城郭探訪

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長久寺陣所    近江国(彦根)

2016年03月29日 | 陣城

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

お城のデータ

所在地:彦根市後三条町  map:http://yahoo.jp/4a7KTb

現 状:寺院

区 分:陣所

築城期:織豊期

陣 主:徳川家康

遺 構:

目標地:長久寺

駐車場:長久寺の駐車場

訪城日:2016.2.28

お城の概要

長久寺は、彦根市後三条町の北東部、壷笠山(平田山)の舌状先端部の山麓にある。

長久寺の南の平田山の舌状先端部には、古墳跡がありその上に【見晴らし台】ある。佐和山城を北に望む好位置にある。

 

 本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。その意匠は桃山時代の気風をもち、小規模ながら均整のとれた建物です。真言宗の寺院で、寺宝に、井伊家より拝領のお菊の皿があります。

 

長久寺概要: 長久寺の創建は長久2年(1041)、勅願により善応(高野山の学僧)が開いたのが始まりと伝えられています。後三条天皇の帰依や真言密教の道場として寺運が隆盛し最盛期には現在の彦根市の半分の寺領を領し湖東三山(百済寺・金剛寺・西明寺)や比叡山延暦寺とも同等の勢力を持っていたそうです。永平7年(1510)の六角・京極氏、元亀2年(1571)の織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失し衰退します。江戸時代に入りると彦根藩主から庇護され再興、寛永6年(1629)には彦根藩家老庵原主税助朝真により本堂(観音堂:入母屋、銅板葺、元茅葺、桁行3間、梁間3間、向拝1間、滋賀県指定文化財)が造営されています。

又、寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿とお菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。

お城の歴史 佐和山城攻めの時の家康本陣

 

 関ヶ原で三成ら西軍を粉砕した家康は、その足で佐和山へと軍を進た。三成は戻っておらず、三成の父や兄が二千八百の兵が籠ったていた

 徳川家康は軍を三つに分け佐和山へと進撃を命じた。一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、二番は細川・黒田、三番は堀尾・浅野、四番は井伊・石川らといった順で進発した面々が三方に別れて進撃する。翌十七日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)へは小早川・脇坂・朽木・小川と美濃勢など、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まった。

 家康は近くの平田山(長久寺)に本陣を置いて軍を指揮、さっそく各隊は佐和山城へと向かい、正午頃には城を包囲する。真っ先に攻め寄せたのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝。

平田山

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

 

長久寺から見晴らし台へ 

見晴らし台金亀山(彦根城) 

佐和山城里根城

本陣の置かれた【長久寺】


「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿

参考資料:関ケ原の戦い

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