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城郭探訪

yamaziro

小野城 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 平山城

小野こまち会館

小野の集落に入って行く。集落に入ると「小野こまち会館」があり、右手に「安立寺」がある。
道路わきには地蔵堂とお手洗いが目に付き、道路わきの流れいた。

 

 歴 史

小野こまち会館の南の道を東に抜け、名神高速「彦根20」のトンネルを抜けると小野城が残る

~~~「佐々木南北所氏帳」~~~

小野城

佐々木随兵千田源氏嫡流大和守頼信是流他 小野大善。同 草野大善~~の名が残る。

 

【城郭の概要】

所在地:彦根市小野町

築 城:

初城主:小野氏

区 分:居館

遺 構 :横堀・曲輪・土塁・堀・

現 状:森林

訪城日2014.5.13

丸山砦(城)

丸山砦(遠望)

丸山砦登り口

丸山砦(遠望)

 

小野小町塚概要: 伝承によると、小野小町の父親とされる小野美実(好実)が都から出羽へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かった為、養女として迎えたと伝えられています。この養女が出羽の国で成長し小野小町となったとされ、その後、小町が病気で薬師如来から授かった霊薬の製法を伝えたのが、同町の旧家池上家だったそうです。池上家では江戸時代初期まで小町から伝授された霊薬(赤玉の丸薬)を「小町丸」として販売していたそうです。当地には15世紀後半に小町地蔵が建立され小町塚として信仰されてきました。

小野町の説明では、(鎌倉時代、弘安二年(1279)に歌人阿仏尼が、京都から鎌倉に向う途中、小野宿に宿泊したと「十六夜日記」にある。
中世、小野の地は、東山道の駅家として機能していました。また、藤原定家の「明月記」などに記される庄園「小野庄」は、
当地域が想定されている。地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っている。
『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。
美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。』
――中略――
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏(十五世紀後半の造仏)がある。
自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされている。正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、類例がなく貴重なものである。)(小野町)とある。

小野小町といえば有名な歌人で、百人一首にも選ばれている歌がある。

・ 花のいろは 移りにけりな いたずらに
        わが身世にふる ながめせし間に
である。

この歌がなければ、小野小町なんて知らなかったに違いない。(花の色は移りにけりな)とは、桜の花は満開になったがという意味だと教わって、花の色といえば日本では(桜)であると、はじめて知ったので記憶に残っている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、佐々木南北所氏帳

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


菖蒲嶽城 近江国(彦根)

2014年05月11日 | 平山城

中山道の摺峠針の東、中山町への分岐点付近から山中に入り、尾根筋を北へ登ると約20分ほどで尾根が分岐するピークに着く。

菖蒲岳城は2つの城域で構成されており、このピークから東尾根先端に南城、北尾根に北城があり、この間約300m。

赤・・・登城ルート!「登城が多いか探訪道(城道)はっきり迷うことはない」。緑・・・下山ルート(時刻も17:00、疲れたので南北城の間の林道を旧中山道~登城口~車へ)

 菖蒲岳城は中山道が番場から摺峠針へ抜ける街道沿いにあり、眼下に街道を押さえる標高260m~290mの山上に築かれている。

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/2Ehqjf

築城者:今井定清(尺夜叉)=六角方

築城期:天文13年(1544)か

初城主:今井定清

区 分:山城

遺 構:土塁、堀切、土橋、堅堀

訪城日:2014.5.10

お城の概要

南城http://yahoo.jp/c4-wTK

 南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。

北城:http://yahoo.jp/w3yFOv

お城の概要

北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、南城と比較すると急造され、使用期間も短かったのではないだろうか。

 菖蒲岳城から北方には太尾山城、地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。


 

お城の歴史

天文13年(1544)に今井定清、六角方ろして築城『島記録』

 菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。

-------------- 以下、嶋記録(天文13年(1544)6月27日)
今井本領案堵望之事
 去程に、今井本意之望有しか共、事ゆかさりしかハ、北境目取出の望をなしゝに、人質として二歳の若子井鳴か孫四郎観音寺へさし上、摺針山・菖蒲嶽取出ニして、鎌のは(鎌刃城)の通路をさゝゑしかハ、敵以之外いたみけるとかや

--------------ココマデ
 上記嶋記録は、京極氏の家臣団の中でも筆頭の地位を占める箕浦城を居城とする今井氏が、文明2年(1470)の京極氏の内訌(梅本公事)をから浅井氏が台頭するまでの間に六角定頼に内応したものとして注目される。


 また、同じく嶋記録に以下の記述がある。
-------------- 以下、嶋記録
箕浦帰参之事
覚へ、吉田安芸守也、蒲生郡河守村之地頭也、彼村老共今二申ツタヘニハ、吉田安芸スリハリ菖蒲か嶽二居城ト申候也

--------------ココマデ
 天文13年(1544)に観音寺城の六角定頼に人質を差し出した今井定清は、天文21年(1552)、六角定頼が没した後、浅井氏に再度従うことになるが、その間、菖蒲嶽城には六角氏家臣の吉田安芸守が在城していたことを嶋記録は伝えている。

「近江国坂田郡飯村嶋記録」には、「須田めし取之事」の記述に「浅妻よりすり針山さして打越、菖蒲か嶽今井が取出へ案内を申せけり」とか、「箕浦帰参之事」の覚えに「吉田安芸守スリハリ菖蒲か嶽ニ居住ト申候也」ともある。

南城の三角点

北城へ(大きく下って・大きく登るが登城が多いか探訪道(城道)はっきり迷うことはない)

北城へ

三角点主郭に東側へⅤに縦堀が

土塁に囲まれた郭土塁

北の出丸かhttp://yahoo.jp/_JD2wS

東側に奇岩が

・・・・北の郭したの忍!

林道を古中山道へ:http://yahoo.jp/NzBAwL

 滋賀県中世城郭分布調査によると、「中仙道沿いに小さな祠堂があり、そこには山腹から樋で清水が引かれ、この清水の流れ出ている山の頂上に砦跡がある…」と記載があったため、

中仙道古道の祠堂

駐車可スペース5台登城口

中山集落の墓地したにも駐車可3台

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


山脇古城山城 近江国(彦根)

2014年05月06日 | 平山城

別 名:石寺城

所在地:彦根市稲里町山脇・石寺町   map:http://yahoo.jp/e96wPH

現 状:山林・荒神山ハイキングコース

遺 構:石垣・曲輪・土塁・竪堀・堀切・土橋・大土橋

標 高:190m  比高差:100m:60m(稲村神社から)

区 分:山城

築城者:佐々木氏六角又は浅井氏

訪城日:2014.5.6

 

 

 山脇古城山城は、荒神山のほぼ中心にある荒神山城(荒神山神社)と同じ山塊にあり、そこから南西側へピーク1つを越えた所にある。

 荒神山は山全体がハキングコースとなっていて、しっかりとした道がついている。城跡には荒神山裏の南西側の車道から登って、中腹にある稲里神社の駐車。社務所の西側のハイキングコースを山尾根に向かって登る。

 神社からしばらく登ると、主郭のちょうど中間あたりに出丸がある。縄張は尾根づたいに長く、山の最西端から荒神山神社のすぐ下の駐車場の近くまで達しているので、上から下って行くことも可能だ。

 

 城域は、荒神山の最西端のピークから始まり、そこには後世のものなのか綺麗に石垣が残っている。そこから主郭までには尾根を削平したいびつな幾つかの曲輪が連立し、北側斜面には風化してはっきりしないが10数個の竪堀が要所に確認できる。特に主郭のピークに達する寸前には天然の絶壁があり、その斜面に2本の大きな竪堀と、石垣の残石らしき遺構が存在する。

 

主郭付近は小ぶりな4つの曲輪が堀切って分かれ、土塁で防備を固めている。また、主郭付近から2ヶ所、北に向かって階段上の腰曲輪がのびる。最も圧巻なのは、城跡東方最後の谷にある遺構で、廻りを堀り切っているのか、道自体を土盛りしているのか、長い道が続いている。高さは3~4m、長さ40~50mにも。

これを「大きな土橋」のようだ。自然の尾根道には見えない。これが城遺構なのか?、これが城遺構であれば貴重なものだ。

 

 

 

荒神山とその周辺-歴史 曽根沼・旧愛知川の流路

荒神山の山魂の琵琶湖側(北側)は曽根沼と称して大湿地・沼であった、したがって城構えは南及び西向け

下は、16世紀頃の旧愛知川

以前、約96haあった水面は、昭和36年から始められた干拓により約20haにまで減少しました。干拓地の標高は82.7mで琵琶湖の平均水位より1.8m低いため、中央部に排水路が設けられ、その北側に排水機が設置されています。
 東大寺正倉院所蔵の麻布の絵図のひとつには、現在の曽根沼がある所に荘園が描かれています。つまり当時(751年)は低地ながらも陸地だったと考えられます。しかし荒神山の山陰にあたり、宇曽川や愛知川の堆積がもっともおよびにくい部分であるため、やがて沈水して内湖になったと考えられます。

 かつての 愛知川本流は、そのまま北して彦富町から湖岸薩摩へと刻んでいました。流路が変更のは比較的新 し く、 16 世紀頃と推定されており、大規模な洪水が原因だったのでしょう。

歴  史

信長の近江侵攻に際し、愛知・犬上の一揆衆が信長に対抗するために築いた砦ではないかと云われているが、定かではない。

山脇古城山城(遠景)・・・北東の北町城周辺より

中腹の稲村神社

由緒

社傳によると、天智天皇の御宇六年、常陸国久慈郡稲村に鎮座の稲村神社の分霊を当稲里町小字塚の地に迎え、奉祀したのが始まりとされている。平流庄十三ヶ字の産土神であり、天正年間兵火にかかり、後現在の大平山の地に遷座された。

村上天皇の御代、正一位を授けられ神領八十余町を寄進された。また承久の乱には後鳥羽上皇の祈願もあったと伝う。なお社傳によると近江守護職佐々木家より太刀一振り奉納あり、佐々木承禎は境内樹竹の伐採を禁止する制札を寄せた。また彦根藩主は当社保護のため、種々の制令を寄せたと伝えられている。

りご本殿

本殿は、現在のものは寛正五年八月の建築のものである。

 社名は、往昔、稲村大明神、あるいは大社稲村大明神とも称したが、明治九年稲村神社と改称し、村社に列した。明治十四年郷社に昇格し、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。明治四十一年郷内の無格社二十社を合祀奉斎した。なお春祭には、氏子より大太鼓九基の渡御がある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

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九居瀬城 近江国(神崎郡・永源寺)

2014年05月06日 | 平山城

 九居瀬城二の郭(最頂部487m)で訪城記念撮影

別名 久居瀬城

所在地:東近江市永源寺九居瀬町 map:http://yahoo.jp/9Cc_E6
   旧:神崎郡永源寺町

目標地点:永源寺ダム

形式:山城  

標 高:487m 比高差:200m 

現 状:山林

遺 構:郭・石垣・堀切・竪堀

築城期:室町期

築城者:小倉氏

永源寺ダム公園の観音像から主郭:30分

訪城日:2014.5.4

 

南西…出丸・副郭北東峰…主郭滋賀県中世城郭調査より

白の観音像・・・上に主郭部(487m)下流部(発電所)永源寺ダム・・・遠望に「日本コバ」

観音像の後のハキングコースを登ります(ジクザグ急坂)

 炭窯のようですが、石積の立派なここから50m登ると南北の尾根に至ります。北尾根に!…ここから城域です

南へ…北郭の出丸へ

北の出丸この出丸から八風街道・ダム湖、対岸の鈴鹿の山々が一望。

出丸の石垣跡

戻り更に頂部へ

北郭

北に登ります西側の土塁471m北尾根頂部=見張り櫓カこの手前を⇒右へ少し下る!左にダム湖の上流部

郭の石垣

主郭手前の石垣

石垣と確認できる石垣と確認できる

主要部は尾根を右手方向に少し下り、比高50mほど登ると城跡です。尾根を左に行くとすぐに支尾根があり、ここは出丸的な存在であったようです。さらに尾根を下りて行くと鉄塔が立っていますが、この鞍部も堀切の遺構かもね。さて、主要部ですが、最後の登りを登りきると大石が散乱しています。斜面には僅かですが石垣も残存していて驚きです。

二の丸の石垣この先は東側尾根は、さらに大きな石垣が散見、郭跡。

三角点487m訪城記念撮影

 二の郭まで登る道も崩落はしていますが、なんとなく石段のような感じです。主要部は二の郭と主郭があり、南側に腰郭が三日月状にあり、さらに、南斜面に2段ほどの段郭があります。この南側にも大石が散乱していて、主郭・二の郭の斜面は石垣が巡っていたと想像します。二の郭と主郭、主郭と東側尾根に浅い堀切があり。

この城、出丸と合わせて馬蹄形の城郭と言えなくはないですが、土塁は殆どなく、主郭・二の郭も、詰め城・監視の城。石垣は孕みと500年をへて、相当に崩壊してます。石垣と確認できる物も。

 

下山です北峰頂部より、永源寺ダム・日本コバ

北峰の尾根坂でダム湖碑と日本コバ

第岸の相谷城・・・(遠望、ダムより)

歴 史
小倉城に発した小倉氏の系統です。小倉氏は室町中期に分裂し、南家は小倉氏中興の祖である小倉実澄が有名で、宗家として佐久良城を本拠としました。東家が小倉城にあり、西家が山上城を本拠とし、和南城、九居瀬城などを支城として築きました。西家は小倉実治、小倉左近大夫という名が史料にあるようです。戦国期に入り、小倉氏一族は宗家を中心とした連合的形から各家が対立していったようです。永禄七年(1564年)頃、左近大夫が兵を挙げ、小倉一族が内紛となり、小倉城十七代の良秀が破れ離散し、宗家が乱を鎮圧したものの小倉氏は急速に力を失ったようで、この頃に九居瀬城も廃城になったと思われます。

 識盧の滝 小倉実澄の塔小倉実澄の供養塔

この格調高い名を持つ滝は、文武両道にすぐれた武将小倉実澄が建てた庵にその名が由来。実澄は、応仁の乱によって荒れ果てた京都の相国寺の学僧をむかえ、永源寺の地に庵を設けた。その庵の名前が「識盧庵」であり、近くに落ちる滝を識盧の滝と名付けたそう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

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伊佐野城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月05日 | 平山城

駐車位置:路上(集落と城郭の間)

所在地:甲賀市水口町和野字石原 map:http://yahoo.jp/P2eASk

現 状:山林・畑地・民家

遺 構::曲輪・土塁・空堀

区 分:平城 標高200m

築城者:伊佐野氏

城 主:伊佐野上野介為綱

訪城日:2014.5.3

  伊佐野城は八幡神社の西側一帯に築かれた群郭式の平城で、その規模は東西200m、南北150mを越える。

集落の北側の茶畑や林、竹林になっている部分に土塁や空堀で区画された曲輪群が残されている。大半の遺構は確認するのが難しい状態であるが、八幡神社の境内の西側に土塁と堀を確認することができる。

伊佐野城関連写真八幡神社の由緒に伊佐野氏についての記述がある。

 伊佐野城は、水口町和野の東方、伊佐野集落の中央北側の野洲川河岸段丘上に所在する。集落側から見ると比高差はないが、北側の野洲川方向からは丘陵上に位置するのがわかる。

 縄張は東西200m×南北150mの中で、上図のようにⅠ~Ⅸの大規模な区画からなる。領主とその庶子が同名中を組織して形成されたいわゆる群郭式であり、土塁の高さや規模に格差があり、それぞれの曲輪を繋ぐ導線がない、独立した区画が隣り合っているに過ぎない構造である。

  現在ⅢⅤⅥⅦⅨが山林で、特にⅢⅤⅥは雑草に覆われ進入が困難である。ⅠⅧは宅地、ⅡⅣは畑地として利用されている。全体的に気軽に探索しづらい状態だが、その中でⅦは訪れ易く、約50m四方に土塁が巡るコンパクトな曲輪が味わえる。また東隣りの八幡神社からは、Ⅷの土塁やⅡⅢの東端を巡る空堀が簡単に確認できる。

 甲賀郡では単郭・副郭の単純な城が多い中、伊佐野城では大規模な曲輪は珍しい。類似構造は水口町の植城があるが、平地群郭は宅地化され破壊されているが、伊佐野城は貴重な遺構である。

伊佐野城関連写真

北側から曲輪の並ぶ(遠景)

歴 史

伊佐野城は築城年代等の詳細は不明だが、佐治文書によると城主は伊佐氏で、惣領と庶子からなる同名中を組織していたとされている。

 伊佐野氏は佐治氏(佐治は、甲賀町だが隣の集落)の庶家で、佐治越前守為継の三男が伊佐野を領して、伊佐野上野介為綱と名乗ったことに始まるという。

同名中」とは惣領家が突出した実力をもつのではなく、苗字を同じくする一族が互いに均衡した実力をもって形成された組織である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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嶬峨(ぎが)西城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月04日 | 平山城

別 名:嶬峨山城

所在地:甲賀市水口町嶬峨 map:http://yahoo.jp/TmYmfE

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:山城

築城者:儀俄越前守

築城期:室町期

目標地:八坂神社、千光寺

訪請日:2014.5.3

歴  史

 嶬峨城・嶬峨山城は、室町時代に儀俄越前守築かれた。嶬峨城は儀俄氏の居城である。儀俄氏は、蒲生氏の分流権五郎俊光を祖とし、元久元年に観学院領儀俄庄の下司となり、儀俄氏となった。

 長享元年(1487)には、儀俄越前守は鈎の陣で戦功をたてたことにより、甲賀五十三家に数えられるようになった。永禄十一年(1568)に主家である観音寺城六角氏が信長に滅ぼされると、蒲生氏が信長の配下に属したために儀俄氏も安堵となるが、のちの天正十三年(1585)に、甲賀破儀の為に城を没収となり、滅亡していった。

『日本城郭体系11』新人物往来社刊参照

 儀俄氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、有力土豪であった。 

嶬峨集落の南東、滋賀ゴルフクラブの敷地の南側を丘陵の千光寺や八坂神社を目指す。
 

嵯峨集落から1km程に南の丘陵に、嶬峨西城と嶬峨城がある一帯(滋賀ゴルフアクセス路)は嵯峨城・山屋敷・備後城、そして江戸時代の堀田外記の陣屋」などもあるようです。遺構に遭遇できる。
 稲荷神社への石段をあがると堀田外記の名が彫られた碑がある。

その奥に踏み込み、10メートルほど行きますと堀切が現れる。目の前には土塁が視界をさえぎり、高さ3メートルほどの土塁の上にあがるとようやく全貌が解る。土塁が同じ高さを維持したまま郭全体を囲んでいる。そして外側には掘跡まで確認できる。見事な状態!

 城跡は単郭なので、南側には土塁が途切れていますが城門跡らしいです。郭内こそ木々が邪魔して視界がよくありませんが、郭に下りてみますと周囲を囲む土塁に圧倒されるが、往時は堅牢な城郭!

               

千光寺 滋賀県甲賀市水口町嵯峨1613

天平21年(749)僧行基の開基、左大臣橘諸兄の造営という。
 天正(1573-1592)の織田信長によって、兵火で全て焼失、正保2年(1645)現地に移転。その後再度の焼失と再建を経て、明治11年に本堂が再建される。
 古は塔頭に西住院始め、備前福寿など10坊があり、甲賀郡六大寺の一つに数えられる巨刹であった。

 千光寺 本堂と川枯寺の石柱 

   

八坂神社 水口町嶬峨に鎮座。
野洲川を渡って南へ進むと池があるが、その池のそばに境内。南へ行くと滋賀ゴルフ場(石川遼が初優勝した)がある。
近くに千光寺がある。水口町嶬峨には同名の八坂神社という小社があるのだが、こちらの方が大きくて有名なので間違うことはないと思う。

池の脇の参道を進むと鳥居があり、そばに「神輿御陵」と書かれた塚のようなものがあった。昔の神輿を埋めているのだろうか。

『滋賀県神社誌』には、境内社が三社記されており、天神社・熊野神社・川枯社とあるが『平成祭データ』には、天神社と熊野神社の二社のみが記され
熊野神社祭神の中に川枯姫命の名がある。ということは、本殿左手の境内社は、正式には熊野神社であり川枯社が合祀されているのだろう。

『式内社調査報告』によると、天神社と熊野神社は、明治七年、千光寺境内から移されたとあり、熊野神社に本殿の川枯姫命を分祀したのかもしれない。ということで、式内社・川枯神社の後継社は、本殿左の境内社なのだろう。

川枯姫命とは、饒速日命の孫・彦湯支命の妃で、出石心命の母神。出石心命の子は大水口宿禰で、水口町開拓の祖。

   千光寺              

参道 嶬峨西城(遠景・千光寺の背後)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


服部城 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月03日 | 平山城

 

土塁の手前に堀跡・・・新宮神社の森と服部城の間の横堀(自然地形カ)

服部城は、新宮神社の背後の丘陵に築かれている。 丘陵山一帯は新興住宅地となっているが、その北西隅にある小高い丘(もっとも一見雑木林と竹藪)が城跡。

 周囲を土塁と空堀で取り囲んだ方形単郭の居館形式の縄張りだ。 空堀と土塁などの遺構は良く残ってる。主郭部分は、以前は畑地として開削されいる。

 西側に大手として、開かれ(開削・破壊)・・・三方は土塁が残る

 城から南東約200mの所に新宮城と新宮支城があり、共に服部氏築城の城だ。 服部城と新宮2城での防衛を図ったと

所在地:滋賀県甲賀市甲南町新治字中出 map:http://yahoo.jp/1hQLj7

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:丘城

築城者:服部氏

築城期:室町期

目標地:新宮神社、甲南西保育園(甲南町新治)

訪請日:2014.5.3

歴  史

 服部城・新宮城は、室町時代に服部氏によって築かれた。 

服部氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、荘内三家に数えられた有力土豪であった。 

伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもある。

主郭

服部城は新宮神社の南西の丘陵に築かれている。 単郭の城で、南から東側に高土塁が巡り、北に一段高い段が着く。南東の土塁の外側は堀があったのかやや凹んでいる。北東側の薮の中に虎口が開いている。

 

新宮神社(甲南町新治)

 新宮神社の東の道を南へ進んで丘陵に上がり、最初の交差点を西へ曲がって突き当たりまで進む。この右奥が城跡。

丘陵山上一帯は新興住宅地となっているが、丘陵山一帯は新興住宅地の手前に「愛宕神社」が祀られ、背後に土塁が・・・熊笹で侵入不可。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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杉谷砦 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月03日 | 平山城

目標地:正福禅寺

所在地:滋賀県甲賀市甲南町杉谷小字東出 map:http://yahoo.jp/TOHK58

区 分:平山城(砦)

築城者:杉谷氏

築城期:室町期

城 主: 杉谷住善坊

 区 分:丘城

イメージ 2

 歴 史  

詳細不明。杉谷城の出城。

 現 状   
杉谷砦は正福寺の東側の尾根先にある。
南東背後に続く尾根を堀切で断ち、北側を除く三方を高土塁で覆っている。 堀切の北側には五輪塔の石材が散乱している。

東側は、山魂全体は「詰め城」をして、東側は土塁で囲い、西側は急な切岸状である。

 杉谷砦(出丸)山魂(詰め城)・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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北内貴城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月02日 | 平山城

別 名:比佐殿屋敷

所在地:甲賀市水口町北内貴字大谷・水口字下真海 map:http://yahoo.jp/IgNUVy

現 状:山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・横堀・土橋

区 分:平山城 (山頂)

築城者:美濃部茂忠

築城期:室町期 永禄年間(1558-70)

標 高:230m  比高差50m 

目 標:水口こどもの森(一番奥)駐車城・・・(要注意:閉門16:30)

訪城日:2014.5.1

別 称:比佐殿屋敷

所在地:甲賀市水口町北内貴字大谷・水口字下真海 map:http://yahoo.jp/IgNUVy

現 状:山林

遺 構:曲輪(二郭三曲輪)・ニ重土塁・障子堀・竪堀・土橋

区 分:平山城 (山頂)

築城者:美濃部茂忠

築城期:室町期 永禄年間(1558-70)

標高:240m  比高差50m 

目 標:水口こどもの森(一番奥)駐車城・・・(要注意:閉門16:30)

訪城日:2014.5.1・2018.2.10

お城の概要

近江では、珍しい「障子掘」・「二重土塁」の城

北内貴城は北内貴の東端、野洲川南岸に広がる山塊内に所在する。

現在西麓の谷部はみなくち総合公園として整備されており、公園を見下ろす格好で南北に延びる尾根筋の一画に築かれている。

曲輪Ⅰが主郭と見られ、甲賀に一般的な高い土塁に囲まれた方形区画で、急崖の北東辺以外は平地城館のような横堀が掘られている。南東辺に平虎口が開口し、土橋状の通路で曲輪Ⅱに至る。
  曲輪ⅡⅢ間の長い土塁と横堀である。南端は尾根筋を遮断する堀切に土橋が架かっていて、曲輪Ⅲ側には櫓台のような高まりが更に防御性を高めている。
曲輪Ⅱは北東辺以外を土塁で囲み、北隅付近に虎口が開口している。虎口の外側は、城道に付属する土塁が設けられる厳重さから、これが大手だと思われる。大手を下った先には幾つかの削平が確認できる。

 北内貴城は、他の甲賀の城のように集落背後とは離れた立地と、特徴的な縄張、特定の土豪(美濃部氏)の城と伝わる。

お城の歴史

 北内貴城は、永禄年間(1558-70)に美濃部茂忠が築いた。

茂忠の子治茂は、蒲生氏の女である比佐女を室に迎えたが、この比佐女がここに住したため「比佐殿屋敷」の別名が伝わる。

正式な登城口は判らないが、総合公園の駐車場からハイキングコースを南に進み、大きな溜池を越えてすぐの小池の東側から山中に入って、

切株を北側は、大手道のように土塁と城道が続く・・・!

半ば直登状態で尾根筋に出ると主郭の曲輪西側に辿り着く。(登城路は、雑木や笹竹を間伐、黄色荷造り紐で案内してくれる) 

主郭

副郭(Ⅱの郭)

郭Ⅲ

武者隠しカ?

土塁

登城口・・・北側

北内貴城・・・左側の山頂(遠景)・・・駐車場近くより

参考資料:『甲賀市誌 甲賀の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


山上城Ⅱ 近江国(甲賀・水口)

2014年05月01日 | 平山城

所在地 滋賀県甲賀市水口町山上 map:http://yahoo.jp/o3eDD2

区 分:丘陵城

標 高:230m  比高差30m

城主: 山上氏 

目標地:山上公民館・地蔵院

訪城日:2014.5.1

ハイキングコースから

歴  史  

詳細不明。

現 状

山上城IIは広徳寺のある山塊から舌状に東へ伸びた丘陵の一つに築かれている。谷を挟んで北側には山上城がある。

一般的に甲賀地方には方形に近く土塁を伴った曲輪を持つ城館が多いが、この山上城IIは堀も土塁も見あたらず、切岸加工と削平のみである。

山上城IIは東西二段の曲輪があり、東下から南側にかけて帯曲輪が巡らされているのみであるが、切岸や削平はしっかりしている。

又、城域、遺構のギリギリまで近世に開削され、訪城は楽ではあるが当時の城域は推測するしかない。 

登城口は2つある、民家の裏山

ここからは、北側に土塁があり、小郭を囲んでいる。

ハイキングコースからは、正面に土塁、右に城道は基壇ことに大石の虎口が

切岸の下の郭 大石で虎口大石で虎口

山上城Ⅱ(遠景)・・・旧信楽古道の若宮神社から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


杉谷城(杉谷屋敷) 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月01日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地;滋賀県甲賀市甲南町杉谷 map:http://yahoo.jp/FdWHM0

現 状:山林 

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切道

築城者::杉谷氏

築城期:戦国期

目 標;県道4号線杉谷南信号西すぐ、「オールマの資材置き場」

訪城日:2014.5.1

お城の概要

杉谷城は、杉谷川の北、杉谷集落のすぐ西側丘陵上に築かれていた。この丘陵は集落は県道4号線で分断され、新名神高速と県道4号線の間、杉谷南の信号を西すぐ民家が2戸建っており、道路はさんでその北は曲輪。登城する。

縄張は、東西に地割れのような堀が走り、それを境に南に2つ、北に3つ整然と曲輪が並ぶ。これは寺坊を城塞化したカ?。
 甲賀特有の一郭を要し、虎口は土塁を設け、最高所は櫓台カ?

東の虎口の土塁や堀切は不充分で、防御施設も非弱である、後世に、資材置き場に開削された為かも?。

『日本城郭体系 11』によりますと、

所在地は「甲賀郡甲南町杉谷」、創築年代は「天正二年(一五七四)」、形式は「山城」です。城の歴史は「杉谷屋敷は、甲南町大字杉谷の西方の山腹にある。採土のため半壊しているが、西面土塁(高さ四m)と、南北土塁が一部残存し、西面土塁は山麓を削り、城郭を独立させるために空堀がある。また、北面には、平坦地が確認でき、西側中央に井戸がある

お城の歴史

 甲賀五十三家の杉谷氏の城。杉谷氏は近江甲賀五十三家の一つ杉谷氏に関係する人物ともされる。

杉谷善住坊 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/c789cb0083a9cf5ec8fed9510d3ad326

元亀元年(1570)織田信長が「金ヶ崎の退き口」で京へ退却。その後京より岐阜へ戻る道として千草越えした際、善住坊は六角承禎(義賢)に依頼され信長を鉄砲で狙撃して暗殺を企て失敗した。善住坊は逃亡したが潜伏先の近江国高島郡で捕縛され、鋸挽きの刑に処せられた。

    

 

杉谷城土塁(笹)から

杉谷城(遠景)土塁(笹)左側から登城オールマの資材置き場の横に路上駐車

杉谷南の信号西ですぐ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、本城郭体系 11

本日も訪問、ありがとうございました。


平子城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月28日 | 平山城

(県道4号線のトンネル)この道は路巾が広いので、路上駐車(車は少ないがカーブで危険!)右手のコンコリート斜面に階段が、ここを登ります。

所在地:甲賀市水口町岩坂 map:http://yahoo.jp/YpNwEU
     旧:甲賀郡水口町
目標地点:

区 分:丘陵城   標高:   m 比高差:60m 
現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀 
築城期:室町期

城 主:衛藤氏
駐車位置からの主郭まで:岩坂集落から15分

訪城日:2014.4.25

尾根に向かって急坂の山道が付いている。比高20mほどで左に土塁が2区画、簡単に到達できる。10分ほどで城域に着きました。

甲賀五十三家・衛藤氏の居城。
養父神社奥の山中にあり、見事な土塁や土橋、空堀が残る。

郭内は雑木で詳細・撮影確認出来ず。歩いていくと道の脇に低い土塁がある。さらに進んで行くと虎口もあり、途中から浅いながらも堀も掘られている。土塁は郭をめぐるように盛られており、東側に回りこむとそこは低地となり、池のようなものがあった。天然の水堀であろうか。

甲賀の城は単郭方形の城が多いですが、方形とは言っても周囲には丸みがありますが、ここの城は近世の城のようにまさしく方形という感じに角がカクカクと曲がって空堀が巡っていま。

 東側は空堀の外側にも平削地になっている。武者溜まりの施設を併設していたようだが?。

郭内はさらに藪がきついんですが、南北に主郭を仕切る土塁がある。

歴  史

甲賀郡中惣の衛藤氏の城と伝える。

遺構規模が非常に小さい城というよりは屋敷カ!

 この部分にも簡素な城郭構造が存在しているということには間違いがない。

更に登ると自然の地形をいかした詰め城カ・櫓台カ・・・幸い森林伐採・間伐で明るく!

 南側谷筋・・・竪堀の様にも見えるが!

ここから詰城・櫓台域カ

http://yahoo.jp/l9YaDe

 

 

下ります。

北側も間伐で明るく

又、平子城は養父神社の背後の山中にあり、見事な土塁と堀が残されている。http://yahoo.jp/1tPDtO
城郭紹介は現地の訪城していないため詳しく説明できないが。
 興味のある方は現地を訪ねて頂きたい。比較的簡単に訪城することができる。

区 分:平山城
遺 構:空掘,土塁,曲輪

比高差:約30m

日本城郭大系には城郭遺構はないと記載されているが?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!



高山城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 平山城

所在地:甲賀市水口町高山 map:http://yahoo.jp/gYUTRO 

    旧:甲賀郡水口町

目標地点:笹山神社

区 分:山城  標高:230m 比高差:80m 

現 状:山林

遺 構:郭・横堀・竪堀

築城期:室町期

築城者:高山氏

駐車場から主郭までの所要時間:麓から10分

訪城日:2014.4.25

国道307の三大寺北の信号から県道4号線に入ります。600m先の左手の山が城址ですが、

ここから入城、西側へ10m程で城域です県道4号沿いの小公園西側に平削地・・・そして切岸が!主郭で三角点。最高所!

 山頂はけっこう広い平削地ですが城郭というより詰め城。この平削地を巡るように窪地が、空堀のようには見えず、武者隠しの遺構か?

東側は公園化され林道が付けられ、一部土塁が残る。



歴   史

高山氏の本城とされます。ここの高山氏は高山右近の先祖という言い伝えもあるようですが

★右近の先祖

 一説によると右近の先祖は、今の滋賀県甲賀郡水口町高山まで溯ることができると言う。ここに古くから藤原の姓を名乗る一族が居住し、後に高山と名乗るようになった。
 その子孫、高山源太左衛門は長亨の乱(1487年)に戦功があったため甲賀五三家の一つに数えられている。その高山家の支流が摂津の国高山(現在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた。甲賀五三家には、後の高槻城主で右近と親しかった和田惟政の先祖もいる事実はこの説を裏付けるものであろう。

 別の説では、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であった。越前守範重なる人物は武蔵野合戦(1352年)で将軍足利尊氏方に属して功があり、上野国那波郡のうちに所領を賜った。その子孫重利(右近の祖父)が摂津国茨木に移住したとされる。

 一方、摂津高山の豪族が、実権を握って領主になった際、当時の慣例により、その地名を自分の姓としたとも考えられる。

 摂津において高山の名が現れるのは、15世紀半ばである。高山氏は勝尾寺(現在も大阪府箕面市に現存する。)の代官であった。勝尾寺の記録によると、1458年に「高山入道」という代官がいた。この領地をめぐって、寺と高山氏の確執が続き、ついに高山氏が権力を握った。

遠景(東側より)

 

 

 

県道4号で分断された出丸!

高山集落の笹山神社の西の県道4号線沿い・・・東側

 

登城口の公園・県道4号越しの林(出丸カ?)

高山集落の笹山神社

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


山上城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 平山城

所在地:滋賀県甲賀市水口町山上字下り苗代・岩ノ谷 map:http://yahoo.jp/PDSHrJ

現  状::山林

区 分:平山城

遺 構:曲輪・土塁・堀切

築城者:山上氏

城 主:山上氏

標 高:210m  比高差10m

訪城日:2014.4.25

現  状

山上集落にある「休養センターやまびこ館」が目印。その南にあるグラウンドが山上館跡で、道路を挟んで東側にあるのが山上城。

山上城は、飯道山をピークとする山塊の南東麓の台地上に営まれる山上集落東端の独立丘上にあった。山上公民館南側の町民グラウンドには山上館があったと伝えられ、山上館から堀切を挟んた山中の集落寄りのピークに所在したのが山上城である。

登城にはグラウンド東側の路地を南方へ向かうと、途中に畑地内を上る山道が現れる。途中は高低差のない道を進み、上りだしたら間もなく屈曲して虎口aに辿り着く。
基本プランは東西約30m×南北約20mの単郭であるが、甲賀でよく見られる方形ではなく歪な楕円状である。南辺から西辺にかけては高さ約1.5mの土塁がめぐり、北側は地形が自然下降している。これは後世の破壊を受けた可能性があり、本来は四方に土塁がめぐっていたと考えるのが普通であろう。
東側の土塁は幅が広く約5m四方の平面が確保されていて、土塁というよりも曲輪の1つの様相である。
虎口aを出て城道が屈曲する東端b付近は土塁を組み合わせて堀切の役割を造っている。

山上の地は、信楽との境界付近に位置し、杣川を見下ろす台地上に所在することから、戦略上重要視されていたと考えられ、山上城・山上館をはじめ、さらに南方には山上Ⅰ・Ⅱ城も築かれていた。

歴 史  

詳細不明。

山上城は山上館の東隣にある丘陵に築かれている。

館との間は堀跡とも考えられる一段下がった道によって区画されているだけである。

基本的に単郭の城で、西から南面に対して土塁が巡り、東側にも一部土塁があり幅広になっている。南東部が開口して虎口になっており、一度右に折れて入る構造になっている。

東へ続く尾根に一条の空堀があり、そこから竹林となって平坦地と段が付いているが、堀や土塁などは見あたらない。 

土塁の上の平削地

山上城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


牛飼城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 平山城

甲賀の城より

住所 :甲賀市水口町牛飼字城山

現在の状態 :山林・八幡神社・信楽高原鐡道線路

遺構 :曲輪・土塁

形式 :丘城

築城者 :

有名城主 :

築城期:室町期

訪城日:2014.4.25

牛飼城は、旧信楽道沿いに密集した牛飼集落の北西に、細長く延びる丘陵上の北端付近に比定されている。

 

現在はその丘陵上に信楽高原鉄道が開通しているため、旧状を留めていないが、線路脇に高さ2~3mの土塁の痕跡が残っている。この土塁は方形居館の南西辺にあたると指摘され、それに伴う空堀の存在も伝承されている。

 

比定地とは外れているが、丘陵上の南西に所在する八幡神社などが鎮座する小公園付近には、複数の平坦地が存在する。これらも城遺構の可能性があるが、後世の改変なのかも知れない。

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました