城郭探訪

yamaziro

神保(じんぼう)城 近江国(甲賀)

2014年08月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町神保小字門ノ前  (甲賀郡甲賀町神保小字門ノ前)  map:http://yahoo.jp/WdTELG

現 状:竹林(筍山)

築城期:室町期

築城者:神保氏

城 主:神保兵内(甲賀武士・甲賀忍者)

区 分:丘陵上

遺 構:土塁、曲郭、(後世の)切通し

目標地:甲賀北保育園、日吉神社

駐車場:農道・路上駐車

訪城日:2014.8.8

甲賀北保育園の南側(佐治川沿いの農道に、駐車)佐治川を渡り 北側から登城http://yahoo.jp/jHY40T 尾根道(佐治川沿い)を城址へ

お城の概要

神保城は、杣川の支流の佐治川流域の甲賀・神保の大藪集落に接した丘陵上に位置する。周囲の地形は複雑で集落から10m~20mの小丘陵は広がっている。

 城は「城山」と呼ばれ比高20mの頂部に存在する。曲郭は尾根の自然地形に沿って削平され展開する。

中央不自然な堀切aがあるが後世に開削され切通しであろう(筍山として綺麗に整備され、集落からの登城路も整備されている)。尾根の東部に削り残した土塁bが残る。その西の曲郭部に微高差の高まりを確認できる。

歴 史

近江国甲賀郡に居住した神保一族もおり(甲賀五十三家のひとつに数えられている)、北山九家のひとつ」。

【六角氏と甲賀武士】

 甲賀武者 甲賀郡の山中に潜み、反撃のチャンスをうかがっていた六角軍は、長享元年十二月になって甲賀山中から幕府軍が撤兵し始めたころ、突如として鈎陣中に夜襲をかけた。『後法興院記』同年十二月三日条によると、「昨日、甲賀の諸勢、開陣の處へ、牢人数千蜂起し、頗難儀に及ぶと云々」とあり、また『甲賀二十一家先祖書』の中の「甲賀二十一家之由来」には、「六角高朝臣、甲賀之城主等を以て、先手として夜討也。此合戦に甲賀土武者五十三人の内、二十一人軍功著によりて、世に之を二十一家という」と記されており、六角高に従軍した甲賀武者たちの動向を知ることができるのである。特に高にとって甲賀の地は、逃避地として重要な位置であり、また甲賀郡内も土豪衆として結果を図る甲賀武者たちの活躍は、高方の軍事力に欠くことのできぬものであった。幕府の陣中を襲うことができたのも、その証左といえよう。

 さて、鈎陣中を攻撃した甲賀武士については、甲賀五十三家のうちに十一士が殊勲者として伝えられている。五十三家とは中世以降、小農民の急成長の中で生まれてきた名主層で、甲賀郡域に点在し、その地において勢力を、たくわえ特に戦国期において守護六角氏の麾下に属して奔走した。『青木八郎右衛門家文書』(甲西町)の、「甲賀侍五十三家」によると次の名前が知られる。

  大原源三 鵜飼源八 佐治河内 内記伊賀 服部藤太夫 神保兵内 岩室大学 和田伊賀 芥川左京 上野主膳

  大野宮内 美濃部源五 伴左京 隠岐左近 大河原源太 頓宮四方助 高峰蔵人 瀧勘八 山中十郎 池田庄左衛門 高山源太左衛門 多羅尾四郎兵衛 夏見覚内 岩根長門 野田五郎 青木筑後 葛木丹後 小川源十郎 上山新八郎 儀俄越後 黒川久内 中山民部 高嶋掃部 杉谷与藤次 山上藤七 宇田藤内 鳥居兵内 三雲新蔵人 大久保源内 小泉外記 土山鹿之助 八田勘助 倉智右近 針和泉 饗庭河内 杉山八郎 牧村右馬 上田参河 平子主殿 新庄越後 高野越後 長野刑部

 以上の交名は、六角高方に従軍した者たちである。それぞれの本拠とする場所を示したのが図37である。この五

十三家のうち、服部・青木・内貴の三家は、石部町内に住居を構えていたことがわかる。

 なお甲賀武士の評価については、貞享年間(1684~7)に編さんされた近江の地誌として有名な『淡海温故録』に、次のように記されている。

  甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並の家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云ふは、鈎陣に神妙の働あり。日本国中の大軍眼前に見及し故、其以来名高く誉を伝えたり。元来此忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし由なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し。甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず云々。

集落側の(筍道)城道後世の切通し東の土塁 

神保氏は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山氏の領国越中、紀伊などの守護代を務めた。

 ・・・・長職の嫡子神保長住は武田派であったとみられ、越中を出奔して京に上り織田信長に仕え、越中帰還の機会を待った。

 やがて上杉謙信が急死すると、信長は長住に兵を与えて越中へ侵攻させ、長住は富山城に入城して神保家の実権を取り戻した。しかし天正10年(1582)3月、小島職鎮らが上杉方に呼応して一揆を起こし、長住は富山城を奪われ幽閉された。織田勢により富山城は奪還されたが、信長はこれに怒って長住を越中から追放し、越中守護代神保家は滅びた。

庶流の神保氏張の家系は佐々成政、徳川家康に仕えて旗本となったが、この家は後に平氏を自称した。一方長誠から分かれた紀伊守護代家の神保家も、豊臣家、徳川家に仕えて旗本として生き残った。

また近江国甲賀郡に居住した神保一族もおり(甲賀五十三家のひとつに数えられている)、これも越中神保氏と同族で旗本となっているが、この家は橘氏を自称した。 日本最大の書店街として知られる東京の神保町は元はこの地に旗本・神保氏の屋敷があったからだと言われている。

橋から遠景

バス停から農道を佐治川まで、正面は神保城の遠景 日吉神社バス停

神保氏について詳細は・・・http://senko.無料hp.com/2.html

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


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