城郭探訪

yamaziro

太田氏館    近江国(日野)

2016年03月30日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/_ktdIp

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:大田氏

遺 構:大田氏墓(数年前まで)

目標地:馬見岡綿向神社の西側

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

太田氏館は、村井馬見岡綿向神社の西隣の田の一角が太田屋敷という地名あり、大永元年(1521)8月11日の夜に主の蒲生高郷によって大田一族が惨殺された地であるとされ、現在も8月11日に綿向神社宮司と蒲生氏菩提寺信楽院によって現地で鎮魂祈祷会が行われている。

遺構は何も残っていないが、自然石の「太田氏の墓と樫の木」が立っており、また太田氏の霊を宿す白蛇がこの辺りに出るという伝承が地元村井にはある。

圃場整備で、消失。「自然石の太田氏の墓と樫の木が立ってた」ようですが!(map:の航空写真には、残っている)

お城の歴史

大永元年(1521)8月11日の夜に主の蒲生高郷によって大田一族が惨殺された地

滋賀県中世城郭分布調査報告書には、綿向神社の西の田んぼに『太田氏墓』と

(yafoo map:の航空写真には、残っている)

太田氏館は、馬見岡綿向神社の西隣の田の一角が太田屋敷という地名ありここに築かれていた。 館の遺構は何も残っていないが、自然石の太田氏の墓と樫の木が立ってたようです。近江 太田氏館http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/ootasiyakata.htm

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江 太田氏館、(yafoo map:の航空写真)

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御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)   近江国(日野)

2016年03月29日 | 居館

城のデータ

所在地:蒲生郡日野町鎌掛 map:http://yahoo.jp/p6omGx

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:

遺 構:

標 高:139m 比高差:ー

目標地:日吉神社

駐車場:鎌掛・日吉神社に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)は、詳細不明。

日野 鎌掛村の、御代参街道(江戸期に整備=東海道と中仙道を結ぶ間道)沿いにあった。今は圃場整備で遺構は消失したが。

 春日野局も伊勢神宮に詣でて、御代参街道を通り八日市村で宿し、江戸城へ上がったと記録が残る。

 御師(おし)は、全国あちこちの大きな寺社にいるが、御師(オンシ)と言えば伊勢神宮の下級神職。太夫とも言う。下級と入っても全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったと言う説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。
 仕事は祈祷の委託や参拝者の宿泊、案内を業とし、地方の檀家に御祓、伊勢暦、また土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を勧誘した。つまり今の旅行代理店、ホテル、そして伊勢神宮出張所を兼務したものと考えて頂くとよい。御師は地方では丁重な待遇をされた。

「これは伊勢の御師で御座る、毎年今時分は、国々旦那廻を致す、当年も廻らうと存ずる、誠に大神宮の御影程有難い事は御座らぬ、斯様に国々廻れば、何方にても御馳走にあふ事で御座る」(狂言『禰宜山伏』)本居宜長記念館HPより

お城の歴史

御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)の歴史の詳細不明。

 

御代参街道沿い遺跡ウォーカーの比定地街道沿いの地蔵堂

鎌掛の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鎌掛(かいがけ)は滋賀県蒲生郡日野町にある大字鎌掛。はかつて同区域に存在した鎌掛村(かいがけむら)について

 近江盆地と甲賀郡・伊賀国を結ぶ主要な間道の沿線で、笹尾峠は甲賀郡土山へ抜ける重要な峠であった。中世には間道を押さえるために蒲生氏が音羽城(のち中野城)の支城として鎌掛城(貝掛城)を築いた。 近世になると間道は御代参街道(土山~五箇荘・小幡)として整備され、鎌掛は八日市村(現:東近江氏八日市地区)・岡本村(現:東近江市蒲生岡本町)・石原村(現:日野町石原)とともに脇宿に指定され、発展した。宿場町であると同時に、近江商人として成功を収める村民も多かった。1787年(天明7年)時点で、日野商人の大当番仲間(現代でいう商業組合)に加入する村民が20人おり、いずれも関東地方に出店していた。1868年(慶応4年)の村の明細帳には、114人の村人が関東地方の出店へ奉公人として働きに出ていたと記録されている。

 江戸時代には、初期は幕府領、1627年(寛永4年)から伊予松山藩領、1933年(寛永10年)から再び幕府領、1680年(延宝8年)から甲斐甲府藩領、のち再び幕府領、1711年(正徳元年)から遠江掛川藩領、1746年(延享3年)から再び幕府領、1763年(宝暦13年)から陸奥棚倉藩小笠原氏領、1817年(文化14年)から棚倉藩井上氏領、1836年(天保7年)から上野館林藩領、1845年(弘化2年)から棚倉藩松井松平氏領、1866年(慶応2年)から幕末まで武蔵川越藩領であった。1868年(慶応4年)には一時的に西大路藩の預地となっている。1846年(弘化3年)には館林藩井上氏の移封を不服とし、鎌掛村を含む13か村の領民総代が幕府老中に駕籠訴を起こしている。寛永石高帳の記録では鎌掛村の石高は1403石余。慶安2年の記録では田1015石余、畑・屋敷206石余、永荒182石余。天保郷帳の記録では石高1634石余。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、本居宜長記念館HP

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西大路館  近江国(日野)

2016年03月29日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/p6omGx

現 状:畑地・竹藪

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:藤岡才六

遺 構:土塁・土壇・屋敷割・堀

標 高:139m 比高差:ー

目標地:滝の宮神社・佐川印刷の寮

駐車場:佐川印刷の寮の近くに駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

仁正寺庁の西約500m西、往古日野川に突き出した河川岸に位置する。

現状は畑地・梅林・竹藪をなり、基壇や廓割が残るが、詳細は不明。

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

詳細不明だが、福円畑地蔵尊は、関ケ原の合戦(1600)の頃、この地住んでいた藤岡五郎平家初代佐右衛門宋悦翁「医者」の子 才六は百姓となり、尼寺「福円庵」の屋敷跡が荒廃していたのを譲り受け開墾していたところ、石地蔵を掘り出し畑の付近お堂を建てお祀った。才六は市橋氏が仁正寺藩主となって2年後元和6年他界した。

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1、「日本城郭体系」11,ウィキペディア

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馬場城  近江国(長浜)

2016年03月28日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市新庄馬場町 map:http://yahoo.jp/zBFhHQ

現 状:寺院・集落

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:馬場氏

遺 構:土塁・堀

標 高:98m 比高差:ー

目標地:誓傳寺・新庄馬場会館

駐車場:新庄馬場会館駐車場

訪城日:2016.3.20

 

お城の概要

集落の北橋に流れる川寄川は新庄村と新庄中村の境をなし、北方には誓傳寺・浄覚寺、西方には福永荘の総社であった八坂神社や新庄馬場廃寺跡がある。西端の竹藪の中にある小池は屋敷庭の一部と伝え、さらにその西には御池と称す字名の残る。

馬場城は、新庄馬場地区の中心部にある誓傳寺・浄覚寺の境内を中心とする一帯に築かれていたと比定地。

 馬場会館から誓傳寺にかけて流れる用水路は、往時の堀の跡か。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 馬場 住 馬場清太夫」の名を記す。

  馬場城は、築城年代や築城者など詳細不明。

 

滋賀県中世城郭分布調査報告書には

誓傳寺の寺伝には、治承年間には福永重正が牛頭天の神体を作ったとあり、当地は福永荘の荘官館が考えられるが。

江州佐々木南北諸氏帳に見る「馬場清太夫」明応ニ年の総持寺文書に見える馬場頼秀など室町期には、馬場氏が居住した。

また天文五年の伊夫岐神社奉加帳には宇野弥五郎の名も見え、総社八坂神社には藤原出雲守なる人物がいて永正元年に相撲平八郎為則が同社を再建したと伝う。 

新庄馬場会館に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、江州佐々木南北諸氏帳

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高田館(渡辺氏館)  近江国(湖北)

2016年03月27日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市湖北高田町  map:http://yahoo.jp/-HAvg3

別 称:渡辺氏館

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:渡辺氏

遺 構:土塁・堀

目標地:兵主神社

駐車場:兵主神社前空地

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 高田館は高田集落の南にある兵主神社の北側にある畑地・宅地一帯であった。「滋賀県中世城館調査報告」によれば、「現当主は十四代目に辺り…」とあるので現在も子孫の方が住んでいるのだろう。

宅地なので道路から見るだけだが、土塁の上に祀られているのが八幡様であろうか。左から手前に掛けて堀が回っているようである。

お城の歴史

 築城年代は定かではないが。

赤田渡辺氏

嵯峨源氏渡辺綱の子孫と伝えられている。
 渡辺綱は嵯峨天皇の皇子源融の後裔で、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。多田源氏源頼光に仕えて四天王の一人近江に土着 等の四男七郎備は越後から近江に移り、その子左衛門尉栄(さこう)は犬上郡曾我村に居を構えたという。『『尊卑文脈』には向の赤田孫肥後守高までが記されている。高のあと、記録によれば衒・滋・輝とつづいて赤田隼人正隆(たこう)に至った。隼人正隆はなかなかの人物で、永正年間(1504~20)に一族・家臣を引き連れて八町村に移り住み、八町城を築き、小さいながらも犬上郡の一角に勢力を張ったのである。
 隆は江北の戦国大名に成長した浅井氏に従い、江南の佐々木六角氏との戦いに身をおいた。その一方で、領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなどして領民から敬い親しまれていた。そして、六十一歳のとき常禅寺を建立し、家督を嫡男の興に譲ると禅三昧の生活に入り、弘治元年(1555)に世を去った。
 信濃守興も浅井氏に属して六角氏と対峙、永禄十一年(1568)、神崎郡位田の戦いで戦死した

やがて、尾張の織田信長が上洛の軍を起こすと、浅井長政は信長と結び、対する六角氏は没落した。その後、信長の朝倉攻めをきっかけに、長政は信長と袂を分かって敵対関係になった。
 元亀二年(1570)、織田信長と浅井長政・朝倉連合軍とが姉川で戦ったとき、信濃守姓は浅井方の部将として参戦、抜群の活躍を示した。姉川の戦いに敗れた浅井氏は、天正元年(1573)、織田軍の攻撃を受けて小谷城で滅亡した。渡辺氏も小谷城の戦に加わり、浅井氏と没落を共にした。

 その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、姓の子堅が五千石をもって秀吉に召し抱えられた。そのとき、秀吉は姉川の合戦における渡辺姓の奮戦振りを物語ったという。かくして再興なった渡辺氏だが、文禄二年(1593)堅が死去、残された子達は幼かったため所領没収、一族離散の憂き目となった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると堅の子虎之介は、赤田氏再興を図って西軍に属して力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり渡辺氏の再興は頓挫した。その後、野に下った虎之介は、家の再興を願って藤淵に身を投じ、龍神になったと伝えられている。
 いまも、赤田氏の故地である犬上郡の曽我・八町などには、村岸・成宮・田部・藤野氏など赤田氏の一族を称する家が繁栄している

堀に囲まれた「土壇の祠」

兵主神社側から

現・渡辺家

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家と家紋

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須賀谷館    近江国(浅井)

2016年03月25日 | 居館

片桐市正ハ賤ヶ岳七本槍ノ一人ナリ、英雄ノ名ヲ得タル人ニテ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)須賀谷町 map;http://yahoo.jp/WtDg-O
区 分:居館
現 状;山林
 
築城期:織豊期

築城者:片桐直貞
標 高:140m 比高差:20m
遺 構:郭・(石垣)・石碑・説明板

目標地:須賀谷温泉
駐車場:須賀谷温泉の奥の神社前空地駐車

訪城日:2016.3.20


お城の概要

小谷城主浅井久政の時代には、この一帯に家臣屋敷が造営され、鷹が巣を作る岩があったことから「巣ケ谷」と呼んだ。「巣ヶ谷」が「須賀谷」へ。

小谷城の南の麓に位置し、須賀谷温泉から上の斜面に郭跡らしき削平地が何段かある。浅井氏の家臣団の居館があったようで、その一角に片桐氏の須賀谷館があり、石碑が建つ。

観音堂は小谷城落城に際し、館の南側には小谷城の守り本尊観音像を移して祀ったとされ、その観音堂の石垣が残る。

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、巣ヶ谷村「浅井家小谷山ニ城ヲ築、此地ヲ家士屋敷地トス、往古ヨリ片桐氏居セリ、浅井家士片桐孫右衛門ト云人、此谷ニ鷹ノ巣ヲ懸ル岩アル故。苗字ヲ巣ヶ谷ト改シ由、此人片桐市正カ親ナリト云、今樽片桐ノ末葉此村ニ住ス、即村役人庄屋作左衛門是ナリ、彼カ家ニ浅井城門ノ扉今ニ所持セリト云、鷹ノ巣ヲ懸シ岩、今ニ小谷ノ城京極丸ノ東谷ニ有ト云、

片桐下総守ハ義政将軍ノ直参ニテ、嘉尚卿御任官ノ時ノ役人ナリ、同備後守寛光・同備中守実方・同土佐守実貞・同若狭守実時何レモ記ニ出ス、同市正ハ賤ヶ岳七本槍ノ一人ナリ、英雄ノ名ヲ得タル人ニテ、世上専賞誉セリ」と記す。

片桐氏は信州伊那谷の名族片桐氏の一族。須賀谷館は、戦代に片桐直貞によって築かれた。 

片桐直貞は、信濃伊那谷の船山城主であった片桐氏の一族で、浅井氏仕えた。 直貞の子、且元は秀吉に仕え茨木城主となり、関ヶ原の役後は豊臣家家老職を務めた。 且元弟貞隆は、大和小泉で1万石を領して明治まで続いている。

 片桐孫右衛門(且元の父)も居住。 片桐且元は弘治二年(1556年)に生まれ、羽柴(豊臣)秀吉に小姓をとして仕え、その後、天正十一年(1583年)の賤ケ岳の戦いでは七本槍に数えられます。<現地案内板より> 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

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東出館 近江国(浅井)

2016年03月25日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保町東出  map:http://yahoo.jp/2WMS8T

区分 :居館

現 状:宅地・寺院

築城期:

築城者:

標 高:106m  比高差:-

目標地:内保農政会館・成満寺

駐車場:内保農政会館

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 内保集落の小字東出が比定地。そこに成満寺と誓順寺があるが。東出は草野川の北西岸で両寺は東西に並んで建っている。

 成満寺の本堂裏には南北に58mの土塁痕と、その外側に平行して溝(堀)が確認できる。この土塁の上部がかなり削られていて、南部は平地と化している。石碑の建っている北端(道路添い)は寺庭の築山を兼用している高さは1m程あり、外周に堀が有ったようだ。

 誓順寺は成満寺の東に接しているが、明治期の地籍図によれば、成満寺付近に鍜状の藪地がみえ、残存する土塁の南北両端から西に伸びている。しかも、南面ののものは寺城方向にL字状に折れており、屋敷地の正面でった可能性が有る。尚、誓順寺の敷地付近には遺構らしきのもはないが、土塁で囲まれた敷地とほぼ同規模で四方に堀のある一角が見える。

お城の歴史

城郭歴史の築城期や築城者・領主など詳細不明。

 織豊期は、浅井長政の領地であったことから浅井氏の隋兵の居館か?

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 内保 」の記録はある。

内保集落の西出には、城郭化した寺院で、戦国期の湖北(湖北10ヶ寺)の一向宗の中心寺院一つ誓願寺(内保城)が存在し、成満寺・誓順寺の付近には僧坊や在地豪族の屋形群あったか?。

道路から土塁

成満寺の庭園

成満寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「伊香郡・東浅井郡の城」

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小沢城 近江国(長浜)

2016年03月22日 | 居館

小沢城比定地 (遺跡ウォーカー、小沢城)

お城のデータ

所在地:長浜市小沢町城田/古屋 map:http://yahoo.jp/FlZNCk

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

遺 構:

目標地:

駐車場:路上駐車場

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 小沢城遺跡第9次調査(小沢町) 小沢城遺跡は中世の城館跡。

今回の調査は個人住宅造成工事に伴う試掘調査で、小沢城遺跡の 調査としては9回目となります。

お城の歴史 


小沢(こざわ)町  室町時代

 室町時代にできた町名。村の由来は沢には湿地、小川などの意味がある。小沢から中沢にかけて旧姉川の流路といわれる小川がある。また中沢の東南には湧水もあり湿地になっている。このことが沢のおこり。八坂神社、真宗大谷派の憶念寺がある。

小沢城(小沢町) 小沢城遺跡は中世の城館だが、詳細不明。

【遺跡ウォーカー】の小沢城の比定地・・畑地

隣の下之郷集落

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、(財)県協会編『ほ場整備報告』XV-1(県協会1988.10)

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広瀬氏館 近江国(長浜)

2016年03月22日 | 居館

本殿背後の土塁神社の北側の堀痕

お城のデータ

所在地:長浜市室町  map:http://yahoo.jp/YF2fCH

現 状:神社・公園・広場・竹藪

区 分:居館

築城期:鎌倉期

築城者:広瀬氏

遺 構:土塁痕?堀痕?

目標地:日枝神社

駐車場:日枝神社横に駐車場可

訪城日:2016.3.20

お城の概要

室町の北端に位置し、大辰巳村の日枝神社と併合された日枝神社の西隣にあって、現在は室町の自治公園になっている地を広瀬兵庫介の屋敷と伝える。公園の北側には数本の溝跡が残っている竹薮があり、公園は土盛りしてあって屋敷跡について詳しくは分からない。

広瀬氏館は、室地区ある日枝神社から西隣の自治公園一帯にかけて築かれていた方形単郭の居館。

公園造成時に、館の遺構などは消滅したか?。神社本殿の裏に土塁痕?公園の北の竹藪内に土塁痕、日枝神社の北側に堀痕の水路。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』に、「坂田郡 室 住 佐々木浅井隋兵 広瀬兵庫」の名を記す。広瀬氏館は、築城年代は定かでないが広瀬氏によって築かれた。

 広瀬氏は元来岐阜の広瀬村出身で、天正10年の本能寺の変後、明智光秀の襲来に備えて広瀬兵庫介は「長浜城にいた羽柴秀吉の女房たちを美濃へ避難させた」と言い、その功績として伊吹町甲津原・浅井町高山・木之本町杉野の地で500石を宛がわれている。また、同族らしき者に文禄元年秀吉の馬廻衆として肥前名護屋城に駐屯した広瀬加兵衛がいる。

長浜城博物館より

4.関ヶ原合戦図絵巻

  

1.羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛

 天正10年6月19日付天正10年(1582)6月2日、本能寺の変がおこり、織田信長は自刃する。当時、秀吉は、信長の中国攻めの司令官として備中高松城攻略の最中であったが、本拠の長浜城内には秀吉の母「なか」と妻「おね」ら秀吉の家族が居住していた。
 信長自刃の凶報は翌日には長浜城にも届き、おね、なか、そして木下家定(おねの兄)らは難を逃れるため、長浜城を出て身を隠すことを計画する。この逃避行に際し、道中の警護を任されたのが、本書の宛名にある「広瀬兵庫助」である。広瀬家は代々美濃国の土豪で、兵庫助はその分家の飛騨国広瀬家の出身と伝わっている。なお、この人選は称名寺(長浜市尊勝寺町所在)の僧・性慶(せいきょう)の進言であったという。
 おね達一行は性慶とともに長浜城を出発し、東草野谷から曲谷・甲津原のルートをとり、新穂峠を越え美濃国広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町広瀬)にある兵庫助の館に匿われた。時を同じくして、明智光秀方の京極高次、阿閉貞大らが長浜城を占拠するが、6月13日の山崎合戦で秀吉が光秀を破ったことで降伏。秀吉は17日に帰城し、おね達も19日には無事帰城している。本書は、秀吉とその養子・秀勝(信長4男)が、秀吉家族を西美濃に逃した恩賞として、兵庫助に対し高山(長浜市高山町)・甲津原(米原市甲津原)・杉野(長浜市木之本町杉野)の地で、500石を宛行(あてが)った文書である。なお、同じくこの功績のあった性慶にも恩賞が与えられている。
【縦17.1㎝×横48.6㎝】

9.大坂夏の陣図

2.羽柴秀吉書状 広瀬兵庫助宛 天正11年11月12日付

天正11年(1583)4月、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、信長の後継者の地位を確立した秀吉は、この戦いで功績のあった家臣に所領を与えた。本書は、「広瀬兵庫助」が広瀬(岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内広瀬)2ヶ村を秀吉が兵庫助に安堵した文書。

広瀬は、羽根・西・北の3ヶ村で構成されるので、この時兵庫助に与えられたのはこのうちの2ヶ村と考えられる。詳細は、美濃を本拠とする秀吉家臣である池田恒興・稲葉一鉄に伝達するとある。
【縦19.3㎝×横43.5㎝】

 ★詫びと削除【織田信長から拝領した(誤報)】⇒子孫の方より指摘で削除しました【広瀬兵庫助歴史館】http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515

【広瀬兵庫助伝】詳しくは、
http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515 http://cocologhonobono.cocolog-nifty.com/blog/ http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 などへ。


日枝神社

拝殿

本殿

本殿背後の鎮守の森日枝神社の北側の堀痕

自治公園ぼ北ぼ竹藪

竹藪の西の石仏公園から竹藪竹藪に土塁か? 公園の南東の竹・・遺構か?公園の北の竹藪

日枝神社東側に駐車

滋賀県教育委員会および長浜市教育委員会によって調査
広瀬氏館跡は中世の館跡とされる遺跡、発掘調査の記録はなく配置などは不明。

室町城居立城は中世の城跡とされる遺跡。発掘調査の記録はなく配置などは不明。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、長浜城博物館、【広瀬兵庫助歴史館】、遺跡ウォーカー、 長浜市埋蔵文化財調査資料第140集 室遺跡第72次調査報告書  

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手原城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:栗東市手原 map:http://yahoo.jp/Xy3SfG

別 称:大西館

現 状:社地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:馬淵広政・・・手原氏(里内氏・里中氏)

目標地:JR手原駅、里中稲荷神社

駐車場:手原赤坂会館

訪城日:2016.3.17

稲荷神社は手原の里内(里中)氏の「家運擁護之神」として始 まったが、文明 3 年(1471)から手原村の産土神として四月 の最初の午の日に祭礼を行うようになったという。

赤坂山記念碑
 抑 赤坂山六町七反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し 明治二十二年の頃 当時の現住民七十二名の共有山として区長管理の下に 玉梅社等の協力を得て その保安に努めて来たのである
 この間明治四十二年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当 その後植栽を行い幸山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として区の財政に多大の寄与をなして来た。
 
 即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し 区民の福利増進施設として 手原赤坂会館と命名之を建設する     昭和四十四年九月二十三日


手原稲荷神社がある。朱塗りの囲い木柵の前に

「明治天皇手原御小休所」と刻んだ石碑が建つ。
 (境内にも「明治天皇御聖蹟」の碑あり)
 その先が神社入口で、左脇に立派な由緒書きの石版(解説板)がある。

お城の歴史

稲荷神社由緒
 里中大明神 木造男神座像 室町時代


当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。

寛元三年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明三年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文四年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。慶弔十七年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享三年(1686)と享保八年(1723)に社殿の再建あり、明治二年改築、明治九年十月村社に列す、昭和六十一年修復工事を施行。

当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。

 東海道名所記に「左の方に稲荷の祠在り、老松ありて傘の如しなり、笠松と言う」と記され、江戸時代は笠松が有名であった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン、遺跡ウォーカー

  本日の訪問ありがとうございす!!

 


谷氏館 近江国(信楽)

2016年03月11日 | 居館

遺跡ウォーカーの比定地

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町長野小字裏白 map:http://yahoo.jp/DJKlGK

区 分:居館(丘陵城)

現 状:丘陵畑地・宅地

築城期:

築城者:谷氏

標 高:377m 比高差:-

遺 構:不明・・宅地開発で喪失か?

目標地:谷川の橋、山長陶器

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.2.8

お城の概要

比定地は、丘陵上を新規開拓された分譲住宅の南側に畑地が残る。

断定はできないが、畑地の南側は谷川が流れ、切岸状になっている。また、畑地の所有者は谷氏で末裔だろうか?

お城の歴史

甲賀市史 第七巻『甲賀の城』p477に谷氏館跡 長野小字裏白  長野集落の北西にあり。遺構なし・・・とある。

遺跡ウォーカーの

谷氏館 [ 詳細情報 ]
時代:中世細分不明
所在地:滋賀県甲賀市信楽町長野
緯度経度:34.883500, 136.046306

参考資料:甲賀市史 第七巻『甲賀の城』、遺跡ウォーカー

   本日の訪問ありがとうございす!!感謝!!


丁野館  近江国(湖北)

2016年03月11日 | 居館

浅井氏発祥の地 丁野へ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/g5b9IW

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:浅井氏

標高:104m 比高差:-

目標地:岡本神社・小谷丁野自治会館

駐車場:小谷丁野自治会館

訪城日:2016.3.11

 集落の中心にある小谷丁野町自治会館。

イメージ 8
イメージ 9学校跡に建っている。
お城の概要
浅井家産湯の池跡がある、「五反屋敷」といわれ、宗家浅井氏の屋敷があった所。隣りには岡本神社が鎮座。丁野は小谷城浅井氏の発祥の地。
集落には、岡本神社や観音堂の浅井氏の誕生地、産湯の井など碑・説明板、神社の由緒書きにも詳しく記されている。
 
丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

 三条公綱お手植えの銀杏。

 三条公綱の屋敷地との伝承のある岡本神社の境内

 浅井亮政(浅井長政の祖父)生誕地説明板

お城の歴史

【岡本神社由緒】

当社は延喜式内神名帳所録、近江国浅井郡十四座の一にして元岡山に鎮座せり
往古より大門の地に祭供田と称する祭田あり。
是、京極持清の奉納する所にして免除地なり。
嘉吉2年(1442)三条大納言公綱卿丁野に配流の際、当社に祈請する所ありて、拝殿一棟献納せらる。 又舞楽堂は藤原公の寄進なり。
中古浅井氏代々の祈願所なり。
天正元年(1572)織田氏兵乱の際、朝倉義景勢(堀甚助・久保十郎・玉泉坊等)此所岡山に立籠る。
玆に戦利あらず、拝殿一棟を残し、社殿その他古文書等悉く焼失す。
同年12月神官、脇坂和泉尉霊夢を感じ、現在の地に再建遷座す。
豊臣氏よりも祭供田奉納あり。 徳川氏検地の際も免除地となれり。


丁野村絵図【縦73.2㎝×横130.0㎝】

平成22年(2010)の合併以前は東浅井郡湖北町に属していた。『近江輿地志略』によると古代の仕丁に村名の由来を求めている。二ノ坪、六ノ坪など古代の条里と関係がある字名が残る。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江北記』『日本城郭大系』11、『滋賀県中世城郭分布調査』1、『滋賀県中世城郭分布調査』2「旧野洲・栗太郡の城」『滋賀県中世城郭分布調査』3。

 本日の訪問ありがとうございます!!感謝!!

 


弘聖寺 近江国(能登川)

2016年03月11日 | 居館

弘誓寺 

弘誓寺の始まりは、791年建部社の神宮寺・大願寺として開創されたことにあると伝えられている。

その後、源平合戦の武者・那須与一の七人の子供が近江に建立した弘誓寺七ヶ寺の一つとして、

1259年に二男が大願寺を再興して弘誓寺を建立している。
<近江の七弘誓寺>
  報身山弘誓寺:東近江市建部    浄土宗
  金剛山弘誓寺:東近江市瓜生津   浄土真宗本願寺派
  石畠山弘誓寺:東近江市五箇荘   真宗大谷派
  石畠山弘誓寺:東近江市躰光寺   浄土真宗本願寺派
  弘誓寺   :東近江市小田刈   浄土真宗本願寺派
  至心山弘誓寺:東近江市中一色   真宗大谷派
  弘誓山稱名寺:犬上郡豊郷町石畑  浄土真宗本願寺派

繖山を西に望む田園にどっしりと構える風景は、那須与一に関係する
趣を想像させてくれる。
庫裡裏の庭園も整備され、かっては浄土宗の大寺であった面影が残っている。

石畠山 弘誓寺(ぐせいじ)

滋賀県神崎郡能登川町躰光寺990

弘誓寺表門(弘誓寺・躰光寺)

この門は、大型の四脚門に入母屋造りの屋根をかぶせた門です。 門が建てられた時期は、部材の模様などから江戸時代後期と考えられます。
また、境内には諸堂が当時のまま残っていて、伽藍配置構成の上からも重要な遺構です。

能登川の文化財 http://www.town.notogawa.shiga.jp/maibun/bmap/index.html

第一番札所 報身山 弘誓寺 滋賀県東近江市建部下野町 282

072gusei源平の戦いも扇の的だその名を知る那須与一に七児が在りそれぞれ一寺を建て弘誓寺と稱したと云い今に傳わると云う 庫裏も古風に感じる土蔵造りで漆喰の白壁は眩しく書院客殿は塀で囲み美しい庭園を想像させる 他の寫真 弘誓寺 地圖

第二番札所 金剛山 弘誓寺 滋賀県東近江市瓜生津町 1314-1

131gusei2門前に二本の松の木が在り茅葺きの山門の柱を新しくする改修をし古きを守る姿は好い景色で在る 山門を過ぎれば親鸞聖人像が在り此処も松の木が在る 大本堂は軒柱を立てる真宗によく見る姿で向拝を廣く取って堂横には大庫裏を置く 弘誓寺 地圖

第三番札所 金龍山 弘誓寺 滋賀県東近江市五個荘金堂町 615

12zgusei3近江商人のふる里で金堂の町並みは白壁と蔵屋敷の並ぶ町並みは心温まる 商人屋敷も幾つか見る事が出来て成功の道しるべも見える感じがする 金堂町掘り割りが走り錦鯉が泳ぎ別世界で在る 真宗の特徴強い大本堂を持ち松の木の多く育てて大きく灯籠を置く 古い井戸の石組が残される 滋賀県 地圖

第四番札所 石畠山 弘誓寺 滋賀県東近江市躰光寺 979

 他の寫眞 滋賀県 地圖

第五番札所 浄土真宗 弘誓寺 滋賀県東近江市小田刈 413

12zgusei2参道には親鸞上人像が在り白土塀を巡らして山門が在る に密着した寺院に見え庫裏も本堂と列ぶが民家風で好印象で在る 横には豪商小林家の屋敷を開放して資料館とし商売の看板に始まり商いの帳簿類商用具等を展示し又家族の生活が見れる等具も展示する 庭園も豪華に在る 滋賀県 地圖

第六番札所 浄土真宗 弘誓寺 滋賀県東近江市中一色 380

 桁行約14m,梁間約15m,入母屋造で,正面に3間分の広い向拝を付す。三方吹き放しの縁を回した外陣の先に一段高く矢来を取り,その奥中央に後門形式の内陣,両脇に余間を配す。縁先に軒支柱を立てた形式で,近世末浄土真宗大型本堂の姿をよくとどめる。滋賀県 地圖

第七番札所 浄土真宗 本願寺派 弘誓山 稱名寺 529-1169 滋賀県犬上郡豊郷町石畑473

文治元年(1185)那須与一の次男宗信創立という。文永11年(1274)宗信中興、


 那須 与一   嘉応元年(1169)~不詳(不詳)   没年齢 不詳
.

那須氏の祖は藤原道長の曾孫・資家、下野国那須郡に下向して須藤(那須の藤原氏)貞信と名乗ったのが始まり。与一の父資隆が初めて那須を名乗って以後はその姓を継承した。妻は新田義重の娘と伝わる。
吾妻鏡には与一の記載がなく、平家物語あるいは源平盛衰記など軍記物にのみ記事が見られるため、実在は疑われている。元暦二年(1185)の屋島で扇を射る(審議には諸説あり、個人的にはフィクションと考える)などの軍功を挙げ、頼朝から丹波・若狭・武蔵・信濃・備中に荘園を得た。
.
与一は文字通りの十一番目に生まれた男子だったが、源平争乱期に兄達が平家に味方するなどしたため繰り上がって家督を継ぎ、逃亡中の兄弟を赦免し領地を分け与えて那須氏発展の基礎を築いた、と伝わる。晩年については諸説があり、これも明確ではない。子孫は那須七騎と称されて独立性が強く、那須氏・芦野氏・福原氏・千本氏・伊王野氏・大関氏・大田原氏に分かれ繁栄したが室町時代に分裂し没落した。

 


後藤氏館  近江国(八日市)

2016年03月07日 | 居館

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

  後藤但馬舘 佐生日吉城 北向観音 伊庭山城 北須田山城 石馬山城 見学会参加しました

門跡石垣 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)中羽田町   map:http://yahoo.jp/XBTctB

区 分:居館

現 状:田地・宅地

遺 構:土塁・堀・石垣・説明板

築城期:鎌倉期

築城者:後藤氏

標 高:111m 比高差:-

目標地:雪野山トンネル東側出口

駐車場:児童公園(神社御旅所)

訪問日:2016.2.20

後藤館跡

Ⅼ型の土塁 詰め城「雪野山城」・・・遠景

お城の概要

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の宿家の位置にあった。

後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和56年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残る。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

歴 史

後藤 賢豊 は、戦国時代の武将。佐々木六角氏の重家。

生涯

主君である佐々木六角義賢の(「賢」の字)を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治・新藤道賢盛の進藤氏は「六角氏の両籐」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。

永禄5年(1562年)、佐々木六角義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、佐々木六角義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。(後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。)

これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる。『現地案内板』

後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤高治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
後藤 高治(生年不明 - 17年天正(1589))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別名に定豊、高安。通称は喜三郎。兄に後藤壱岐守。子に千世寿(後に蒲生三郎左衛門)。

生涯

 佐々木六角氏の重臣・後藤賢豊の次男として生まれる。永禄6年(1563)の観音寺騒動で父・賢豊と長兄・壱岐守が主君・六角義治によって討たれたため、後藤家の家督を相続する。その後は父・兄の仇として六角氏と敵対したが、永禄10年(1567)に和睦し、同時に六角氏式目に連署して義治の専制に歯止めをかけた。しかし永禄11年(1568)に織田信長の上洛で六角氏が滅亡すると、信長に降伏して臣従する。

信長のもとでは近江衆の1人として仕えた。天正6年(1578)に信長が安土で相撲大会を開くと、その奉行を務めた。天正10年(1582)6月に本能寺の変が起こると、明智光秀に与したために所領を追われている。後に蒲生氏郷に仕えた。

この蒲生氏仕官時代に「戸賀十兵衛尉」と名を改め(氏郷記)、九州征伐にも参陣している。天正17年(1589)、京にて死去。知行3000石は11歳の子・千世寿が継いだという(氏郷記)。

後藤氏

 藤原秀郷流の後藤氏(佐々木六角氏家臣の一族、後藤但馬守など)、伊達氏家臣の後藤氏(後藤信康、ただし信康は湯目氏からの養子)、土佐藩重臣の後藤氏(後藤象二郎)などが存在する。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』、見学会資料 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


宮町城(鵜飼城) 近江国(信楽)

2016年03月04日 | 居館

 鵜飼城から寅にあたる北東の地にあったのを圃場整備に300m移動されています。画像に移されている石碑のある場所です。(ただ、大きな石塔が駐車場付近にあるのは、不動産業者から誘致したものです。)

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町宮町 map:http://yahoo.jp/WHpXAv

別 称:鵜飼城

現  状:田地・宅地

区  分:居館

築城期:室町期

築城者:鵜飼氏

遺 構:不明

目標地:法性寺

駐車場:法性寺駐車場

訪城日:2016.2.3

 

お城の概要

飯道山の南西・大納言山に西が、比定地であるが、農地整備で大きく改変され、遺構の手掛りはない。

コメント頂きました。

鵜飼城はこの地に、子孫が在住されています。風水により寅の守「トラノカミ」が今も祀られ、大切に保全しています。鵜飼城から寅にあたる北東の地にあったのを圃場整備に300m移動されています。画像に移されている石碑のある場所です。ただ、大きな石塔が駐車場付近にあるのは、不動産業者から誘致したものです。

宮町集落は、紫香楽宮・甲賀寺跡があり今からおよそ1,250年前の奈良時代中頃、甲賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。

聖武天皇が発した大仏造立の詔により、大仏の骨組みとなる体骨柱を立てたと推察される甲賀寺跡。金堂跡、僧坊跡、塔院跡などずらりと並ぶ礎石が、当時の面影を今に伝えています。

お城の歴史

近江興地誌志略に[鵜飼駿河守城址]宮町にあり、駿河守は甲賀古士二十一家の内なり・・・と記す。

甲賀流忍者といわれ、室町幕府9代将軍足利義尚を斃した「鈎の陣」の甲賀二十一騎に鵜飼駿河守の名がある。

紫香楽宮は、今からおよそ1,250年前の奈良時代中頃、甲賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。
恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り始めました。
天皇は、天平14(742)年8月~9月、同年12月~翌15年正月、15年4月、同年7月~11月初め、というように、この離宮へたびたび出かけ(行幸)、離宮の建設を励ましています。 離宮というのは都とは異なり、天皇が保養などのため一時的に滞在する宮殿的施設で、紫香楽宮は離宮として造られ始めたのです。
天平15(743)年の年末には、足掛け4年間続いてきた恭仁京の建設事業が中止され、て天平16(744)年2月末に正式に難波を都と宣言しました。
紫香楽宮の建設は引き続き進めら、天平15(743)年10月に天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手します。
そして天平16(744)年11月には甲賀寺で大仏の骨組みとなる体骨柱(中心柱)を建てる儀式が行なわれ、太上天皇(前天皇)も難波宮から紫香楽宮へ到着するなど、紫香楽は活気に満ちていきました。その勢いが持ち越された天平17(745)年正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てるのが習わしの大きな楯と槍が立てられました。ようやく、紫香楽宮は正式な都になったのです。

しかし、4月になると、紫香楽宮や甲賀寺周辺の山々でしきりに火災が起こりました。 火災がおさまると、今度は美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震が相次ぎました。これらが原因となって、5月には早くも都が奈良(平城京)へもどってしまいました。
紫香楽宮は、このように数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と都が移り変わった時期に、極く短期間ですが光を放って存在した都であったのです。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、遺跡ウォーカー、

 本日の訪問ありがとうございす!!感謝!!