城郭探訪

yamaziro

南殿は1489年に造営された蓮如の隠居所   山城国(山科)

2016年05月30日 | 居館

北側土塁、北東向き 京都・山科本願寺南殿跡

        京都新聞 2016.5.29

南殿跡で見つかった土塁の基底と堀の跡。土塁の裾には補強のために石が敷き詰められていた(京都市山科区音羽)

 本願寺中興の祖・8代蓮如が晩年を過ごした京都市山科区音羽伊勢宿町の「山科本願寺南殿跡」の発掘調査で、南殿の中心部を囲んだ土塁の北西角の基底と堀の跡が28日までに見つかった。

■京都市発掘 復元図、大幅書き換えか

 北西のコーナーが確認されたことにより、北側の土塁が北東向きに斜めに築かれていたことが分かり、南殿の復元図が大幅に書き換わる可能性が出てきた。

 南殿は1489年に造営された蓮如の隠居所。ほかの宗派との対立もあり、中心部を二重の土塁と堀で囲っていた。市の発表によると、見つかったのは内側の土塁で基底の幅は約5メートル。内郭の規模が東西100メートル、南北125メートルと分かった。土塁の裾には、補強のために石が敷き詰めてあり、山科本願寺ではみられない工法で作られていた。堀の幅は約8メートル。最初の堀を埋め立ててから造り直した跡がみられた。

 これまで北側の土塁は、今回の調査地点から東方向に延びていたとみられていたが、調査により、北東方向に角度を付けて造られたことが判明し、市文化財保護課は「内郭の土塁は周囲の道路と同じ角度で造られていた。今は手がかりのない外郭部分でも、同様の傾きとなっている現在の道路が、土塁と堀があった範囲である可能性が高い」とみている。


旧彦根藩足軽組屋敷「瀧谷(たきがい)家住宅」 近江国(彦根)

2016年05月30日 | 居館

足軽の生活に興味津々 滋賀、旧彦根藩足軽組屋敷を一般公開

      京都新聞 2016.5.30

一般公開に合わせて展示された、瀧谷家に伝わる火縄銃の弾丸や弾造りの道具、射撃訓練の記録簿など(彦根市栄町1丁目・瀧谷家住宅)

 旧彦根藩足軽組屋敷「瀧谷(たきがい)家住宅」(滋賀県彦根市栄町1丁目)の一般公開が29日行われ、江戸末期に建てられた由緒ある建物の内部や、同家に伝わる工芸品、文書などの貴重な資料を来場者が見学した。

 2013年から毎年5月と10月の年2回、「まちかど資料館」として公開。今回は28日に続き実施された。

 瀧谷家住宅は旧彦根藩足軽組のうち中藪組の屋敷の一軒で、1855(安政2)年築。主屋は接客用と日常用に間取りが分けられ、座敷から庭園を望めるなど足軽屋敷の典型的な造りで、当時の姿を現在も良好にとどめ、市指定文化財となっている。

 住宅公開に伴い同家の所蔵品約100点も展示された。火縄銃の弾丸、射撃訓練用の的、胴具足などの武具や、鳥羽伏見の戦いなどの回顧録もあり、足軽としていくさに備え、実際に従軍もしたことがよく分かる。

 足袋や煙草(たばこ)入れなど旅道具も多数並んだ。中には、参勤交代の折に土産で買ったとみられる歌川広重の錦絵「冨士三十六景」も複数あり、来場者の関心を集めていた。


鈴村館    近江国(蒲生)

2016年05月25日 | 居館

鈴村館

 

お城のデータ
所在地:東近江市(旧:蒲生郡蒲生町)鈴町    map:http://yahoo.jp/hoN1WE
現 状:水田
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:鈴村氏
城 主:鈴村玄蕃・鈴村主馬介
遺 構:野上神社・現地説明板
目標地:野上神社
駐車場:野上神社の駐車場
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 日野川の右岸の田園地帯で、集落の東に位置し、野上神社の北西が遺跡ウォーカーの比定地である。
 現在は、集落・宅地以外は圃場整備され、静かな農村集落。 
お城の歴史
『近江與地志略』には、「・・・・鈴村主馬介」の名がm見えるが、他は不明。
『野上神社の由緒』は、「正和四年に鈴村玄蕃という人が、野上神社を再建したいわれる。」と記す。
  
                 
    
 
吉善寺
       
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・4(旧:蒲生・神崎郡の城)、近江與地志略、野上神社の由緒書
  本日の訪問ありがとうございす!! 

岩根館  近江国(甲西)

2016年05月24日 | 居館

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)岩根  map:http://yahoo.jp/HeOu3H

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:岩根長門守

城 主:甲賀五三家の一つ岩根家(岩根長門守・岩根勘兵衛・岩根甚左衛門)

目標地:岩根公民館

駐車場:岩根公民館駐車場

訪城日:2014.9.13・2016.5.22

お城の概要

比定地は、現在水田となっている。正栄寺(岩根城)の善水寺の参道の中腹に位置し岩根城の下屋敷。

思川の東に、小字「城角」という地名が残っている。

お城の歴史

甲賀五十三家は、「鈎のじ」にて六角氏」に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。岩根家 は、 一族の著名人物として岩根勘兵衛・岩根甚左衛門がいる。甲賀五三家の一つ岩根家(岩根長門守)の居館

甲賀五三家の一つ岩根家、岩根長門守・岩根勘兵衛・岩根甚左衛門の名が残る。

遺跡ウォーカーの比定地      


 岩根公民館・診療所

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、遺跡ウォーカー

         本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


寒川辰清邸(『近江與地志略』の編纂者)     近江国(大津)

2016年05月21日 | 居館

 「寒川辰清邸阯」の碑

お城のデータ

所在地:大津市中庄一丁目

築城期:江戸期

築城者:寒川氏

寒川辰清邸阯の碑が、京阪電車石山坂本線・中ノ庄駅の西側に建てられています。

 寒川辰清(1697~1739)は、

 康命〔やすのぶ〕・康敏〔やすかず〕藩主二代の学問師範(侍講〔じこう〕)として、200石の禄〔ろく〕を拝し、『近江與地志略』の編纂をはじめ、『武射必用』〔むしゃひつよう〕など多くの書物を著しました。

 しかし、晩年の元文3年(1738)、当時の弊害をなげき、主君をいさめる文書(諫書=かんしょ)を提出したことで藩主・康敏の怒りにふれて、膳所藩を追放となり、翌年大坂にて病死しました。

江戸時代に記された『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』という地誌。
 この『近江輿地志略』という本は、江戸時代の享保8年(1723)に、膳所藩士であった寒川辰清(さんがわ とききよ)が、ときの藩主本多安敏の命をうけて編纂に取りかかり、享保19年(1734)に完成した近江国の地誌。

101巻100冊から構成されており、その内容は近江国の概観からはじまって、12郡の村ごとに名所・旧跡や寺社等を紹介し、最後に「人物」や「土産」(その土地の名産品)が詳細に記されています。記述には,歴史書や古記録から関係する史料が縦横に引用されるとともに、地元の言い伝えも示されています。この本には、江戸時代(18世紀頃)における近江国の村々の情報がぎっしりと詰めこまれている。

 今となっては記された内容がすべて正確な史実であるとはいいがたい部分もあります。しかし、少なくとも18世紀頃の人々が名所・旧跡や寺社等―今でいう文化財にいだいていた認識を知る手がかりになりますし、遺跡にかんする情報をそこからくみ出すこともできるのです。
 滋賀県には,江戸時代以来このような地誌・地域史が編纂・蓄積されており、それらが現在でもわれわれの遺跡の基礎をつくってくれています。偉大な先達の恩恵に感謝せざるをえません。
 ちなみに,滋賀県立琵琶湖文化館には寒川辰清の自筆本が所蔵されており、滋賀県における基本的地誌の原本資料として本県の文化史・科学史・地理学史上極めて貴重な存在であることから、重要文化財に指定されています。

この自筆本は容易に閲覧できるものではありませんが、

幸いに『近江輿地志略』は大正年間に活字本として刊行され、戦後にも校訂本が再刊されており,滋賀県の図書館等で閲覧することができます。

寒川辰清邸跡石碑

 さらに蛇足ですが,寒川辰清の邸宅は膳所城下町にありました。京阪石坂線中ノ庄駅を下車し,膳所小学校(山側)へむけて徒歩2分程の道路際に邸宅跡の石碑が立てられています。

参考資料:滋賀県公益法人文化財保護協会 (地域の歴史の宝庫―『近江輿地志略』)


宮城氏館   近江国(栗東)

2016年05月21日 | 居館

宮城氏館

 
お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)大橋  map:http://yahoo.jp/a0_9fY 
現 状:神社
区 分:居館 
築城期:室町期
築城者:宮城氏 
遺 構:三輪神社境内の土塁・堀痕
目標地:三輪神社
駐車場:三輪神社の駐車場
訪城日:2016.5.19
お城の概要
 大橋集落は、地区内を国道1、8号線が通り、名神高速道路栗東第2インターチェンジが置かれるなど、主要道路の結束地となっています。このことは大橋のみならず、栗東市全域に急激な都市化や、景観の変貌をもたらしてきました。
一方で、地区内には様々な文化財や民俗行事が残されいる。
お城の歴史
宮城氏は、佐々木六角氏を支えた一族で、「宮城豊盛は主家佐々木氏衰退後、豊臣秀吉に仕え、1592年に豊後国の蔵入地代官」となった。が、それまで居館にしていたのが、大橋集落の三輪神社が城域と考えられる。
『滋賀県中世城郭分布調査』には、「宮城氏館 豊臣氏の代官宮城丹波豊盛の居館であることが『近江名跡案内記』にみえる」と記す。

  江戸時代の大橋は、栗太郡の多くの村々がそうであったように、集落を中心として周辺に田畑が広がる農村でした。村人たちは農耕を生業とし、江戸時代を通して3人の領主に年貢を納めていました。
 地区内には、三輪神社と慶崇寺があり、古くから人々の信仰を集めていました。
三輪神社には、鰌や鯰をすしにつける「鰌ずし」が伝わっており、非常に珍しい祭礼行事として知られています。
また、慶崇寺には、栗東で大いに隆盛した真宗文化を伝える様々な文化財が残されています
               
慶崇寺

       

宮城 豊盛

天文23年(1554)~元和6年(1620) は、豊臣氏の家臣。本姓は大江氏。宮木とも。通称、長次郎または長次 下丹波守。使用家紋は蝶紋の「揚羽蝶」が『寛政重修諸家譜』に載る。

生涯

 六角氏の家臣・宮城賢甫(堅甫)の娘婿にあたる。山崎方家の子・頼久を養子とした。妹に鯰江貞勝室。

 豊臣秀吉に仕え、三木合戦で功を挙げ、小田原征伐や文禄・慶長の役に参陣する。京の金戒光明寺再建の奉行を務める。文禄元年(1592)に豊後国日田郡に蔵入地の代官として赴任し、日隈城を築城した。文禄3年(1594)の時点で豊後日田・玖珠2万石(4万石とも)の蔵入地代官を務めた。

 慶長3年(598)、慶長の役の最中に秀吉が死去すると、徳川家康より命を受け、徳永久昌・山本重成とともに渡海し、朝鮮へ戦役中の将兵の撤兵を指導した。その功により翌慶長4年(1599)、従五位下丹波守に任官する。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍として大阪城平野橋を警護したため、戦後所領を没収されるが、頼久とともに徳川氏に仕える。頼久は慶長10年(1605)実兄の山崎家盛より但馬国二方郡6000余石を分知され、芦屋に陣屋を構えたが、慶長14年(1609)豊盛より先立って死去。その子の十二郎(のちの豊嗣)は5歳と幼いため、豊盛が後見として大坂の陣に出陣するなど実質的な当主として活躍した。

 その後、駿府の徳川家康に仕え、家康死後は徳川秀忠の御伽衆となった。元和元年(1614)、慈照寺(銀閣寺)再建の奉行や、元和5年(1619)京都知恩院の普請奉行を務めている。墓所は近江国今勝谷の阿弥陀寺。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、Wikipedia、日本城郭大系』11
本日の訪問ありがとうございす!! 

饗庭(あいば)館    近江国(新旭)

2016年05月17日 | 居館

饗庭館

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町旭 霜降地区 map: http://yahoo.jp/lXuCaX
現 状:畑地・田地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:
遺 構:
目標地:霜降会議所・浄栄寺
駐車場:霜降会議所
訪城日:2016.5.15
お城の概要

霜降地区 旭区と針江地区にまたがる旧道に面した東西300m、南北100mの範囲。かつては独立した村であったが、明治11年(1878)12月に近隣4か村と合併して高島郡旭村(のちの饗庭村大字旭、新旭町大字旭)となって以来、行政上の地名としては消滅している。針江集落とともに「高島市針江・霜降の水辺景観」として重要文化的景観に選定されている。

霜降集落は西近江路から深溝集落へ延びる旧道と並行する針江大川上流水路に沿った東西一直線の配置となっている。表通りに面した霜降集落は庄屋・米仲買・蔵元などが暮らし、寺院も複数置かれたのに対し、通りから外れた針江は小作人の集落であった。霜降集落には針江集落の手前で針江大川の水量を調整する水位弁が設けられ、水利権を有していた。

 饗庭館の資料等は詳細不明だが、大字霜降の竹ノ内町饗庭家所有住宅があり周囲の田と霜降会議所を合わせて饗庭館であったとの伝承が伝わる。敷地に南と東に水路が残るが、土塁等の遺構は不明である。明治6年の地籍図には約1丁四方の敷地の北側と西側から南角付近に藪が描かれおり、土塁が廻っていたと推測される。敷地と二本の水路の関係も不明。
お城の歴史
   
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・8(高島郡の城) 
本日の訪問ありがとうございす!!

猪子館 近江国(野登川)

2016年05月11日 | 居館

遺跡ウォーカーの比定地近く

猪子館

お城のデータ
所在地:東近江市(旧:神崎郡能登川町)猪子町   map:http://yahoo.jp/9FNw-8
現 状:集落・宅地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:猪子次郎
遺 構:宅地開発の一角に、周囲より1m程高い畑地あり、城跡遺構・城域の可能性が高い。
目標地:能登川高校
駐車場:比定地の新開発宅地内の路上駐車
訪城日:2016.5.1
お城の概要

東近江市(旧能登川町)猪子地区にあったとされる平城。 築城時期など、詳細不明。

宅地開発の一角に、周囲より1m程高い畑地あり、城跡遺構・城域の可能性が高い。

猪子山の北麓(能登川高校)の大同川の対岸、右岸沿いが比定地であり、宅地開発が進み、比定地の遺構が消失したか?

お城のデータ
滋賀県中世城郭分布調査4の「旧・蒲生郡・神崎郡の城)の猪子館の解説には、「猪子氏の存在が知られ「神崎郡志稿」上に、大字猪子にその城館が推定されるが、不詳。」と記す。
猪子氏は、佐々木一族、伊庭氏の未流。猪子次郎が先祖。猪子を支配。

織豊後期には、『淡海国木間攫』の
「神崎郡 猪子村 ・天満天陣宮 当村・佐野村・佐生村・三ヶ村生土神ナリ、徳永法印勧請ナリ、
 追加
徳永ハ伊庭家ノ従者ニテ、伊庭家断絶ノ後屋形ヘ出、石見守ニ至テ柴田(長浜城主=柴田勝豊)ニ属ス、柴田病死後太閤ヘ被召出立身、式部卿法印寿昌ト号シ、五万五千石ニ至ル、左馬助濃州高須ニテ没落ス、孫流江府ニ有ト云」と記す。
  
  
 能登川高校から、猪子館比定地
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧・蒲生郡・神崎郡の城) 城郭分布調査1、遺跡ウォーカー 、淡海国木間攫
本日の訪問ありがとうございす!!

矢野屋敷   近江国(日野)

2016年05月08日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町北脇   map:http://yahoo.jp/X9nPdN

現 状:田地・林

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:矢野氏

遺 構:林に土塁・空堀・廓に一部

目標地:桜谷幼稚園西分園

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2016.5.8

お城の概要

 日野町の東部の国道307号線沿いの北脇集落北部の山麓に位置するが、圃場整備で遺構は水田となり消失したが、比定地のに東端山麓に林内に土塁・空掘(井戸?)が残る。またその南側は廓跡と思われる。土壁の倒壊寸前の倉庫が建っている。

 

お城の歴史

 滋賀県中世城郭分布調査4の解説では

 室木氏の支流「矢野氏」の屋敷といわれるが、9m×25mの楕円形平坦地と古井戸が残るのみである。平坦地の西側に野谷家墓地、住居をはさんで小さな祠がる。平坦地のある南側、北脇への道を「馬場」と呼んでいる。が圃場整備で消滅した。

『近江国興地志略』にも、記録が残っているようだ。詳細後日。

          竹の子もテントで真っ直ぐ伸びられず!   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)

  本日の訪問ありがとうございす!!

 


横山館(横山氏館)     近江国(蒲生)

2016年05月08日 | 居館

横山館

お城のデータ
別 称:横山氏館
所在地:東近江市(旧:蒲生郡蒲生町)横山町   map:http://yahoo.jp/W6yXhL
現 状:神社・宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:横山太郎左衛門
遺 構:櫟神社の鎮守の森に遺構か?
目標地:横山公民館・櫟神社
駐車場:永福寺駐車場に駐車
訪城日:2016.5.7

お城の概要
横山氏の居城は横山にあったと考えられるが、遺構・伝承とも不明で、ただじ、現在も集落内に横山姓を名乗る家が3軒あり、そこに近世には大庄屋の大きな屋敷あったという。史跡ウォーカーの比定地の櫟(くぬぎ)神社の、となり大きな屋敷跡が残存する、館跡か?・・・(滋賀県中世城郭分布調査4)
お城の歴史
横山太郎左衛門は六角氏の旗頭で、子孫の横山将監は蒲生氏に従ったこと『近江名跡案内記』にある。

 横山喜内。備中守。六角家臣。
後に蒲生氏郷に仕える。永禄十二年、蒲生氏郷の初陣である伊勢攻めに従う。天正十五年、九州征伐に出陣。厳石城攻めで軍奉行。抜け駆けにより処分されかかるが許される。戦後、蒲生姓と一字を賜る。蒲生頼郷と改名。蒲生十八将が蒲生姓を称するのは、全て九州征伐の軍功によるものである。天正十八年十月、塩川城六千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。氏郷没後、石田三成に仕えて蒲生真令と改名。関ヶ原合戦で嶋清興らと共に奮戦。討死した 
綺麗手入れされた【鎮守の森】は、大きく改変されているが、城郭遺構か?
櫟神社の隣の【大きな屋敷跡】
近くに永福寺:滋賀県蒲生郡蒲生町横山435
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城」、遺跡ウォーカー 、近江名跡案内記、蒲生家家臣団 
  本日の訪問ありがとうございす!!

大野木館     近江国(山東)

2016年05月05日 | 居館

 浅井氏の重臣の大野木土佐守の居館

http://yahoo.jp/wCsX1U

大野木集落の南、新幹線で遮断された、南沿いに城址碑がある。

お城データ

所在地:米原市((旧:坂田郡山東町)大野木  map:http://yahoo.jp/ZUuxgY

現 状:田畑・宅地・社地境内

区 分:居館

築城期:鎌倉期?

築城者:大野木氏

遺 構:空堀・土塁・城跡碑

目標地:大野木公民館・八相宮

駐車場:大野木公民館

訪城日:2016.5.4

お城の概要

 大野木集落の南新幹線で遮断された、南沿いに城址碑がある。

大野木集落にある八相宮のあたりまで居館があったと思われ、八相宮裏手に土塁・空堀が残る。

東側の大峰山の尾根上に大峰砦があり、千畳敷、左手NTTの鉄塔辺りが北砦のようだ。

周辺マップは公民館に設置してある。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 大野木住 佐々木浅井旗頭筆頭後上坂へ所替 大野木土佐守」の名を記す。

 『浅井三代記』(16) 第十六(全文) 本文 備考 朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近 討死の事 斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井 ... 小谷中の丸には浅井 玄蕃亮、三田村左衛門大夫、大野木土佐守彼等三人をこめ置る。・・・云々

浅井氏の重臣の大野木氏の居館。小谷城の清水谷には土佐屋敷として大野木氏の屋敷が残る。


八相宮

          

八相宮の本殿にの裏北東部に空堀・土塁が残る。

      

八相宮の東は堀痕か?

    

元大野木学校跡に大野木公民館

  

 

案内図 東側の大峰山の尾根上に大峰砦・千畳敷・左手NTTの鉄塔辺りが北砦のようだ。

大野木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 大野木氏(おおのぎし)は、佐々木高綱を祖とする佐々木氏分流。転じて大八木氏(おおやぎ)と称して江戸幕府奥医師や柳河藩医や高松藩士になった家もある。

概要

佐々木高綱の子孫で近江国坂田郡大野木城(現在の滋賀県米原市山東町 )に住して大野木(おおやぎ)氏を称したとする。

「乃木大将事蹟」の系図では野木氏の祖である野木光綱の弟の高重(二郎兵衛尉、大野木庄左衛門尉)を大野木氏の祖としている。また柳河藩士の大八木氏系図では大野木氏は高綱の二男である次郎左衛門高行の子孫としている。

戦国時代の浅井氏家臣に大野木秀俊(土佐守)がいる。

大八木氏

大野木氏の中に大八木氏に改姓した家がある。柳河藩士の大八木氏系図では高綱の二男である次郎左衛門高行の16代孫の高澄(加賀守)が近江国坂田郡大野木郷に住して大野木氏を称し、後に大八木氏と改姓したとする。

 高澄の子・永広(小兵衛)は細川忠興に預けられて後に山城国嵯峨に住し、永広の子である玄忠が医者となり、その子孫が江戸幕府の奥医者や柳河藩医、高松藩士になったとする。

また、寛政重修諸家譜では大野木高盛(加賀守)が三代の子孫である秀盛(新右衛門)が剃髪して玄忠と称して医者となり、その4代目の大八木高豊(伝庵)が正徳元年(1711)に幕府奥医師になったとしている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、佐々木南北諸氏帳、浅井三代記、淡海の城

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奥村館   近江国(五箇荘)

2016年05月03日 | 居館

奥村館遺跡ウォーカー比定地

お城のデータ
所在地:東近江市(旧・神崎郡)五個荘奥町  map:http://yahoo.jp/_sqpVT (遺跡ウォーカーの比定地)
現 状:集落内宅地・畑地
区 分:居館
築城期:南北朝期
築城者:奥村氏
遺 構:ー
目標地:奥村神社
駐車場:奥村神社参道に駐車
訪城日:2016.5.2
お城の概要
 五箇荘奥町は、愛知川左岸に面した小さな集落である寺院が二つも、佐々木六角の領有する観音寺城・箕作城・小脇山城の東に位置して、元亀・天正の騒乱寺は戦場となった。
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「神崎郡 奥村 古奥村氏住スト、小倉弥次郎義遠ノ男奥三郎義盛元祖ナリ、奥野氏・奥村氏皆此末流ナリ」と記す。が詳細不明。
奥村神社の由緒書には、
「・・・小松内大臣平重盛公近畿諸国ヲ巡幸セシタル附ケ社領ヲ寄進セラル然ルニ溶乱◇丞ケ源氏ノ世ト替リ其后佐佐木氏近江一ヶ国ヲ領有シ居城ヲ観音寺山ニ構フルニ當リ尊崇特ニ・・・・元亀天正ノ兵賢及ビ享保十一年不慮ノ・・・」
          
           
       
遺跡ウォーカーの比定地   
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・4、遺跡ウォーカー、淡海国木間攫、奥村神社の由緒
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七里館     近江国(五箇荘)

2016年05月03日 | 居館

七里館

お城のデータ
所在地:滋賀県東近江市(旧神崎郡)五個荘七里町  map:http://yahoo.jp/OsLZO0
現 状:集落・宅地・畑地
区 分:城館
築城期:ー
築城者:奥野周防守
遺 構:ー不明
目標地:西誘寺・五箇神社
駐車場:五箇神社の前「らくらく倶楽部」に路上駐車
訪城日:2016.5.1
お城の概要
繖山系伊庭山の南に位置し、集落内を石馬寺川が蛇行するように流れ、堀の役割を感じる。
七里集落には「中屋敷」「福堂屋敷」の字名あり城郭遺構が存在するが、詳細は不明だが、五箇神社と鳥居の間・五箇神社の鎮守の森も城郭遺構か?。
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「神崎郡 七里村 往古奥野周防守ト云人領主ナリ、古宅アリト云」と記す。


西誘寺
        
  五箇神社 由緒
往古聖徳太子石馬寺を建立したとき五体の明神を守護神として五箇の村里に配したが、その一大梵天王を金堂村に祀った。天明二年神託がありこのに遷座し、字中に鎮座の五明神の一、若宮明神(誉田別命)を合祀して産土神と仰ぐに至る。    
    
   
           
   
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査旧、(旧野洲・栗太郡の城)、遺跡ウォーカー、淡海国木間攫
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岡田館    近江国(八日市)

2016年05月02日 | 居館
お城のデータ
所在地:東近江市(旧、八日市市)岡田町  map:http://yahoo.jp/M9QKAS(遺跡ウォーカー)
現 状:神社・水田
区 分:居館
城 期:室町期
築城者:岡田平部少輔
遺 構:圃場整備で消失か?
目標地:八幡神社・岡田会館
駐車場:岡田会館に駐車
訪城日:2016.4.13
お城の概要
 愛知川も右岸の井元城の対岸に、位置した平城で、遺構は圃場整備で焼失か?。現在は、国道307号線沿いの田園地帯である。
中世には柿御園庄で八風街道の旧道の添いで、近江守護佐々木六角の根幹地に近く、又鯰江城攻めの井元城・青山城も対岸に位置する。 

お城の歴史

柿御園の由来

  古来 、奈良・平安時代初期、 当地は、 奈良大安寺等の荘園であり、. 柿の 多い地域であったことから柿御園と呼ばれていたと伝えられいた。平安時代にが惟高親王は当地住民の庇護を受けて、鈴鹿の山深く木地師の祖となったと伝承が残る、

『淡海国木間攫』には、神崎郡 岡田村 「岡田兵部少輔応仁乱物頭ナリ、岡田介左衛門永禄二年尾州ヘ行、信長公ニ属ス、又曰、岡田団兵衛・岡田大介ハ蒲生家ニ出、高畑石見守モ此所ヨリ出ル、太閤記ニデタリ、」と記す。

 遺跡ウォーカーの比定地(八幡神社の西隣の圃場)

  

集落の勘定縄(魔除け)

神社前の道路を横断して吊り下げます。この大綱には、注連縄とお札が飾り付けられ、【悪霊】が町内に入ってこないように「村中の安全」を祈願します。

起源は定かでありません。又、勘定縄は滋賀県でも、湖南・湖東地方だけにあるそうで、村の入口にある道路に吊り下げられる ことが多いと言われてます。

八幡神社  鳥居の奥左側が岡田会館     

岡田会館前のバス停

 応仁の乱は、

 室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府官領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡)、遺跡ウォーカー、淡海国木間攫、Wikipedia

 本日の訪問ありがとうございす!!


蜂屋城   近江国(栗東)

2016年04月29日 | 居館

お城のデータ
所在地:栗東市(旧・栗太郡栗東町)蜂屋  map:http://yahoo.jp/-nfSeb
現 状:宅地
区 分:居館
築城期:南北朝期
築城者:蜂屋氏
遺 構:?
目標地:宇和宮神社・蜂屋公民館
駐車場:蜂屋公民館に駐車
訪城日:2016.4.21

お城の概要

 栗東市の北部、野洲川と葉山川に挟まれた平野部に立地する蜂屋地区では、近年の発掘調査で飛鳥~奈良時代にかけての遺構・遺物が検出されるなど、古代から人の営みがあったことが知られています。
 蜂屋地区の中央を流れる中ノ井川、蜂屋からその下流の綣・野尻などの地域を灌漑する用水である中ノ井川は、慶長年間(1596~1615)にはすでに水利組合が組織されていました。また、中ノ井川は生活用水としても利用されていました。現在でも中ノ井川に面した家々の庭先には川へ降りる「カワト」が設けられており、生活用水として用いられていた。

お城の歴史

宇和宮神社境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。

蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である

中ノ井川通船資料(海老川通船図) 明治12年(1879)館蔵 里内文庫

近年の発掘調査で飛鳥~奈良時代にかけての遺構・遺物が検出されるなど、古代から人の営みがあったことが知られています。また、金勝寺二十五別院の1つとされる蜂屋寺があったとも伝えられています。

 蜂屋地区の中央を流れる中ノ井川は、野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。 この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。

        

 

蜂屋石仏・・像の周囲及び裏面の刻銘によると、願阿弥陀仏という人が仁治2年(1241)西方浄土に往生を願って建立したものである。

蜂屋地区の中央には中の井川が流れている。この川は野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。
この川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。
この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。
いずれにしても住む住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。

  

 宇和宮神社のお旅所

永久寺

永正2年(1505)に宇和宮神社の社殿を再建した棟札の案文が蜂屋永久寺にあろ。

      

宇和宮神社の前に竹藪が残存する、近年畑化・開墾されようだが、館遺構か?

            

宇和宮神社

   拝殿

宇和宮神社(うわみやじんじゃ)  栗東市蜂屋231-1  
主祭神:倉稲魂神 御食津神 大山祇女神 土祖神  例祭:五月五日

宇和宮神社のある蜂屋(はちや)集落の中央を中の井川が市道に沿って西流する。かつては琵琶湖まで通船されていた。
現在は、西部には東海道新幹線が南北方向に通過し、その西には工場が立地する。


飛鳥時代の頃は中央大豪族の物部氏の田荘であったとされる。奈良時代に金勝山に金勝山大菩提寺が建立されると、この大菩薩寺の二十五別院の一つ、物部山蜂谷寺が今から約1150年前当地に開かれお堂が建立されたとされる。
興福寺官務牒疏には「蜂屋寺、在栗太郡物部郷、号物部山、僧房二十宇、天平四壬申(732年)勅願、隆尊僧正開基、本尊九品阿弥陀仏、
建久三年(1192)再建・・・」とある。だが蜂屋寺跡はまだ不明のままである。

宇和宮神社の開基や沿革について不詳であるが社伝によると養老元年(717)の勧請とされる。

蜂屋の歴史、宇和宮神社の社歴を知るには,関わりが大いにありそうな廃寺「蜂谷寺」の所在の検出が待ち遠しい。

境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である。
永正2年(1505)現本殿を改修したと棟札に記されている。 本殿が重要文化財である。
近くを新幹線が走っているが、境内は静寂である。集落全体にしっとりと落ち着いる。

  本殿

稲荷社 

宇和宮神社の鎮守の森も、神社土塁か?

           

蜂屋公民館    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11、宇和宮神社の由緒
 本日の訪問ありがとうございす!!