城郭探訪

yamaziro

内貴城 近江国(甲賀) 

2014年08月03日 | 平城

貴生川遺跡現地説明会に参加しました。8月3日午後1時半から現地説明会が開かれた。

戦国時代の城館跡、此の地の領主宇田氏の関連と!(甲賀市教育委員会)

所在地:甲賀市水口町貴生川 map:http://yahoo.jp/BOjC8X

目標地:貴生川駅から、北西に約800m(発掘調査後は、埋戻し宅地分譲されるようです)

区 分:平城

比高差:0m 

現 状:田畑・宅地

遺 構:郭・堀・井戸・土塁<発掘調査>

築城期:戦国期

築城者:内貴伊賀守孝則

訪城日:2014.8.3

貴生川遺跡の発掘調査では、十六世紀後半の戦国時代の甲賀武士の城館跡が、堀と土塁跡がまとまって見つかった。当時は織田信長の甲賀侵攻の時期に当たり、甲賀武士団の動向を考える上で貴重な発見とされる。
 城館跡は、一辺五十メートルのほぼ正方形で、周囲に巡らせた土塁跡(幅六・六~八メートル)、その外側の堀(最大幅八メートル、最深二・八メートル)が確認された。
作業用・見学者用土橋

木製の底板(水中保存)

【井戸】直径2mの堀方を持ち内径80cm。2.2m以上で河原石積みで五輪塔に一部「火輪」が出土

発掘出土品

 出土した遺物の年代から16世紀後半代に限定できます。このことから、この城館の築造、廃絶は、織田信長による近江侵攻(1568 年~ ) から羽柴秀吉に紀州雑賀攻めの責任を問われ甲賀衆が改易されたいわゆる「甲賀ゆれ」・「甲賀破儀」、水口岡山城の築城(1585 年) を契機とした甲賀地域の動向が映し出されている可能性が高いといえます

漆器(水中保存)

出土時の状況

堀底から出土(水中保存で腐食を免れた)。室町期に土豪は、漆器を使用堀の深さ2.8mを計測。土塁を複元すると堀底から6m柱穴【井戸】直径2mの堀方を持ち内径80cm。2.2m以上で河原石積みで五輪塔に一部「火輪」が出土

内貴遺跡

発掘は3/5を実施、城館は堀の外側一辺約50m、堀の内側一辺約37m

                                     曲郭は、一辺約26mで、面積約670㎡(200坪)

 

甲賀郡志 下巻 1125頁 第四十三節 内貴城址

内貴城址

甲賀郡志に

  貴生川村大字内貴の東方の高地ありて松林をなす。その中心たる平地東西十三間南北十八間にして四方築堤あり。その巾東三間弱西四間半南北各三間にして平地より高さ二間西南は一間半西の築堤の中央二間を缺て通路となし北東の外側に巾一間半の空堀を環れり南側は断崖をなす。今人家はその西麓に點在(てんざい)して近くに信楽に通ずる道路及び近江鐡道交叉す。傳云々内貴伊賀守孝則此城を築き之に居り子孫相承け天正年間に至り同氏亡滅と共に城地を没せられると

 

信長と対決、甲賀武士の城館跡か 貴生川遺跡(京都新聞)

堀と土塁に囲まれた戦国時代の城館跡が出土した貴生川遺跡(甲賀市水口町貴生川)

 滋賀県甲賀市教委は29日、甲賀市水口町貴生川の貴生川遺跡で、16世紀後半の戦国時代の城館跡が見つかった。と発表した。甲賀武士の城館の一つとみられ、周囲の堀と土塁跡の保存状態がよく、まとまって発掘されるのは同市内では初めて。織田信長の甲賀侵攻など不安定な情勢下だった当時の甲賀武士団の歴史を考える上で貴重としている。

 同遺跡は土地区画整理事業に伴い、県文化財保護協会が2013年度から調査している。

 城館跡は一辺が約50メートルのほぼ正方形で、全体の5分の3を調査した。屋敷があったとみられる中心部から、信楽焼のすり鉢など16世紀後半の日用品が出土。周囲に土塁跡(幅6・6~8メートル)が確認され、その外側に堀(最大幅6メートル、最深2・8メートル)が見つかった。

 甲賀ではこの時期、地侍の甲賀武士団が合議制の自治組織をつくり、180以上の城館跡が確認されている。貴生川地域の平野部では初めての発見で、市教委は此の地域を治めていた内貴氏に関連があるとみている。

 信長に侵攻され、信長の死後は豊臣秀吉に仕えた甲賀武士団は1585(天正13)年に改易、帰農させられた。同協会は「緊迫した状況下、近くを流れる杣(そま)川を監視する軍事拠点として作られ、短期間で役割を終えたのでは」としている。

 参考資料:貴生川遺跡現地説明会(2014年8月)配布資料:(京都新聞)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


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