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城郭探訪

yamaziro

下山北城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月25日 | 平山城

甲賀の城より

所在地:甲賀市水口町下山 map:http://yahoo.jp/TtyisW
    旧:甲賀郡水口町

築城期:戦国期

築城者: 伴氏

初城主:下山氏

区 分 :丘陵城 

標高:190m     比高差:10m 

遺 構 :土塁、空堀、虎口

城域 :60m×60m

駐車城:位置からの主郭から2分

訪城日:2014.4.23

 

 下山北城は、南北60~70m、東西約60mの単郭方形の城であるが、ひとつの丘を削り取って造られたもので、土塁は切り出しで造られており非常に分厚い。

 曲輪南側には平虎口を設け、東~南には堀を巡らしている。堀は深く、北側背後は比高差のある斜面をなしており、防御施設としての機能を十分に果たしている。

 西側は雑木が生い茂り状況は確認できない。東側の土塁は、土塁の馬踏みから城外までの比高差がは10mはありそうな見事な土塁である。また、北側土塁の高さを目測で測るに、12~13mはゆうにある。

 南側の虎口は平虎口で開口部は2m、虎口を形成する土塁の高さは3~4mを測る。虎口の東側土塁上には平場(櫓台)を設け技巧的である。

 虎口は西側にも設けられている。曲輪内部は雑木と竹林で、削平状態はあまり良いとはいえないが、周囲の雑木、竹林など切り取れば、素晴らしい城郭遺構が出現するに違いない

歴 史

下山氏の本城である下山城に対する支城とされる。

                                           下山城・伴屋敷(九品寺)・・・遠望

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


内貴川田山城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月24日 | 平山城

内貴川田山城は、北内貴集落の南東、川田山丘陵地の北西先端部に所在する。
すぐ北麓には川田神社が鎮座し、境内参道から赤鳥居にそれて山中に入ると、稲荷社が祀られている。この祠のある敷地は約10m四方に削平され、北辺以外は土塁が廻っていて主郭。

土塁は参道の西辺と南辺に開口しているが後世の破壊なのかも知れない。南辺の虎口から出ると堀状となり、この窪地を東方に向かうと1回屈曲して浅くなりながらも山上方向に約20m一直線に延びている。この窪地を中心に南北に複数の不完全な削平地がみられる。

東端山上との境は浅い溝程度で堀切とは言い難く、全体的には城遺構と考えていいものかと感じられる。
 内貴川田山城は、城郭大系などで「内貴城」と記載されいる城で、川田神社南側丘陵の西先端部に築かれている。 一の鳥居右手に稲荷社の鳥居があり、ここから登る。

 稲荷社の境内となっている曲輪は、北面を除く三方を土塁に囲まれ、更に境内の背後に一段高くなった曲輪と二つの曲輪ある縄張りで、二つの曲輪南側には空堀が構築されていた。 

歴  史

詳細不明。

「甲賀郡志」に記された内貴伊賀守が築いたと伝わる「内貴城址」は、長年遺跡目録などでこの内貴川田城だとされてきた。しかし近年では内貴尾山城がその内貴城だと見直された。

川田神社背後の丘に築かれたお城。

 

所在地滋賀県甲賀市水口町北内貴字川田山 map:http://yahoo.jp/X3KKS6

遺 構曲輪、土塁、空堀

形 式丘城

築城者:内貴氏

築城年代:不明

訪城日:2014.4.23

搦め手登城口?

 

水口 岡山城が遠望できる

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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内貴尾山城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月24日 | 平山城

別 名:内貴城

所在地:甲賀市水口町貴生川字尾山 map:http://yahoo.jp/OaDa_v

現 状:山林

区 分:平山城 標高192.1m

遺 構:土塁、空掘

築城者::内貴伊賀守

訪城日:2014.4.23

 
 

福照寺 宝物庫の裏に石仏

内貴尾山城は、内貴川田山城南方の同じ山塊に所在する。「甲賀郡志」には内貴城址が所在したのは「大字内貴の東方の高地」という記載があるが、現在もその位置については解明されていない。

東内貴集落の南外れにある内貴殿屋敷からは約150m北東の尾山丘陵のピーク付近に存在したと想定されている。

  尾山はその候補のひとつだが、後世のタケノコ林開墾によって破壊され、調査も行われていない。
登城には南腹の福照寺の西脇から山中に入り、竹林となっている。斜面を登り切ると一面に下草が広がる頂部に至る。

福照寺の西脇から、入るとすぐ土塁が残る。また、土塁の西側下に空堀が残る

歴 史

「甲賀郡志」に記されている内貴伊賀守が築いたと伝わる「内貴城址」が、この内貴尾山城だと想定されるが、詳細は不明。

登城口 

すぐに、南側に土塁が残る

残された空堀

内貴尾山城(遠望)

城域と推測される、タケノコ竹林何本は、土の中から出迎え

 

 

 

福照寺から、北虫生野城(約500m東)を望む

福照寺参道の横に駐車加(内貴殿屋敷の土塁の隣)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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虫生野(むしょうの)堂の前城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月23日 | 平山城

 

 

住所 :甲賀市水口町虫生野字堂ノ前  map:http://yahoo.jp/PQqCGh

現在の状態 :山林

遺構 :曲輪・土塁・堀切・案内板

形式 :丘城 比高15m

別名 :虫生野城

築城者 :望月氏か

訪城日:2014.4.23

 
 

虫生野堂の前城は、水口町虫生野のうち堂の前集落背後にあり、「虫生野城」とも呼ばれている。集落東側の丘陵部は北西に突出し、北方を見下ろせる絶好の位置に築かれていた。

縄張は南北約80m×東西約40mの甲賀では典型的な単郭方形であるが、自然地形を生かしたためか西隅には角がなく、南東土塁は他よりも高くなっている。
虎口は南西辺に開口し(a)、城道は案内板の建つところから登り坂になり、虎口西側の土塁が張り出しているため、直角に折れて城内に入るようになっている。また虎口両側の土塁は幅が広く、侵入者を攻める(横矢構造)想定がなされている。

曲輪内は未整備の不足か破竹が激しく、撮影が困難であるが、土塁は綺麗に整備され一周できる。
北西辺の土塁にも開口部があるが、幅が狭く虎口というよりは排水口だと思われる。
土塁北東隅の外側には小丘がある。これは掘り切られたCの残丘と考えられ、その西側には狭い削平地が確保され、わずかな土塁bが築かれていた。

虎口というよりは排水口と思われる。

詳細不明。

貴生川町誌に、「虫生野に望月某の屋敷跡あり…」と記されており、屋敷跡の所在地は不明だが、虫生野堂の前城も望月氏に関連する城である可能性がある。

 

遠望・・・西から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、貴生川誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


神明山砦 近江国(伊香・余呉)

2014年04月22日 | 平山城

蜂須賀彦左衛門・木村子隼人が羽柴方の最前線の陣城

 神明山砦は堂木山砦から南西に延びる尾根を約20分ほど登った所にある。
登城道は、堂木山砦から尾根を辿るか、若しくは余呉町火葬場の100mほど西から登山道が延び、この道を10分ほど登ると、堂木山砦と神明山砦の中間に位置する鞍部に出て、更に尾根を10分ほど登る。

 神明山砦は前衛の曲輪群と中核部の曲輪群と2つに分かれており、その間は約100m。前衛の曲輪は50m×30mほどの尾根を削平した簡単な造りで堂木山砦方面の見張り台的な位置づけのようである。
 中核部は大きくは二の曲輪群と一の曲輪に分けられ、二の曲輪群は比高差を利用して階段状に曲輪を連ねた切岸防御を主体とし、一の曲輪は平坦な尾根上に60m×30mの曲輪中央部に土塁を伴った櫓台を配している。
また、一の曲輪背後には2条の堀切を入れ、堀切間の10m×10mの三の曲輪を後方の備えとしている。

 狭い尾根を一杯に使って築かれているが、全体的には堂木山砦と比較すると手狭な感は否めない。いずれの砦も秀吉方の最前線に位置しているが、主力の堂木山砦の後方を固める、あるいは堂木山が落ちた時の備えとして築かれたカ?。

所在地:伊香郡余呉町文室   maphttp://yahoo.jp/VaMvc9

築 城 :天正11年(1583)

初城主:蜂須賀正勝

区 分 :山城

遺 構 :土塁,堀,土橋

城 域 :200m×50m

標 高:295m 比高差:160m 

訪城日:2014.4.20

歴 史

天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、北庄城の柴田勝家は雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として江北に向けて出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄を発進した。

 勝家軍が越前を発進するのに先んずること約2ヶ月、天正10年(1582)12月下旬、秀吉は美濃・岐阜城攻めの帰路に柳ケ瀬付近を巡視し、翌年1月には柴田勝豊の部下である大金籐八郎と山路正国に天神山に砦を築かせていた

 北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。

主郭へ戻る

主郭で

三角点・・・主郭の東側土塁上

熊の爪痕

別所山砦(前田利家・利長陣城)・行市山砦(佐久間盛政陣城)・中谷山砦(原彦次郎長頼)。遠望:玄蕃尾城。(天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。)

下山・・・イカりイソウ 

神明山砦(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


堂木山砦 近江国(伊香・余呉)

2014年04月22日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 進め余呉城郭研究会 堂木山砦

堂木山砦は城郭愛好家には、非常に人気の高い城郭です。

日 時 2014420日(日)13:001600

集合場所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系傑作陣城堂木山砦を詳細現地解説  

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

会 長 田畑喜久弘氏 挨拶 ※雨天決行

定 員 20名(要申込)主催 余呉城郭研究会                                                                                                                                            

 堂木山砦へは余呉町の火葬場の東へ小川沿いの道から山中に入る山道がある。

 堂木山砦は余呉にあって、賤ヶ岳から行市山へと連なる稜線から派生した尾根が、北国街道(国道365号線)付近まで張り出した舌状尾根上、比高150mほどの位置に築かれている。この砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の木村隼人等が布陣した秀吉軍の最前線の砦であると共に、北国街道を押さえる重要な砦である。

とっかかりのない急斜面を登り切る。 ここから砦までは傾斜の緩やかな尾根筋を辿るが、道は無くなり登り難いことこの上ない。

入城前に、西の堀切で・・・講師:長谷川博美氏より概要説明中!

歴  史

 天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、北庄城の柴田勝家は雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として江北に向けて出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄を発進した。

 勝家軍が越前を発進するのに先んずること約2ヶ月、天正10年(1582)12月下旬、秀吉は美濃・岐阜城攻めの帰路に柳ケ瀬付近を巡視し、翌年1月には柴田勝豊の部下である大金籐八郎と山路正国に天神山に砦を築かせていた。

 北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。

登ること約20分、植栽人口林の中に堀切と土塁の壁が現れる。

所在地:伊香郡余呉町堂木 maphttp://yahoo.jp/3bzoGP                                                                             築城期 :天正11年(1583)
初城主:大金籐八郎,山路正国
区 分:山城(陣城・砦)
遺  構:土塁、
堀切
城 域:150m×50m
標 高:238m 比高差:120m 
訪城日:2014.4.20

 
 砦は4つの曲輪で構成され、主曲輪を中心に尾根の北側に1つ、南に2つの曲輪を配置しているが、柴田軍の布陣する山並みと尾根で繋がる北の曲輪と主曲輪は、周囲に高い土塁を廻らせ堅固な守りとしている。
両曲輪とも東側(羽柴陣側)に平虎口を設け、二つの曲輪を食い違い虎口で接続している。

 通常、城砦の縄張りがされる際、曲輪には外部と繋がった2つの虎口が設けられるものであるが、ここ堂木山砦の中核をなす曲輪にはその虎口が1つしか設けられていない。
 こんな所にも堂木山砦が最前線に位置する危機感とともに、賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍が守りに徹していたことが窺える。

 

堂木山砦(遠望)・・・余呉湖岸より

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明・見学会レジュメ

本日も訪問、ありがとうございました


大岩山砦(陣城) 近江国(伊香・余呉)

2014年04月20日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 フィールドワーク 大岩山砦 
日 時 2014420日(日)9:301230
場 所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系陣城 大岩山砦の遺構を詳細解説

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏
定 員 20名(要申込)
参加費 500円 奥びわ湖観光協会余呉支部主催

大岩山陣城見学会へ

坂虎口

「青嵐大岩山」と刻まれた石碑と「中川清秀の墓」という案内板。 

岩崎山砦から整備された山道を進み、途中林道に合流して少しで、大岩山砦に着く。

大岩山砦の現地説明板。

①坂虎口 城の入口の前の坂道を坂虎口という 一説に中川は坂の途中で戦死したとある ②二の丸の土塁 ③横矢

大岩山砦の歴史

・天正11年(1583年)茨木城主 中川清秀が余呉湖東の大岩山に設置。
・同年4月20~21日 柴田軍の佐久間盛政が行市山砦を出陣し、西浅井町集福寺~権現坂~余呉湖畔~尾野呂浜を経由し、大岩山を急襲。
・まだ、堅固な守備体制が整っていなかった大岩山砦、盛政方の兵8000に対し、大岩山の中川方は1000足らず。岩崎山の高山重友、賤ケ岳の桑山重晴に援軍を求めるもかなわず。
・味方はことごとく討ち死にし、中川清秀は雑兵に討たれるくらいならと、本丸で自害?。享年42歳。
・落城の直前、清秀の弟、中川淵之助が「我こそは中川瀬兵衛清秀」と身代わりになって果てて、清秀の首は敵方に渡らず。
・下余呉の村人が、清秀の遺骸を本丸南の谷に移し、柴と木の葉をかけて隠し、7昼夜守った。

・大岩山の南200mほどの尾根道を東に少し下った谷に、清秀の首を洗ったといわれる「首洗い池」がある。

所在地:伊香郡余呉町下余呉 map:http://yahoo.jp/qZEAdW  

築  城:天正11年(1583)3月~  廃  城:天正11年(1583年)4月

初城主:高山右近

区  分:山城(陣城)

遺  構:曲輪・土塁・外堀・慰霊碑(墓碑)

標  高:280m 比高差150m                                                                              

城 域 : -

訪城日:2014.4.20

曲輪の奥には中川清秀主従の供養塔がある。これは百回忌の天和2年(1682年)豊後岡城4代城主中川久恒(清秀の5代嫡孫)がその霊を供養せんと祖宗主従の眠るこの地に建立した。

曲輪には周囲に低い土塁が一部残っている。曲輪は南北20m、東西40mほど。

墓碑の奥の虎口に石積が(当時のものかは不明と?)

墓碑はキリシタン大名の十字架の鉄扉

裏側に廻ると南無阿弥陀仏の墓碑

近世に設置の仕切り。左がⅡの郭・右は一壇高く主郭

参加者の記念撮影後、全員でアーメン!

イカリソウがひっそりと!

大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した、岩崎山砦と隣接している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明・見学会レジュメ

本日も訪問、ありがとうございました


岩崎山砦 近江国(伊香郡・余呉)

2014年04月20日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 フィールドワーク 大岩山砦 
日 時 2014420日(日)9:301230
場 所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系陣城 大岩山砦の遺構を詳細解説

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏
定 員 20名(要申込)
参加費 500円 奥びわ湖観光協会余呉支部主催

江土集落の中にある賤ケ岳登り口の標識に従い、山道へ。
 

大岩山陣城見学会へ

途中、岩崎山砦(陣城)前で、概要説明

長谷川博美氏の現地説明板

2009年12月作成の説明板。
城①岩崎山西出郭、②西出郭主要部、③狼煙穴と推定、④犬走り「段状の道を築いて臨時城砦としている、⑤3段の犬走りで主郭を防御、⑥主郭中心部(低い土塁あり)、⑦高山右近がいた陣の櫓台の跡、⑧3段犬走りで主郭を防御、⑨未完成の陣城、⑩東出郭、⑪円墳丘を利用した出郭
と、説明されているが、倒木やササ繁茂など未整備であるため正直よくわからない。残念です

広く整備された道をググッと登ると程なく、山道左脇に「岩崎山砦説明板」が目に入る。右側で砦跡。遺構の解説がされてますが、よくわからない。

②の西出郭は植林の中で、③狼煙穴はちょっとした窪み、⑥、⑦の主郭は部分的に低い土塁が残った平坦地である。雑木で展望はよくない。⑨、⑩の方も笹が繁茂し不明確。

所在地:伊香郡余呉町下余呉 map:http://yahoo.jp/qZEAdW 

築  城:天正11年(1583)3月~  廃  城:天正11年(1583年)4月

 

初城主:高山右近

 

区  分:山城(陣城)

 

遺  構:曲輪・土塁

標  高:209m 比高差70m                                                                              

城 域 : -

訪城日:2014.4.20

登城道と曲輪跡
登り始めて8分ほどで最初の頂部になるが、この左側に3箇所ほど削平地があり、ここが岩崎山砦跡らしいが、 強烈な藪で全く何の感動もない!

岩崎山砦は賤ヶ岳から余呉湖東岸沿いに北へ伸びた丘陵の北端、標高209.4mの山頂に築かれている。岩崎山砦は山頂の主郭を中心に、西、東の尾根に曲輪を配しているが、遺構の状態は良くなく不明瞭な部分が多い。 

主郭は山頂尾根にあり土塁が巡る曲輪があり、西側に開口部がある。土塁は低く、切岸も不明瞭で北へ伸びる尾根に段々の削平地が描かれるもそれを把握するのは難しい。 

西尾根の曲輪は賤ヶ岳砦へ向かう登山道の脇にあり、北端部に弓なり状の横堀があり、尾根上に平段が設けられている。 

東尾根の遺構は主郭部から東端に向かう所に土塁があり、虎口となっているようであるがこの辺りは藪化しておりその形状を把握するのが難しい。東尾根の北端には方形の土壇があり古墳跡を利用した櫓台とも考えられている。 

歴 史

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。 城将は摂津国高槻城主の高山右近であった。

 羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走った

 これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲した。

このとき佐久間盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、大岩山砦の中川清秀は討死、高山右近は砦を脱して逃げ延びた(敵前逃亡でる)。

余呉湖に下ります、旧坂

イカリソウがひっそり咲いていた

余呉湖畔の登城口の説明板・・・ここからは急坂(階段約50m)

湖岸です

大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した、岩崎山砦と隣接している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明

本日も訪問、ありがとうございました


田上山砦 近江国(伊香郡・木之本)

2014年04月16日 | 平山城

JR木之本駅

意冨布良(おほふら)神社脇の登城口 南郭の【田上山城跡】主郭の現地説明板より

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町大字黒田   map:http://yahoo.jp/ITJx2G                                                                                

別  名:木之本城

区   分:山城(砦)

築   城:天正11年(1583)

城   主:羽柴秀長

遺  構:虎口・竪堀・馬出城

 城 域:380m×130m

標 高:323m  比高差200m

二十八番札所「成相寺」の聖観音

中腹まで、林道が整備されて5~6台駐車可

5~6台駐車可

築城年代は定かではない。元亀4年(1573年)浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱で、朝倉氏の軍勢が田上山に布陣していたという。 

信長公記―――――巻六 元亀四年 13、刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として秀吉の弟羽柴秀長が布陣し、秀吉方の本陣的な役目を果たした。

田上山砦は、田上山(標高323m)の山頂付近に築かれ、比高200mほどの山頂からは北国街道を眼下に押さえ、秀吉軍の諸将が布陣する中でも最も南方に位置し、後方に布陣する秀吉の本陣・木之本地蔵(浄信寺)をも守備する役目も担っている。

 北国街道木之本宿から30分ほど山道を登ると山頂の主曲輪に着く。

 砦は主曲輪を中心として、Y字型の尾根に曲輪が配置されている。登ってきた南側斜面には防御施設はないが、柴田軍と対峙している東側尾根の曲輪と本丸跡の間には竪堀を穿ち、曲輪の東には虎口を備え、虎口前面には角馬出が設けられている。
また、西側尾根の曲輪の先には、土塁による虎口と竪堀の見られる。

 現在でも木々の間から、賤ヶ岳、堂木山、明神山、行市山などが一望でき、賤ヶ岳の戦いの特徴として、山岳戦でありながらほとんどの砦から敵味方の状況が把握できる。

城 域に

南郭へ(南堀切・虎口)

虎口武者隠し

田上山砦は標高323mの田上山山頂に築かれており、山頂の主郭を中心として南郭、西郭、北郭、北外郭から成る。

主郭は山頂にあって周囲に土塁が巡り、北と西に虎口を開く。西虎口は平入で西曲輪へ続く尾根道は北側に土塁が付いている。北虎口は北郭との間に土橋が架かる堀切があり、虎口の西側の土塁がやや広く、土橋は少し東側へ回り込むように付いている。

南郭は、主郭の南に隣接して周囲に土塁が巡り、西に虎口を開く。南西隅が入隅となって横矢がかかる。

北郭は主郭と土橋で繋がり、北に虎口を開く。北虎口は角馬出で、堀切に土橋が架かり、外側に土塁を設けて馬出しとしている。北郭を出るとなだらかな広い空間が北へ続いているが、ここが外郭で100m余り北へ進むと虎口が付いている。この虎口は屏風折れの土塁の中央に開口部があり、外側にL字の土塁を設けて外桝形としている。

主郭の西虎口を出て西尾根に進むと西郭がある。西郭は南西に虎口があり、虎口の北側が西へ張り出している。その外側は緩斜面であるが、その先に土橋が架かる空堀が付いている。

主郭へ

虎口北郭への土橋北郭への土橋

歴  史

田上山砦は、天正11年(1583)4月羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いに際し、秀吉の弟羽柴秀長が構築し、1万5千人の兵を率いてこの地に布陣した。

 越前から江越国境を越え北国街道を南下しようとする柴田軍に対し、北国街道の隘路である余呉で食い止めようとする秀吉軍にとって、北国街道沿いの東野山砦・堂木山砦・神明山砦が第一防御線、岩崎山砦・大岩山砦を第二防御線、田上山砦は賤ヶ岳砦と共に最終防御線となる。

 また、田上山砦は木之本から柴田勝家と同盟結ぶ信長の三男信孝の居城・岐阜城に至る北国脇往還道、および長浜城に続く北国街道を押さえる位置にある。

 佐久間盛政の大岩山砦の襲撃に端を発した賤ヶ岳の戦いは、秀吉の“大垣大返し”と柴田軍の前田利家・利長父子の寝返りによって秀吉軍の勝利に終わった。

賤ヶ岳の戦いが終わると同時に、田上山砦は陣城としての役目を終え、人々の記憶から忘れらた。

北郭へ

西郭へ

 

主郭で記念写真!

北外郭へ

外郭に北虎口

木之本地蔵院は秀吉の本陣!

地蔵院庭園から田上山城(遠景)

秀吉

明治天皇木之本行在所

明治11年(1878年)の明治天皇北陸行幸の際に、木之本地蔵院が行在所(休憩・宿泊するための仮の御所)となっている。
滋賀県 長浜市 木之本町木之本 944

玉座

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、現地説明板(長谷川博美氏:作図・説明文)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


鷹尾山城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月15日 | 平山城
鮎河館・鷹尾山城・(仮称)中ノ尾山城・鮎河山城  現地見学会(南北朝の山城探索)                                                                          
 
鮎河館、★1   平地城館の址「石碑が残る」                                                                                    高尾山城★★★3 戦国期の遺構「奇妙な畝堀」                                                                                     中ノ尾城★★2  南北朝の遺構「古式の城郭」か?                                                                               鮎河山城★★★3 戦国期の遺構「横堀が見事」                                                                                  総合★★★★★★★★★9

付録【新城発見踏査に同行】見学

日 時 413() 414() 両日同内容                                                                               定 員 約20名(不定) 少雨決行                                                                                                                                                                講師 長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)                                                                                                                                                内容 鮎河館、高尾山城、中ノ尾城、鮎河山城見学                                                                              集合 土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)                                                                                          時間 10時〜16時 各自弁当水筒持参
主催 米原市文化協会 教養部 城歩会                                                                                                    Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川氏

集合場所で事前「座講」

鮎河の城址探訪 

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。

これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

鷹(高)尾山城へ  戦国期の遺構「奇妙な畝堀」  

地蔵堂 裏山

別 名:鷹尾山の砦(鷹尾城)

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/rNtgFb

遺構等:土塁、畝状空堀郡、郭・腰郭、

標 高:408m 比高差:約60m

現状:地蔵堂・墓地の裏手の山林

築城者:頓宮弥九郎

築城期:戦国期に黒川氏が改修したカ?

歴代城主:頓宮氏

区分:山城

訪城日:2014.4.13

南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河城の北にある鷲尾城は当時の砦跡と伝えられる。(現地説明板より)

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。     これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

 

城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

 南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去った。近くにある鷹尾山にも砦があり鷹尾城とも呼ばれた。

東の切通しに下りました

鷹尾山城:長谷川博美氏の踏査図(2014.1.30)

甲賀市史7巻(甲賀の城)の概要図

県道9号沿い「鮎川小学校」から300m程山の麓が館跡の北の鷹尾山。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、長谷川博美現地見学会(説明・レジュメ)

本日も訪問、ありがとうございました

 


杣中城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月12日 | 平山城

切通しカ?虎口ヵ                                                         

別名 芥川城 
・住所:甲賀市水口町杣中 map:http://yahoo.jp/3XlG_j
   旧:甲賀郡水口町
・目標地点:杣中公民館・熊野神社

・形  式:平城   
・現  状:雑木林・グランド・公園

・遺  構:土塁・堀・櫓台
・時代/人物:--期/--
・駐車位置からの主郭まで:2

 杣中城は、別名芥川城とも呼ばれているが築城年代や築城者については定かではない。

杣中城は、杣川の段丘上にに立地、杣中地区の中程にある杣中公民館辺りに築かれていた。 

城域は公民館・グランドになり、城の規模など明確ではない、公民館西側から南側にかけて土塁aが50mに渡り残り、外側に巾最大15mのb空堀(堀跡の水田も含む)の遺構がある。

更に、公民館から北東へ150m程、民家東側の竹藪に長さ約80m程、高さ3mの土塁が残るが川の堤防の可能性も。これらの残存する土塁や堀から推測すれば、杣中公民館辺りが主郭、東側の土塁までの一帯が曲輪、主郭西側の住宅地と畑地が地形から見てもここにもう一曲輪あったカ?。 

郭の背後の土塁

物見櫓カ?

郭内から

甲賀の城(着色加工)より

芥川家カ?

 芥川家は甲賀二十一家の1つ。甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。 芥川家 - 一族の著名人物として芥川七郎兵衛・芥川清右衛門・芥川九郎左衛門がいる

 芥川九郎左衛門義矩 (あくたがわくろうざえもんよしのり)

 徳川幕府が成立すると、忍びとして大いに名を上げていた伊賀衆や甲賀衆は、幕府や各大名に登用された。その末裔として印象深い1人に、信州松本の戸田家に仕えた芥川九郎左衛門義矩がいる。もともと芥川家は甲賀二十一家に数えられる甲賀忍びの系譜だが、九郎左衛門義矩は享保17年(1732)に生まれ、文化7年(1810)に没している。

 芥川義矩には、不思議な伝承が数多く残されている。天明3年(1783)、隣藩のお家騒動で悪臣に監禁された家老を、身体を透明にする薬を用いて助け出した話。藩主から酒席にて忍術の披露を求められた折に、宴席の腰元たちが気付かぬうちにその腰巻きをすべて剥ぎ取ってみせた話…。

  歴史の陰で活躍してきた「忍び」の実像を具体的に描き出すのは、実はそう容易ではない。だが忍びは、虚を実に見せ、実を虚に見せて相手を翻弄する「虚実の転換」を大事にしたという。腕利きの忍びがいるという評判自体が、敵の侵入を憚らせる抑止力にもなった。世の人の度肝を抜く「忍者伝説」の数々も、その意味では極めて「忍び」らしいものといえるのかもしれない。

杣中城…侵入口(切通しor虎口?)

杣中城(遠望・・・グランドより)

・・・杣中公民館の無料駐車場を利用。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、近江の城郭、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


大河原氏城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月09日 | 平山城

大河原氏城は巨大壮観。

大河原氏城は巨大壮観。音羽野城高度な技術の大型城館                                                                          大河原氏城と音羽野城見学会(大図面で学ぶ中世城郭)                                                                                   大河原氏城   ★★★★★5 強烈な堀切のある大型城郭                                                                                  大河原氏城出丸 ★★★3  大河原氏城出丸を発見図面化                                                                                                                                                                内 容:現地城郭学習会 図面資料A412大図A31                                                                               内 容:河原氏城大図附                                                                                               講 師:長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会・元滋賀県中世城郭分布現地調査員)                                                                                                            ストレッチ:ウォーミングアップ・クールダウン 田中修氏(JNFA公認インストラクター予定)宮本                                                                     集合 ※土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)                                                                                  時間 10時〜16時 各自弁当水筒・健康保険証 持参
主催 米原市文化協会 教養部 城歩会                                                                                     Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川

1 城址は民間監視された施錠の私有地で入山許可が必要(事前に交渉済)

 

2 大河原氏城は従来の規模の2倍の面積。甲賀屈指の巨大堀切が圧倒的です。

 

(新たに作成した迫力大図面を作成是を用いて城址を丁寧に解説)

 

3 桝形石垣や石垣築地痕あり、隆々と続く巨大な櫓台の景観には驚くばかり。

4 山岳山城ではありません、身近な里山で遺構見学を十二分に堪能します。

 

4月6日組

  A3踏査図で概要説明・・講師:長谷川氏4/6記念(祈念)写真(土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)にて) 

4月7日組

A3踏査図で概要説明・・講師:長谷川氏

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/TJBaIL
別 名 : -
築 城 :長享年間(1487~91)
初城主:大河原源太
区 分 :平山城
遺 構 :土塁・堀切・空堀・石碑・
城 域 :100m×100mか

訪城日:2014.4.7

主曲輪は東西35m、南北40mほどの広さで、南側斜面には石段の跡が認められ、ここが大手虎口か。
 主曲輪の西~北~東には土塁が築かれて、西側土塁には土塁の内法を石垣で固めたのであろうか、15~20cmほどの石が散乱している。

 また主曲輪の周囲には南側を除き、空堀を廻らせ、西,北,南に延びる尾根には堀切を入れるなど、主曲輪を取り巻く縄張りは黒川氏城と非常によく似ている。

 甲賀においては単郭方形の館城が多い中、この大河原氏城は黒川氏城と共に求心性の高い縄張りがされており、甲賀武士とは権力構造の異なる勢力が改修しているのではないかと感じた。

歴  史

大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487~1501)に戦功をたてた。六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。 大河原源太が鮎川を、 黒川久内が黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、天正13年(1585)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びます。

現地へ

桃色すみれの出迎え

平成?昭和?の横堀?城道

新発見(仮称)出丸後方から攻め込む。最初の土塁最初の石積

主郭へ

4月7日組記念(祈念)撮影

小休止・・・復習?

登城記念に・・・主郭にて

登城口の門兵石仏

甲賀の城より・・・縄張り図

長谷川氏:踏査図

長谷川氏:大河原氏城出丸を発見図面化

長谷川氏:踏査図【大河原氏城】は黒川氏城にも勝る大城郭、城構え・

大河原城(遠景)

 

参考資料:長谷川氏:現地見学会資料・説明、滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、近江の城郭、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


木内城 近江国(甲賀市・甲賀)

2014年04月08日 | 平山城

薮の中には厚みも高さもある土塁、奥の土塁の向こう空堀が良く残っているお城。

所在地滋賀県甲賀市甲賀町上野字才作 map:http://yahoo.jp/l-iq9f

遺 構曲輪、土塁、空堀

形 式平城

築城者:不明

築城年代:不明

訪城日:2014.4.6

木内城は、築城年代や築城者など詳細なことは定かでない。

現 状

 木内城は、杣川沿いの平野部に築かれた典型的な方形単郭の豪族居館だ。

 現在は、県道沿いの竹藪は整備され、目印の「城石碑」は県道から確認でき、を隠され、場所の特定が本来し易い筈が通り過ごしてしまった。

 城石碑辺りから城内への進入。東側の畔道・竹藪の北側(裏)に空堀が確認出来る。

 現在は、南側を除く三方に土塁と堀が残っているが、主郭周囲の土塁は、そこそこの高さも厚みもある見応えのある遺構であった。

甲賀の城より

北側の土塁土塁の外側の空堀

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


大野山本城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月06日 | 平山城

登城口登城口の手前に駐車可

所在地:甲賀市土山町大野字山本 map:http://yahoo.jp/4B_cSq                                                                   (旧甲賀郡土山町大野】                                                                      

現  状:山林・空地・宅地

遺  構:曲輪・土塁・空堀・土橋

区  分:平城

目  標:ほかい瓦(会社)

別 名 :

築城者:大野大蔵大夫

:築城時期:室町期

有名城主:大野氏

訪城日:2014.4.6

甲賀の城より

 大野山本城は、稲川北側の河岸段丘端部を利用して築かれている。 背後は、平坦で水田となっているが、段丘の端を空堀を設けて防禦し、段丘傾斜部を削平して東・中・西上段・下段と大小4曲輪を横に並べた縄張りとなっている。

 遺構は、東の曲輪東側から西上段の曲輪まで高さ約3~5mの土塁が空堀に沿って残っている。 東の曲輪西側にも土塁が残り、この土塁は中の曲輪と共用となっていた。

      

大野山本城は、土山町大野のうち片山集落の北側、殿の城「トンノシロ」に所在する。集落の北端は自然地形が北から南にかけて大きく落ち込み、段丘状となった部分をうまく利用した縄張となっている。

城へは北側の植林地から進入すると、南奥に東西約90mを測る見事な空堀bが現れる。
土橋を渡り土塁上に立つと、南方集落側を見渡す頂部となる。この土塁aは南側で派生して城内を3区画に分けている。

曲輪ⅠⅡ内部は段丘下部に位置するため、土塁aとの高低差は3~5mを測る。
曲輪Ⅰは約20m四方で隣接する民家の裏庭のようになっている。東辺土塁の外には北端bから続く空堀を伴う。
曲輪ⅡはⅠよりも約2m低くなっており、東西約35m×南北約25mで最も広い曲輪である。現在は下草を残したグラウンド状となっていて、南辺の東端付近に土塁の一部が残る。
現在植林となっている曲輪ⅢⅣは、ともに東西約25m×南北約10mで、堀状の溝で区画され南北に配置する。緩やかな傾斜地で居住性はない。

曲輪ⅢⅣの西側は集落中央を南北に通る道路だが、坂を上りきった付近には土塁の削り残しと思われるcdがあり、さらに西方にも土塁と思われるefがあることから、かつてはすべてが繋がっていた可能性がある。ただ現況を見る限り、城は曲輪Ⅰ~Ⅳまでとするのが妥当である。

稲川を挟んで南方には大野城(大野氏邸)が所在する。

                     

 

歴 史

河岸段丘端部を利用して築かれた大野氏の本城。

大野氏は、甲賀中惣二十一家の一つ。

大野大蔵大夫をはじめ大野氏の屋敷。大野氏は主君佐々木六角氏が織田氏に滅ぼされて帰農している。

甲賀衆を記したものとして、貞享年間(1,684~7)に編纂された近江の地誌『近江淡海温故録』によると下記のように記されている。

甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。


 甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に
関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われます。

<甲賀二十一家>

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家
 和田家 上野家 高嶺家
 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

ここまでの二十一家を甲賀二十一家とされています。

 

道路の西側土塁

     

目 標:ほかい瓦三叉路に駐車可スペースあり

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


佐久良城 近江国(日野)

2014年04月04日 | 平山城

小倉実澄が拠った佐久良城
現地説明板の案内図

所在地:蒲生郡日野町佐久良

別 名 :下の城

築 城 :室町中期初

城主:佐久良刑部太夫

区 分 :平山城遺 構 :空堀,堀切,竪堀,土塁,池跡

城 域 :250m×160m

標高 210m     比高 30m

訪城日:2014.3.31

小倉氏が室町時代初期に築き、本拠とした佐久良城址。地元では「下の城山」と呼ばれ、応仁の乱に際して小倉氏に庇護された京都相国寺の僧横川景三の書に詳しく書き記されている。城址は八幡神社の後方の山全体で、土塁・堀切、城内庭園・石垣などが確認でき、中世城址として貴重な遺跡となっている。
城址を歩くと本丸に続く土橋の両側の深い堀切、そして本丸を囲む土塁の高さに驚かされる。土塁・堀切には石垣の跡、搦め手から北方に歩くと竪堀、北側の土塁で囲まれた道を進むとお馬洗いの池に出る。いまも水をたたえる様子から、佐久良城の重要な水の手であったことがうかがわれる。佐久良城の大手には小倉氏が勧請した八幡神社が鎮座し、また、南側すぐのところに菩提寺であった神護山仲明寺が小倉氏の名残を伝えている。

城址登り口(パンフレットあり)

滋賀県中世城郭分布調査より

歴  史

 室町時代中期に至って、小倉家は庶子家を分出、宗家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とした。さらに、本城のすぐ東にある長寸山頂上に長寸城、奥師に四谷城、鳥居平に鳥居平城等を築き、それぞれ家臣を入れて守らせた。

 さて、近江小倉氏においてもっとも著名な人物が、前述した小倉左近将監実澄である。実澄は三河守実方の嫡男で、蒲生秀綱の姉を母に生まれ、蒲生氏を継ぎ中興の祖といわれる貞秀(智閑)と同時代を生きた。また、実澄の室は蒲生秀綱の女で、貞秀の室とは姉妹という関係であった。
 二人が生きた時代は応仁・文明の乱の真只中であり、実澄と貞秀は義兄弟ということもあり協調して乱世に身を処した。横川景三の題した『小倉実澄寿像賛』によれば、実澄は多賀高忠と行動をともにして、犬上郡八尾城に出陣したとあるように、応仁の乱において京極方=東軍に属して活躍した。
 実澄は宋学を好み、禅に入り、詩歌に長じる一方、射術を多賀高忠に学び、世の人から文武兼備の武将と讃えられ、応仁・文明の乱において焼け出された相国寺などの禅僧を近江に招いて庇護を与えた。そして、文明元年(1467)、永源寺畔の越渓に識廬庵を作って相国寺の横川景三らを招き、翌二年、横川は識廬庵の記を著している。かくして、戦乱のなかにあって実澄は、おりをみては佐久良城から識廬庵を訪ねて横川らと詩酒交歓し、禅を談じたと伝えられている。


 系図によれば、実澄は永正二年(1505)三月に死去している。そのあとは実重が継ぎ、実重も蒲生氏から室を迎えている。実重のあとを継いだ実光は「さねはる」と読み、弘治三年(1557)に伊勢征伐に出陣した実春と同一人物と思われる。実光には男子がなかったため、蒲生定秀の三男実隆が迎えられて小倉氏の家督を継いだ。

湧水が豊富な「馬洗い」と名付けられた池

【佐久良城見学ルート図 GPS計測】 総距離:1.2㎞  総時間:1時間 

139668528331733485226近江ノ国_米ちゃんより

参考資料:長谷川氏:現地見学会資料・説明、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、蒲生郡誌

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!