城郭探訪

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探訪 水城「坂本城址」の縄張り・湖水活用の堀切めぐり 20120918

2012年09月22日 | 平山城

当初は、壺笠山城見学会の予定が、台風の影響で雨・・・。

残念・・・坂本城跡の現地説明会に急遽変更・・・参加者7名

講師・案内人:長谷川 博美氏(城郭研究家・・・・)

公園入口の「坂本城址碑」にも、この光秀像。ここでは光秀公が慕われている。


高さが5m程光秀公の像。

坂本城址公園明智光秀業績碑

明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通の要衝にあたるこの地に、元亀三年坂本城を築いた。この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。ここで近江滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。
その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ごろから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。さらに同七年ころ横山城を攻めたあと、城の大改造をを行ない明智にちなんで福智山と名づけ後に福知山城となった。いまも福知山踊りには、光秀を偲ぶ歌がうたわれている。

坂本城址公園明智光秀歌碑

沿革

1571年

比叡山延暦寺の焼討ち後、明智光秀に志賀郡支配の命が下り、その拠点として坂本城が築城される。安土城に先駆け「天主」が完成。

1582年

1月20日 吉田兼見、坂本城小天主において光秀と茶湯・夕食。                                            6月2日 本能寺の変。光秀、織田信長を討つ。                                                               6月13日 光秀、山崎の合戦で羽柴軍に敗北。                                                                 6月14日 明智秀満、羽柴軍に囲まれた坂本城に安土城から帰還。                                        6月15日 秀満、天主に火をかけ、自刃。坂本城は落城。

1583年

丹羽長秀、城主として坂本城を再建。 その後杉原家次、浅野長吉が順に城主に。

1587年

大津城築城により、廃城。 

坂本城址公園の中に立つ案内板です。案内板には、

      天下統一をめざし、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀二年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、京都を扼する西近江の要衝、坂本に封じた
      築城の名手であった光秀は、翌元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。
      坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。

         なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。と・・・。

      惟任日向守(光秀)へ爲礼坂本へ下向、御祓・百疋遣之、於小天主(守)對面、【兼見卿記(別本)、天正十年正月廿日条】

http://ksbookshelf.com/HJ/SakamotojyouNawabari.htm

坂本城縄張図

        本丸は、ほぼ完全に琵琶湖に張り出しており、二の丸も一部は湖の中にあります場所は、現在の坂本城址公園(滋賀県営都市公園湖岸緑地・北大津地区)よりも北にありました
        公園の案内板に「元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳まで及んでいたとされる。」とあります。                                                                                                         
        【大津の城】(ふるさと大津歴史文庫2、企画編集:大津市史編さん室、出版:大津市役所)を参考にさせていただきました。

 

      この場を借りてお礼を申し上げます。

 

坂本城略年譜

  • 明智は、都から四レーグアほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五レーグアもあるかの大湖(琵琶湖)の辺(ほと)りにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。【回想の織田信長<フロイス「日本史」より>、第十七章】
  1.  天正5年、光秀が丹波亀山に移って、明智秀満が入った。

 

  • 自今日惟任日向守(光秀)坂本之城普請云々、丹州(細川丹波守)人數ニ罷下之由申訖、【兼見卿記、天正八年閏三月十三日条】今日より
  • 坂本城は普請(改修工事)を始めたとか、細川藤孝から応援を送ってもらったという

 惟日(惟任光秀)此間普請也、爲見廻下向坂本、召具侍從、果子一折五種、持參、面會、相伴夕食、入魂機嫌也、普請大惣驚目了、【兼見卿記、天正八年閏三月廿八日条】光秀は(坂本城の)普請(改修工事)を進めている、様子を見学に坂本に向かう、侍從(息子の吉田兼治)を連れ、菓子折一つと肴(五種)を持参、面会、夕食の接待を受けた、心のこもったもので大変満足した、普請の様子には(立派なもので)たいそう驚いた、

  • 惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、何れも/\、同事に本国へ罷り帰り候て、御陣用意候なり。【信長公記、天正十年五月十七日条】光秀は(信長から秀吉の備中攻めを助けるよう指示があったので)安土から坂本に帰った、(長岡与一郎、池田勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛等、先陣として出勢するよう指示があった者)いずれも本国へ帰り出陣の用意である、
  • 惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。【信長公記、天正十年五月廿六日条】
  • 惟任日向守(光秀)へ爲礼坂本へ下向、御祓・百疋遣之、於小天主(守)對面、【兼見卿記(別本)、天正十年正月廿日条】光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を届けた。小天主で対面した
  • 爲(衍カ)惟任日向守(光秀)爲礼坂本へ被(マヽ)下、御祓・百疋持參、面會、於小天主(守)有茶湯・夕餐之儀、【兼見卿記(正本)、天正十年正月廿日条】光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を持参した。面会し、小天主で茶湯と夕食。
  • 坂本之城(近江滋賀郡)、天主(守)放火云々、高山次右衞門付火切腹云々、【兼見卿記(正本)、天正十年六月十五日条】

石碑横の坂本城跡の解説板。

石碑の後にある坂本城の解説板。

坂本城の大手門碑と駒札

石碑の横には、五輪塔や宝篋印塔らしきものが置いてあり、ところが坂本の街を歩くていると、いたるところにこうしたものが安置されていました。

洪水で流されてきてしまった物との解説がなされたものもありましたので、こちらもその類のものと。

比叡山麓の由緒ある寺、西教寺に残る「坂本城移築城門」。

よくある薬医門形式ですが写真で見るよりはるかに大きい。真新しく見えるのは、昭和五十九年に修復されているため。

聖衆院来迎寺の坂本城の「移築城門」。

境内には宇佐山城の戦いで戦死した森可成(森蘭丸の父)の墓もある。

北国街道西近江路の道

上記で示した縄張図。湖岸緑地は、琵琶湖の中に埋めておきまし
た。天主
、二ノ丸と三ノ丸、堀。7
す。

北国街道西近江路の道標

下坂本両社神社堀の石垣

酒井神社石垣・・・坂本城の堀の石垣

この道路も、内堀を埋めたもの!随所に、堀の石垣が残っています。

明智塚(個人宅 村田宅)R161沿い

R161号線(堀の中)を左に(南に)歩いていくと、①(キーエンス)に到着。二ノ丸と
本丸を繋ぐ橋があったと推定されるところです。から琵琶湖方向が、本丸跡になります。現在は企業(キーエンス)の研修
所になっていて、中に入ることはできません。

右端に茶色が下の大理石の「坂本城本丸跡」の碑(牛丼の「すき屋」の向かい)、この湖岸に「水没石垣」が・・・。

R161の「キーエンス」門扉の横に「坂本城本丸跡」の碑

坂本城本丸跡

 坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山
門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川
河口に築かれた水城としてよく知られている。
 天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた
城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の
石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。

                   大津市教育委員会

本丸に入られないのであれば、本丸の傍から攻めてみます。上の
写真は、本丸北側の位置(すき屋)から本丸を望んだ
ものです。写真の上から4㎝、左横から3cmの位置に研修所から伸
びる白い桟橋が見えますが、この辺りに天主が建っていたと考えら
れています。
下見板張りの四層の華麗な漆黒の天主が右手の建物よりも高く、
そして湖に張り出して建っていた景色が、「私にも見える!」

すき屋駐車場の北側を流れる両社川の河口②-1。二ノ丸の
北側にあった中堀の位置と推定されます。参考文献で挙げた「近江
の山城ベスト50を歩く」の縄張図では、水門と書かれています。
城跡は跡形もないとされていますが、なんだかんだで、城の縄張の
名残が残っているのを楽しめます。

 

 

坂本城址公園石垣

三津浜(みつのはま)公園の南端にある「三津浜(みつのはま)」の石碑。碑文は次の通り。
 「三津浜は、戸津、志津、今津からなるとされるが、現在の比叡辻
 から唐崎以北までの、下坂本の湖岸で古くから港として栄えた」
比叡辻は聖衆来迎寺の辺り、唐崎はこの位置よりやや南の地名。

 

 

本日も訪問ありがとう、ございます!

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