堅田は平安時代末期から江戸初期にかけ、琵琶湖最大の自治都市が築かれた所で「堅田千軒」や「諸浦の親郷」と呼ばれた。その端緒は寛治4年(1090)下鴨神社の御厨が置かれたことで、湖魚を献上する代わりにびわ湖の漁業権や通行権などを一手に握り莫大な利益を得た。その時活躍したのが堅田衆(湖族)と呼ばれる人々。豊かな堅田には、美しい風光に魅せられ、また堅田衆を頼り、各時代のヒーロー・ヒロインが往来した。源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、芭蕉等々。今も町のそこかしには激動の時代に夢を馳せた人々の名残をとどめる史跡が息づいている。
南北朝時代(1334-1392)の開山。応永元年(1467)三代目住持法王の時、法難を逃れた蓮如が身を寄せ、同寺に本願寺を置き再興の拠点とした。蓮如ゆかりの遺品が数多く所蔵されている。十一代住持明式は芭蕉の高弟で千那と号したところから、同寺は千那寺とも呼ばれる。芭蕉も再三訪れ句を残している。
大津市本堅田1丁目22-30
長徳年間(995年頃)比叡山横川の僧源信が湖上の安全と衆生済度を祈願し建立。「堅田落雁」として近江八景の一に数えられる名勝。聖観音座像は平安時代の作で重要文化財。芭蕉の句碑がある。
大津市本堅田1丁目16-18
蓮如上人とのゆかりが深く、真筆の名号・消息等の遺品や伝説が残されている。中でも宗祖の御真影を三井寺から取り戻すために自らの首を差し出したという「堅田源平衛親子」の物語は有名で、源平衛の頭蓋骨が今も安置されている。
大津市本堅田1丁目22-20
応永年間(1394~1428)一休の師華叟宗曇が開いた。一休が22歳から十余年ぶわたる修行に励んだ。当時は祥瑞庵といい、一休も宗純と称していた。一休という道号を与えられたのは25歳、岸辺の小舟で開悟に至ったのは27歳の時。開山堂には師と一休の木造が安置されている。後年、芭蕉も訪れ、句を詠んだ。
大津市本堅田1丁目27-20
中世・堅田の指導的立場にあった殿原衆党首の屋敷。邸内の湖東を借景とした庭園「天然図画亭」は千宗旦の高弟で茶人の藤村粛軒と堅田の豪土北村幽安によって築かれた。
大津市本堅田2丁目12-5
南北朝時代、戦に敗れた新田義貞は愛する内侍を堅田に匿い、再会を誓って北陸へ落ちて行くが、3年後世を去る。それを聞いた内侍は絶望のあまり湖に身を投じ後を追う。後日、その事を知った今堅田の人々は内侍の霊をねんごろに弔ったという。その石塚が野上神社に残されている。
大津市今堅田2丁目32
かつての湖上関跡に建つ木造の灯台。明治8年(1875)に建てられた。
大津市今堅田1丁目