城郭探訪

yamaziro

駒井城 近江国(草津)

2013年06月04日 | 平城

お城のデータ

所在地:滋賀県草津市集町坊ノ城 永秀院map:https://yahoo.jp/PMQFf5

現 状:宅地・寺地

区 分:平城

築城期:応永年間

築城者:駒井高郷

遺 構:遺構は消失・堀(用水路)・(駒井氏発祥ノ地石碑)・菩提寺永秀院に墓碑・正三神社

目 標:建分大明神

駐車場:建分大明神

訪城日:2013.6.4

 

 

 

駒井城は、草津市集町 集落。
現在その田園の東方、建分大明神の境内に「駒井氏発祥の地」の石碑が建てられている。神社の南隣には駒井氏末裔が今もお住まいで、建分大明神は最近創建されたもの。

社地は、城の主郭があった辺りで、駒井城は集落を流れる水路は堀跡の名残。

正三神社の隣は阿弥陀寺です。元々、宝光寺の七精舎の一つとして北大萱にあったものが江戸時代に移されました。

再三火災にあったことから明治元年に手原(栗東市)の陣屋を移築し本堂としたが、現在の姿は平成7年に新築されたもの。

阿弥陀寺のすぐ近くには駒井家の菩提寺である永秀院がある。永秀院には駒井氏の墓が建っている、天正16(1588)年、永秀院再建される。名前から、駒井伊賀守永秀が開基したと思われる。(天正16(1588)年創建)

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外駒井氏の墓碑

現在その田園の東方、建分大明神の境内に「駒井氏発祥の地」の石碑が建てられている。神社の南隣には駒井氏末裔が今もお住まいで、建分大明神は最近創建されたもの。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外駒井永秀が再建した正三神社

お城の歴史

応永元年(1394)、駒井高郷が駒井ノ庄を領する

駒井城は、応永元年(1394)駒井石見守高郷によって築かれたとされる。

高郷は、近江源氏佐々木満高の次男で、駒井荘6ヶ村を領して駒井氏を称したのが始まりだとされる。

 駒井氏は代々佐々木六角氏の旗頭を務め、草津や矢橋代官、大津奉行など琵琶湖湊津の拠点を支配し、水軍としての役割を担った。

元亀元年(1570)秀国の時に織田信長の近江六角攻めの折に、正三神社が兵火のため焼失する。天正元年(1573)年、瀬田城主の山岡景隆に攻められ落城。一旦は離散した駒井城下の人々が、再び戻ってきたことにちなんで現在の「集町」と名付けられたとか。正三神社は由緒書きによれば、元亀元年(1570)に兵火により焼失したが、翌年駒井伊賀守永秀が再建したとあった。駒井氏本流と思われる駒井家は豊臣秀吉に仕えて豊前に25000石を与えられる大名となったが、関ヶ原で西軍に与して所領没収となり、浪人の末に加賀前田家の家臣となった。

一族の中には駒井荘に戻った系統があり、現在もその末裔がお住まいになっている。

駒井重勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

駒井重勝(こまい しげかつ、生年不詳 - 寛永12年(1635年))は、安土桃山時代の豊臣政権の大名。文筆に優れ「駒井日記」の著者である。駒井秀勝の子。従五位下、中務少輔。八右衛門。

六角氏に仕えていたが、織田信長により六角氏が滅ぼされたのち、豊臣秀吉に召し出された。大津奉行、草津、矢橋代官を歴任。政治的手腕を秀吉に買われ、豊臣秀次に附けられた。秀次の蔵入地の管理などを司り、また右筆も務める。文禄2年(1593年)、秀次の元を去り、秀吉に直接仕える。そのため、文禄4年に秀次事件に連座することはなかった。その頃には豊後国大野、直入、大分、海士辺郡内2万5000石を領するまでになり、そのうえ、伊勢国安芸郡徳田村、横地村1300石も加増された。越前国の検地奉行なども務める。

処世に長けた重勝であったが、関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城の戦いに従軍し、戦後失領し浪人となる。その後、加賀藩の前田利長に仕えた。

落城後はのどかな風景

 画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外駒井沢・新堂・集・十里・穴村・北大萱の一帯を「駒井ノ庄」と言いました。

中でも駒井沢・新堂・集を「駒井村」といい、駒井城を中心とした城下町でした。城といっても天守閣や石垣はなく、竹藪で囲んだ土塁を築き、周囲を空堀でめぐらせた館です。

 近くの田畑を「中ノ倉」と呼ぶことからも城内に倉があったことが想像されます。「応永の乱」の後、佐々木六角の家臣だった駒井氏により建てられたが、1573年、瀬田城主の山岡景隆に攻められ落城しました。

今は城を囲んだ竹藪もなくなり、田畑が広がる一面のどかな景色となっています。その城跡は美しく掃き清められ建分大明神が氏神様としてまつられています。

 駒井沢から集方面に向かうと正三神社があります。集の氏神様で建立は676年、藤原鎌足の息子である定恵によるものです。火災・台風など幾度かの災害にあうたびに再建されています。境内の観音堂には平安時代のものとされる木造の十一面観音菩薩が安置され草津市の文化財に指定されています。またこの地は宝光寺(北大萱)の4つの別院のひとつ智厳寺の跡地とされ、境内の隅には当時のものと思われる台石や宝塔の丸い石などが今も残ります。こちらの祭神は立木神社と同じ戦の神がまつられています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー・くさと情報ネット「街道物語」

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