城郭探訪

yamaziro

信長の隠れ岩 近江国(朽木)

2013年09月18日 | 陣城

 高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。この岩に通じる道を整備された。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と。

足利義昭を第13代将軍に擁立していた

 
織田信長は、元亀元年(1570年)4月20日、越前(福井) 朝倉義景を抑えるため京都を出立。

織田軍は、羽柴秀吉(豊臣)や徳川家康3万軍を率いて、敦賀 手筒山城、金ヶ崎城、疋壇城(ひきだ)を攻め落とし一乗谷 朝倉氏へ進攻をしかける途中・・・

足利義昭の寝返り、朝倉氏と組み、また朝倉と同盟関係にあった織田信長の妹 お市の嫁いだ 浅井長政らも裏切ったと連絡が!

北は朝倉氏、湖北からは浅井氏に挟まれる形となった。織田軍勢は、27日急遽、撤退を決定し、丹後街道から南下近江に入り保坂(今津町)から朽木街道に入りました。

信長が通過すると知った、朽木領主朽木元綱は、甲冑姿で出迎えたがために真意を確認する必要があると、松永久秀、森三左衛門(可成)が行く間、信長は、朽木 三ツ石隠れ岩で待機することに・・・

ここ 三ツ岩の穴にて待機する。

その後 元綱は、信長を迎え入れ朽木 下市場の圓満堂で もてなした後、朽木城に宿泊し、翌日、京都に撤収した。

朽木資料館で

信長の朽木越えの様子については、朽木氏の家臣であった長谷川家に伝わる「長谷川家先祖書」によると、「28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷を通行されました。
 
その時、朽木河内守元綱公が警護の兵を召しつれて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休息され、元綱公より接待を受けられました。
 
その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政)がお茶とお菓子を献上したところ、信長公ははいていた鹿皮製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対をくださいました。
その、革袴の複製(レプリカ)が、本物は安土考古博物館に!   当家では今日まで家宝として持っています」(意訳)と記されている。
 

信長の皮袴

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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