お城のデータ
所在地:東近江市(旧八日市市)大森町 map:http://yahoo.jp/SVx2Uz
別 称:最上陣屋
築城期:江戸期 明暦元年(1655)
築城者:最上氏
目標地:玉緒小学校
駐車場:路上駐車
訪城日:2013.4.20
お城の概要
現在、陣屋が構えられた大森の地には、遺構は何も残されていない。大森町交差点の南側を旧道に入った玉緒小学校の反対側に、最上氏「大森陣屋跡」の石碑が置かれているだけです。近くの長福寺には、陣屋の玄関が移築され残り、大森から一山越えた所(車で約10分程度)にある石塔寺には門が移築されて残っている。大森の地には、陣屋の遺構は不明。
発掘調査によって大森陣屋の地には、戦国時代に上大森城(大森城)の平時の館があったことが判明しているとか。陣屋跡地の玉緒小学校
民家に残る石垣カ
最上家の家紋(二つ引両)の長福寺
徳珍法師が延暦2年(783)、玉緒の里に旅された時、會て天智天皇(在位 668-671)の頃、七仏薬師を祀る伽藍があったが、災火で焼失した跡の岩窟に、59㎝ばかりの薬師如来に出会われた。
そこで八幡宮(現在の大森神社)の傍らに安置して後、伽藍を創建して玉尾山長福寺と名付け、その後八幡宮にも坂本より山王十禅師大権現を観請して十禅師宮となり、長福寺が守護した。
その後元亀・天正年間(1570-1591)に兵火にかかり焼失したため、八幡大菩薩と薬師如来は布引山のふもとに移寺したが、元久元年(1204)布引山の麓に移り、寛永14年(1637)9月、光忠上人により現在の地に移された。
明治の初めの版籍奉還まで、藩主最上家の祈願所として、藩主の庇護を受けてきた。とくに、最上家の中から出家得度して、長福寺住職として護寺に努めた。
本尊薬師如来の来たんは近郷近在に知れ渡り、「薬師」「薬師」といって信仰を集め、明治の初めに住した即曜上人代には、近郷より一家一本の大般若六百巻が奉納されている。
昭和20年頃、水口にあった長福寺の近江西国観音札所が、同寺号の当山に移された。
最上陣屋の移築門、石塔寺に移築された
最上家の家紋(二つ引両)が、門内に下されて(土に直置き)。
引両紋
引両紋は、じつに簡単な紋である。簡単すぎて文様としての美しさがないともいわれて、人気がない。しかし、引両紋は高貴で強運の紋である。引両紋の線は「竜」をあらわし、二本の場合は二匹、一本の場合は一匹の竜が点に昇ることを意味しているという。この紋は足利将軍家の紋であった、ということでもその強運がうなづける。(二つ引両)
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