城郭探訪

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嶋左近屋敷(彦根市佐和山)

2012年09月27日 | 館跡

嶋左近屋敷(彦根市佐和山)

井伊直正の供養塔があるという清涼寺が、嶋左近の屋敷の跡であるという。                                    背後にそびえて見えるのが佐和山城の本丸である。

嶋左近屋敷の石垣も残っているという話であったがどこのことなのかよく分からない。                                   しかし穴太積みと思われる石垣はあちこちにある。

龍潭寺山門

(宗安寺山門)宗安寺(彦根市)の移築門
彦根城の南側にある宗安寺の赤門は、かつて佐和山城の大手門であったという。ということは左の写真の大手口のところにこの門があったということになるが、ちょっと想像がつかない。
(高源寺山門)高源寺(多賀町)の移築門
佐和山城は、交通の要衝に築かれた城で、鎌倉時代の建久年間に佐保時綱によって築かれたと云われている。                                       室町時代には、観音寺城主佐々木(六角)定頼の持城となり、大永年間には重臣小川左右大輔を城主にしている。
 戦国時代になると、小谷城主浅井氏の持城となり、磯野昌吉・員昌が城将となり、元亀元年~天正10年にかけて織田信長と戦い、そしてついに開城した。 
 本能寺の変後、豊臣秀吉はこの城の立地条件から有力武将を城主に配置した。 天正11年に堀秀政が5万石で城主となり、天正13年に堀尾吉晴が城主となり近世城郭へと改修が始められた。
 天正18年、石田三成が194,000石(後に21万石)を領して城主となった。 三成は、改めて城と城下町の整備を行ったが、慶長5年の関ヶ原の合戦に敗れ、居城佐和山城も東軍に攻められ落城した。
 関ヶ原の戦功により、上野高崎より井伊直政が18万石を領して入城するが、その後彦根築 城により廃城となった。

 

 

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