城郭探訪

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建部城   近江国(八日市)

2016年04月14日 | 居館

建部城

 一つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城遺跡:遺跡ウォーカー

お城のデータ
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町  map:http://yahoo.jp/lspa9X
  一つ目の比定地(遺跡ウォーカー)
現 状:神社・水田
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:建部氏
遺 構:
目標地:天神社
駐車場:神社前に路上駐車
訪城日:2016.4.11

二つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城跡 [ 詳細情報 ]
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町447  map:http://yahoo.jp/fI_hqR
現 状:竹藪・水田
目標地:東近江市勤労福祉センター
駐車場:東近江市勤労福祉センターに駐車
訪城日:2016.4.16

お城の概要
『滋賀県中世城郭分布調査4』の「建部城」、現在城跡を確定する痕跡は全く知ることはできない。但、明治の始めまで上中南町の硝煙作に土塁が認められたいう。この隣接地には「南門」「嘉城門」の地名が残っており、さらに南には殿街道が知られている。また土塁所在地の北に位置する大鯛は砲台ではなかったかと言われており、北西には砲前・的場の地名が残る。以上のように当地には広域渡って城の存在を暗示させる地名が知られた。しかし、かつて存在した土塁の新古が判明しないいま城跡の位置は確定しがたいといえる。
 箕作山魂の箕作山の東の建部庄郷上中村の付近を比定地され、圃場整備で遺構喪失したようだが、天神社の鎮守の森に城郭遺構らしき物が残る
 滋賀県東部、近江盆地(湖東平野)に位置する。町域の東部を愛知川、北部を繖山(主峰は観音寺山)・清水山、西部を箕作山(小脇山)、中央部は平地が広がる。五箇荘町南部は旭村を構成していた山本・新堂・木流・平阪・伊野部・奥・三俣・北町屋・石塚建部地区とつながりが深く、春には両地区合同で祭礼(建部まつり)を行う。
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、神崎郡 建部庄 「古ハ建部氏居住ス、後孫中古建部伝内トテ筆道ニ達シタル人有、木流村ニ居住ス、屋敷跡今ニ有ト云、」と記す。
南近江 国人領主 建部氏

建部賢文 (1522~1590)建部秀昌の息、兄は秀治。箕作城主。のちに書家として大成する。

建部秀明 (*~*1568)源八郎。1568年織田信長の上洛軍に対して、六角義治に忠節を尽くし徹底抗戦し落城。観音寺城の前衛・箕作城主。

⇔建部寿徳 (1536~1607)与八郎・内匠頭・高光・秀栄。蒲生郡の土豪。織田家に臣従する。中川重政の与力。・丹羽与力。守山にて500石を与えられる。変後、秀吉に出仕。<じいさんっぽい名前ですが、丹羽・羽柴世代。>



建部氏の一族の居館か?

『信長公記』巻三(元亀元年)10月20日条に記載あり
ーーーーー江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した途中の建部には一揆勢が砦を構え近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。----

[尊経閣文庫所蔵文書]
**源頼朝下文
     (花押)
  下 近江国建部庄住人
   早く往還武士寄宿の間の狼藉を停止せしむべき事
  右件の所は、日吉社領と云々。而るに往還の武士止宿の間、或いは乗馬を放ち入れ、
  或いは作田を苅り取り、しかのみならず粮料と号し、御供米を押し取るの旨、その聞
  こえ有り。自今以後、件の寄宿狼藉を停止せしむべし。もしこの旨に背き、違背せし
  むの輩有らば、慥に交名を注し、言上せしむべきの状件の如し。以て下す。
    文治二年閏七月二十九日 ・・・・『吾妻鏡』より

 中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦い【箕作城(清水山城)の戦い】では町域全域が戦場となった

 室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石塔・沓掛・小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市・小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退する。

 江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。

元亀天正の兵乱により戸籍神宝等焼亡或は紛失しているが建部郷の・・・・。

土塁?土塁?、神社土塁?

天神社の周り神社土塁?、堀痕}

 

二つ目の比定地(遺跡ウォーカー)建部城跡 [ 詳細情報 ]
所在地:東近江市(旧、八日市市)建部上中町  map:http://yahoo.jp/fI_hqR

現 状:竹藪・水田

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:建部氏

遺 構:塁痕・堀痕・廓跡

目標地:東近江市勤労福祉センター

駐車場:東近江市勤労福祉センターに駐車

訪城日:2016.4.16

建部氏に一族の居館か?

この一角だけ、竹藪・荒地地で残る。遺構は土塁痕・堀痕・廓跡のようが

建部氏の本幹地は、建部城は建部城(建部伝内屋敷) 近江国(五個荘・木流) 建部城遺跡:遺跡ウォーカー

『佐々木南北諸氏帳』には、「神崎郡 木流 佐々木隋兵 建部源八郎・近江三筆 建部伝内・建部才八郎・建部左近将監・建部大蔵・建部大蔵夫」6人の名を記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 木流村 「古此所ニハ建部伝内ト云人居住ス、筆道に達人ニシテ伝内流ノ元祖也、古屋敷跡今残レニト云、」と記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 建部庄 「古ハ建部氏居住ス、後孫中古建部伝内トテ筆道ニ達シタル人有、木流村ニ居住ス、屋敷跡今ニ有ト云、」と記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)、信長公記、吾妻鏡、
 本日の訪問ありがとうございす!!

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