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城郭探訪

yamaziro

百々(とど)館 近江国(彦根・鳥居本)

2013年04月30日 | 居館

国道8号線横のトラックターミナル付近とされている

所在地:彦根市鳥居本町・佐和山町 map:http://yahoo.jp/FivX9P

現 状:トラックターミナル

遺 構:なし

区 分:居館

築城者:百々盛道(通)

築城期:嘉吉年間(1441-44)

訪城日:

 
 
 

 トラックターミナルから見る佐和山城

滋賀県教育委員会の「中世城郭調査分布図」によると、佐和山城の東約1km、国道8号線横のトラックターミナル付近とされているが、遺構は何も残っていない。目前には台形状をした佐和山の山容が大きく広がっている。

 百々屋敷から南東へ約500m、新幹線を越えたひとつの尾根上に丹羽長秀の砦とされる丸山城がある。
この丸山城登る途中に "百々某" の骨塔がある、この百々某は百々氏関係の者であろうと考えられるが詳細は判らない。

 

 また、京極氏・上平寺館の大手道右手に隠岐屋敷がある。この隠岐というのは京極氏の守將であるが、浅井三代に百々隠岐守盛実の名が見え、「佐々木南北諸士帳」には佐和山東麓百々館とあり、浅井氏との関係が窺える。

【城郭の歴史】
 元亀元年(1570)の姉川の合戦後、佐和山城に立て籠もる浅井の重臣・磯野員昌に対し、信長は四つの付城を配したとされる(佐和山包囲網・・・・磯野山城、丸山城、里根山城[彦根カントリークラブ]、金亀山[彦根山=現彦根城])。その東の付城が、この百々館であるが、現地に立ってみると佐和山の山容が目前に広がり、意外な近さに驚かされる。佐和山城大手門からも500mとは離れていない。

 佐和山の東、中山道が摺針峠にかかる付近に"百々屋敷の地"名があるといい、信長の築いた付城としては、摺針峠付近、若しくは丸山砦と考える方が妥当。

 


百々氏の祖である百々盛道(通)は伊予国出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441-44)に当地に居住したことに始まる。盛道の母は、近江守護京極氏一族の京極高経の娘で、高経が京極氏から戦功として小野庄百々村を賜り、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では摺針峠に置かれた関所を守った。

 

 佐和山城界隈は六角・京極・浅井の領地争いの境目であったため、百々氏は臨機応変に3者に属しながら生き延びた。浅井氏に属してからは佐和山城の城代を務めていたが、永禄4年(1561)六角承禎による佐和山攻略により、城代百々隠岐守盛実は自刃した。

 その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監視役を務め、さらに羽柴秀吉の家臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降は時の名将に仕えた。江戸時代に入ると一族の中には井伊家に仕えるものもいた。
 江戸末期には7軒の百々姓が鳥居本に居住していたが、その1人百々彦右衛門元信は、長野主膳の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っている。祖盛道から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれた。

 天台宗の百々山本照寺が盛道の菩提寺と伝わるが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶した。その後梅本坊なる者が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきたという。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、今も地元の人に守られている。

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました.

 

 


「蹴り奴振(やっこぶ)り」2013.4.29

2013年04月30日 | 番外編

掛け声響かせ「蹴り奴振り」 米原で厄年男性ら巡行

足を蹴り上げる独特の振りで練り歩く蹴り奴振り(米原市宇賀野・坂田神明宮)

 

坂田神明宮
滋賀県米原市宇賀野83-2

 

 滋賀県米原市宇賀野の坂田神明宮の春季祭礼で29日、地域に伝わる独特の「蹴り奴振(やっこぶ)り」が行われた。法被姿で奴装束の厄年の男性がかかとを高く蹴り上げながら集落を練り歩いた。

 蹴り奴振りは、地元の旧近江町域に残る三奴振りの一つ。1733年に彦根藩主井伊直惟(なおのぶ)が同宮の神殿を造営した際、藩主らの参拝行列が蹴り奴だったため、氏子有志がまねて始まったとされる。

 神事に続き、蹴り奴振りの16人を先頭に約40人の行列が、宇賀野神社までの往復約2キロを約2時間かけて巡行した。奴振りは隊列を組み、伊達箱や槍、立傘などを持って「イーハーヨンヤセー」「ヨイトマカセー」などの掛け声を響かせて進んだ。

 氏子総代の一人の田中直夫さん(77)は「親戚も集まり、祭りは区民の絆づくりになっている。伝統を守っていきたい」と話していた。

 

     

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


米原城 近江国(米原)

2013年04月30日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市米原177-1

    map:http://yahoo.jp/4lIVW3この地図のURL

区 分:居館

築城期:室町期

 

築城者:吉田安芸守

 

現 状:米原警察署

遺 構:無

目標地:米原警察暑 

 

城 主: 吉田

 

駐車場:米原警察署に駐車場

 

訪城日:2013.4.29

 

 

 

お城の概要

 

 米原城は江戸時代は、中山道と北国街道の分岐点を北国街道側に約200mの所、米原警察署(元米原中学校の跡地)一帯とされる。

 

 城域は校舎が建てられていた北側の高盛上地及びグランドや東側部一帯と思われ、北国街道が城域内を横断する形となる。

 街道の要所に築かれた平城であり、街道筋を掌握する目的の城館であった事は間違いない。

遺構は見当たらない。

 米原城は、現在のJR米原駅東口でR8沿いに建つ米原警察署付近にあったとされる。

最近米原中学校の移転に伴い、跡地に米原署が建った。

現在は遺構どころか町割も変化し往時を偲ぶものは何もない。

歴史

江南守護六角氏の家臣吉田安芸守の名が見えるが詳細は判らない。
吉田氏は太尾山城を守備していた時期に平時の居館として米原城に居たのではないかと推測する。

永禄4年(1561)浅井長政に属した今井定清が太尾山城を攻略した際、共に落城したのではないか。

南東の山上には江北と江南の境目の城として争奪戦が繰り返された太尾山城がある。
北・東側にはすぐ山には太尾山城が迫る手狭な感のあるこの付近だが、北国街道が通るこの地は元々は米原の中心地であり、江戸期には彦根藩主井伊氏により米原湊が開削され宿場として発展した。

参考資料;:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、坂田郡志

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