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城郭探訪

yamaziro

長寸(ながす)城 近江国(日野)

2014年04月02日 | 平山城

お城の歴史
所在地:蒲生郡日野町佐久良   map:http://yahoo.jp/VFi-UQ
別 名:上の城山
築城期:鎌倉時代初頭 
初城主:小倉三河守実澄
区 分:山城 
遺 構:土塁,石積み,竪堀
標 高:269m    比高差:約150m

目標地:桜谷小学校

駐車場:桜谷小学校

訪城日:2014.3.31

お城の歴史

桜谷小学校の校舎裏手に山道があり、そこから登ります。

尾根まで登る間、大きな沢とも竪堀とも思える箇所に沿って登り、尾根に到達しましたら、左手方向に尾根伝いに進みますと城址に至ります。

視界の利かない山道を歩いて主郭跡に到達すると、ぽっかりと空が見えると感じます。

 北側の櫓台跡付近にある石垣、他の小倉氏の城に見られるものではありませんし、戦国時代改修か疑問。

櫓台は古墳を利用したもの、この石積みが城にも利用されたんでしょう。 また、北側斜面・西側斜面には畝状竪堀・竪土塁がある。

 

 

 長寸城は日野町佐久良の桜小学校の背後の小高い丘に築城されている。桜谷小学校裏のコンクリートの階段から登ると、すぐに山道に変わり、右手に大きな竪堀が山道と平行して走り、竪堀と山道との間には曲輪跡らしき削平地がいくつか見られる。

 20分程度で山頂に着く、ここが主曲輪で入口には土塁の虎口が設けられている。
また虎口を右手のなだらかな斜面に竪堀が1本掘られ、、緩斜面を伝って直接本丸跡へ取り付く敵が意識されている。

 主曲輪は虎口右手の土塁を最高として、からなだらかに傾斜しており、一段低くなった曲輪奥に石積みが残っている。
 石積みは崩れ完全な形ではないが、長さ10m余り、高さは1m程度であろうか。

 なお、麓の仲明寺は小倉氏の菩提寺で、小倉実澄・実重・実隆三代の墓だと伝えられる宝篋印塔がある。  

お城の歴史

桜谷を領した小倉氏の佐久良城(下の城山)に対して詰の城として別名「上の城山」と呼ばれます。築城年代・築城者は不明ですが至福年間(1384~1386年)頃の築城。

 佐久良城は、小倉氏の居館本城であり、長寸城を上の城山・詰め城。

 永禄7年3月九居瀬(現永源寺町)に居を構える小倉右近太夫と、佐久良城を本拠とする小倉実隆(実澄の孫・実重が早世したため、蒲生定秀の三男にして賢秀の弟を養子)の間で和南で戦いが始まり、実隆が戦死。この戦いで永源寺も焼失した。

 奥津保(愛知郡・蒲生郡辺り)の城を手にした小倉右近太夫を撃つため、兵を進めた蒲生氏は小倉氏との戦いに勝利し、以後この一帯を領内に編入していくことになる。
同時に佐久良城,長寸城を初めとする小倉氏の城郭は廃城となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

139648772075256002227近江ノ国_米ちゃん

寸城見学ルート図 GPS計測】
総距離:1.45km  総時間:1時間10分

 

下山の小学校手前の【獣害柵】・・・奇岩!

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、蒲生郡志 他

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


鳥居平(とりひら)城 近江国(日野)

2014年04月01日 | 平山城

鳥居平城★★★★長大な城。現地城郭学習会  図面資料A4のP12

講師:長谷川博美氏(元滋賀県中世城郭分布調査員、蒲生郡、神崎郡、城郭調査員)

所在地:蒲生郡日野町鳥居平  map:http://yahoo.jp/dPTXcm
別 名 :蒲生氏(城守 蒲生氏の臣吉倉氏(寺倉氏?)
築 城 :室町時代
初城主:寺倉氏
区 分 :平山城 
遺 構 :土塁・空堀・竪堀・堀切
訪城日:2014.3.31                                                                                        標高:220m~230m 比高20~30m                                                                                                面 積 : 800m×最大150m

駐車:鳥居平集落の城山登り口駐車場を利用

集落の鳥居平

鳥居平城は比高20~30mの急峻な丘陵地に築かれた平山城(丘陵城)であるが、大規模なと普請(縄張り図=滋賀県中世城郭分布調査)、および遺構の保存状態では、近江の城郭の中でも屈指のものである。
 城郭は小さな丘陵地をめいっぱいに使い、東西の長さは800mに及び、山中の遺構は400~500年経過しているにもかかわらず、その縄張りが中途半端でないことが伺いしれる。

 尾根上に一辺が20m~40mの方形の曲輪を東西一列に配し、曲輪と曲輪の間には山肌を垂直に切り落とした箱堀状の堀切、あるいは薬研堀を入れ、バリエーションに富んでいる上、土塁で形成した虎口を巧みに使い、堀切に導き入れるなど技巧的な面も窺える。

 なお、鳥居平城からは北約1.5kmの長寸城、北東約1.5kmの佐久良城、東約700mに四ツ谷城(昭和40年代の牧野造成で貴重な城郭遺構が消滅)など、小倉氏の城砦を遠望することができる。

歴  史
 奥津保の鳥居平城は大字鳥居平の東に連なる丘陵尾根上にあって、戦国期に築かれた山城の遺構が東西800mにわたって、ほぼ原形のままで残されている。

 鳥居平城に関しての文献史料は少なく、史跡全体は中世の築城様式特有の土塁をめぐらす曲輪が十ヶ所以上あり、峻険な堀切が数ヶ所に設けられ、広大な城であったことが窺える。

 この城の城主は寺倉氏(寺倉氏は蒲生氏の支流)であったと伝えられているが、歴史的な経過などは不明である。
 しかし、桜谷を支配した清和源氏の末裔・小倉氏が、鳥居平城の築城に関わっていたであろうとが推察される。
 なお、小倉氏は承暦年代(1077~1080)に小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのを初めとして、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を伸ばした。

・・・・滋賀県蒲生郡志(大正十一年五月) 三八一頁 「鳥居平城跡」

東桜谷村大字鳥居平の山上に在り土人城山を称す吉倉氏の城…伝承がある。後略(講師:長谷川氏解釈、「吉倉氏=寺倉氏の誤記カ」)

【鳥居平城見学ルート図 GPS計測】 総距離:1.9km   総時間:2時間

139643534854477180225近江ノ国_米ちゃんより

2の郭の土塁(切岸)は比差10m、幅20越える堀切

公園化された、2の郭の西側には土塁が!

土塁の向こうは比差10m、幅20越える堀切mを。次の3の郭へと続く。

鳥居平城の場合、主要な曲輪の独立性が保たれているのが特徴といえる。

先回 公園化後城郭 探訪 【鳥居平城 近江国】 2013.4.1 

長寸城下 桜谷小学校から(遠景)

佐久良城から(遠景) 

滋賀県中世城郭分布調査より

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、蒲生郡志、淡海の城 他

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!

 


御姫屋敷城 近江国(水口)

2014年03月30日 | 平山城

  1・2の郭を分断するJR草津線

所在地:甲賀市水口町高山字沢山 map:http://yahoo.jp/duRnMM

現 状:山林

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切

区 分:平山城

築城者:高山氏カ?

築城時期: 室町期

有名城主:高山氏カ?

訪城日:2014.3.28

甲賀の城の中でも、確認困難な城!

 

1の郭と2の郭はJR草津線により分断されている。

 

1の郭

草津線のトンネルの東側から

線路脇から1の郭へ

本来は連郭式の一体となった縄張であった可能性がある。さらに後世の宅地化・耕作地利用により随分破壊されている。

2の南辺には土塁と堀切がよく残っている。


5は高山集落から最も近い位置にあり、高野屋敷とは連絡路によって接続されていたような地形がみえる。北側には2段の削平地が連郭しており、切岸もするどい。北側以外の3辺には土塁が廻るが極めて低い。
全体的に倒木と下草がひどく、現在はそれぞれの連絡路も絶たれ、非常に確認困難な城であった。

1・2の郭を分断しているJR草津線の線路(右側が郭1)?・・・分断された稜線カ?

破竹の切株が、郭に侵入を防御か?

郭の土塁が残るが、郭内は破竹で!!!!

線路を渡って、2の郭へ

トンネルの東側へ下りた。

3・4の郭へ

3・4の郭への侵入口、堀(水路)を渡り、獣害ヘンスの中へ

4の郭は土塁で囲む(雑木・竹・笹)。

3の郭へ(高山屋敷と繋がるが、土塁なく平削地・・・詰め城カ?)

 

5の郭へ

郭群の東裾を北(1の郭)へ・・・その東側はJR草津線

高山集落の北西に接した山中には、中世城郭が点在している。その中では最も南方で、集落に接する山林裾部に所在するのが高山屋敷であるが、その他の5つの単郭は総称して御姫屋敷城と呼ばれている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


小山城  近江国(水口)

2014年03月28日 | 平山城

 

 西ノ飼戸池

住所 :甲賀市水口町三大寺字西ノ飼戸 map:http://yahoo.jp/0g25c6

現 状 :竹林

目標地:日吉神社、飯道山寺(本堂裏の駐車場を拝借)

遺 構::曲輪・土塁・空堀

区 分:平城 標高210m 比差4m

築城時期

築城者

有名城主 :

訪城日:2014.3.28

小山城は、飯道山をピークとする山塊の東麓に所在する三大寺集落の西端、山塊から続く傾斜面途中の台地にある。
  遺構は集落西端の裏山のように残る約50m四方の竹薮内に、単郭を北から東辺にかけてL字状に土塁と空堀が確認でき、南辺には虎口とそれに伴う土塁が残る。

特に北東の空堀は底部が箱堀状になり見事である。西辺には土塁等が見られず、後世に造られた西ノ飼戸池により破壊されたと思われる。全体的に竹林は荒れ放題。

北側(道路)に土塁

虎口

虎口前に、石仏2体(個人宅の畑)

個人宅の梅

県道4号より、 三大寺集落へ曲がってすぐ(日吉神社より、徒歩で戻る)

南側の竹藪が城址(竹藪と倉庫の間を・・・虎口へ)

「南側の竹藪が城址」の道路の反対北側に石仏が

道路脇に空堀・土塁が見える

三大寺の中世城郭

竹石城祉

竹中城祉

鵜飼屋敷祉

小山城址

 奥谷城址

倉穂根城址

若林城址

福本屋敷址

奥出屋敷祉

三大寺の城址は、古地図、史料並びに伝承等により上記にあげました。詳細は、ふる里三大寺に掲載されています。

甲賀市には、滋賀県の城址の3分の1が集中しているとされています。今回その中で飯道寺城についての史料を紹介したいと思います。

年代順に先山中文書(山中道俊・同頼俊軍忠状案)に「飯道寺城」が出てきます。又,柏木源蔵人が拠っていたとも。建武四年(1337)四月二十五日、また「大乗院寺社雑事記」延徳四年五月十一日(1492)には「赤松・武田・武衛三頭、六角甲賀郡之番頭寺篭居山伏寺也」に関岡文書 永正七年(1510)般童寺(飯道寺)の衆徒に至るまで云々(ウンヌン)。以上の史料等により寺自体が、武装化を図っていたものと考えられる。

織田信長の朱印状が国立公文書館にあります。                                                                               知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件が添えられています。信長・秀吉は、宗教武装勢力を弾圧しました。それは、比叡山・高野山などです。しかしまた復興に関与したのも元飯道寺僧知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件。

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。


奥谷城 近江国(水口)

2014年03月28日 | 平山城

 

飯道山の登山道を南に進み、

右前方の丘陵林(竹林)が城址

所在地::甲賀市水口町三大寺字川合谷・平林  map:http://yahoo.jp/PgQ_VO

目標地:日吉神社、飯道山寺(本堂裏の駐車場を拝借)

現 状:山林・畑地

区 分:丘陵城 標高219m 比差 10m

遺 構:曲輪・土塁・堀切

築城時期

築城者

有名城主

訪城日:2014.3.28

 

土橋を渡り、南から攻め込む虎口aに!

奥谷城は、飯道山をピークとする山塊の東麓に所在する三大寺集落の西方、途中道路により分断されてはいるが、山塊から続く舌状尾根の先端に築かれていた。



  登城には南東側の農道から入ると虎口cに至る。基本プランは四方を土塁で囲んだ東西20m×南北50mの主郭と、主郭の北東隅虎口bの先に連続する2つの曲輪で構成されている。土塁は幅広で高く、甲賀でよく見る構造である。主郭南西端には水溜めの窪みが残る。虎口cは登城道を屈曲させるため土塁が食い違い、横矢掛りも意識されている。

   主郭南方には数個の削平地が見られるが、南端山側に明確な堀切が確認できないため、それらは後世の開墾によるものかも知れない。従って主郭南方堀切aまでが城域である可能性が高い。

北方田地を挟んで約60m先には近接して小山城が所在するが、奥谷城は集落からやや離れていることや、虎口が反対側に開口していること、構造が類似していないことなどにより、関係性はないのではないかと思われる。

主郭は北側が高く、南側は割と低い土塁が巡ります。主郭の西側に堀切状で遮断されています。基本的には単郭の城館ですが、もあしかしたら、西側にも城の施設はあったかもしれません。

主郭土塁主郭土塁主郭土塁主郭土塁主郭土塁主郭土塁

虎口C

虎口Cの下平削地・・・郭外堀

遠景

三大寺の中世城郭

竹石城祉

竹中城祉

鵜飼屋敷祉

小山城址

奥谷城址

倉穂根城址

若林城址

福本屋敷址

奥出屋敷祉

三大寺の城址は、古地図、史料並びに伝承等により上記にあげました。詳細は、ふる里三大寺に掲載されています。

甲賀市には、滋賀県の城址の3分の1が集中しているとされています。今回その中で飯道寺城についての史料を紹介したいと思います。

 年代順に先山中文書(山中道俊・同頼俊軍忠状案)に「飯道寺城」が出てきます。又,柏木源蔵人が拠っていたとも。建武四年(1337)四月二十五日、また「大乗院寺社雑事記」延徳四年五月十一日(1492)には「赤松・武田・武衛三頭、六角甲賀郡之番頭寺篭居山伏寺也」に関岡文書 永正七年(1510)般童寺(飯道寺)の衆徒に至るまで云々(ウンヌン)。以上の史料等により寺自体が、武装化を図っていたものと考えられる。

織田信長の朱印状が国立公文書館にあります。

知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件が添えられています。信長・秀吉は、宗教武装勢力を弾圧しました。それは、比叡山・高野山などです。しかしまた復興に関与したのも元飯道寺僧知行を安堵する書状ですが、寺役を勤める条件。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。


源太屋敷城 近江国(水口)

2014年03月28日 | 平山城

岩坂集落からは中央を通る路地を南方に抜けて、その延長上の畦道から山林内に入る。山裾付近は切岸状の急崖だが、山裾を東に回りこみ、中央付近だけは竪堀状に開け進入できるので、これが大手虎口。

山裾付近は切岸状の

山裾を東に回りこみ、この倉庫の反対側が大手虎口

源太屋敷城は、岩坂集落のすぐ南方の山林内にあった。現在は途中を県道が遮断しているが、飯道山からのびた尾根の先端にあたる。

山裾を東に回りこみ、中央付近だけは竪堀状に開け進入できるので、これが大手虎口。

別 名:源太城

住 所:甲賀市水口町岩坂字菖蒲谷 map:http://yahoo.jp/IDG1S5

築城者:篠原源太

目 標:岩坂公民館

築城時期:

現 状:山林

遺 構::曲輪・土塁・堀切

区 分:丘陵城

有名城主 :

駐車場:岩坂公民館

訪城日:2014.3.28

歴 史

「甲賀郡志」によると、「相伝土豪篠原源太の邸跡」とされるが詳細は不明。

駐車場可、獣害フェンスを開けて攻め込む!

縄張は甲賀によくみられる単郭方形とは全く異なり、地形をそのまま生かした歪な削平地が組み合わさって構成されている。

その中で、対角が約30mの六角形状の曲輪Ⅰが主郭と思われ、南方の山上側は切り込み、他の辺は土塁が囲んでいる。

北東辺は虎口bが開口し、両側の土塁は食い違っている。また虎口を下ると、竪土塁cが直進を阻み大きく迂回する造りとなっていて、ここが一番の見どころである。
主郭直下は地形そのままに削平された小規模な曲輪が左右に並んでいる。

主郭Ⅰ南側の切岸約10m頭上には土壇aがある。そこから南方には、ほぼ自然地形で不明瞭ながら小削平地が続き、どこまでが城域なのか判断できる堀切等の防備がない。北方山麓側は切岸により遮断性が高いのに対し、南方山上側が不明瞭なことが、どうもすっきりしなかった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。


鎌刃城(遠望) 

2014年03月28日 | 平山城

西番場 鎌刃城跡の現地案内板 

現地案内板

鎌刃城は、戦国時代に浅井氏に属していた堀氏の居城だった。
1570年、浅井氏は朝倉氏の越前を攻めた織田信長との同盟を破棄した。
金ヶ崎から京に戻った信長は、部下の木下藤吉郎秀吉に浅井氏家臣団の切り崩しを命じ、秀吉は堀氏を寝返らせることに成功した。
しかし1571年、奪還を謀る浅井井規に鎌刃城を攻められる。
秀吉は鎌刃城を守らなければ今後浅井氏から織田氏への寝返りがなくなることを恐れ、また最前線維持のため急いで援軍を出した。
しかし秀吉の本城の横山城も浅井本隊によって攻められており、わずか100騎程しか援軍を出せなかった。
秀吉自らそれを率いて鎌刃城へ入城し、援軍を得た鎌刃城兵は奮戦し、わずか5、600ばかりで数倍の敵を追い払ったという。
その間横山城も浅井本隊による襲撃を受けたが竹中半兵衛の指揮で退けた。
現在は町指定の史跡として整備が行き届いている。
山の高さは384mあり、典型的な山城で、江北と江南の境目を守る役目を持つ。
主郭周りや北端郭には石垣が残り、虎口にも石段や石積みが残る。登山道はよく整備されており途中に表示がある。
ちなみに鎌刃というのは尾根の両側が鎌の刃のように峻険だということから名づけられたという。

鎌刃城遠望・・・中央鉄塔の間


連続講座「近江の城郭」 第5回 徳川幕府西国支配の要~彦根城跡

2014年03月23日 | 平山城

 

○連続講座「近江の城郭」 第5回 徳川幕府西国支配の要~彦根城跡

慶長5年(1600)9月15日の関が原の合戦に家康が勝利したことで、近江国の勢力配置は大きく変わりました。それまで東国の徳川家康に対する防波堤として豊臣配下の武将が置かれていましたが、合戦後の領地替えによって徳川配下の武将たちが近江に領地を与えられ、近江は大坂城にいる豊臣氏をにらむ最前線と位置づけられるようになりました。中でも最重要拠点だったのが彦根城です。彦根城は、関が原の合戦の戦功により石田三成の居城佐和山城を与えられた井伊直政の死後、後を継いだ直継によって築かれました。戦国末期の城郭にふさわしく、様々な工夫が凝らされたその縄張は、究極の城として歴史ファン・城郭ファンの注目を集めています。

今回の講座では、彦根城内を隅々まで散策し、その遺構や縄張について、地元彦根市の文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

 

1.日時 平成26年3月22日(土) 10:30~15:30

○集合:大学サテライト・プラザ彦根

    ※JR彦根駅西口前アルプラザ彦根6階

○解散:彦根城跡表門前

         ※彦根城博物館前 JR彦根駅まで徒歩約10分

 講義「関が原合戦と近江」 講師:上垣幸徳(滋賀県教育委員会文化財保護課) 会場:大学サテライト・プラザ彦根

連続講座・・・5回皆勤賞(21名)表彰・・・代表者

現地探訪・・・班割

 現地探訪 彦根城跡    解説:彦根市教育委員会文化財専門職員

行程 大学サテライト・プラザ彦根(講義・昼食)→彦根城跡大手門前→彦根城内(米蔵跡→観音台→西の丸→本丸→天守→鐘の丸)→彦根城跡表門前   全行程約2km(石段あり)

集合場所へ

米蔵跡

米蔵へ搬入口(内堀から)

西の丸下へ縦掘

西の丸下へ縦掘

山崎郭へ

観音台(寺院跡)

西の丸へ

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

本丸へ

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡

石垣にノミ跡  石垣にノミ跡

孕みで崩れた石垣

天秤櫓へ

 

 

 

二ノ丸 佐和口多門櫓

 主催 滋賀県教育委員会 協力 彦根市教育委員会

定員 60名(事前申込制) 参加者127名(スタッフ別)

参加費 800円(保険料・彦根城観覧料・彦根城ガイドブック等実費分)

持ち物 健康保険証、弁当、水筒、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

・その他 講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。

・受講された方には修了証を発行します。

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 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当

 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所

  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

本日も訪問、ありがとうございました。


出庭城 近江国(湖南・栗東)

2014年03月22日 | 平山城

住所 :栗東市出庭 maphttp://yahoo.jp/GfiOA6

現在の状態 :出庭神社・集落

遺構 :堀跡

形式 :平城

築城時期 :江戸期・元禄期カ?

築城者 :遠藤胤親カ

有名城主 :

訪城日:2014.3.18

遠藤 胤親(えんどう たねちか)は、近江三上藩の初代藩主。徳川綱吉の側室・お伝の方(瑞春院)の甥にあたる。

 

天和3年(1683年)5月14日、白須政休の長男として生まれる。元禄5年1692年)に八幡藩主遠藤常久が家臣によってわずか7歳で毒殺されて、遠藤氏は無嗣改易となったが、幕府では遠藤氏の祖先の功績などを考慮して、5月に遠藤胤親を美濃大垣新田藩主・戸田氏成の養子にした上で常陸・下野国内で1万石を与えて、遠藤氏の再興を認めた。

 

元禄11年(1698年)3月7日、胤親は所領を近江4郡に移されて、ここに三上藩が立藩し、初代藩主となる。宝永6年(1709年)3月7日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝永7年(1710年)に朝鮮通信使の饗応役を勤め、その後も江戸城馬場先門番・和田倉門番・一橋御門番などを務めた。享保8年(1723年)12月18日に但馬守に遷任する。                                                                                   享保18年(1733年)9月25日、家督を長男の胤将に譲って隠居する。享保20年(1735年)3月2日に死去した。享年53。

 

 

出庭城は、野洲川西岸の出庭集落一帯にあったとされる。

出庭集落は四方を水路がめぐり、さらに集落中央に鎮座する出庭神社にも水路がめぐる様子は、里城特有の周濠集落の装いを呈している。

 


出庭神社東側には蓮池があった跡を残す蓮池公園があり、地形から判断すると主郭は出庭神社とその西方付近を比定出来る。
近年まで集落北西端の水路沿いには土塁状の高まりが残っていたようだが、現在は消失した。

 

出庭神社から100mほど東に新興住宅地があり、その辺りが遠藤屋敷と伝えられているとのことであった。
この遠藤屋敷が出庭城かどうかは不明。
 出庭地区の出庭神社を中心として、東西300m、南北200mの範囲で周囲を取り囲むように川(水路)が流れ、東側には小さな沼地跡。

 また周辺と比較しても出庭神社だけが土盛りをしたように0.5~0.7mほど高くなっているのを見ていると、出庭神社,西光寺、および従縁寺一帯が出庭城ではないかと考えられるのだが・・・・。

 

鳥居前堀

駐車場は出庭公民館の敷地内(出庭蓮池公園)

隣に【出庭山 西光寺】http://ideha-ritto.jp/p_02.htm

滋賀県栗東市出庭249番地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 3( 旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城、お城のとびら

本日も訪問、ありがとうございました。


古高城 近江国(湖南・守山)

2014年03月22日 | 平山城

所在地 :守山市古高町 map:http://yahoo.jp/RGObq8

現在の状態::集落・大将軍神社

遺構 :堀跡・神社土塁

区 分 :平城

築城時期 :室町時代

築城者 :古高氏・三上氏

歴代城主:古高氏・三上氏

訪城日:2014.3.16

歴史

古高城は詳細は不明だが、国人領主古高氏が居城していたと考えられる。
江南守護六角氏が勢力を拡大して以来、古高の地もその支配下となり、六角氏の重臣で野洲郡三上を本拠とする三上氏の傘下にあったと考えられる。

伝承ではこの地に代官所があったとされ、江戸期は三上藩の支所として機能したと考えられる。
また幕末には古高俊太郎を輩出していることから、武家古高家は何らかの形で存続していたのではないか。

古高城の位置は明確ではないが、周囲に「東屋敷」「西屋敷」「南屋敷」「堂ノ内」の地名がある大将軍神社のあたりに城郭があったと考えられている。
大将軍神社は、狭い道で駐車できないので、近くのコンビニ等の駐車場を拝借するのが便利。

古高の地は、鎌倉時代以降、佐々木氏の領地であり、佐々木四天王の一人といわれた、家臣の三上氏が治めた。                                        古高城は、三上氏の傘下、国人領主の古高氏の居城であったと伝わる。
永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛するにあたって、近江に侵攻し、佐々木六角氏を破った。この際に、古高城も滅んだと伝わる。

古高城は、現在の大将軍神社辺りに築かれていた。

古高城は、幕末の勤皇志士古高俊太郎の出身地として著名な古高集落一帯にあったとされる。
字堂ノ内に鎮座する大将軍神社を中心に、北方に「東屋敷」「西屋敷」、南方に南屋敷の地名が残っている。

特に東・西屋敷は現在でも三方を水路に囲まれ、城構えの様相を呈している。
また大将軍神社には北東に土塁が残っているが、城との関連はないのだろうか。
大将軍神社社殿は、応仁元年(1467)三上満実の再興である。

 

金森城の下流の堀

将軍神社の隣に土塁(古高城のものカ?)

鳥居~拝殿まで、神社土塁に堀(今は用水路)

境内にある土塁の名残カ?

参考資料:古高城遺跡発掘調查報告書、滋賀県中世城郭分布調査 3( 旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城、お城のとびら、日本のお城

本日も訪問、ありがとうございました。


欲賀(ほしか)城 近江国(湖南・守山)

2014年03月20日 | 平山城

欲賀城址とされる浄光寺。

『浄光寺案内石板』より

欲賀寺史略
 持統九年(695)都賀山ノ西側ヨリ温ノ泉湧出天皇叡感ノアマリ百済国ノ僧豊妙ニ命ジテ薬師如来ノ尊像ヲ彫刻シ一字ノ精舎ヲ建立。
 帝モ小像ヲ刻ミ御腹内ニ納メラレ本尊トナシ鎮護国家世ノ病苦ヲ除カント誓願シ給フ。
 精舎ヲ欲賀寺ト称シ興福寺ノ別院トナス。法相三論兼学ノ道場トシ給フ。
 弘仁十四年(823)大安寺ノ僧永厳来ルヤ大和大安寺別院病療院欲賀寺ト改称。正嘉元年(1257)僧空真ノ時郡邑ヲ勧進シ諸堂ヲ建立。ソノ数四十五ニ及ブ当時ノ諸堂

 

所在地滋賀県守山市欲賀町

分 類 : 平城(居館)

築城期:

築城者: 寺田清信

遺 構 : 土塁跡、堀跡

訪城日:2014.3.18

 

現状

 

欲賀城は、浄光寺の境内付近にあったものとみられています。浄光寺の南西隅には土塁跡と考えられている藪があります。また、寺の裏手には土塁および堀跡のような段差と側溝がみられます。

浄光寺北西隅付近にある水度神社は、寺田氏が山城にいたころから崇拝していたものを勧請して建てたものと伝えられています。

浄光寺の北西150mに、欲賀城畑城と呼ばれる城跡があります。『守山城物語』によればこちらは本間氏の居城とされています。

また、浄光寺の東にも宇野氏の大林城の本間氏の居城ある。

2つの在地領主の城に挟まれた寺田氏の欲賀城は、城というより寺院居館。

境内の土塁

本堂裏

浄光寺南西隅の藪。土塁跡

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、

本日も訪問、ありがとうございました。


大林城 近江国(湖南・守山)

2014年03月20日 | 平山城

住所 :守山市大林町

現在の状態 :八幡神社・集落・藪地

形式 :平城

目標点:大林 覚明寺・八幡神社

遺構 :堀跡・土塁

築城者 :宇野久実

築城期:応永年間

城 主:大林伊予守

訪城日:2014.3.18

歴史

周防国より移り住み、その後六角氏に被官した宇野氏が、応永年間(1394-1427)の戦功により三宅・欲賀・大林を領し、大林城を築城、宇野姓を改めて大林と称したとされる。

元亀元年(1570)6月、六角氏と織田方柴田勝家・佐久間信盛により、野洲河原の戦いが勃発し、大林氏は六角方で多くの首級を得たが、六角勢は大敗する。さらに8月には佐久間信盛によって大林城も攻められ落城した。


天正11年(1583)城主大林伊予守は出家し、旧城内に覚明寺を建立した。

集落の四方をめぐる水路

大林城は、大林集落全体と南側に集落に付随するように茂る藪地一帯に築かれていた。
集落と藪地は、現在でも四方を堀跡と思われる水路がめぐるが、南辺の水路は宅地造成のため流路は改変された。
集落南奥に鎮座する八幡神社付近は、集落から見ると一段高い地形になっており主郭に比定できる。
またその奥藪地には館跡の遺構が存在するという。

 
 

旧城内に覚明寺。

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、

本日も訪問、ありがとうございました。


千代城 近江国(守山)

2014年03月20日 | 平山城

八尾神社前には説明駒札

住所 :滋賀県守山市千代町

現在の状態 :集落・神社

遺構 :堀・案内板

形式 :平城

築城時期 :天正3年(1573年)

築城者 :玉岡宿弥彦安か

城 主 :千代氏・旗本渡辺茂

目 標:千代 八尾神社

訪城日:2014.3.18

現状

 千代城は、旧千代集落一帯にあった。千代集落は近年まで四方を水路が囲み、北側水路内側には土塁も残っていたという。                                現在では土塁は消失し、西辺水路は埋められて、新興住宅地が次々に造成されている。

集落北側に架かる橋は、城の北門であったという伝承が残り、北門から入ると通路は4回屈曲し、八尾神社前に至る往時の城道。
集落中程に建つ八尾神社前には千代城の説明板が建っている。

歴史

 守山市誌によると、物部氏族玉岡氏が千代郷に住み、地名を取って千代氏と名乗り建長4年(1252)にはすでに支配していたとされる。
しかし案内板には玉岡宿弥彦安なるものが天正3年(1573年)に築城、慶長元年(1596年)千代中務大夫の時に落城したとされている。
それぞれの築城時期の約300年の開きは何なのか、解明できずじまい。

寛永2年1625 千代村が旗本渡辺茂の知行所となる

      堀(現状:水路)

隣の安楽寺

 

 

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、現地説明板 

本日も訪問、ありがとうございました。


綣(へそ)村城 近江国(湖南・栗東)

2014年03月18日 | 平山城

所在地滋賀県栗東市綣

遺 構土塁

形 式平城

築城者:6代目将軍足利義教公

築城年代:室町期永亨5年(1433年)

城 主:徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守

訪城日:2014.3.16

当神社は、701年(大宝元年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(しなど)(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。
これにより疫病が鎮まったと伝えられる。

 同年5月1日社名を大宝天王宮と勅定、正一位とされた。鎮座の意は、「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」等の書物に見ることができる。翌2年から疫病が再び流行することを恐れて、健康を広く多くの人々に授かってもらえるようにと、神様に感謝して4月初子の日を例大祭と定めた。同年3月12日今宮応天大神宮の神号勅定。858~867年(貞観)以降、密教天台宗融合の両部(リョウブ)神道となった。

 中世の大宝神社の祭礼、特に4月の例大祭・8月の相撲祭・雨乞い儀式は近郷50余郷の氏子圏に及び、綣村生人講を中心に盛大に斎行されていた。また、境内の建物・建造物も本殿を中心に境内社34社、建物は神宮寺の様相にて三重搭大日・護摩堂・薬師堂・神楽堂・鐘桜堂・経堂等が建ち並び荘厳なる境内が1713年(正徳3年)の資料から伺い知ることができる。

 1433年(永亨5年)6月18日、6代目将軍足利義教公は、天下安全可抽を祈願し神事領311石の地頭を寄進、その朱印は現存する。                 9代目将軍足利義尚公は、佐々木高頼公を近江に遠征させ、陣中上鈎村に当神社の遥拝所を建立させた。
  1545年(天文14年)に佐々木定頼公により社殿の修復がなされた。

 1571年(元亀2年)織田信長の山門破却の神領没収により地頭は、上地となった。

しかし、1573~1591年(天正)1606年(慶長7年)の検地は、古来の由緒により免除地となった。

  1629年(寛文6年)8月12日徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守を領地させ境内社日吉神社の燈明田一段歩を寄進、その後も他の社殿修復を子孫に継いで怠らなかった。1713年(正徳3年)小槻禅珠が西坊法橋宮内郷を授かり、同4年別当神應院禅珍は、法橋の官位を授かり百々御所(京都・宝鏡寺)への館入を認められた。

 1716年(享保元年)7月宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願を当神社に依頼され、ご祈祷により全快され、そのお礼として四脚門両築地付をご寄進された。当初は、桧皮葺きである1788年(天明8年)9月御室御所(京都・仁和寺)より紋章付提燈(桜の二引)一対のご寄進があった。(現在も使用)
 1868年(慶応4年)3月王政復古により神仏分離令と共に佛眼寺(京都四条道場時宗金蓮寺末寺大宝山)との分離、神應院の院号破棄により、同年4月社名を大宝神社と改めた。

 

郭跡カ?

社殿北の唐堀

社殿南の水堀(庭園カ?)

四足楼門前に土塁

中山道より一の鳥居

中山道より水堀・石橋

滋賀県栗東市の地名 綣(へそ)と読む。

織機にかけるために縒りあわせた麻糸のことを「へそ」と言う事から由来する、という説が有力。
一方「万葉集」に見える額田王がこの土地を通ったときの歌「綜麻形の林の始めのさ野榛の衣に着くなす目に著くわが背」とあることから、古くからの地名と考えられる。

説明板

 

芭蕉句碑

綣村城(大宝神社二ノ鳥居前に)

西琳寺は正式には「妙香山西琳寺」といい、真宗大谷派の寺院です。始めは「妙光坊」という善刹であったそうですが、寛政5年(1464)に本願寺第四世である「善如上人」により中興されたそうです。


 同年(1464)11月に本願寺第八世「蓮如」から、裏面に「綣村惣場」と書かれた十字名号を与えられた。                                                       文明6年(1467)には伝来の阿弥陀如来の画像を修復し、「蓮如上人」の裏書きをもらって本尊とした。


 慶長7年(1602)に本願寺が東西に分立した時には、東本願寺第12代「教如上人」に従い、「教如上人」の江戸下向など巡行の往復には「西琳寺」を利用しそうです。宿泊は4度、休憩は5度におよび「綣村掛所(休憩所)」あるいは「御坊」と呼ばれた。


 敬弔18年(1613)に、寺号を「西琳寺」と改めたと伝わっているそうです。

参考資料;淡海の城、近江の城郭、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


井元城 近江国(愛東)

2014年03月17日 | 平山城

小堤山城(野洲)踏査図面の説明する・講師長谷川博美氏(春日神社駐車場で)

井元城へ

井元城(遠景)

 滋賀県中世城館跡分布調査の過程で発見されたものである。

愛知川北側の低い丘陵上にあり、西に鯰江城・上岸本城、東には青山城・小倉城(いずれも東近江市)が近接して存在している。

天正元年(1573)、織田信長は六角氏の拠る鯰江城を攻めるため「四方より取詰付城」を築いた。その一つがこの井元城。遺構を見ると、織豊系の陣城にみられる特色が確認できるため、現在のところこの説が通説となっている。

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町 map:http://yahoo.jp/rmThIR

改築年:元亀4年(1573)

区 分:平城(陣城・河岸段丘上)

改築者:柴田勝家?

信長軍の鯰江城凋落包囲網・・・井元城・上岸本城・青山城・小倉城

鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。
  なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

遺  構 : 切岸(断崖)、土塁、重ね馬出し、空堀、

訪城日:2014.3.15

管理人の過去の訪城記

探訪 【近江 井元城】 2013.3.19 

井元城 近江国(2014.1.26)

水をめぐる争い=井堰の開発。愛知川井関図。(愛東の歴史ダイジエストより)

愛知川沿いの村々(元禄期近江国絵図)。(愛東の歴史ダイジエストより)

井元城跡縄張図

  実際に城を歩いて見ると、まず主要遺構の規模の小ささが印象に残る。土塁は低く、堀は浅い。陣城として臨時的に構築されたため、おそらくは堀を掘ってでた土をたたきしめることなく積み上げたのだろう、土塁が崩れた部分も散見される。

主郭(Ⅰ)は方形だがとても小さく、城の大手枡形がある。周囲を土塁が巡るが、南側のものは非常に低い。東側に虎口があり、前面を方形の曲輪(Ⅱ)が囲む。西側にも虎口状の開口部があるが、これは後世の改変であろう。西側の堀は、直接城外に接するため、この城の中では最も広く、深いものとなっている。東側の虎口に面する主郭北東部の土塁は、櫓台状になっている。虎口を挟んで南側の土塁も、虎口に面する部分がやや幅広くなっているようだ。Ⅱは、主郭に付属する馬出となっており、両者をつなぐ土橋は非常に幅広のものとなっている。

Ⅱは北と南の2ヵ所に虎口がある。南の虎口は外側からⅡを囲む堀と崖の間を通り、主郭の堀に突き当たって北に折れる。北側は、Ⅱに対する馬出となる曲輪(Ⅲ)があるが、通路となる土橋はそのままⅡを囲む土塁に連続する。

Ⅲは東に虎口が設けられている。Ⅲの北西から浅い堀と低い土塁が続き、春日神社を囲むようにのびている。これは神社の結界とも思えるが、社殿を囲む大きな土塁が残っており、その規模とつりあわない(むしろ城の主要遺構の規模にあう)ことから、城の遺構と解釈。

春日神社 

素晴らしい彫刻の本殿は郷社のためか。佐々木の四つ目結(守護佐々木氏)・右2つ巴の紋

城域全体図(長谷川博美氏踏査図2009年)

愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭です。文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出されています。
 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分です。虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているのです。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したものです。そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えられます。

主郭虎口から馬出しを望む

井元城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。

 虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯スペースと考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられないが。

歴   史

井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられている。
なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

春日大社の神社土塁

本殿の東西に、佐々木氏の家紋(斜め四ツ目結)

城域最西(中戸集落域)

参考資料;淡海の城、愛東の歴史ダイジェスト版、近江の城郭、信長公記、長谷川博美氏の説明

本日も訪問、ありがとうございました。