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城郭探訪

yamaziro

丁野山城 近江国(湖北)

2013年04月24日 | 戦国山城

滋賀県城郭分布調査より『東浅井郡志』(丁野山古砦図)を転載

 お城のデータ

 住所地:長浜市(旧・東浅井郡湖北町)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/bbxo8lこの地図のURL

 区 分:山城

 現 状:山林

 築城期:織豊期

 築城者:浅井備前守亮政

 標 高:170m 比高:60m 

 遺 構:曲廓・土塁・堀・堀切・竪堀・説明板

 駐車場:駐車場(日本硝子独身寮の)に!

訪城日:2016.2.20

お城の概要

丁野は小谷城浅井氏の発祥の地と言われています。丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

この山は低い山で丁野山城まででも比高は60m程度。5分で尾根の鞍部に出て、右側のピークが中島城(80m先)、左のピークが丁野山城(330m先)です。 ここは2006年大河ドラマの功名ケ辻のおかげで、二つの城跡ともに周囲の木々が伐採され、大変見学しやすくなっています。おまけに時期的に下草も無くなおいい感じでした。城址は岡山山頂にあり、大嶽城を小型にした印象です。主郭は20m四方ほどで主郭周囲に 堀が巡り、南北双方に副郭のピークとその先に堀切、それに続く竪堀がある。

丁野山城は主曲輪を中心として南側と北側に袖曲輪といった連郭式の曲輪配置で、主曲輪は約30m×25mで曲輪の周囲は横堀を巡らし、南側尾根と北側尾根には堀切を配している。

 北側の曲輪からは北国脇往還道を挟んで小谷山は目前で、小谷城の支城として築城されたことが容易に推定できる。

丁野から、丁野城を見上げる

お城の歴史

 丁野山城は永正15年に浅井亮政が小谷城の西、北国脇往還道を挟んだ岡山の山頂付近に築いた城で、天正元年(1573)には浅井長政が岡山の東尾根に中島城を築き、丁野山城の支城とした。

信長公記 巻六 元亀四年

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山(湖北町小谷丁野)の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。

 

 「朝倉始末記の越州軍記 義景地蔵山へ陣替之事」に丁野山の記述がある。

 元亀四年八月十日ニ、「信長殿大ヅクノ城・丁野ノ城ヲ可被攻」ノ由ゾ聞ヘケル。依之、義景ヤナガセヨリ地蔵山ヘ着陣アリ。其時ノ大ヅクノ番手ノ衆ニハ、小林・斉藤民部丞巳下、纔ニ(わずかに)四、五百計ナリ。
丁野ノ城ノ番手ニハ平泉寺玉泉坊・宝光院以下是五百計ニ過ザリケリ」

 朝倉義景が着陣した地蔵山というのは木之元地蔵(浄信寺)と推定され、丁野山に籠もっていた平泉寺玉泉坊とは福井県勝山市平泉寺の波多野玉泉坊である。

 朝倉始末記の記述から、元亀4年当時、丁野山城には浅井氏を支援する朝倉氏の軍勢が立て籠もっていたことが判るが、朝倉氏の本城である一乗谷城、およびその周辺の城にも横堀は使われておらず、おそらくは天正11年の賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉軍が北国脇往還道(現国道265号線)の監視、押さえのために、小谷山の支尾根の山崎丸、福寿丸と共にこの丁野山城を改修したものと考えられる。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


市子殿(いちごどの)城 近江国】2013.4.24

2013年04月24日 | 平城

市子殿城は市子殿の信号北にある円光寺一帯とされ、円光寺の裏手、あるいは西の竹藪の中に土塁が残る。


 滋賀県中世城郭分布調査報告書によると、「市子殿の集落内には雨宮の北側に「奥の藪」と呼ばれる藪があり、一部に土塁状の土盛りもみられる」とあるが、「奥の藪」とは円光寺の山門正面の竹藪カ!

市子殿城の詳細については不明であるが、「近江輿地志略」には、武藤与助家明は市子庄の出と記されている。

公民館前に

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


中島城 近江国(湖北)

2013年04月24日 | 平山城

お城のデータ

 

所在地 : 東浅井郡湖北町丁野   

 

map:http://yahoo.jp/lNAoAYこの地図のURL

 

築城期:織豊期・ 元亀3年(1572)

 

築城者:中島宗右衛門直親

 

区 分 : 平山城

 

標 高:133.2m 比高差20m

 

遺  構 : 土塁、横堀、虎口、堀切、土橋

 

訪城日:2013.4.24

 

駐車場(日本硝子独身寮の)に!

副曲輪をみる

 

元亀4年(1573)織田信長の小谷城攻めの時に、中島宗右衛門直親が守備していたと伝えられている。

主曲輪内部

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 歴 史

元亀元年(1570)浅井氏が姉川合戦に敗れ、織田信長方に包囲されはじめると、小谷城の西に点々と分布する独立の山丘は、小谷城攻防にとって重要なものとなった。


 織田信長は、元亀3年(1572)の小谷城攻めにおいて、小谷城根小屋のある清水谷の正面に位置する虎御前山に陣を築かせた。


 浅井・朝倉軍は、虎御前山の北北西にある山丘の丁野山(岡山)および東に伸びる支尾根に城砦を構え、織田軍と対峙したと考えられる。
この山丘に構えられたのが丁野山城で、東に伸びる支尾根に築かれたのが中島城でる。浅井氏家臣の中島宗右衛門直親が守備したとされる。


 天正元年(1573)4月12日武田信玄が信濃国駒場の陣中で亡くなると、信長は小谷城攻略を本格化させ、同年8月8日山本山城を開城させ、12日に大嶽城を、13日には丁野山城を落とした。
中島城も丁野山城とともに落城し、守将の中島宗右衛門は木之本の田部山城に退いたとされる。

 

 中島城は小谷城を守る支城のひとつで、浅井氏の家臣である中島直親の居城であった。いつ頃築かれたのかは明らかとなっていないが、元亀3年(1572)には織田氏の侵攻に対して浅井長政と朝倉義景が合議し、中島城の守りを固めた上で尾根続きの岡山にある丁野山城を修築して朝倉勢を迎え入れている。

 天正元年(1573)8月に織田勢は小谷城を包囲し、支城の大嶽城を落城させた勢いで中島城と丁野山城を攻めた。十倍程の敵に包囲された両城は攻め手の勧降を受け入れ、中島直親は織田勢に投降し、両城には火が放たれたという。

 

 一般的に連郭式城郭の曲輪配置は、主曲輪を中心にして前後に曲輪を配していく。ところが曲輪が2つの小振りな城の場合、主曲輪の前面に副曲輪を置くのが常識である。これは主曲輪が直接敵の攻撃にさらされないことを配慮する当然の措置である。

 この常識からすれば中島城は副曲輪(Bの曲輪)のある西側に敵を想定して築城されているのだが、西方には丁野山城が位置している。つまり、中島城は西方の丁野山城を敵方としていたことになる。

 丁野山城一帯は元亀4年の織田軍による小谷城攻め以降は、軍事的な緊張、および戦いはない。湖北では、唯一天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いがおこなわれているが、賤ヶ岳の戦いは余呉湖周辺の局地戦であるため、この中島城の遺構は元亀4年当時のものであると断定しても間違いはない。
だとすれば、丁野山城に立て籠もった朝倉氏に対して、中島城は織田軍が改修し丁野山城に対する付城として機能していたということになる。


 付城といえば、元亀元年(1570)に姉川の戦いで敗れた浅井氏家臣の磯野員昌が佐和山城に籠城した時、織田軍が4つの付城を築いている。

 

また、天正6年(1578)高天神城の武田軍に対し、徳川家康が獅子ヶ鼻砦や小笠山砦、火ヶ峰砦など6つの付城を築いているが、いずれの場合も付城は1~3kmほどの距離で、丁野山城に対する付城・中島城の距離は異常に近い。
これは元亀4年当時、織田軍が浅井・朝倉軍に対して軍事的に極めて優勢であったことを物語っているのではないだろうか。
 こう考えると、元亀4年8月12日に織田軍によって大嶽城を落とされただけで、田上山に陣取っていた朝倉義景が夜半に越前に向けて撤退した疑問も解ける。


 元亀4年当時の丁野山城、および朝倉義景が撤退したことについて、「信長公記」の元亀4年の条に記述がある。

 

信長公記の内容を要約すれば

 8月12日に浅見対馬守の手引きで大嶽城の下にある焼尾砦に入り、大嶽城へ攻め入った。大嶽城には朝倉勢の斉藤・小林・西法院を大将として五百人ほどが立て籠もっていたが降参してきた。信長公は、本来なら打ち首にするところであるが、夜中の風雨のこととて朝倉義景は大嶽城が落ちたことを知るよしもないので、敵陣に送り返し大嶽城が落ちたことを知らしめよと下知された。

 信長公は、朝倉義景は疋壇城,手筒山城、金ヶ崎城を頼りに退却するであろうから、疋壇口に伏兵を置いておけと指示された。

大嶽城が落ちたとの知らせを受けた朝倉義景は、手勢を北国街道の河内方面から越前に向かわせ、義景自身は馬廻り衆だけを従えて刀根街道から敦賀へ逃れるところを織田軍は刀根峠にて追いつき、敦賀までの11里の間に3,000人余りを討ち果たした。

 こうして8月12日に織田軍が落とした城の数は、大嶽城、焼尾砦、月ケ瀬城、丁野山城、田部山城、義景の本陣・田上山城、疋壇城、手筒山城、金ヶ崎城、賤ヶ岳砦、若狭栗屋越中守の居城・国吉城への付城など、併せると10城となった。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記

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