅井方への返事には信長定て貴殿の御居城小谷へ押寄らるべし。其時当国より大軍を率し、二手に分ち中道上道双方へ押出し後巻をすべきなり。其時城中より切て出、切所へ敵を引うけ攻戦はゞ、勝利これに過しと被2申越1出張はやみにけり。浅井が両使小谷に帰、此段を申せば、長政は聞給ひ、義景の心底もしれたり。かくのび/\に捨をかば信長の物はやき大将に討勝事は十が一も不レ覚、父の仰とおひながらよしなき人と組せし事、家運のつくる所なりと立腹かぎりはなかりけり。其後又木村喜内助と赤尾兵庫を以て義景の方へ申されけるは、信長下着被レ申候はゞ、追付当国へ可2乱入1候條、加勢可レ給、国境に要害を拵入置、関ヶ原表にて相さゝへ可レ申と申遣しければ、其時は浅井使の趣尤なりとや思ひけん。朝倉式部大輔三千余騎にて小谷へ来る。やがて江州と美濃の国のさかひ長久山苅安に要害を拵、越前勢三千、朝倉式部大輔大将にて籠置る。同じく今洲口長亭軒の要害をかまへ、堀次郎を籠置る。此次郎父の遠江守病死して次郎當年八歳なれば、家老の樋口三郎兵衛兼益と多良右近楯籠る。多良も堀が家臣なり。近所本郷の城には黒田長兵衛尉を入置たまふ。右の城の根城として横山の城には三田村左衛門大夫秀俊、大野木土佐守国定、野村肥後守貞元、同兵庫頭直次、彼等四人を籠置、濃州より江北への通路をさしふさぎてぞ置給ふ。

浅井三代記第十三終

 

(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。


磯山城・虎が城  近江国(米原)

2013年04月16日 | 平山城

磯山には、二の城がある。松原弥三右衛門成久の【磯山城・虎が城】

磯崎神社の鳥居近く縄張り頭がある

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町」)磯  map:http://yahoo.jp/y9T-m7

別 称:虎ヶ城・磯崎城

現 状:丘陵・神社

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:松原弥三右衛門成久

遺 構:廓(削平地)・土塁・土橋・堀

標高:159.5m  比高差:75m

目標地:磯崎神社

駐車場:磯崎神社に駐車(狭い歩道を通っ駐車場へ)城日:2016.4.8 

訪城日:2013.4.16

お城の歴史

彦根市松原を本拠とする松原氏の居城であったとされる。

 永正7年(1510)松原弥三右衛門成久が守備する磯山城は、浅井軍に攻められ落城し、城主・松原弥三右衛門成久は切腹したと伝わる。

 元亀元年(1570)織田信長が磯野員昌が立て籠もる佐和山城を攻略するために、4つの付城を築いたとされ、そのうちの「北の山」が磯山とも考えられている。
近年、この北の山を物生山とする考え方もある。

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、近江に所領を得た井伊直政が佐和山城を廃し、新たに城を築く(彦根城=天下普請)際に、彦根山・磯野山・荒神山とともに候補のひとつにあげられるなど謂われの多い山である。
 また、彦根市にあった磯崎城は、この磯山城のことではなかったかとも考えられている。


【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していたことがわかる。

 この磯山は佐和山や彦根山ほど高くなく、また山自体も小さい。仮に彦根城がこの磯山に築かれていたら、どんな城になっていたのか等と想像すると・・・・! 
 

浅井三代記 磯山の城責落す事

翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到にて、十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すばや、前勢は清水村平田辺までみち/\たり。それより二手にわけ、一手は上道佐和山海道へ打むかふ。一手は海手へをしまはす。上道の士大将には進藤山城守なり。相つゝく人々には伊庭、目賀多、三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。 

元亀元年(1570)には、織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つであったと「嶋記録」に記されるが、「信長公記」では「北の山」と記し、「彦根古絵図詿」では「尾末山」と記している。

また、遺構は古式で元亀年間の織田氏の築城形態はない。

              

お城の概要

日本武尊の社から一段登ったところの平地が磯山城の主曲輪である。主曲輪からは北方の眺望はすこぶるよく、長浜方面から近江町までを一望でき、天気が良ければ山本山、伊吹山を見通せる。

 主曲輪の西側斜面には数段の曲輪らしき地形を認めるが削平は不完全で、自然地形との区別が難しい。
一方、東側斜面の階段状曲輪は比較的削平状態も良く、切岸下には横堀と土橋が確認でき、磯山城が東を通る中山道に向いて機能していたことが推測できる。また、尾根の南にも階段状の曲輪が至る所で確認できる。

 

磯山は、坂田郡と犬上郡の境界に位置し、琵琶湖に半島状に突出した標高159.5m、比高70mの山稜で、東側には旧入江内湖が、西側には旧松原内湖が広がり、また、内湖と琵琶湖の間には砂州が形成され、砂州上を浜街道が通っていた。

磯山は、湖上交通と浜街道を押さえる要衝の地にあたり、往来監視のために磯山の山頂に構えられたのが磯山城である。

遺構は非常に不明確なもので、その上公園事業のハイキング道設置で大きく破壊されているが、磯山の北側ピークは小字「トラカシロ(虎ケ城)」と呼ばれ、この城の中では比較的明瞭に削平され、南側に堀切や竪堀を伴っている。現在は磯崎神社の奥宮が祀られている。


また、同じ磯山の南端にも数段の削平地が認められるが、この両者の間には、二つのピークがあるが、自然地形に近く、あまり普請の手が入っておらず、さらに北城は南側を堀切や竪堀で防御しており、南城は北側に多数の段郭を設け防御を固めており、あたかも別の敵対する城のようである。


しかし、同一山塊の上に隣接しており、周囲が内湖と琵琶湖に囲まれている状況から、別々の独立した城とは考え難く、磯山城と磯山の南端の遺構は同じ時期に存在し、別城一郭的な城であったと考えられている。

 

遺構のほとんどは削平地の連続で、堀切や土塁などの施設があまり認められないのは、古式の形式のためとされている。

                                  

 磯山城は西端を琵琶湖に接し、尾根が東に延びる独立した磯山の尾根に築城されている。東には中山道が通り、磯山と中山道の間には佐和山から物生山まで続く尾根が横たわる。
 昔、磯山は"指合" と呼ばれる内湖、松原内湖、及び琵琶湖に周囲を囲まれた地形だったといわれる。こうした地形を利用して、磯山の北端に磯山城、南端に虎ケ城とふたつの城が築かれているが、現在では内湖はすべて干拓され、琵琶湖の水位は下がり、昔の磯山の姿はない。
                 

ほどなく磯山の東端のピークに出る、ここが虎ヶ城である。虎ケ城の東端ピークの曲輪は磯山山中で最も広く、中でも物生山側の斜面に面した部分はきれいに削平され周囲に帯曲輪を伴っているが、削平は不完全である。
 東に続く尾根にも階段状に曲輪が認められるが、強い防御意識は感じられない。むしろ磯山に続く西側の尾根のほうが防御意識が高い。

 磯山城から虎ヶ城まで歩いたが、結局両城の境界を見極めることは出来なかった。これも磯山城と虎ヶ城が境目の城として、敵対あるいはひとつの城として機能する中での遺構が入り乱れ、重なり合った結果と考えられ、これらの城の遺構を個別に論じることはできない。    

 

                 

  

  

遠望

遠望遠望

 磯山城は、坂田郡と犬上郡の境界線に横たわる磯山山頂に築かれている。磯山は琵琶湖、旧入江内湖、旧松原内湖に突出した半島状の山稜で、琵琶湖と内湖間に形成された砂州上の浜街道を押さえうる位置にある。

 

 遺構は非常に不明確なもので、切岸の甘い削平地が尾根の稜線に続くのみである。

 

磯山の南端は数段の削平地が認められる。両者の間には不明確ながら堀切、土橋が数本確認できる。あたかも別々の城であるかのような感が有るが、同一丘陵で隣接しており、周囲が内湖に囲まれている事などから、磯山城と磯山の南端の遺構は同時期に存在した、別城一郭の城であったであろう。

 

 遺構が削平地のみで、他の明確な遺構が殆ど認められないのは、普請が古式の為であろう。

 

 

 

 松原弥惣右衛門の城として六角方の城であったが、永正年間に京極家の手によって落城した、その後浅井亮政の時代には浅井方の城として機能していた。

 

元亀元年(1570)には織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つとなっている。

 

しかし、『信長公記』では「北の山」とし、『彦根古絵図詿』では「尾末山」と記している。遺構にも元亀年間の織田氏の築城形態は認められない。

の重要地であった、磯山城は琵琶湖、旧入江内湖、旧松原内湖、当時の街道中仙道や朝妻湊を監視したのでは。

松原村江戸時代の図(松原町概略史より)

 磯山城は西端を琵琶湖に接し、尾根が東に延びる独立した磯山の尾根に築城されている。
東には中山道が通り、磯山と中山道の間には佐和山から物生山まで続く尾根が横たわる。

 昔、磯山は"指合" と呼ばれる内湖、松原内湖、及び琵琶湖に周囲を囲まれた地形だったといわれる。
 こうした地形を利用して、磯山の北端に磯山城、南端に虎ケ城とふたつの城が築かれているが、現在では内湖はすべて干拓され、琵琶湖の水位は下がり、昔の磯山の姿はない。

 磯崎神社の石段を登り切ると、視界の開けた平地に出る。幾つもの社が祀られており、その中には日本武尊の社もある。
平安末期、都に攻め上る木曽義仲が日本武尊の社で勝利を祈願をしたとも伝えられている。

 日本武尊の社から一段登ったところの平地が磯山城の主曲輪である。主曲輪からは北方の眺望はすこぶるよく、長浜方面から近江町までを一望でき、天気が良ければ山本山、伊吹山を見通せる。

 主曲輪の西側斜面には数段の曲輪らしき地形を認めるが削平は不完全で、自然地形との区別が難しい。
一方、東側斜面の階段状曲輪は比較的削平状態も良く、切岸下には横堀と土橋が確認でき、磯山城が東を通る中山道に向いて機能していたことが推測できる。また、尾根の南にも階段状の曲輪が至る所で確認できる。

 更に10分ほども歩くと、ほどなく磯山の東端のピークに出る、ここが虎ヶ城である。虎ケ城の東端ピークの曲輪は磯山山中で最も広く、中でも物生山側の斜面に面した部分はきれいに削平され周囲に帯曲輪を伴っているが、削平は不完全である。
 東に続く尾根にも階段状に曲輪が認められるが、強い防御意識は感じられない。むしろ磯山に続く西側の尾根のほうが防御意識が高い。

 磯山城から虎ヶ城まで歩いたが、結局両城の境界を見極めることは出来なかった。これも磯山城と虎ヶ城が境目の城として、敵対あるいはひとつの城として機能する中での遺構が入り乱れ、重なり合った結果と考え
られ、これらの城の遺構を個別に論じることはできない。


【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していたことがわかる。

彦根古図部分(滋賀大学経済学部附属資料館所蔵)

画像hi06彦根古絵図

 

彦根城が形成される前と後を見比べた古絵図によると、彦根城が出来るまではこのあたりは湿地帯だったようで、芹川は今とは違う方向に伸びていたようです。彦根城を築城にするに当たって、芹川をまっすぐに延ばしてきたようです。彦根山に天守を作ったのですが、それまではお寺がいっぱい集まっていた地域で、京都からの巡礼が多く集まる場所でした。その名残は、巡礼街道という名前で今も残っています。

 

 

 

画像hi07城下町絵図(左は彦根御城下惣絵図)

 

 

 

佐々木六角氏の城
永正年間(1504~1521年)に京極家の手によって落城
その後浅井亮政の時代には浅井方の城として機能
1570年、佐和山城に立て籠もる浅井方に対し織田方が築いた付城とも云われています
井伊直政が関ヶ原合戦後、佐和山城を廃し、城を築く際にこの磯山を候補の一つにしたといわれています

 

磯崎神社

 伊吹の荒ぶる神の毒気に当たった日本武尊が、醒井の居醒の清水で正気を取り戻し、都へ帰る途中に千々の松原にて崩御され、ここ磯山に葬られたと伝えられています。

 崩御された日本武尊は白鳥になって飛び立ったとも伝わっています。 日本武尊を厚く守護神として祭るため、この神社が建立されました。毎年5月3日の例祭では「磯武者行列」がおこなわれ、日本武尊にあやかって男児は武者姿、女児は稚児姿で巡行します。

              

   

 

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シリーズ「淡海の城」(32)-敏満寺城(びんまんじじょう)(滋賀県多賀町敏満寺)

2013年04月16日 | 平城

今回は、名神高速道路の多賀サービスエリアにある城郭遺構を紹介します。
多賀サービスエリアがある場所には、実は平安時代に伊吹山寺の僧三修(さんしゅう)が開基したとされる敏満寺という南北2500m、東西2000mの範囲におよぶ広大な寺域をもつ寺院がありました。東大寺再建で活躍した俊乗房重源も建久9年(1198)に金剛五輪塔1基を寄進しており、この寺を非常に重視していたようです。室町期には寺域を有する青龍山西麓に本堂・南谷・西谷・北谷と別れる50余の堂舎が建ち並び、守護の不入権をもち、戦国期には2万石を越える寺領を持っていたといいます。西明寺・金剛輪寺・百済寺といった湖東三山の天台寺院と並ぶ勢力を維持していたことが分かります。
永禄5年(1652)9月4日、久徳城(現多賀町久徳)城主久徳左近大輔実時が観音寺城の六角義実の味方をしたため浅井長政が80余騎の軍勢を率いて久徳城を攻めます。この時、敏満寺衆徒と敏満寺公文所・神官職を務める新谷(しんがい)伊豆守勝経(妻は久徳実時の娘)は、久徳実時の味方をします。浅井勢は敏満寺に押し寄せ、敏満寺衆徒は大門前で防御しましたが敗れてしまいます。勝ちに乗じた浅井勢が敏満寺の坊舎に火を付けたため120の坊舎は悉く炎上し、新谷勝経ら800余人は戦死し、敏満寺は滅亡したということです。胡宮神社の参道入り口となっている高速道路高架下に敏満寺大門跡がありますが、礎石は火を受けて赤色に変色しており、焼き討ちにあったことを静かに物語っています。
敏満寺が再び明らかにされるきっかけとなったのは、昭和34年の高速道路建設に伴う発掘調査、昭和57年・61年、平成6年・9~12年にかけてのサービスエリア施設改良工事に伴う発掘調査が滋賀県教育委員会や多賀町教育委員会で行われたことによります。なかでも昭和61年の名神高速道路多賀サービスエリア上り線施設等改良工事に伴う発掘調査で寺院遺構とは思えない遺構が検出され、これが敏満寺を防衛する城郭部ではないかと言われてきています。
その場所は現在の多賀サービスエリア上り線(名古屋方面)の最北端に位置します。高さ1~5m、基底部幅6~10mを測る土塁に囲まれた郭、
虎口、櫓台が見つかりました。郭内からは礎石建ち建物2棟、掘立柱建物1棟以上、深さ9m以上もある石積み井筒の井戸、幅60㎝・深さ30㎝程度
の区画溝、3m×1.8mの隅丸方形で焼けた石や炭が堆積した火葬墓と考えられる土抗が検出されました。敏満寺城跡城郭部は少なくとも二つの郭から構成され、最北端の主郭には北端に堀切と張り出した櫓台を備えており、主郭への出入り口は南西端に開き、正面を櫓台で守り、90度ターンして空堀との間の虎口受け(出入り口前のテラス)に出るという複雑な構造を持たせています。出入り口部分の構造から永禄・元亀頃のものという評価が専門家の中でされています。また、発掘調査で明らかになった城郭部はこの上り線最北端部だけですが、寺域を画した要地にいくつか城郭部があったのではないかと指摘されています。敏満寺は、東山道の要衝に位置し、江南、江北の境目に位置することから佐々木六角氏と佐々木京極氏あるいは浅井氏の領土拡大の拠点に利用されてきたことは十分考えられます。
近江の天台系山岳寺院は比叡山延暦寺を始め、先述の湖東三山等が織田信長の焼き討ちにあっています。延暦寺山徒や湖東三山衆徒が武装して、浅井長政と結託し城塞化していったことが起因となっています。また、山岳寺院の参道を中心に枝葉のように展開する坊舎群を城郭に取り込み、山城が発展していくという見解が近年研究者の間で出されており、敏満寺の城郭部の遺構は、まさに寺院を山城化させていく過程を如実に顕す物と報告されています。しかし、敏満寺の場合は、あくまで武装化した寺院と捉えるべきで、後の山科本願寺や石山本願寺と同じ形態
と捉えるべきではないでしょうか。
遺構は埋め戻されて、土塁と虎口のみ見ることができます。現在はドッグランの施設がありますので、そこを目安にしてください。下り線からは陸橋を渡って見に行くことができますし、サービスエリアには外からも入れますので、名神高速道路を使わなくても見学は可能です。徒歩で見学の方は、近江鉄道多賀線の多賀大社前駅から絵馬通りに出て右に(左は多賀大社)取り、高速道路高架下まで行き、高架を潜らずに左折し高速道路沿いの道を歩く
と下り線サービスエリア内に外部から入る入り口があります。(仲川)


小堤城山城 近江国(野洲)2013.4.14

2013年04月15日 | 山城

北東の山塊の中には城跡が2つ存在する。

近世城郭である小堤城山城(築城者:永原重秀)と、中世山城の古城山城(岩蔵城とも、弥勒寺城)である。中世山城の古城山城は六角氏が築き、家臣の馬淵氏が守備したと伝えられ、六角氏の端城であった。

『永原軍談』では、文明年間(1469-86)に永原城の出城として築かれ、田中氏が守備したとあるが信憑性はない。
各曲輪の前面に石垣を多様していることから、築城時期は中世であったかも知れないが、現在残る形は戦国末期の技法が色濃い。                                 規模の上からも、六角氏の直接的な指示があり、甲賀作戦の一翼を担う位置付けが想定される

小堤山城縄張り図

ガイドさんの歴史説明中

熱心に聞き入る参加者の皆さん

主郭の上、櫓台カ、東の星ケ崎城・東山道・下街道が一望できる

小堤山城の現地説明板

小堤城山城跡案内図(現地説明板)

縄張り図が有れば、石垣の多用の様子が・・・残念です! 

堀切・土橋

主郭の石垣

主郭の石垣

ふんだんに石垣が使用された見所の多い遺構群。

ふんだんに石垣が使用された見所の多い遺構群。

ふんだんに石垣が使用された見所の多い遺構群。

本日も訪問、ありがとうございました。