城郭探訪

yamaziro

徳永城(徳永氏館)   近江国(能登川)

2015年11月06日 | 丘陵城

徳永寿昌法印の石墓碑

 

お城の概要

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)北須田町 map:http://yahoo.jp/eqv4qz

現 状:山林(山麓館・居城)

区 分:居城

築城期:織豊期

築城者:徳本氏

遺 構:郭・石垣・土塁・空堀・竪堀・城道・墓碑

目標地:きぬがさトンネル北口

駐車場:きぬがさトンネル北口山麓道(旧道)に路上駐車

訪城日:2015.11.6

ここから山に

お城の概要

安土から能登川への朝鮮人街道に面した北須田(当時は徳永村)の丘陵に仮称(徳永城は位置する。

東の「伊庭御殿」から伊庭山山麓を西に進むと「きぬがさトンネル北口」の手前に民家とソーラー発電所の間を入る。

獣害フェンスがあるが、一ケ所針金で止めてあるが入れる。山には入ればすぐ平削地や石垣・基壇・土塁・川(竪堀)・・・・取り合えず、上に登る、城内は綺麗で、防衛面では不十分であるが、城郭遺構は、はっきり見える。

 晩年には神仏を敬う篤く、仏道にはいり「法印」と称しました。新造・修理した社寺も多く、地元の大浜神社・望湖神社や岐阜赤坂の明星輪寺(虚空蔵)・岐阜の高洲「の天神社・養老寺」などがある。

城頂部に徳永寿昌法印の石墓碑が建つ。

お城の歴史

 織豊後期には、『淡海国木間攫』の

 「神崎郡 猪子村 ・天満天陣宮 当村・佐野村・佐生村・三ヶ村生土神ナリ、徳永法印勧請ナリ、 

  追加   徳永ハ伊庭家ノ従者ニテ、伊庭家断絶ノ後屋形ヘ出、石見守ニ至テ柴田(長浜城主=柴田勝豊)ニ属ス、柴田病死後太閤ヘ被召出立身、式部卿法印寿昌ト号シ、五万五千石ニ至ル、左馬助濃州高須ニテ没落ス、孫流江府ニ有ト云」と記す。

寿昌は、『寛政重修諸家譜』では、「ながまさ」としているが、高柳光寿・松平年一の『戦国人名辞典』では「ひろまさ」としており、当時、寿昌がなんとよばれていたかは明らかではない。

寿昌は、『寛政重修諸家譜』では、「ながまさ」としているが、高柳光寿・松平年一の『戦国人名辞典』では「ひろまさ」としており、当時、寿昌がなんと呼

 寿昌については『藩翰譜』に、「石見入道寿昌は、初め越前の守護柴田勝家が猶子伊賀守勝豊の家の老なり。勝家と勝豊とは年ごろ其の間快からず。羽柴・柴田の軍起こるに及んで、秀吉、石見守等を召して、其の主人伊賀守が許に使として、味方に与すべきよしを云い送らる。勝豊、頓みて義父勝家に背きて秀吉に心を通ず(中略)。

石見守、この後秀吉の御家人となされ、美濃国松木の城を領してけり」とあり、美濃国松木島の内において二万石を与えられ、高松城の城主となっている。
 関ヶ原の戦いは東軍に属し、美濃国の駒野城などを攻め、戦後二万余石を加増され、美濃高須城主となった。子昌重も父とともに関ヶ原の合戦に従軍、慶長十年(1605)秀忠の将軍宣下に供奉し、同十七年父の跡を受けて、高須五万六百石余の城主となった。大坂の陣にも従軍、元和三年(1617)新田を併せて五万三千七百石余を領し、寛永三年(1626)家光の上洛にも供奉した。
 しかし、寛永五年二月、前に命じられていた大坂城石垣普請助役工事の遅滞を理由に除封され、出羽庄内酒井家にお預けの身となり、所領は没収され配所で没した。長男昌勝も父に連座して、越後新発田藩主溝口家に預けられたが、のちに赦され、二千俵を与えられた。子孫は二千二百石の旗本として存続した。

徳永 寿昌(とくなが ながまさ)は、

 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃高須藩初代藩主。

 徳永氏の祖は、『寛政重修諸家譜』によれば、藤原北家頼通流という。「いまの呈譜に、関白頼通の四代の孫少納言家隆の男美作守昌隆の後胤式部律師興昌がとき乱をさけ、近江国徳永村に閑居し、これより徳永をもって家号とす。土佐守昌利は昌隆二十四代の孫なりといふ」とある。
 『近江輿地誌略』には、「寿昌は神崎郡の住人、其の先は予州河野が十八家の一也。中頃、当国に徒りて、佐々木家に仕ふ」とみえて、まったく異なる系譜を記しているのである。
神崎郡徳永村であった。寿昌の父昌利より以前の経歴については諸書記すところはない。 

生涯 徳永寿昌(1549―1612)

昌時、権之進、石見守、式部卿法印。近江国徳永村、美濃、尾張松本など出身には諸説がある。土佐守昌利の子。はじめ柴田勝家の養子勝豊に仕える。賤ヶ岳の合戦直前に勝豊が羽柴秀吉方に寝返ったため、羽柴勢に加わって柴田勝家と戦う。戦後、秀吉に仕えて美濃国高松城主となり、三万石を領す。秀吉が没した直後、朝鮮に渡った日本軍撤収のため渡海。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いがおこると徳川家康に味方し、戦後、二万石を加増され高州城に移る。有馬則頼、金森素玄とともに「三法師」と称せられた。

美濃、尾張、近江など出身地は諸説あり、はっきりしない。

はじめ柴田勝家の養子の柴田勝豊に仕えた。徳

柴田氏と羽柴氏が争った天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、直前に勝豊が羽柴秀吉方に下ったため、羽柴方として参戦した。その直後に勝豊が病死したため秀吉の家臣となり、後に豊臣秀次付の家老として美濃国松ノ木城に3万石の所領を与えられた。秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る

 能登川の町の地割は朝鮮街道添いに間口5間(約9m)、奥行10間(約18m)の屋敷割が整然とされ、さらに街道から7~8m奥に街道と並行して幅30~50cmの水路を堀り、伊庭川から分水した水を流し生活用水としている。計画的な街並み作りを徳永寿昌が領主時に実施した。

今も徳永寿昌法印の業績たたえ法要が行われている。

秀次の失脚事件には連座せず、むしろ秀次の罪状を並べ立てたと伝わる。

秀次の処分の際には秀次の妻子を自らの屋敷に捕縛・軟禁する役割を務めた。

慶長3年(1598年)、秀吉の死後に文禄・慶長の役の幕引きをはかる五大老の徳川家康の命令で、宮城豊盛や徳川家臣の山本重成とともに朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めた。

 

下城します。

郭の石列土橋

■参考略系図 詳細系図

 

 

 

 

 

 

 

観音寺城(繖山)へ安土城(遠景)

駐車場を「きぬがさトンネル」の交差、空地

徳永城(遠景)

参考資料:ふるさと百科「能登川てんこもり」、東近江市史・・能登川の歴史、Wikipedia - ウィキペディア、淡海国木間攫

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