城郭探訪

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六角氏最後の戦い~「鯰江城跡・井元城跡」現地見学会 近江国(愛東)

2014年01月28日 | 歴史講座・フォーラム

連続講座「近江の城郭」 第3回 六角氏最後の戦い~鯰江城跡・井元城跡

 鯰江城は愛知川右岸の河岸段丘を利用して築かれた城で、六角承禎・義治父子が信長によって観音寺城を追われた後、元亀争乱の頃に地元の土豪鯰江氏を頼ってここに籠もりました。天正元年4月、織田信長は佐久間信盛らに命じて鯰江城を包囲し、同年9月籠城していた六角義治は降伏して城を出ました。織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀争乱はここに終わりを告げます。この鯰江城の約1km東にあるのが井元城です。織田軍が鯰江城を包囲するために築いた付城で、城の入り口部分に馬出しと呼ばれる空間を二重に設けた「重ね馬出し」という珍しい構造を持つことで知られています。

 今回の講座では、現地に残された鯰江城跡・井元城跡の遺構を、地元東近江市の文化財専門職員の案内

日時 平成26年1月26日(日) 10:30~14:15

     ○鯰江町自治会館集合(東近江市鯰江町1296 ちょこっとバス鯰江下車徒歩5分)

       ※鯰江町自治会館の地図はこちら

○滋賀県平和祈念館解散(東近江市下中野町431 ちょこっとバス愛東支所・診療所前下車すぐ)

※平和祈念館は解散後自由見学(入館無料)

※ちょこっとバス愛東線北回り 愛東支所・診療所前14:59発→近江鉄道八日市駅15:22着

       ※ちょこっとバス愛東線の時刻表はこちら

場所 講義:鯰江町自治会館

現地見学:鯰江城跡・井元城跡(東近江市鯰江町・妹町)

行程 鯰江町自治会館(講義→昼食)→鯰江城跡→井元城跡→滋賀県平和祈念館 約4km(平坦道)

主催 滋賀県教育委員会

協力 東近江市教育委員会 東近江市鯰江町自治会

講師 講義「元亀争乱の終焉」 松下浩(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課)
    現地探訪 東近江市教育委員会文化財専門職員

定員 60名(事前申込制) 参加費 150円(保険料等実費分)

講座 

 鯰江城は、愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる要衝の地にある。

 元亀元年(1570)朝倉攻めを開始した織田信長が手筒山城、疋壇城を落とし、金ヶ崎城をも落とさんとした時、妹婿の浅井長政の離反によって、朽木越えで京へ逃げ帰った。
 その頃、信長によって観音寺城を追われた六角承禎は鯰江城を居城としており、美濃へ帰国し軍の立て直しを図らんとする信長に対し、六角承禎は八風街道を押さえるこの城を拠点に信長の美濃帰国を妨害した。
 八風街道を使えなかった信長は、御在所岳の麓を通る千種街道を通って帰国することになるが、この時杉谷善住坊に狙撃される。

 城郭遺構としては、昭和初期まで空堀なども残っていたとされるが、現在では土塁が字内に数ヶ所残されているだけである。
 なお字内には “おとぐち” という地名が残っている。この “おとぐち” は大手口が訛ったものものであろう。

 

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 鯰江城主 佐々木箕作義賢男 佐々木右衛門督義弼の名が見える。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

 8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

  久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。

  翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。

こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。

-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
-----------ここまで

歴史
 鯰江氏が、いつごろこの他に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として文永5年(1268)よりその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。

 永禄11年(1568)、観音寺城を信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門等、六角旧臣と謀り、堀を深くし、土塁を高くするなど修築を加えた。
 この時、空堀に愛知川の水を引くため “備前堀” と称する堀を掘ったとされるが完成までには至らず、天正元年(1573)9月、信長方の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

発掘調査から

【鯰江城遺跡から石積み遺構と門跡が見つかる・2001年5月8日追記】
 室町時代の鯰江城遺跡を発掘調査していた愛東町教育委員会は土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

 調査は約180m2を対象に行われた。土塁の仕切り幅は約1.8mあり、両基底部に石積みが施されている。残りのよい片方は3段(高さ0.75m ・ 幅6m)積み上げている。石材は砂岩系の自然石で横方向に長く置いている。
 石積みに接して礎石と思われる平らな石と釘が見つかっており、土塁の仕切りは門跡と考えられ、本丸郭の通用門の可能性がある。また、石積みの北西部分で長さ1.5m、幅0.25m、深さ0.2mの排水遺構も検出されている。
 さらに内部からは焼土が検出されている。遺物としては土師器、瀬戸美濃陶器が少量出土している。

 安土城(1567~1582)以前の城は土塁を築き、石積みは観音寺城小谷城など限られた城郭でしか確認されていなかったが、鯰江城でも観音寺城などと同じ様に石積みが採用されていることが判明した。そこに、六角氏の意向が強く反映していたことが伺える城郭といえる。

 

 

 

 

鯰江バス停の石碑・説明板

鯰江町自治会館の地割図・説明板

所在地:東近江市鯰江町http://yahoo.jp/nsrKCn                                                                     築城期:室町後期
初城主:土豪 鯰江氏

改築期:織豊期

改築者:佐々木右衛門督義弼

区 分:平城

現状:集落・宅地
遺 構:土塁・石垣
城 域:400m×250m
戦 い :元亀の乱・・・終焉
 元亀4年(1573) ◎織田信長VS ●六角義治

  

 

専修寺境内土塁

http://yahoo.jp/qQmiPp

 

愛知川よりの物見櫓http://yahoo.jp/lUsrjv

大手門の土塁http://yahoo.jp/EBmDKL

大手口横にあり、虎口を形成していた西側土塁。

大手口横にあり、虎口を形成していた東側土塁。

本丸土塁(高さ1.7m、幅6m)を仕切る基底部に石積みのあることを確認した。

鯰江城本丸跡(公民観南側の民家裏手にあり、高さ1~2m)

鯰江氏の墓石・五綸の塔

井元城

井元城跡縄張図(滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/zdVPWR

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

お城の概要

 愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

重ね馬出の土塁と空堀

 そうしたことを踏まえて考えると、井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻めがあります。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高いのではないでしょうか。発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

\\\\\\\信長公記 巻六 元亀四年 15、小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事\\\\ 

  8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。

   久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。 翌日公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を死に追い込んだ。

  小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

  9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。 

 \\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

   5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだこれにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 

 \\\\\\\信長公記 巻六  復讐  杉谷善住坊成敗の事\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

  杉谷善住坊という鉄砲の名手がいた。先年(元亀元年1570年)、信長公が千草峠を通行した際、六角承禎に依頼されて信長公をわずかに十二、三間の距離から鉄砲二玉で狙撃した者である。このときは天運あって玉は信長公の身を少しかすめただけで終わり、信長公は虎口を逃れて無事岐阜へ帰り着くことができた。
 その後善住坊は鯰江香竹を頼って高島に隠居していたが、このほど磯野員昌に捕らえられて9月10日岐阜へ護送されてきた。

   岐阜では菅谷長頼と祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議をおこない、善住坊から千草山中での一件を余さず尋ね出した。これにより善住坊は路傍に立て埋めにされ、通行人に首を鋸で引かれる鋸引きの刑に処された。

 

  信長公は復讐を果たし、年来の憤りを鎮めた。上下の満足はこれに過ぎたるものはなかった

 \\\\\\\\\\\\\\\『信長公記』巻六-五、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事\\\\

  守山を出た信長公は百済寺(近江・愛東)に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城(近江・愛東)に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた。 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった。そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった。信長公はその時に備え、大船を建造して五千・三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた。

\\\\『信長公記』巻六-五、百済寺伽藍御放火の事\\\\\

◆元亀4年(天正元年、1573)
「是より直に百済寺へ御出で、二三日逗留これあり。江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。攻衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮、仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。哀れなる様目も当てられず。其日岐阜に至って御馬納れられ候き。公儀右の御憤を休められず、終に天下御敵たるの上、定て湖境として相塞がるべし。其時のために大船を拵え、五千も三千も一度に推付け越さるべきの由候て―」

 

参考資料:信長公記、愛東の歴史ダイジェスト版、現地説明板、東近江市文化財専門委員の説明

本日も訪問、ありがとうございました。


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