城郭探訪

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連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」第2回「湖北十ヶ寺~福勝寺と下坂氏館跡」

2012年09月30日 | 平山城

連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」第2回「湖北十ヶ寺~福勝寺と下坂氏館跡」

第2回「湖北十ヶ寺~福勝寺と下坂氏館跡」

織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀争乱は、浅井氏や六角氏といった武将たちだけではなく、延暦寺や一向一揆などの寺院勢力との戦いでもありました。なかでも一向一揆は大坂本願寺の檄文を受けて、各地で信長と激しい戦いを繰り広げました。

近江の一向一揆は、湖南では金森・三宅(守山市)が、湖北では福勝寺などの湖北十ヶ寺がその中心でした。一向一揆の拠点は寺内町です。寺内町は真宗寺院を核とする集落で、その周囲に土塁や堀などの防御施設をめぐらし、戦国大名などの武家権力の介入を拒否して自治を実現させていました。

今回の講座では、湖北十ヶ寺の一つである福勝寺を訪ね、同寺に残る土塁や堀といった真宗寺内町の痕跡をたどります。またあわせて、福勝寺近くの土豪の屋敷、下坂氏館跡の見学を行います。下坂氏館跡は北近江の土豪下坂氏の居館跡で、土塁や堀、虎口などの遺構が良好に残っていますが、平成23年度里山と文化財が織り成す地域資産再生事業によって雑草木の伐採を行い、遺構がさらに見学しやすくなります。

  • 平成24年9月29日(土) 13:00~16:30 JR北陸本線田村駅東口集合・解散 全行程約4km
  • 新快速長浜行き12:36着 新快速姫路行き12:32着をご利用ください。
  • 東口へは北陸本線下り線ホーム側の改札口から出てください。上り線改札口から出た場合、東口には出られません。
  • 100名(事前申込制)

    滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当
    〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678城郭調査事務所
    TEL0748-46-6144/FAX0748-46-6145/E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

JR田村駅で受付に行列(JRの到着時間に集中)、参加費50円(資料代込)。約150名位参加

旧北国街道(田村山)を長浜方面に北上!                                                                   忍海(おしぬみ)神社。田村山麓にある神社で、素戔嗚尊、菅原道真等を祀る。明治43年只越神社と一簣山神社と合祀して忍海神社となる

旧道・農道で、ご一向衆のお通りだ!

現地見学:史跡北近江城館群下坂氏館跡(末裔の下坂氏は敷地内現在も居住)                                                               解説:長浜市文化財保護センター専門職員

下坂氏館跡平面図

下坂氏の菩提寺 不断光院の茅葺門(フェンスの横から中へ) 下坂氏の菩提寺 不断光院の茅葺門(内側から鍵が架けてます・・・フェンスで外から入れません)菩提寺不断光院菩提寺不断光院の裏の墓地・土塁

下坂宅の裏を抜けて、主屋へ秋です彼岸花は満開です。母屋の茅葺門茅葺門の内側から 江戸時代築で18世紀前半、屋根の茅?・麦わら?は50年位に補修が必要だと思います。

主家の裏側

廁のようです

曲綸跡(郭跡)屋敷兵・武者は何人?郭跡・奥は土塁空堀土塁お屋敷の鬼門の方向?に祠が。

屋敷の前の駐車場に案内・説明板

足利直義の感謝状屋敷の前の駐車場に案内・説明板

         

館跡を道路から

外堀か?・・・現「五井戸川」。

 

講義「元亀争乱と湖北の一向一揆」                                                                          講師:仲川靖(滋賀県文化財保護課)    六荘公民館(長浜市勝町)

 1.浄土真宗と一向衆                                                                                                                                                                                      ①浄土真宗                                                                                                               鎌倉時代初期、親鸞が師の法然によって明かされた浄土往生を説く真実の教えを継承して展開させ、八世蓮如の説き惣村組織を本願寺教団の講組織へ組み込む布教活動で大教団となる。親鸞の時には宗旨名の「浄土真宗」ではなく「浄土を顕にする真実の教え」「法然から伝えられた教え」といい、親鸞自身は独立開宗の意思はなかった。                                                                                         イ)浄土真宗の僧侶は、有髪・肉食妻帯が許され、無戒。宗教儀式(加持祈祷)や習俗にとらわれず「報恩謝徳」の念仏と聞法を大事にし、作法や教えの簡潔。                                                                                                  ロ)本尊(「南無阿弥陀仏」の名号・絵像・木造)の各戸への安置を奨励。                                                             ハ)仏壇を先祖壇や祈祷壇として用いない。

②一向衆                                                                                                       鎌倉時代の僧侶・一向俊聖を祖とする宗派。                                                                                  初めは浄土宗鎮西派の僧侶、後に遊行回国し、踊り念仏、天道念仏を修し、道場を設けた。近江国番場蓮花寺にて立ち往生。以後同寺が本山となる。   (一編坊智真と同時期の人物、念仏勧進聖であったことから一編の「時宗」と混同される)                                                   一向の教義が早い段階で流入した北陸地方では、さらに親鸞が興した浄土真宗とも混ざり合う。浄土真宗本願寺八世蓮如は北陸地方布教では、これに乗じ、吉崎を拠点にした。                                                                                             しかし、蓮如は「一向衆」とよび、親鸞の教えを歪められるとし。文明5年『帳外御文』において「夫れ一向衆なりと云う、時宗方の名なり、一編・一向是れ也。その源とは江州ばんば道場是れ即ち一向衆なり」とし、他宗派のものが勘違いして一向宗と呼ぶのはいかたがないが、本願寺の門徒で一向宗の名前を使った者は波紋する。

「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味。「一つに専念すること」を意味し『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されている。

③宗名論争                                                                                                          江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。                                                         安永3年(1774)、西本願寺と東本願寺が幕府に「浄土真宗」のみを公式名称にするように意見書を出し、非本願寺系の高田派、仏光寺派などが呼応。寺社奉行松平忠順が寛永寺と増上寺に見解を求め、増上寺は不許可とする。松平忠順の後を継いだ太田資愛、老中田沼意次と協議し宗派名を「一向宗」と決定。天明8年(1788)浅草本願寺の僧が松平定信に直訴。定信、寛永寺の綸王寺宮に仲裁を仰ぎ、寛永元年(1789)「三万日(82年と70日)の間寛永寺でこの問題預かるとの仲裁案を出す。                                                                       明治政府、「一向宗」以外の呼称を禁ずるが、真宗教団の猛反発を食らう。明治5年(1872)略称の「真宗」を認める。                                                                                                                                                                                            国家による宗教統制が解かれた第2次世界大戦後、西本願寺、「浄土真宗西本願寺派」と正式に名乗る。

 

現地見学:福勝寺(長浜市大戌亥町) 解説:長浜市文化財保護センター専門職員 

福勝寺城江北十ヶ寺

北端と西端に石山川が流れ、南方には五井戸川に合流する水洗川があって石山川とは引水路で結ばれ、西方には北国街道、南方には五井戸川を挟んで下坂氏の居城がある。

 字内の福勝寺は湖北十ヶ寺の一つとして知られ、四方約100mの敷地を有する当寺は周囲を囲む石山川と水路を内堀とし、水洗川または五井戸川を外堀に利用していて、北西には堀と称する小字名も残っている。

 また、内堀と外堀の間の鍵状に曲がる参道は矢通しの機能を持ち、本堂の西側と北面に土塁が残り、西面は幅2~3m長さ45m最高部50mで、北端から15mほど南下したところにV字型の堀切が見える。

 北面の土塁は長さ約55mで、西端部は南に約10m折れ曲がっていて先の掘切部分まで続き、これらの土塁の幅は2~5mある。これに対して東端部は東西8m南北16m高さ2.2mの台状をなし、これは伊吹山を写景にした書院の庭園の築山部分を兼用し、見張り台的な役割も果たしたと伝える。

 なお、当寺は浅井氏と本願寺の仲介役を務めたため信長に破壊されたと思われるが、湖北の真宗道場の多くはこうした防備を施していたと思われる。

秋です、栗が一つ弾けました。

長浜市のマンホール「秀吉の千成瓢箪」

 

本日の歩数 15,100歩   2時間29分    10.5km

消費カロリー 459.7kcal    脂肪消費量 70.8g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

案内添付資料: 

下坂氏館(しもさかしやかた)(滋賀県長浜市下坂中町)
 下坂氏館は、長浜平野の南西部を姉川から分かれて流れる五井戸川に沿った、自然堤防となっている微高地に位置しています。館跡からは、東に伊吹山、西には琵琶湖を望むことができます。
下坂氏館跡空撮写真

下坂氏は坂田郡にあった下坂庄の国人領主でした。その出自については諸説ありますが、南北朝の騒乱期には足利方として活躍していたことがわかっています。その後応仁の乱から戦国期にかけては、京極氏や浅井氏の家臣として活躍したことが多数の文書に残されています。浅井氏滅亡後、下坂氏は織田氏の誘いを断って武士であることをやめ帰農しますが、江戸時代には彦根藩と郷士として関わりを持ちました。現在も館跡には下坂氏のご子孫の方が居住し、土地、建物の管理をしておられます。下坂氏館(しもさかしやかた)平面図

下坂氏館跡平面図
 館跡は、東西約89m、南北約87mのほぼ正方形の範囲を東西約55m、南北約42mの土塁によって囲まれる主郭、その北東側と南西側にある4つの副郭によって構成されており、その周囲を土塁、堀が囲んでいます。土塁は高さ約1mから2m、幅約2~5m、周囲の堀は幅約5mから13m、深さ約1~3mの規模があります。副郭のうち、南西側のものは一段高くなっており、伝承では有事の際にここに立て籠もり防戦したとされます。主郭を囲む土塁の東側には高さ約2m、幅約7mの虎口を設けてあります。また、館内東南部には下坂家の菩提寺である不断光院が所在し、その東側には幅約5mの土塁が、現状で約30m残存しています。館跡内部には、18世紀前期に建築されたと考えられる主屋と門、不断光院の本堂などが所在し、往時の景観を維持しています。長浜市教育委員会が平成16・17年度に実施した時期等を確認するための調査では、土師皿や輸入陶磁器など14~16世紀の遺物の出土とともに建物跡・土塁跡・排水路跡・階段状遺構等が検出され、その成果から14世紀から館跡が存在したものと想定されています。

現在も遺構・景観を保っている、南北朝から戦国期にかけて活躍した下坂氏の館跡は、周辺に良好な形態で残る平地に築かれた居館群と併せて、我が国の中世から近世にかけての地域支配のあり方を考える上で貴重なものとなっています。

堀と土塁土塁
 下坂氏館跡へは公共交通機関の場合、田村駅からは徒歩20分程度、また、長浜駅からはバスを利用し、高橋停留所で下車後、館跡まで徒歩10分で向かうことができます。

 下坂氏館跡では、平成23年度に長浜市が実施した里山森林と文化財整備を兼ねた事業により、内部に繁茂した竹が間伐され、案内板等が整えられました。土塁の形状も捉えやすく、見学し易くなりました。


 なお、館跡内には個人の住居・医院があるため、見学の際にはご配慮をお願いします。 


参考資料:「淡海の城」友の会事務局より


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