城郭探訪

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【探訪】「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」 2012.12.15

2012年12月18日 | 探訪「大地の遺産」

 瀬田唐橋は『日本書紀』にも登場する古代からの有名な橋です。歴史的には「瀬田橋」「唐橋」「長橋」などと呼ばれてきました。

琵琶湖大橋や近江大橋が出来る以前は、琵琶湖・瀬田川の東西を結ぶ唯一の橋であったことから、瀬田地域には古代近江国の政治の中心として近江国庁や近江国一ノ宮(建部大社)が営まれる一方、壬申の乱(672年)や源平合戦(1180~85年)、また本能寺の変(1582年)の後の攻防など、多くの戦いの舞台ともなりました。

 出発式

明治天皇鳥居川小休所址・・・黒の扉の中を覗いてみたい! 

江戸時代看板?江戸時代の石山の街道筋(選挙ポスターが!)

 

石山から、勢多の唐橋(唐茶に塗り替えで綺麗)中之島の句碑  中之島から草津方面中ノ島の唐橋から琵琶湖側に、俵籐太(藤原秀郷の「むかで退治」伝説が・・・)

唐橋を渡る(琵琶湖側、車道渋滞、歩道は無人)

唐橋の下流側から、対岸の摸細工・・・俵籐太

 

太平記巻第二「俊基朝臣再関東下向事」

落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、
........中略..........
憂きをばとめぬ相坂の、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打ち出の浜、沖を遙かに見渡せば、
塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮き舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、瀬田の長橋 打ち
渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかと哀れ也。


元徳三年(1331)蔵人右少弁日野俊基卿が、幕府打倒の企てが露見して、鎌倉へ送られる時
の道行きである。
片野の春の桜狩りは大阪の交野の桜を詠んだ藤原俊成の次の歌をふまえて
いる。

明治29年9月23日・・琵琶湖大洪水の時の水位!!!(現在の湖面より5m位高い!)

明治29年(1896)は雨がたいへん多く、1月から8月までの雨量は、平年の一年分に相当する1637ミリを記録していた。

9月になると、寒冷前線が台風の接近によって活発化し、彦根では9月7日から8日までの24時間で、684ミリという未曾有の豪雨となった。

鳥居川の量水標も、平常時が83センチのところ、約4.1メートルに増水し、琵琶湖周辺の各地が冠水、甚大な被害が出た。

写真は、大橋堀の東側、現在の浜町付近の被害状況。子供の腰のあたりまで増水しているのが見える。写真は、大津市内川口町(現浜大津二、三丁目)の被害状況を撮影したもの。写真の場所は、川口町(現浜大津二、三丁目)。住民は蔵の屋根に上って避難し、舟で往来している様子が分かる。

夕照山 西光寺・・・船着場前・・・近江八景「瀬田の夕照」

織田信長が、現在の位置に瀬田(勢田)の唐橋を架けるまで、約100m上流のこの位置。唐橋が掛かっていて・・・橋本町の町名は、現在も使われている。

旧街道・・・東へ行けば建部大社へ

湖面から唐橋を

俵藤太

(別名:「田原藤太秀郷」 「藤原秀郷」)

 

 歩道に、「むかでの図柄」 

歩道に、「むかでの図柄」 

 

膳所城主、本田家(徳川の縁籍)の家紋【立ち葵】

 

瀬田城址に、マンションが!

エンコ(100m地下から湧水・・・多分湖南アルプスの伏流水)エンコ、鉄分を含んでキノコ旧東海道!

たにしあめ(飴の形がタニシに似ている)、味は昔の飴。

 

建部神社へ

 

 

今上天皇お手植えの松(大正)

 

今上天皇お手植えの3本杉(昭和56年)

 

 

宝物殿のお宝 

 

 

 

 

 

 

【滋賀県歴史探訪】:Eコース歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」探訪記 INDEX

本日の歩数 17,897歩   2時間50分    12.5km
消費カロリー 759.4kcal    脂肪消費量 108.4g
 
 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


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