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城郭探訪

yamaziro

山田城 近江国(永源寺)

2013年04月23日 | 平城

所在地:滋賀県東近江市山上町   map:http://yahoo.jp/FlqJ_p

遺 構:和南川が前堀カ、切岸、石材等

区 分:丘陵  

築城者:小倉氏   

築城期:室町期

目 標:山上小学校

訪城日:2013.4.23

 

  山田城は、和南山から嘴状に突きだした支尾根の先端部を利用した城だ。 西と北側は急斜面で、西を流れる和南川と北を流れる愛知川が堀の役目を果たし、西側にある八幡神社から見ると比高もあり、築城に適した要害の地と云える。

 現在は、山上小学校の旧敷地となっていて、城の遺構は何も残っていない。 八幡神社から小学校への登る「肥後坂」(旧小学校敷地東側)辺りが城跡の雰囲気を残していた。 

歴史

山田城は、室町時代に山上城主小倉氏によって築かれた。 小倉氏は、小掠荘・柿御園荘に勢力をもっていたが、応仁の乱後に山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城を築い。

 さくら -小倉殿の戦いー  より 小牧山へ

中略(抜粋)

夜が明けても、鳥居平城周辺では合戦が続いていた。

 
翌日、なお長寸城と鳥居平城の間で激戦が繰り広げられていたが、その分、愛知川沿いは比較的安心で、お鍋の一行と共に高野へ向かった。

「ご夫君が右近大夫殿に従うとすれば、それは八尾城が、山田城と山上城に近すぎるためです。両城から攻められることを恐れてのこと。でも、山田城の左近助殿がご本家側になれば、ご夫君もご本家側になられるかもしれません」

 左近助は和南山の戦いでは静観していた。本家側ではなかったが、右近大夫に加勢したわけでもない。

 お鍋は納得したのだ。「先ず高野に帰って、ご夫君を説得するのです」「息子の命がかかっているのですもの。必ず説得します」 お鍋は強く頷いた。


「右京亮様は、八尾城でございます。山田城への攻撃のために──」

 八尾城に着いた時にはすでに宵の口で、戦支度は万端整っている。これは攻撃を止めさせることは不可能ではないかと、第六感が語っていたが、焦りがそれを否定していく。

  結局、翌日、右京亮は山田城を攻撃した。 右京亮に山田城を攻めさせたのは右近大夫だが、それには理由がある。

 長寸城の本家側はしぶとく、鳥居平城に何度も仕掛けてきていた。そして、蒲生家がいつ参戦してくるかわからない。

 右近大夫は確実に味方を確保しなければならなかった。鳥居平城を一旦諦めてでも。いつまで経っても態度をはっきりとさせない左近助を脅す目的で、山田城を攻撃させたのである。

まさしく右京亮が、山田城を攻撃しては誘ってきていた時分。 山田城が随分破壊された後であった。

**********************

 翌日は突然の激戦となった。

永源寺が突然、高野に繰り出してきたのだ。 永源寺の僧兵を率いているのは、九居瀬城主の小倉行国。永源寺は六角家に深く帰依されているから、謀反人は許せないのである。 攻められたら、応戦するしかない。右京亮は永源寺の兵に当たる。

右近大夫は永源寺に攻めて行くと、焼き討ちを開始した。永源寺はびっくりし、慌てて高野館から引き上げると、消火に奔走。その後はなりをひそめてしまった。

 右近大夫は勢いのまま、行き先を近くの相谷城に変更し、一気に押し寄せて行く。

 相谷城の面々はろくに戦わずに敗走。残された城兵たちは降伏した。

 その兵たちに、今度は九居瀬城を囲ませ、右近大夫の本隊はついに小倉城へ向かって行った。

  右京亮が行く前に、右近大夫が小倉城攻撃を開始してしまうだろう。「とりあえず、八尾城に行こう」 いったん高野を捨て去って、八尾城で陣を立て直すことにした。

 小倉城にはすでに、右近大夫が永源寺焼き討ち、相谷城を落とし、さらに九居瀬城への包囲などが伝わっている。

 左近助は山田城を右京亮に攻められたために、兵をそちらにも多く割いていたため、小倉城はやや手薄気味である。

 右近大夫についに取り囲まれたこと、そして、右京亮が永源寺と戦ったことなど、すでにお鍋の耳にも達している。右京亮が永源寺と戦になったのは、やむを得ない状況だったわけだが、そこは正確には伝わらないのが戦場だ。

「織田家家臣・滝川一益の手のものにござる。お助けに参りました」音もなくお鍋の傍らに寄った。(忍の者?)「主・滝川は甲賀の人なれば、ご存知やに存じまするが?」 しかし、今、織田家家臣と言ったような。



「相谷城の面々が敵に降伏、寝返って九居瀬城を包囲し──永源寺と戦った高野の面々は八尾城に籠もった──なるほど、右近大夫に囲まれても、この城に助けに来る軍勢は一つもないわけか。仕方ない……」 左近助は覚悟を決めたらしい。

ついに開戦となり。しばらくして小倉城は落城寸前にまで追い込まれる。城主・左近助の命は風前の灯火であった。小倉良親と言う人がいる。彼は相谷城にいたが、辛くもそこから逃走して、小倉城に向かおうとしていた。小倉城の現状を知る由もなかった。

 

 

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沖島頭山城 近江国(近江八幡)

2013年04月23日 | 平山城

CIMG8858.JPG

お城のデータ

所在地:近江八幡市沖島町 map:http://yahoo.jp/wTlKvE

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:島民

遺 構:削平地・土塁・見張り台

標 高:130m  比高差:75m

目標地:堀切新港より定期船で沖島港へ・奥津島神社

駐車場:堀切新港の周辺空き地に路上駐車(桟橋周辺は沖島住民の駐車場で駐車禁止)

訪城日:2013.4.19

 

お城の概要

沖島頭山城は近江八幡市沖島の西端、標高130mの頭山一帯に築かれた城で、いわゆる海賊城である。


 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)

 頭山の南から東斜面は崖状地形で、南斜面の奥津嶋神社への階段を利用し、奥津嶋神社から山頂の曲廓に出る。この間に斜面は階段状の小さな削平地の連続。階段状削平地の切岸には土留めの石積みが見られるが、石積みのない曲輪と差別化が図られている様子はない。山頂はまともな広さをもった曲輪であるが、雑木で確認出来ず。
 北斜面、および東斜面も南斜面と同様に階段状に削平地がつくられているが、両斜面は斜度が緩やかなこともあって面積も確保され、曲廓らしい体裁を保っている。この頭山城は曲廓をつくることが目的ではなく、切岸を造り出すことに主眼が置かれている。

 沖島は、(おきしま・おきのしま・沖ノ島)などと呼ばれ、琵琶湖のほぼ中央、近江八幡市の沖合約1.5kmに浮かぶ琵琶湖最大、約350人が居住する有人島である。島の沿岸周囲は約6.8km、面積は約1.5平米を誇るが、ほとんどが山林に覆われ、南西沿岸のわずかな平地に集落が営まれている。
集落西側には半島状突出部に独立丘がある。これを頭山と呼び、のどかな島の風景とは相反して一歩入山すると山全体が城塞化している。
 尾山城と同様に雛壇状の阻塞群が斜面を埋めつくしている。本土では水茎岡山城や円山城に類似遺構が存在するが、緩傾斜面に切岸的機能を多用することにより防御性を強化する縄張だと考えられる。雛壇は合計140にもおよび、段違いと行き止まりの連続で、個性がないため迷路のようである。
尾山城や坊谷城とは異なり、頂部に明らかに主郭だと比定できる削平地がある。北東隅には土塁が築かれ、北直下の帯曲輪には見事な石積みが見られる。南斜面の雛壇は高い所では4~5mの切岸となり行く手を阻む。西側3分の1は石の採掘により遺構が破壊されていると思われる。

北斜面の雛壇状縄張南斜面の大岩の間を埋める石積み

お城の歴史

 沖島頭山城は、延元3年(1338)に南朝方が越前と新田義貞軍の中継基地として頭山一帯に城を構えたとされている。現在の遺構がその時のものなのかなど詳細は判っていない。縄張の手法も鎌倉期から戦国期まで中世全域でみられるものである。
沖島は、沖合から縄文土器や和同開珎が発見され、古くから人々の往来はあったようだが、

本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156-1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされている。室町8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされる。
また応仁2年(1468)には比叡山延暦寺に敗れた堅田衆4千人が、約2年間沖島に避難生活をしたとされる。

戦国時代に入っても関所が設置され、琵琶湖水運の重要拠点として機能した。

当初は近江守護六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系自治区堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が許され、少なくとも豊臣政権下の天正13年(1585)頃までは存在していた。そんな背景の中、沖島は戦乱の世に重用され続けた。

 

近江八幡の城

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

 

 

 

織田 信長織田 信長豊臣 秀次豊臣 秀次

また、沖島資料館には、「織田信長や羽柴秀吉の安堵状・感謝状」が大切に保存されおり、入館料(閉館していれば、沖島コミセンにお願すれば開錠して頂ける)が必要だが拝見できる。

沖島資料館の古文書

近江八幡の城マップ 

 

 近江八幡市内の主な城跡

1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町

  参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江八幡の城

   今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


一色城(松井石見守邸) 近江国(永源寺・一式)

2013年04月23日 | 平城

 

お城のデータ

別 称:松井石見守邸

所在地 : 滋賀県東近江市一式町(旧神崎郡永源寺町一式) map:http://yahoo.jp/OGYYDx                                                                                        

区 分 : 平城

築城者:一色相模守相吉(一色氏は、足利泰氏の子公深が三河吉良荘)が、一色を領して一色氏を称した。

城 主:一色相模守相吉(一色氏)、松吉石見守重吉(六角の臣)

遺  構 : 堀跡、物見櫓台

訪城日:2013.4.22

お城の概要

『近江蒲生郡志』には、松井石見守邸阯は、市原村一式に在り、四周に濠と土手を回らし東北角に物見櫓中央に井戸あり、此邸は始め一式氏の住せし所なりしが後ち松井氏代り住せり。と記す。

城は、一式町の中心部が城域で、一式のバス停のある集会所に案内板がある。 

道路を挟んで北側に見える【戦いの神若宮八幡】が祀られ、本丸跡と見られ、外側の現在道路辺りが堀跡とされている。

 神社の太鼓堂が建つところが、物見櫓があったところとされ、本丸内でも一段高くなっていて、今は大石による石垣が組まれている。

 

 一式城は、築城年代は定かでないが、一色相模守相吉によって築かれたとか。

 一色氏は、足利泰氏の子公深が三河吉良荘一色を領して一色氏を称した。

 一色は、室町幕府四職家の一つで丹後・若狭・近江に一族が所領。 

 一色氏没落後、戦国時代には佐々木義賢の物頭 松吉石見守重吉が居城し、六角氏滅亡と共に廃城となった。 

 歴 史

愛知郡志に「此邸は始め一色氏の住せし所なりしが後ち松井氏(松吉氏の誤り)氏代り住せり」と記している。
『大洞弁天当国古城主名札』には城主 松居石見守を、『江州佐々木南北諸士帳』には松吉石見守を記す。

現地説明板は、永禄年間(1558~70)一色相模守相吉、一色石見守重吉が城主としている。

なお、永禄11年(1568)9月織田信長の近江侵攻に際し、六角氏を見限り蒲生氏、速水氏らと共に信長に降ったと見られている。

 明治初期の一式村地誌に「近世迄一重小堀土隄等アリテ四囲セシカ、今開墾シテ畑地或ハ草生地トナル。此面積三百五拾坪許」、近江蒲生郡志八には測量図を載せ、四周に壕と土手を巡らし東北隅に物見台、中央に井戸があったとするが、現在は詳細不明である。 と記されている。
また、集会所の南側に上門・下門、北西に城ケ塚など、城郭に関連する小字名も残されている。若宮八幡神社付近や北側と西側の水路に若干遺構らしさが残る。、二重に堀があったと伝承されている。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「神崎郡永源寺町一式」、創建者は「一色相模守相吉」、形式は「平城」です。城の歴史は「一式城の由来は一色氏がこの城に常住したことによる。一色氏は足利氏の支族で、足利泰氏の子公深が、三河吉良荘一色に住んだのに始まり、その子範氏は足利尊氏に従い九州で活躍。のち、丹後・若狭・近江に分散し、四職家の一つとして重きをなしたが、義貫が足利義教に嫌疑をかけられて自殺して以後衰退し、佐々木六角氏の臣松吉石見守重吉と交代した。織田信長が千種越や、八風越で当地へ進出すると、浅井長政は鯰江城を攻略し、一式に一揆を起こさせ成功しているのは、一式城があったことと松吉石見守がいたためである。しかし、佐々木氏の滅亡と同時に一式城も焼亡した。(後略)」とあります。なお、神崎郡永源寺町一式は現在東近江市一式町になっています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、愛知郡志、蒲生郡志、淡海の城 他

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝

 


山上城 近江国(永源寺)

2013年04月23日 | 平城

 安養寺小倉山上城址の石碑(東近江市(旧:神崎郡永源寺町)山上)

安養寺が城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】

お城のデータ 

所在地:東近江市山上町(旧神崎郡永源寺町山上) map:

別 名:山上陣屋(江戸期)

区 分:平城

築城期:平安末期 明応8年(1499)頃

築城者:小倉右近大夫賢治

遺 構:堀・石積・城跡碑

目標地: 安養寺

駐車場:安養寺の参拝者用駐車場

訪城日:2014.4.22

お城の概要

安養寺がありここが城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】

山上城は愛知川の左岸、鈴鹿を超えて伊勢に通じる八風街道(国道421号線)沿いに築かれており、現在の浄土宗向上山安養寺、および旧永源寺役場一帯が城址である。

 安養寺境内には石碑が建てられており、この石碑付近が本丸跡とされる。
安養寺東側の竹藪との境には堀跡が残っている。

 和南川の氾濫で流出した、山上城の跡地に安養寺を生保4年に建築した。

 

 

歴 史

愛智郡小椋(現:東近江市(愛東町)小倉)に平安末期より小倉城を本拠とした小倉氏一族の城です。

小倉氏は室町中期に分裂し山上城を居城とする小倉氏は西家と呼ばれるようです。

 山上城は小椋荘、柿御園荘一帯に勢力を持っていた小倉氏が、伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に目をつけ、応仁の乱の頃より山上城を主力に山城として山田城、八尾城を築いたものである

 山上城は南北朝時代より小倉氏累代の居城として栄え、元来小倉(愛知郡愛東町小倉)を本拠としていたにもかかわらず、戦国時代になると、高野にも本拠が置かれるような形になった。

 小倉氏の居城は発祥の地愛知郡小椋庄に小倉城を有したが、室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城・鳥居平城・長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄(山上郡)を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城・山田城、相谷城・九居瀬城・八尾山城等の支城を設けた。

小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。

 

お鍋の方

佐々木六角承禎の家臣 高畠源十郎(真二郎とも)の娘として近江八幡小田で生まる。佐々木六角承禎の重臣 はじめ高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が戦死した後は信長の側室となり、織田信高(七男)・織田信吉(八男)・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。

 その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸・布施九郎らと共に討ち死にした。

鍋は信長の2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は鍋は、豊臣秀吉の奥向きの女房(侍女)として取り立てられる。秀吉や、秀吉の正室の高台院、側室の京極龍子から多大の信頼を得る。

 近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。
また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉と共に、石田三成側に立ったため、母子共に、徳川家康によって領地を没収される。
その後、高台院と豊臣秀頼から禄を与えられ京都で暮らし、慶長17(1612)年に没した。
 その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

小田(近江八幡)には、お鍋さんの屋敷跡」が残されており、お鍋の弔いお鍋塚の伝承地の「お鍋の松」は枯れ、今もその後に植えられた3本の松が残されている。

 信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

山上城は、和南川の氾濫で流出し、跡地に安養寺を生保4年に建築した。

  元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名稲垣安芸守重定が1万3000石の諸侯に列せられて常陸の国より、近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜って神崎郡山上郷に山上陣屋を設けたのが山上城の跡地である。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布、近江小倉城、滋賀県観光情報「江のふるさと滋賀」、神崎郡志、他  

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!!