城郭探訪

yamaziro

勝長氏館  近江国(日野)

2016年04月29日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町松尾   map:http://yahoo.jp/ZmBIia

現 状:集落・神社

区 分:居館

築城期:江戸期か?

築城者:勝長氏

遺構:標高:196m  比高差:10m

目標地:勝長神社

駐車場:勝長神社近くに路上駐車

訪城日:2016.4.8 

お城の概要

松尾の丘の上にある。付近は住宅が多い。広くはない。このあたりは蒲生野である。この神社の周辺は近江の金属採取と精錬の地域であったようだ。

勝長氏館は、松尾地区の『勝長が岡』が居館跡と云われ、現在の勝長神社境内周辺にあった。神社と周辺の宅地は、丘陵頂上部にあり、神社境内から日野の市街地を南に見下ろすことができ、ここに豪族の居館が築くのに適した地形と思われた。

お城の歴史

勝長氏館は、築城年代は定かでないが勝長氏によって築かれた。

 日野の綿向神社の現本殿は、宝永4年(1707年)に、蒲生家の家臣・勝長半兵衛なる者が宮奉行となり氏子中の寄進により再建された。また、宝永5年(1708年)徳川綱重の代官・竹田喜左衛門政為は社殿を修造する。徳川綱重は第3代将軍・徳川家光の三男で、6代将軍・家宣の父にあたる。綱重は甲斐甲府藩主であったが、所領は甲斐、武蔵、信濃、駿河、近江に散在したことから、近江に代官がいてもおかしくはないが、1678年(延宝6年)兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳の若さで死去したので、宝永5年(1708年)に綱重の代官は存在しない。
 また、蒲生家も寛永11年(1634年)に断絶しているので、宝永4年(1707年)の蒲生家の家臣・勝長半兵衛なる者の正体不明。

              

  

    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、綿向神社の由緒

  本日の訪問ありがとうございす!!


森氏館     近江国(日野)

2016年04月29日 | 居館
  
お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/vy_WIz

現 状:竹藪・畑地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:森民部丞

遺 構:廓・敷割 詰め城(210m)

標 高:200m   比高差:13m

目標地:標の松塚

駐車場:標の松塚横空き地に駐車

訪城日:2016.3.27

お城の概要

日野町村井の信楽院の西(往古日野川対岸=1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯)に位置する、又、現在は館の上部は墓地に造成されている。墓地への参道を挟んで西丘陵城に詰め城と思われる遺構が現存する。

また、参道の脇には、『標の松塚』が祀られいる。蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)
永正元年(1504)、蒲生貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それが「標の松塚」。

お城の歴史

蒲生家 家臣
 森民部丞 元亀元年四月、越前攻めに参加。天正十八年、韮山城攻めに参加。天正十八年十月、五千五百石。
 天正十九年、奥州攻めで戦功があった。五千五百石。子は成見、大膳。
 蒲生氏郷に伴い(伊勢松坂・会津黒川(会津若松)へ

 蒲生成見  森民部丞の次男。権六。蒲生真令の婿養子。義父と異なり、石田家には仕えず蒲生家に残った。
 蒲生大膳  森民部丞の子。権六の弟。蒲生真令が石田家に仕えると、それに従い石田家に移る。
         関ヶ原合戦では西軍に属す。敗北後、戦場から無事に逃れている。
森氏館(遺跡ウォーカーの比定地)遠景
 墓地への参道奥が墓地 
          
参道を挟んで、詰め城か?見張り台か?
         
  
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、蒲生家の家臣
 本日の訪問ありがとうございす!!

平尾館    近江国(愛東)

2016年04月28日 | 居館

  

 お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)平尾町 map:http://yahoo.jp/nJeMpK

現 状:集落・宅地馬

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:平尾平助

遺 構:

目標地:北野神社・平尾会議所

駐車場:平尾会議所に駐車

訪城日:2016.4.16

お城の歴史

北野神社の御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉(信長の九男・鍋との子))その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

『甫庵信長記』に、馬廻として平尾久助はいるが、『信長公記』には、馬廻として平尾平助がいる。

『信長公記』 天正十年(壬午)・・・・六月大 二日 午の刻に京都から早馬が来て、今朝本能寺にて信長が他界したと告げる。明知日向守光秀が中国への軍勢を丹波から京へ差し向け逆心して信長を討ったということである。京都から同時に届けられた書状は次の通りである。

「本日卯の刻に光秀が一万七千騎で丹波から京へ入り、二手に分かれて攻め向かう。光秀は七千騎にて本能寺へ向かう。もし信長へ加勢の軍勢があれば横鑓に攻め懸かって討つようにと明智左馬助を大将として六千騎が内野に控えて陣を取る。卯の下刻に本能寺合戦が始まり、巳の刻に本能寺に火がかけられ信長が自害する。」

 本能寺にて討死した面々は、森乱丸、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正材、村田吉五、澤田伊賀守、小川愛平、金森義入、魚住勝七、今川孫二郎、乾兵庫助、狩野又九郎、薄田與五郎、森力丸、同小坊丸、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀松、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀介、柏原鍋丸、祖父江孫介、大塚彌三、同又一郎、平尾平助、針阿彌、津田茂助、織田源三郎殿、松田主水正、小倉松助、湯浅甚介、中尾源太郎、高橋虎松丸等である。この他に逃げ散った者は多い。以上の者は残らず討死である。さらに御馬廻衆五十三騎が討死したということであるが確かなことはわからないので名前を記すことはできない。・・・・・。

平尾平助は同一人物か?

遺跡ウォーカーの比定地

北野神社 滋賀県東近江市平尾町617

御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉)その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧愛知・犬上郡の城」北野神社の由緒・信長公記

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山本館 近江国(日野)

2016年04月16日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町山本   map:http://yahoo.jp/yiVmdu

現 状:集落・宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:山本氏

遺 構:

目標地:山本会議所

駐車場:山本会議所に駐車

お城の概要

蒲生郡日野の山本館は、小谷城に近く、

「江州佐々木南北諸士帳」に、小谷住 蒲生末 小谷次郎三郎の名が見える。蒲生氏の支流小谷氏の居城で

「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。
 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。この時山本九郎兵衛も闘死したか?

お城の歴史

『近江蒲生郡志』(巻三)には「月岡山は北比都佐村大字山本に在り、山本氏居住の地にして小丘たり、山本九郎兵衛は永禄七年九月亡すこの地墓在りと蒲生奮跡考に見ゆ」と記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、近江蒲生郡志、 遺跡ウォーカー

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内池館(内池城)  近江国(日野)

2016年04月15日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町内池    map:http://yahoo.jp/52Ibj1

現 状:宅地・藪地

区 分:居館

築城期:

築城者:

遺 構:竹藪に堀痕・土塁痕

目標地:鈴休神社

駐車場:鈴休神社前の路上駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

日野駅の南東1.7km先の右手が「鈴休神社」で、神社の裏手に竹藪が残る、ここも城跡遺構の一部で西端のようだ。

御代参街道(江戸期に完成した)に面した北側で、内池集落内が城域は100m程の方形だった可能性が残る。

また、馬渡氏城/対馬守邸・土居/馬渡氏館と隣合わせで蒲生氏の臣の城館か?

お城の歴史

詳細不明。

遺跡ウォーカーの比定地周辺

鈴休(すずやみ)神社

飛鳥から大津京へと都を遷した天智天皇がさらに美しい都を求めて、この地へ来られ馬を休めたところが社地になったと伝えられているようです。

天智天皇が旅の途中で休まれた故事に!

始めて見る狛犬!

大日堂

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、 城郭分布調査3、 

  本日の訪問ありがとうございす!!


馬渡氏城(対馬守邸・土居/馬渡氏館) 近江国(日野)

2016年04月15日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町内池    map:http://yahoo.jp/VpmzGV

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:馬渡氏・

遺 構:ー

目標地:鈴木神社・照光寺

駐車場:鈴木神社前の路上駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

『近江蒲生郡志』(巻三)には、「内池村の東に在るを馬渡二郎右衛門の邸跡といひ、西に在るを対馬為綱の邸跡といふ、二郎右衛門の邸辺に馬渡の清水馬渡の橋等の名残れり、・・・為綱の邸は四方土居を回らして密竹其上に叢生(そうせい)す、故に高薮又は対馬土居といふ」とし「近江日野町志」(下巻)には、「保障残れり対馬殿の曲廓と称す」とあって少なくも伝対馬守館跡は明瞭な遺構が存在したと思われるが、現在「馬渡講」という真宗門徒の講があるのみ。なお、郡志は、「高い声すなどんどをいふな、前は高薮殿近く」という「土謡」を伝えている。 

お城の歴史

『近江蒲生郡志』には、「馬渡氏邸跡 馬渡対島守は蒲生氏の臣なり、代々居住の邸跡は北比都佐村大字内池に在り。」と記す。


蓮如桜の由来

建長3年(1251年)に執権・北条時頼が上洛の途中に当地に 逗留 ( とうりゅう ) したとき庭前の桜を愛観し、扇子に和歌を 詠 ( よ ) み 桜花 ( おうか ) を載せて佐々木 信治 ( のぶはる) に与え、「之を家紋に、また佐々木を改めて花木を姓とすべし」と命ぜられた由来をもつ山桜の一種『虎の尾』で、可憐な八重咲きが特徴です。

応仁元年(1467年)に本願寺第八代・蓮如上人が当寺へ来られた時、上人もまた深く賞覧せられたゆえに、世に名付けて『蓮如桜』と呼ばれています。

 照光寺は、應仁二年(1468年)近江源氏の始祖、源扶義卿より十九世の子孫である、花木吉成によって創立された寺院です。

 鎌倉時代の宝治元年(1247年)に佐々木信治が戦功によってこの地に住み、北條時頼公の上洛の途次に、信治の館舎(當寺)に停留の時、庭前の櫻花を愛観され、自ら扇子に櫻花を載せ、信治に与えてこれを家紋とし、また佐々木を改めて花木を姓とすべきと命じられました。

室町時代、もともとは武士であった吉成が、文正元年(1466年)本願寺第八世・蓮如上人(慧燈大師)が山門僧兵の難を逃れて、當地に来られた際に出遭い、蓮如上人の高徳を慕って弟子となり、光國坊了明という法名を賜り、常に蓮如上人のそばで大いに蓮如上人の化導を助け、蓮如上人が北越に還させられた後は、専ら面授口決の宗義を弘め、遂に花木寺を創立するに至りました。

永正八年(1507年)、嗣子了欽のとき、本願寺第九世・寶如上人より、父光國坊、宗義の宣布の功を賞し、宗祖・親鸞聖人(見真大師)の真影と、照光寺の寺号を賜り、花木山・照光寺となりました。

照光寺駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、城郭分布調査3、城郭分布調査4、近江蒲生郡志、近江日野町志

 本日の訪問ありがとうございす!!


建部城   近江国(八日市)

2016年04月14日 | 居館

建部城

 一つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城遺跡:遺跡ウォーカー

お城のデータ
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町  map:http://yahoo.jp/lspa9X
  一つ目の比定地(遺跡ウォーカー)
現 状:神社・水田
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:建部氏
遺 構:
目標地:天神社
駐車場:神社前に路上駐車
訪城日:2016.4.11

二つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城跡 [ 詳細情報 ]
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町447  map:http://yahoo.jp/fI_hqR
現 状:竹藪・水田
目標地:東近江市勤労福祉センター
駐車場:東近江市勤労福祉センターに駐車
訪城日:2016.4.16

お城の概要
『滋賀県中世城郭分布調査4』の「建部城」、現在城跡を確定する痕跡は全く知ることはできない。但、明治の始めまで上中南町の硝煙作に土塁が認められたいう。この隣接地には「南門」「嘉城門」の地名が残っており、さらに南には殿街道が知られている。また土塁所在地の北に位置する大鯛は砲台ではなかったかと言われており、北西には砲前・的場の地名が残る。以上のように当地には広域渡って城の存在を暗示させる地名が知られた。しかし、かつて存在した土塁の新古が判明しないいま城跡の位置は確定しがたいといえる。
 箕作山魂の箕作山の東の建部庄郷上中村の付近を比定地され、圃場整備で遺構喪失したようだが、天神社の鎮守の森に城郭遺構らしき物が残る
 滋賀県東部、近江盆地(湖東平野)に位置する。町域の東部を愛知川、北部を繖山(主峰は観音寺山)・清水山、西部を箕作山(小脇山)、中央部は平地が広がる。五箇荘町南部は旭村を構成していた山本・新堂・木流・平阪・伊野部・奥・三俣・北町屋・石塚建部地区とつながりが深く、春には両地区合同で祭礼(建部まつり)を行う。
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、神崎郡 建部庄 「古ハ建部氏居住ス、後孫中古建部伝内トテ筆道ニ達シタル人有、木流村ニ居住ス、屋敷跡今ニ有ト云、」と記す。
南近江 国人領主 建部氏

建部賢文 (1522~1590)建部秀昌の息、兄は秀治。箕作城主。のちに書家として大成する。

建部秀明 (*~*1568)源八郎。1568年織田信長の上洛軍に対して、六角義治に忠節を尽くし徹底抗戦し落城。観音寺城の前衛・箕作城主。

⇔建部寿徳 (1536~1607)与八郎・内匠頭・高光・秀栄。蒲生郡の土豪。織田家に臣従する。中川重政の与力。・丹羽与力。守山にて500石を与えられる。変後、秀吉に出仕。<じいさんっぽい名前ですが、丹羽・羽柴世代。>



建部氏の一族の居館か?

『信長公記』巻三(元亀元年)10月20日条に記載あり
ーーーーー江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した途中の建部には一揆勢が砦を構え近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。----

[尊経閣文庫所蔵文書]
**源頼朝下文
     (花押)
  下 近江国建部庄住人
   早く往還武士寄宿の間の狼藉を停止せしむべき事
  右件の所は、日吉社領と云々。而るに往還の武士止宿の間、或いは乗馬を放ち入れ、
  或いは作田を苅り取り、しかのみならず粮料と号し、御供米を押し取るの旨、その聞
  こえ有り。自今以後、件の寄宿狼藉を停止せしむべし。もしこの旨に背き、違背せし
  むの輩有らば、慥に交名を注し、言上せしむべきの状件の如し。以て下す。
    文治二年閏七月二十九日 ・・・・『吾妻鏡』より

 中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦い【箕作城(清水山城)の戦い】では町域全域が戦場となった

 室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石塔・沓掛・小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市・小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退する。

 江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。

元亀天正の兵乱により戸籍神宝等焼亡或は紛失しているが建部郷の・・・・。

土塁?土塁?、神社土塁?

天神社の周り神社土塁?、堀痕}

 

二つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城跡 [ 詳細情報 ]
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町  map:http://yahoo.jp/fI_hqR

現 状:竹藪・水田

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:建部氏

遺 構:塁痕・堀痕・廓跡

目標地:東近江市勤労福祉センター

駐車場:東近江市勤労福祉センターに駐車

訪城日:2016.4.16

建部氏に一族の居館か?

この一角だけ、竹藪・荒地地で残る。遺構は土塁痕・堀痕・廓跡のようが

建部氏の本幹地は、建部城は建部城(建部伝内屋敷) 近江国(五個荘・木流) 建部城遺跡:遺跡ウォーカー

『佐々木南北諸氏帳』には、「神崎郡 木流 佐々木隋兵 建部源八郎・近江三筆 建部伝内・建部才八郎・建部左近将監・建部大蔵・建部大蔵夫」6人の名を記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 木流村 「古此所ニハ建部伝内ト云人居住ス、筆道に達人ニシテ伝内流ノ元祖也、古屋敷跡今残レニト云、」と記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 建部庄 「古ハ建部氏居住ス、後孫中古建部伝内トテ筆道ニ達シタル人有、木流村ニ居住ス、屋敷跡今ニ有ト云、」と記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)、信長公記、吾妻鏡、
 本日の訪問ありがとうございす!!

川並館 近江国(五個荘)

2016年04月12日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市五個荘町川並  map:http://yahoo.jp/XlS5gX

区 分:居館

現 城;宅地

遺 構:不明、塚本の八幡神社の東「川島皇子邸阯」あり

築城期:室町期

築城者:川島氏

目標地:老人ホーム「清水苑」

駐車場:(老人ホーム「清水苑)近くの比定地付近

訪城日:2013.5.13・2016.4.10

お城の概要

川並地区の「結神社」に近くの老人ホーム「清水苑」「児童公園」の北東に道を挟んで比定地ある。

今は、静かな住宅が並ぶが、比定地は空地となっている。

また、塚本の八幡神社に東に

 

お城の歴史

『淡海木間攫」には、「神崎郡 川並村 此所に川島掃部介ト云人住ス、屋形近習ナリ、昔川島王子ニ隋来ル筋ナランカ、」と記す。

高橋対馬の名があるようです

児童公園




塚本の八幡神社(屋形近習ナリ、昔川島王子ニ隋来ル筋」

隣の八幡神社の由緒

 

川島皇子の邸阯

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城 、淡海国小間攫、塚本の八幡神社由緒(川島皇子の邸阯)

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


塚本館 近江国(五個荘)

2016年04月12日 | 居館

比定地

 

比定地

所在地:東近江市(神崎郡)五個荘塚本町    map:http://yahoo.jp/_TDGdI                                                      

現 状:畑地・宅地

遺 構:土留め石垣か?消失か?

区 分:居館

築城期:不詳

築城者:塚本民部丞

目標地:三方よし会館・八幡神社

城 主: 塚本民部丞

駐車場:三方よし会館に駐車場

訪城日:2015.4.11・2016.4.10

お城の概要

繖山東麓にあった「山前(やまさき、やまざき、やまのまえ)荘」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。

五箇荘の、「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。該当する荘園については、一つに南荘(現在の金堂・川並・塚本・石馬寺付近)・北荘(現在の宮荘付近)・東荘(現在の竜田・北町屋・石川付近)・橋詰荘(現在の七里・石馬寺付近。橋爪荘とも)・新八里荘(未詳)を指すとされる。「空閑(こかん)」の転訛であるとの説もある。

お城の歴史

「淡海国木簡攫」に、塚本村 「大古 塚本民部丞ト云居住セリ、此家に天下名物ノ皷ヲ持伝タリト」記す。

 

 

周辺の社寺

隣の八幡神社の由緒

川島皇子の邸阯

 

参考資料:『淡海国木簡攫』・『滋賀県中世城郭調査分布』

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


上田氏館   近江国(近江八幡)

2016年04月10日 | 居館

上田氏代々の居館

お城のデータ

所在地近江八幡市上田町1613 map:http://yahoo.jp/EmXm1T

現 状:神社

区 分:居館

築城期:平安期

築城者:上田氏

遺 構:堀痕・土塁痕

目標地:篠田神社、篠田会館

駐車場:篠田神社に駐車場

訪城日:2016.4.9

お城の概要

 上田町一帯は、観音寺城(蒲生郡安土町)城主佐々木六角一族の鉄砲火薬に必要な硝石を作っていた職人が住んでいた所で、今でも毎年5月初旬におこなわれる篠田神社の古式花火奉納で著名なところである。

現在、城域には篠田神社が建つ。 篠田神社は元は上田神社と呼び、平安時代末期に上田氏が当地を治めた頃に造営したとされる。
神社の背後の林に土塁ような土盛りと内側に堀跡と思われる溝が配されている。城郭の遺構であるかは不明だが?。

お城の歴史

上田氏代々の居館。
上田氏は、佐々木氏の庶流で上田季政を祖とし、平安時代末期から1595年まで同地を支配した土豪一族。しかし詳細不明。

鉄砲の火薬に必要な硝石を作っていたなら、織豊期には大いに期待が掛かったと予想される。

入口の参道脇に宝篋印塔が1基ある。とても広い境内地である。

草創は平安時代末まで遡り、そのころ当地を領していた上田氏の造営になるという。
現社名になったのは明治以降で、それまでは上田神社または上田大明神と称していた。
上田の地は古代、篠田郷に属し、8世紀後半以降馬渕の東に隣接する上田荘が開発されたが、土質もよく美田であったことが地名となった。

正長元年(1428)足利義教により、京極家の所領となり、永享8年(1436)に京極持清願主となって拝殿を上葺した棟札銘文が残る。
その後、安永5年(1776)に造営されている。
毎年5月4・5日の神社大祭における宵宮(よみや)の火まつり(国選択無形民俗文化財)は有名である。

 

篠田の花火碑

堀痕?土塁痕?

篠田神社宝篋印塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正安三年 1301年、花崗岩、高さ 155Cm)

宝篋印塔::鎌倉時代
相輪を失って、笠上までの高さ1.55m。壇上積式で複弁反花つきの基礎は、四方の側面格狭間内に開蓮華を刻出し正安3年(1301)の造立銘を刻む。 塔身四面には月輪内に蓮座にのる金剛界四仏梵字をあらわし、笠の隅飾は三弧で、八面にそれぞれ蓮座上の月輪に「ア」字を刻む。鎌倉時代宝篋印塔中の習作である。

篠田の火祭

国選択無形民俗文化財
「近江八幡の火まつり」とは、「左義長まつり」、「八幡まつり」、「篠田の花火」をはじめとする毎年決まった時期に、近江八幡市内の村や郷、町内など特定の地域集団で行う火を用いる行事を総称する。

全国でも例を見ない古式花火「和火わび」の継承行事としてよく知られている。
仕掛け花火は、化学薬品を一切使わず、日本古来の製造技術を忠実に守って、硫黄・硝石・桐灰を三ヶ月もかけて薬研で粉にしたものを調合し、配置する。
五月四日夜9時頃、一条の綱火によって点火されると、火は瞬時にして仕掛け花火全体に移り、境内はモウモウたる煙と炎に包まれる。
花火の持つ壮烈な瞬間の華麗さで見るものの心を奪ってしまう。
煙がおさまったあとに浮かび上がる蛍火のような幻想的な花火絵柄はまさに夜空に輝く芸術品と呼ぶにふさわしいもの。
仕掛花火が消えると、最後に大松明が奉火され、夜空を赤々と焦がす。


鳥居と本殿が新幹線でさえぎられている。

 参考資料:滋賀県の歴史散歩、滋賀県神社誌、近江蒲生郡志、近江八幡の歴史、

 本日の訪問ありがとうございす!! 


狛氏館 近江国(八日市)

2016年04月10日 | 居館

 明神社の矢穴ある石板

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)三津谷町 (遺跡ウォーカー比定地)map:http://yahoo.jp/ej4ieM 

現 状:宅地

区 分:居館

築城年 :

築城者:狛氏

遺 構:不明

目標地:三津屋町公民館

駐車場:三津屋町公民館に駐車

訪城日:2016.4.8

お城の概要

狛氏館は、三屋屋集落に位置し、観音寺城から5km、瓶割山城から2kmにあり、遺構や伝承は不明である。

滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡の城)では、詳細不明。ながら頁97には三津屋集落に赤丸がある。

遺跡ウォーカーでは、三屋町公民館の裏の北東を比定地としている!

三津屋の狛氏の末裔が、佐々木六角氏の末期の重臣狛氏であったか?、六角氏の滅びてしまうと名は見えない。

 佐々木六角の重臣に狛氏が名がある「六角氏式目の宛所となった狛丹後守」「弟の狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった」「箕作城の戦い」にも守将として狛修理亮は名を残す。

氏館 狛氏館遺跡:遺跡ウォーカー

時 代:中世細分不明 
所在地:滋賀県東近江市三津屋町
 緯度経度:35.099250, 136.161083 
遺構概要:城郭分布調査1、城館。平地。不明。 map96:平地。 
その他概要:旧、八日市市。 県教委編「旧野洲・神崎郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』4 県教委1986.3)。map96:205-038、30。

遺跡ウォーカーの比定地

お城の歴史
ーーーー
「六角承禎条書案』
 六角定頼の娘は土岐頼芸に嫁いだ。定頼の子承禎は土岐頼芸の妹を娶った。そのため、六角承禎は美濃から逃れてきた土岐頼芸を保護し、美濃斎藤家と敵対した。永禄三年、足利義輝の近臣伊勢貞良の仲介により、六角義治は斎藤義龍の娘を娶り、和睦した。六角義治はこの婚姻について父六角承禎の了承を得ておらず、承貞は大いに嘆いたと云う。

   以上、

永禄三年七月廿一日

    承禎

平井兵衛尉殿

蒲生下野入道殿

後藤但馬殿

布施淡路入道殿

狛修理亮殿

 ----------

『六角義堯書状』・・・・甲賀武士の子孫に伝えられた黒川文書に、『義堯書状』、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す。


  狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
  猶賢可申候、謹言、
     二月廿日   義堯(花押)
       黒川修理進殿

 義堯が黒川修理進に宛てた内容は、次のようなものである。狛修理亮まで報告した旨は確かに聞き届けた。神妙である。東北のことはこの通りであるから、忠義に励むことが肝要である。なお義賢入道(承禎)が詳しく述べるであろう。
 この書状から、

①六角氏の重臣狛修理亮が義堯と甲賀武士の連絡役をしていたこと、

②義堯が東国や北国と連絡を取っていたこと、

③義堯が承禎(義賢)を使者としていたことが分かる。
 文中に見える狛修理亮は六角氏重臣であり、布施淡路守(公雄)とともに六角氏式目の宛所となった狛丹後守の弟である。狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった。このときも狛修理亮が承禎の使者となって黒川氏を訪問し、そこでの黒川氏の言葉を、義堯の許に行って口上した。それに答えて義堯は書状を簡潔に書き、承禎(義賢)が詳しい内容を書いた副状を添えて、狛修理亮が黒川修理進へ持参した。狛修理亮は六角氏重臣であり、六角氏の言葉を正確に伝えるだけではなく、交渉もしたと考えられる。

ーーーーーーーーー

 六角家 家臣団
 
  六角高頼  六角政勝の子。妻は古河公方足利成氏の娘。子は氏綱。
  六角氏綱  六角高頼の子。母は古河公方足利成氏の娘。六角家は足利将軍家と敵対していたが、
            足利義澄により六角氏綱は赦免された。さらに義澄の妹を娶り、婚姻同盟を結んだ。
            これは足利義澄が足利義稙に対抗するための措置である。後に足利義澄を近江岡山城に匿った。
            妻は足利政知の娘。子は定頼。娘は二条晴良、京極材宗に嫁いだ。異説によると義久(男)いたと云う。
  後藤但馬頭 六角重臣。娘は蒲生賢秀に嫁ぐ。
  平井定武  六角重臣。娘は浅井長政に嫁ぐ。浅井長政は六角家と縁を切り、平井定武の娘と離縁。
            織田信長の妹を娶り、同盟を結んだ。永禄三年七月、六角義賢から書状を送られる。
            その中に斎藤道三の出自に関する記述があり、これまで斎藤道三が一代で戦国大名に成り上がった
            親子二代で戦国大名になったことが分かった。
  高畑源十郎 近江野洲郡北里を領す。娘は小倉右亰亮に嫁ぎ、甚五郎、松千代を生む。
            小倉右亰亮没後、娘は織田信長に保護され、その側室となった。
  小倉右亰亮 八尾山城主。永禄十一年、織田信長の近江攻めの際に内応。
            六角承禎は蒲生定秀に八尾山城を攻めさせ、小倉右亰亮は自害した。
            妻は高畑源十郎の娘。小倉左京亮没後、妻は織田信長に保護され、その側室となった。
  平井高明  六角重臣。弥太郎。「六角氏式目」に署名。
  後藤高安  六角重臣。喜三郎。「六角氏式目」に署名。
  進藤賢盛  六角重臣。山城守。「六角氏式目」に署名。
  狛丹後守  六角重臣。
  布施公雄  六角重臣。淡路入道。
  馬淵建綱  六角重臣。兵部少輔。「六角氏式目」に署名。
  離相庵将鶴 六角重臣。「六角氏式目」に署名。
  楢崎賢道  六角重臣。太郎左衛門尉。「六角氏式目」に署名。
  永田景弘  六角重臣。刑部少輔。「六角氏式目」に署名。 
  馬淵宗綱  六角重臣。山城入道。「六角氏式目」に署名。
  池田景雄  六角重臣。孫次郎。「六角氏式目」に署名。
  永田賢弘  六角重臣。備中入道。「六角氏式目」に署名。
  青地茂綱  六角重臣。駿河守。「六角氏式目」に署名。
  青地道徹  六角重臣。入道。「六角氏式目」に署名。
  真光寺周揚 六角重臣。「六角氏式目」に署名。
  三井治秀  六角重臣。新五郎。「六角氏式目」に署名。
  三上恒安  六角重臣。越後守。「六角氏式目」に署名。
  木村筑後守 六角義堯の家老。元亀元年正月、織田信長は近隣の大名に上洛を求めた。
            木村筑後守は織田家から六角家に宛てた上洛要請の書状を受け取る。
  池田景雄  六角義堯に仕え,元亀三年、武田信玄西進に際し、六角義堯は今後の行動について六角承禎に相談した。     
            池田景雄はその使者を務めた。
  山岡景之  山岡家当主。子は景隆、景佐、景猶、景友。
  山岡景隆  山岡景之の長男。永禄十一年、織田信長に属す。
  山岡景佐  山岡景之の次男。永禄十一年、織田信長に属す。
  山岡景猶  山岡景之の三男。
  山岡景友  山岡景之の四男。道阿弥。三井寺光浄院住職。暹慶。
  吉田重賢  1463~1543年 81歳没)弓術日置流祖日置正次から印可を受ける。弓術吉田流を興す。子は重政。
  吉田重政 (1485~1569年 84歳没)吉田重賢の子。六角義賢から吉田流の印可を求められるが、それを断る。
           義賢と不和になり、朝倉氏の下へ逃れる。
                 後に六角家に戻る。義賢は重政に養子入りすることで吉田流の印可を受けた
           長男重高は義賢から奥義書を返却され吉田流出雲派を興した。四男元定は吉田流雪荷派を興した。
―――

箕作(みつくり)城の戦い(信長上洛戦)

・・・・・
 織田勢に対して六角勢の防禦態勢は、和田山城に主力を配置して、ここで織田勢を釘付けにし、観音寺・箕作両城の兵で挟撃しようとするものだった。信長は状況を視察した後に秀吉の意見を採用することにした。義賢の思惑の裏をかき、和田山城と観音寺城には牽制のための軍勢を送り、信長自ら丹羽長秀や羽柴秀吉らの諸隊を率いて箕作城に迫り、9月12日の午後4時頃より攻撃を開始したのである。

 箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。

駐車の三津屋公民館

遺跡ウォーカーの比定地

村社明神者社」

拝殿道標が神社内に(圃場整備で移設か?)

本殿

八坂社

削岩のノミ跡の残る石板

陸軍大将鈴木荘八書最近ほとんど見ない、半鐘塔!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、箕作城の戦い、六角書状、遺跡ウォーカー

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柏木館  近江国(八日市)

2016年04月09日 | 居館

 正壽寺

お城のデータ

所在地:東近江市(旧:八日市市)柏木町 map:http://yahoo.jp/rBHYfE

現 状:寺院・児童公園

区 分:居館

築城期:

築城者:栢木左衛門

遺 構:正壽寺

目標地:正壽寺・柏木集落センター・蛭子神社(バス停)

駐車場:柏木集落センター

訪城日:2016.4.9

お城の概要

 観音寺城の南に直線で僅か5km、瓶割山城から2kmの柏木集落の北西に位置する。八風街道にも近い。

現状は宅地・集落、圃場整備で整備が進み、遺構としては『正壽寺』の存在だ。正壽寺に北隣が児童公園に整備され城域の一部か?

また、大正十一年五月に発行された『蒲生郡志』に「正壽寺に隣り空濠と堤を回らし緑竹繁茂せり」とあるが、空濠も堤の竹藪も今は無い。

宝篋印塔を囲むように、笹竹が残るのみ。

柏木集落センター(車5台可)

比定地【正壽寺】

正壽寺石造宝篋印塔(市指定文化財、鎌倉時代後期 正応四年 1291年、花崗岩、高さ 177.1Cm)(向かって右)

  1. 近江の在銘宝篋印塔の中で新善光寺塔についで古い
  2. 塔身、顕教四方仏坐像を半肉彫りする(阿弥陀如来)
  3. 笠は下二段、上五段、隅飾は輪郭付き二弧で内に蓮座上月輪内に梵字「ア」を刻む
  4. 塔身、顕教四方仏坐像を半肉彫りする(弥勒)
  5. 塔身、顕教四方仏を半肉彫りする(薬師如来)
  6. 基礎から相輪まで完存塔。関西形式古式宝篋印塔の見本
  7. 礎は低く上端二段、側面は輪郭を巻き内に古調 格狭間をつくっている。正面と東面に銘文があり正応四年(1291)に造立された
  8. 基礎の銘文:「正广二二年 辛卯四月八日、願主大行房」
  9. 相輪は古いものだが完存する
  10. 大行房(願主)の刻銘(基礎正面、向かって左)
  11. 基壇はなく、直接地上に立つ形。今は隣の小宝篋印塔と共同の基壇が作られている

お城の歴史

『近江蒲生郡志 八巻』の三四五頁に、柏木氏邸阯 平田村大字柏木に在り正壽寺に隣り空濠と堤を回らし緑竹繁茂せり柏木氏の住鄭なり、柏木衛門之丞は飛鳥井家の縁故なりといふ、佐々木南北諸氏帳に柏木城主柏木左衛門北村主計と見ゆ、

『佐々木南北諸氏帳』には、蒲生郡 栢木 住 栢木左衛門と記す。

近くの蛭子神社

勘定縄

本殿

鎮守の森

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『蒲生郡志』、『佐々木南北諸氏帳』、遺跡ウォーカー

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佐目館 近江国(永源寺)

2016年04月04日 | 居館

佐目館 

お城のデータ

時代:中世細分不明 
所在地:東近江市(旧:神崎郡永源寺町)永源寺佐目町  map:http://yahoo.jp/hfWSad
緯度経度35.073111, 136.348028 
現 状:ダム湖・山麓
区 分:居館(城館)
築城期:室町期?
築城者:佐目氏
遺 構:水没不明
目標地:永源寺ダム・佐目集落
訪城日:2015.10.21
お城の概要
近江盆地は古来より穀倉地帯として知られており、太閤検地で78万石が打ち出される等日本有数の稲作地帯であった。しかし、流域河川の多くは天井川で慢性的な水不足に陥りやすく、農民による水争いが昭和初期まで頻発していた。これを解消し安定した灌漑用水を確保するため、農林省(現・農林水産省)近畿農政局によって野洲川ダム(野洲川)等の灌漑専用ダムが建設され、愛知川にも1952年(昭和27年)に灌漑専用ダムの建設が計画された。

1952年に計画が始まったが、水没世帯数213世帯・・・「萱尾、佐目、九居瀬の三集落と相谷の一部の計百七十一世帯が土地を手放し、家屋や田畑などが水中に沈んだ。」佐目出身で湖東信用金庫理事長の大西和彦さん・・・ということから反対運動が根強く補償交渉に時間が掛かり、完成したのは20年後の1972年(昭和47年)である。この水没集落の九居瀬・佐目の城館も同時に水没した

お城の歴

 中世には、八風街道が伊勢への間道として、保内商人や得珍保の商人は、僧兵の警護で伊勢との交易に使用している。

(得珍保(とくちんのほ)は中世、遅くとも鎌倉時代頃から戦国時代まで近江国蒲生郡(現・東近江市)に存在した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒領の荘園である。保内の今堀日吉神社に保蔵されていた文書によって座商人たちの商業活動が判明している数少ない例であり、後の近江商人につながる中世後期商人たちの拠点となった荘園でもある。また惣結合(郷村の自治結合)が発達した地)

また、小椋谷は近江源氏小倉氏が支配下にあったが、相谷の土豪小辰氏が残した「小辰家文書」によれば大永元年(1521)の江北合戦後に(現長浜市)安養寺城主の安養寺勝光の一族が相谷に移住し、小辰姓に改称して相谷万灯山城主となったとされている。永禄2年(1559)に織田信長が守山から八風峠を越え清州に戻ったとき、小辰勝徴が道案内をしたと記されている。これは信長公記の記述と一致している。

 

信長公記 首巻21~30 天下見物  丹羽兵蔵御忠節の事

----- 美濃衆は小川表の管領屋敷に参上した。信長公も小川表見物と称して出てきて、彼らと対面した。信長公は彼らに大音声で呼びかけた。
「汝らは上総介の討手に上りたるとな。若輩の分限で我を狙うとはこれ蟷螂の斧と申すものよ。出来るものか。それともここで試して見るか」
頭の者たちは一様に窮してしまった。この珍事に対し、京童は大将にはあるまじき振舞いであるといったり、若若しき大将には似合いであるといったり、褒貶さまざまであった。

数日後、信長公は京を後にし、近江から八風峠を越え尾張に帰った。----

 

 もともと佐目の村は佐目子谷の出合い付近、愛知川左岸の袋状の段丘上に位置していたが、永源寺ダム建設と同時に湖底に沈み、現在は「牛ガ額」と呼ばれていた場所に移築されている。鈴鹿山麓は奥山で雪も深く、田畑は生業には向かず、植林や茶、蚕の栽培が主であったが、この村だけが段丘上に位置していたという事から唯一、米作が盛んであった。
  佐目の村にはトンネルを越えて右の細い道へ入ると、突き当たりに若宮八幡神社があり、村の氏神になる。そこで若宮八幡宮と塔尾金神社の二つが祀られている。米作が主とされていただけに雨乞信仰と密接な関係を持ち合わせる。人々は若宮八幡神社で雨乞いをして、芳しくなければその御神体であるお金の塔まで佐目子谷から拝坂尻、大峠、北谷尻谷、コリカキ場という長い道程を歩いて祈雨登拝していた。お金の塔では、三日三晩、鉦太鼓を叩いて祈雨し、三日で駄目なら五日、七日と続けた等、殺伐としたものである。雨乞いは
「アメチヨボ、ブチヤケ、ザンザト、ブチヤアケ、ザンザラザント、ブチヤケ、ブチヤアケ」と祈雨された。
   
 もともとは永源寺派の大龍寺という寺があり、村人はすべてその寺の檀家であったという。婚姻は大半が村内婚であった。また佐目の村はかつて、お金の村と称されており、鉱夫の村と言われていた。金は銭ではなく、金、銀の事である。お金の村が佐目となった村名の起こりは、様々な伝承話がある。佐目子谷の苔をとって飲むと腹痛に効くという伝承もある。以前は佐目子谷にイモナ(岩魚)の養魚場があったらしく、昭和4年11月20日より京阪地方に出荷が行われたとの話が残っている。
 
 現在、永源寺ダム湖畔道路に佐目バイパス工事(橋三本とトンネル四カ所を設置)が実施されているが、道路延長全5.6kmの内、約2.9kmの範囲が鈴鹿国定公園の特別地域に含まれる事で、平成9年の夏頃から10ヶ月間、環境影響評価が行われた。結果、第4トンネル予定地である越渓橋の付近で絶滅危惧種に指定される保護義務種のクマタカが見つかり、工事による間接的な影響が生態系にあるとして繁殖期(12月から翌年4月迄)の工事を完全に休止とし、トンネル内での発破火薬量を30%削減、低騒音型重機の使用などが講じられた事もあった。クマタカ、イヌワシ、オオムラサキ等、貴重な動植物が多数生息する事もあり、鈴鹿山系が豊かな環境を抱えている指標となっている。
 
 佐目の茶摘み詩  「宇治は茶所 茶は政所 味のよいのは 九居瀬の茶」
佐目   佐目
山ノ神 「佐目子谷」   若宮八幡神社
 比定地:2015.10.21(国道421号線拡幅工事中)
参考資料:遺跡ウォーカー(佐目館 ) 『滋賀県中世城郭分布調査1・4』、ウィキペディア、『小辰文書』
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本多公御浜御殿  近江国(大津)

2016年04月01日 | 居館

本多公浜御殿

お城のデータ

所在地:大津市大津市御殿浜(本多神社) map:http://yahoo.jp/lT579R

現 状:神社

区 分:居館

築城期:江戸期

築城者:膳所藩/本多氏

遺 構:本多公浜御殿址石碑

目標地:本多神社

駐車場:本多神社

訪城日:2011.11.19

お城の概要

膳所城は関ヶ原の戦いの後、藤堂高虎が徳川家康の命で最初に作った城で、

湖の中に造られた「幻の浮城」と言われる非常に珍しい城です。

その膳所城跡公園の近く、大津市御殿浜に本多神社。道路沿いに案内板。

宮前に碑がありますが、なんとなく読んでいくと、幕末関係のようです。

慶応元年5月、第14代将軍・徳川家茂が上洛の途中、膳所城に滞在すると聞いた膳所藩士が、暗殺を計画!

 と疑われます。

  藩は11月、容疑の可能性がある11人を捕縛・切腹・斬首・打首の処置をし、幕府に忠誠を示します。

これを「膳所城事件」といいます。

藩主・本多康穣が、その11人の慰霊のために建てたのが、この「丹保之宮」だそうです。

本多神社

その横に本多公浜御殿址 

膳所城の離れとして作られた浜御殿。その跡地に 明治16年に作られた中興の膳所藩主、本多忠俊、忠次、康俊、俊次公を祭神とした神社です。

 その神社周囲には驚く光景が広がっている!

お城の歴史

 膳所城は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康が、翌慶長6年(1601)京都背後の守りと、豊臣秀頼が居城する大坂城への備えの城として、東海・中山・北陸三道と琵琶湖に臨む要衝の地に築いた城である。
 縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行い、8人の普請奉行の下、諸国の大名を動員するという天下普請の第一号の城である。
 同年、大津城主の戸田一西(かずあき)が10万石で初代膳所城主となり城下町の整備に努めた。元和3年(1617)一西の子戸田氏鉄(うじかね)が摂津尼崎に転封された後、本多氏、菅沼氏、石川氏と城主は替わるが、慶安4年(1651)本多俊次が伊勢亀山より7万石(後に6万石)で入封。
 以後、膳所城は本多氏13代の居城として明治維新を迎える。膳所藩は代々徳川幕府に忠勤を励んだが、幕末になって勤皇派が台頭し、戊辰戦争の口火を切った鳥羽・伏見の戦いでは桑名城攻めに参陣した。

慶長6年(1601)徳川家康によって築かれた。 築城においては藤堂高虎が縄張を行い天下普請で行われ完成後は戸田一西が三万石で入城した。

元和2年(1616)戸田氏鉄は大坂夏の陣の功により摂津国尼崎に移封となり替わって三河国西尾から本多康俊が入封する。 元和7年(1621)本多康俊になると旧領三河国西尾に移封され替わって伊勢長島から菅沼定好が入封する。
寛永11年(1634)定好は丹波国亀山に移封となり替わって下総国佐倉から石川忠総が入封するが慶安4年(1651年)石川氏もまた伊勢国亀山に移封となる。
最後に以前三河国西尾に移封になって伊勢国亀山に移封されていた本多俊次が再入封し以後明治に至る。 

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島左近屋敷   近江国(彦根)

2016年04月01日 | 居館

お城のデータ

所在地:彦根市古沢町   map:http://yahoo.jp/t3-zM5

現 状:寺院

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:島氏

遺 構:井戸・

目標地:清涼寺

駐車場:清涼寺の駐車場

訪城日:2016.3.28

お城の概要

戦国時代の猛将・島左近は、佐和山城搦め手山麓に居館を構えており、その地には清涼寺が建立された。また隣接する龍潭寺付近に主・石田三成の屋敷があったと伝わる。

 彦根市の東北、佐和山の麓にある曹洞宗の禅寺・清涼寺は佐和山城の城主であった石田三成とその家老・島左近の屋敷跡に、戦国から江戸期に渡り代々彦根藩主を務めた井伊家の菩提寺。かつては雲水の修行場であり、大老・井伊直弼も参禅したのだとか。境内は一般公開されていて誰でも自由に出入り可能ですが、本堂、禅堂、墓所などの拝観は許可が必要です。

お城の歴史

清涼寺には佐和山城落城や石田家家老・島左近に纏わる7つの怪談「清涼寺の七不思議」が今なお語り継がれています。

島左近の生涯

戦国時代の著名な武将であるが、その伝承はほぼ軍記物に拠るところであって、生涯について不明な点がほとんどである。

島 左近の出目は、飯村城(嶋氏館) 近江国(近江町)誕生年不明~1600年。名を清興(一般には勝猛あるいは友之)という。

 筒井順慶に仕え、幼いときより孫・呉の書を読んで兵法に通じ、松倉右近と並んで右近左近と呼ばれた。順慶の子・定次が酒色に溺れ、政治をかえりみなかったので、島はその元を去り、流浪の果てに近江に赴き、江南の高宮の近くに草庵を営み、引き篭っていた。

 京極氏の被官で近江坂田郡飯村城主・嶋若狭守秀安(入道朴底)の孫秀親・秀季(二男秀淳の子)または一族の新六郎が左近ではないかとするもので、『関ヶ原軍記大成』などに見える「嶋左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに庵を作ってこもっていた。石田三成は天正の末に近江国の水口を領地に賜り、そこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を石田は無理に招き、賓客のようにして自分の所においた」という記述から、左近は同郷人である三成に親近感を抱き、その家臣となって活躍したとするもののようである。(『関ヶ原軍記大成』)。当時でも猛将として名を馳せた人物であった。三成に仕えたのは天正十一年(1583)とされる(『稿本石田三成』)。

 関が原の合戦では、三成の先鋒として岐阜に出陣。株瀬川で東軍・中村一栄の軍勢を打ち破り、動揺しがちの西軍の士気を励ました。その夜、島は、夜討ちをかけるように提言したが宇喜多秀家、島津義弘らに容れられず、島は「明日になり、敵、勢いづけば、万が一にも勝ち目はない」と言って、討死の覚悟を決めたという(『常山紀談』)。

 翌九月十五日、田中吉政、黒田長政の兵と戦い、これを見事に退けて家康の旗本付近に迫ったが、黒田勢の鳥銃の乱射の中に奮戦、ついに倒れた。島のこの日の兜の立ち物は朱色の天衝で、溜塗りの桶がわ胴の鎧の上に木綿浅黄の羽織を着て、精鋭三千ばかりを左右に立て、采配をとって下知していた。そして黒田部隊を引きつけ柵際に待機させた七十ほどの精兵の鉾先で残らず討ち取る計画であった。しかし黒田勢の鉄砲頭・長菅政が高所に登り五十挺の鉄砲で間断なく射撃してきたため、さすがの島も利を失い、乱戦中の命を落としたと伝わっている。

 当時の落首に「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」というものがあって、また忠誠の武士として巷間流布しており、三成が佐和山城に移って加増を受けた際、島にも加俸しようとしたが「従前どおりで構わない」と断ったという巷説など、その名将・猛将ぶりは戦国武士の中でも有数である。(以上、桑田忠親『日本部将列伝』『義士 石田三成』、今井林太郎『人物書 石田三成』等による)


清涼寺には佐和山城落城や石田家家老・島左近に纏わる7つの怪談「清涼寺の七不思議」が今なお語り継がれている。山門

清凉寺の正面に見える山門も「唸り門」とあだ名され、江戸期に焼失するまでは左近邸の屋敷門を移築して使用しており毎年大晦日になると風もないのに山門から不気味に唸る音がしたという不気味な伝説が残っています。 

客殿 家紋彦根橘(丸に橘)

唐破風の上には金色の井伊家の家紋「丸に橘」の彫刻。屋根の上に更に越屋根。

本殿

嘉永五年に再建されたという本殿。入り口が左に寄った左右非対称のつくりになっているのが特徴で、寺宝である歴代藩主の画像や狩野元信らの名画が保管されています。七不思議の一つ「ひとりでに鳴る太鼓」は本堂の右側にあるのだとか。

 

七不思議のひとつ「左近の南天」。
島左近が屋敷のなかでひときわ愛でていたと伝わる南天の木で、触れると腹痛を起こすと言われています。


七不思議の「木娘」

左近の南天の右隣にあるのは、もう一つの七不思議「木娘」。樹齢750余年あまりの椨(タブ)の大木で、江戸時代にはたびたび娘の姿に化けて参拝客を驚かせたとか。

七不思議「木娘」

この木娘の椨の木、左近のお手植えだったと?左近の時代で既に樹齢350余年?もしお手植えの話が本当?。

七不思議の「晒しの井戸」。

裏山の井伊家代々の墓所への坂道の途中にあるのが七不思議の「晒しの井戸」がある。

島左近が茶の湯に使っていたと伝わる井戸。
この水に汚れ物を晒しておくとわずか一夜で真っ白になったという伝説がある。

墓所から清涼寺の裏側を見下ろすと、七不思議のひとつ「壁の月」のある方丈が確認できました。
この方丈は島左近の屋敷の居間を移築したものと言われていますが、何度塗りなおしても壁に月形が浮かび上がる。
左近の兜の前立ては月形だったという説もありますし、壁が亡き主を偲んでいるのか?。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、【滋賀県彦根市】清涼寺 | 島左近屋敷