旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

香りの記憶

2016年11月29日 18時29分39秒 | エッセイ
香りの記憶   

 海の匂いって何だろう。波打ち際で、太陽に熱せられて海草類が腐った匂いなのかな。風に乗ると随分遠くまで磯の香りが運ばれるが、もし腐敗臭だったとしても不快なものではない。森林の清々しさは、植物が呼吸して空気が浄化したためだろう。吸い込むと酸素が2割増しで肺に入って行くようだ。
 では密林はどんな匂い?本格的な密林は知らないが、ジャングルといえばタイとカンボジア国境での井戸掘りを思い出す。国境の幹線道路の脇に6輪駆動の車を停め、小さな川にかかる丸太を道具を手にして渡り、灌木の林に入る。普段はどうという事もない小川だが、大雨の後で濁った泥水が轟々と流れている時は恐かった。獣道程度は開けていて、上空から陽の光が差し込むから本物のジャングルとは言えない。
 15分ほどカンボジア領内を歩くと、手作りの道路に出くわし開けた広場に出る。ここが難民の暮らす村、バン・サンゲーの入り口だ。戦争でも無ければ、こんな何もない所に村など作らない。村に至る小道は雨季の為に足元一面に水溜まりが出来、その水は深い所で膝に達する。太陽に温められて生ぬるくてぬめぬめとした水だ。水溜まりの中で草が腐り、葉が腐り、死んだ虫が腐る。かすかに吐き気を催す腐臭が、水面から立ち上る。この水は不衛生だ。皆、蚊に刺された小さな穴から汚水が浸みこみ、皮膚が爛れていった。毎日の行きかえりに足が濡れるから皮膚の爛れは悪化して行く。
 痒いので手で掻くと傷口が広がり、軟膏を塗っても治らない。潰瘍は足全体に広がり、お尻の方まで痛痒くなっていった。あのまま乾季が来なかったら、相当ひどいことになっていたと思う。数年先まで痕が残った。村の住民も子供たちの栄養失調はともかく、足に出来たおでき状の穴が木の洞のように深く悪化したり、〝ものもらい〟にかかる少女がたくさんいた。村には大きな溜め池が掘ってあったが、新鮮な水は雨水しかなかったからな。浮遊する対人地雷に怯え、張り付いてくるヒルをライターで剥がすジャングルのぬかるみ道。熱せられた水溜まりと、その中で溶けて腐って行く草や葉、その甘い腐臭。自分にとってのジャングルのイメージはこれだ。
 病院といえば、消毒薬とかすかな便臭。夏の日のスイカの匂い、プーンと香る蚊取り線香、花火の煙。プールでは塩素の匂い。冬はおもちの焼ける香ばしい匂い。甘酒の匂い。食べ物ではラーメンから立ち上る湯気、うなぎ屋の店頭から漂う匂い、カレーの匂い。中華料理は匂いが強い。中華街を歩くと様々な香りが店先から漂う。中華饅の湯気が食欲をそそる。
 アジアの市場の匂いは強烈だ。肉も魚もむき出しで、市場に屋根はあっても大気温は30℃もあるから強烈に匂う。採れたての野菜も花も強い匂いを放ち、香辛料の売り場では目まで痛くなる。麺類等の屋台も加わって独特な匂いのハーモニーに襲われる。あの渾然一体とした空気が好きだ。
 匂いの元は微細な粒だという。子供の頃、田舎道で車の窓から急に飛び込んでくる「田舎の香水」肥え溜めの匂いも、うんこの極小つぶを鼻から吸収しているのかと思うと、なんだかなー。
 雨の降り始めに地面から立ち上る匂い、秋の日のススキが原の風の匂い、小学校の匂い、子供の放つカビくさいような匂い、おばあちゃんの匂い、赤ちゃんの匂い。縁日では焼きそば、お好み焼き、タコ焼き、ゲソ焼き、そして焼きとうもろこし。ソースの香りと醤油の焦げた香り。香りに釣られて買って見て毎回後悔する。期待したほど美味くはないのだ。
 香りから引き出される記憶は尽きない。様々な匂いの記憶のストックは、これからも増えて行くだろう。貴方も開けてみたら、記憶の匂いの引き出しを。

(良い香り)
シャンプー、石鹸、マツタケ、野蒜、花、焼き立てのパン、炊きたてのご飯、美女の汗、菊、梅の花、薔薇、日本酒、梅酒、ウィスキー、ステーキ、焼き肉、お茶、コーヒー、チャイ、天日に干した布団、コンブ出汁、味噌、八丁味噌、鰹節、味噌汁、わかめ汁、コーンスープ、ウニ丼、りんご、レモン、柑橘類、サラミ、蜂蜜、バター、焼き芋、炊きたてのご飯。

(悪い香り)
ドリアン、カエル、ダンゴ虫、オキアミ、メゴチ、おなら、反吐、排気ガス、ゴムの焼けた時、生渇きの洗濯もの、よっぱらいの吐く息、はき古した靴下。
おっさんの汗、手垢のついた古いお札、獣の糞、鶏小屋、火葬場の煙、どぶ、腐敗臭。

(どちらとも言えない香り)
グリース、納豆、くさや、硫黄、ニンニク、沈丁花、ユリの花、お香、線香、パクチ(コリアンダー)、魚の缶詰、チーズ、ドクターペッパー、エンジンオイル、図書館、馬、牛、象、カニ、ネギ、コーラ、茹で卵。



第一印象

2016年11月26日 18時26分57秒 | エッセイ
第一印象   

 年を経て利口になったことが一つある。人と始めて会って最初に抱いた印象が、大きく外れることが少なくなった。学生の時は、インド旅行等の例外は除いてそんなに悪意のある人物と出会うことがなかった。それでも最初からテンションが高くて調子の良い男に簡単に乗せられて、後で激しく後悔した事はあった。
 社会に出ると、最初から騙してやろう、食いものにしてやる、と接してくる人間(大抵は男)がいて驚いた。そんな悪は案外、外面がすこぶる良かったりする。逆に最初に会った時の印象が極端に悪い奴と、時間をかけて親しい友人になったりもした。人は見かけでは分からん。でも最初からあまりに調子が良いのは、警戒するにこしたことはない。
 最初の初任給をだまし取られた。5万円貸して、すぐ返すから。手伝いで仕事に来ていた男に貸した。車の運転などで結構世話になっていたし、悪い奴には見えなかった。催促すると2万円だけ返してきた。勤務地が離れ、暫くぶりに本社に帰ると奴は辞めていた。直ぐに自宅に電話した。「君は誰だね、息子のことはワシは知らん。」「お父さんですか、すみません。」焦った。しかし後で考えるとあの声は若すぎる。本人だったに違いない。また直ぐに地方出張になり、結局3万円盗られた。初任給もらったら、少しでも親に渡すものよ、と母親に怒られた。くそ、サギ野郎め、社会人初月に騙しやがって。
 中国に商売に行って、向こうで知り合った好青年はこう言った。「自分には兄弟がいません。貴方のことをお兄さんと思って宜しいですか?」こう言われて自分はグっと構え、一気に100m下がった。「こいつ、会ったばかりなのに何を考えているんだろう。何か意図を持って言っているのか。」こう疑う結構嫌な性格になった。結局その青年とは二度と会わなかったから、案外本心だったのかもしれない、ゴメンね。
 今は最初から判断を下さないようにしている。「随分と無口だこと。結構中身のある奴なのかもね。」「こんな風に最初から馬鹿丁寧なのは、今までの経験からしたらろくなことはないが、まあ判断するのはもう少し待とう。」余裕が出てきたのか、激しい商売の場にいないからなのか。
 ただこんな事を書いていると、想像を上回る達者な役者に出会ってコロっと騙されるかもしれない。人との出会いは恐ろしくも面白い。


香料の話

2016年11月26日 18時26分33秒 | エッセイ
香料の話   

 香料の話し、といっても胡椒にナツメグや丁子、大航海時代という展開ではない。胡椒なら香辛料の話と書く。クレオパトラが迫りくるローマ軍に捕まる前に、コブラに我が身を噛ませて死んだ都アレキサンドリア。アレキサンダー大王が紀元前332年に築いた100万人都市、そこは「世界の結び目」と呼ばれ70万冊の蔵書を持つ図書館があった。その旧市街は地震によって海底に沈んだ。浅海の底に累々と横たわる石造遺物を引き上げた展覧会が、以前パシフィコ横浜で開かれた。入場料金が確か2,500円で、うーん元を取ったかどうか微妙な内容の展覧会であった。
 その展覧会の出口近くに、プラスチックの小箱を開けて匂いを嗅ぐ展示物があった。小箱は2つで、1つは乳香、もう1つは没薬だったかよく覚えていない。乳香は、あれっ遠い昔にこれと同じ匂いを嗅いだことがあるような無いような。お母さんのおっぱいの匂い?明らかに違うもう一つの方も、こんなもんかといった匂いだった。ようするによく分からない。例えばドクダミや白檀の扇子のように、これかといった強烈な記憶にはならなかった。多数の来館者が立て続けに開け閉めするので、匂いが薄れたのかもしれない。
 没薬といえば、イエス誕生の時ベツレヘムの馬小屋を東方の三博士が訪ねて祝福する逸話があるね。極めてオリエンタルなシーンだ。三博士が持参して母マリアに手渡したのが、黄金・没薬そして乳香だ。貧乏なマリアに没薬や乳香なんぞ渡してどうするんだろう。何回分の量か知らないが、火にくべて香りを楽しむのかな。何かしら象徴的な意味でもあるんだろうか。乳香は古代では黄金に匹敵する高価な香料だという。乳香と聞くと、ソロモン王に会う為に華麗な隊商を連ねて沙漠を渡るシバの女王を思い浮かべる。そして何故かせつなくなる。別に悲しい物語ではないのに。

*東方の三博士:新世紀エヴァンゲリオンのファンなら知っているはず。東方から来た三博士とは以下の三人。ゾロアスター教と関係があるとも云う。
・メルキオール:黄金持参、王権の象徴、青年の姿の賢者。
・バルタザール:乳香持参、神性の象徴、壮年の姿の賢者。
・カスパール : 没薬持参、将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者。
 この三博士は実に不思議な存在だ。例えて言うなら、キリスト教的でない。
カトリックではこの名前になっているが、アルメニア教会やシリア教会では別の名前だ。ちょっと記しておこう。
シリアでは、ラルヴァンダード・ホルミスダス・グシュナサフ。アルメニアでは、カグファ・バダダハリダ・バダディルマ。エチオピア正教会では、
ホル・カルスダン・バサナテルとなる。益々不思議な感じだ。ちょっと掘り下げようか。

 現代のトレジャーハンター、『秘境アジア骨董仕入れ旅、上下(講談社+α文庫)』の著者(島津法樹氏)は乳香を仕入れにイエメンに向かう。迷路のようなサヌアの市場で、香料を扱う一角に行き、身振り手振りで乳香を買おうとするがうまく行かない。ここで分かったのだが、乳香の木が人工栽培されていて値崩れし、品質もマチマチなのだ。骨董屋の彼も香料の良し悪しは分からない。そこで彼は香料屋の壁一面の棚を、ハシゴを使って片端から開け、その一つに懐かしい香りを見つける。伽羅の匂いだ。
 香料市場で彼は大奮闘し、全ての店の伽羅を集めて買いたたく。市場の商人はアラビア数字が読めない。米ドル札を数字ではなく絵がらで覚えているのだ。ムスリム商人との丁丁発止の値段交渉の末、大小様々な伽羅を大量に買い、伽羅の匂いがプンプンするトランクで通関を通って帰国する。この人は骨董以外に隕石とかも買ったりする。
 話しがそれた。乳香と没薬について調べてみよう。

○没薬(もつやく)
 ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属(ミルラノキ属)の各種樹木から分泌される、赤褐色の植物性ゴム樹脂。外国語の転写からミルラとも呼ばれる。没薬樹はスーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生する。起源はアフリカである。古くから香として焚いて使用された。殺菌作用を持つ。鎮静薬、鎮痛薬としても使用された。またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使われた。ミイラの語源はミルラから来ているという説もある。聖書にも没薬の記載が多く見られる。出エジプト記には聖所を清める香の調合に出てくる。没薬は医師が薬として使用していたことから、救世主を象徴するとも云う。イエス・キリストの埋葬の場面でも遺体とともに没薬を含む香料が埋葬された。

○乳香(にゅうこう)
 ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される樹脂。ボスウェリア属の樹木はオマーン、イエメンなどのアラビア半島南部、ソマリア、エチオピア、ケニア、エジプトなどの東アフリカ、インドに自生する。これらの樹皮に傷つけると樹脂が分泌され、空気に触れて固化する。1-2週間かけて乳白色~橙色の涙滴状の塊となったものを採集する。乳香の名は、その乳白色の色に由来する。古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし、または香水などに使用する。
樹脂の性質は樹木の種類や産地によって大きく異なる。樹木は栽培して増やすことが困難で、これらの自生地の特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともある。現在良質とされるものの生産は主にオマーンで行われている。しかし乱獲、乱開発、火災、虫害、農地の拡張などで収穫は急速に減少している。今後は50年で90%減少するという研究もあり、絶滅が危惧されている。
漢方薬としては鎮痛・止血・筋肉の攣縮攣急の緩和などの効用がある。乳香は数千年に渡り宗教に利用されてきた。リラクセーションや瞑想に効果があるようだ。また乳香は紀元前40世紀(6千年前)にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されている。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていた。古代のユダヤ人も同様で、聖書に記述がみられる。キリスト教正教会では、古代から現代に至るまで香炉で乳香を頻繁に焚いて用いる。振り香炉にも乳香が使われる。そうか、ロシア正教会のミサで大坊主の前を若い奴が香炉を左右に振って盛んに煙を出しているが、あれは乳香だったのか。あんなにふんだんに焚いたら、相当な量が必要になるな。あの匂いを嗅ぐと、信者は陶酔して敬虔な気持ちになる訳だ。嗚呼どんな匂いなんだろう。ニコライ堂に行けば嗅げるかな。
ではもう一つ二つ植物性の香料を紹介し、次に動物性のものを見てみよう。まずは伽羅(きゃら)だな。サヌアの話しで出てきたし。
 あのね、伽羅といえばずっと疑問を持ったままで放っておいたことがある。島根県伯耆大山(だいせん)に生えるダイセンキャラボク。これが伽羅と関係があるのか無いのか。結論から言うと香料の伽羅とは何の関係も無かった。キャラボクの材が香木の伽羅に似ているから名がついたのだが、キャラボクが伽羅に成る訳ではない。全くの別種でした。
 次に間違える人は少ないと思うが、沈香(伽羅)がラテン語でaloeと呼ばれることからアロエが香木であるという誤解が生まれたが、これも全くの別物である。

○沈香:代表的な香木の一つ。高品質なものは伽羅と呼ばれる。
 東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属の植物である沈香木などが、風雨や病気、害虫などによって自分の木部を侵されたとき、防御策としてダメージ部の樹脂を分泌、蓄積する。それを乾燥させ、木部を削り取ったものが沈香である。原木は比重0.4と非常に軽いが、樹脂の沈着によって比重が増し水に沈むようになる。
 幹、花、葉ともに無香だが、熱すると独特の芳香を放つ。同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違う。沈香は香りの種類、産地などを手掛かりにしていくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものを伽羅と呼ぶ。
 シャム沈香はインドシナ半島産で、香りの甘みが特徴。タニ沈香はインドネシア産で香りの苦みが特徴。「タニ」は「パタニ王国」のことで、マレー半島にあった王朝。強壮、鎮静などの効果ある生薬でもある。
 日本では推古天皇3年(595年)に淡路島に香木が漂着したという記録が残っている。瀬戸内海にまで東南アジアの香木がはるばる流れ着いたのか?
この漂着木片を火にくべたら良い香りがしたため、朝廷に献上したという。(日本書記)
 東大寺正倉院に収蔵されている香木は、蘭奢待(らんじゃたい)という。長さ156cm、最大径43cm、重さ11.6kgで天下第一の名香と謳われる。その香は「古めきしずか」と言われ、紅沈香と並び時の権力者に重宝された。しかし正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」はその文字の中に〝東・大・寺〟の名を隠した雅名なのだそうだ。樹脂化しておらず香としての質に劣る中心部は、ノミで削られ中空になっている。これは自然に朽ちた洞ではない。
 織田信長が朝廷に無理を言って蘭奢待を2度に渡って削り取らせた逸話がある。自分の好きなエピソードだ。これまで切り取った権力者は、足利義満・義教・義政、土岐頼武、織田信長と明治天皇だ。しかし2006年の調査では、合わせて38ヶ所の切り取り痕があることが判明した。切り口の濃淡から時代に幅があり、同じ場所から切り取られることもあるので、今までに50回以上は切り取られたと推定される。最初に採取した人、移送時に手にした人、管理していた東大寺の坊主などが切り取ったらしい。坊主、いい金になっただろうな。

○ 白檀(ビャクダン) : 英名 Sandalwood
 ビャクダン科の半寄生の熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴。原産地はインド。紀元前5世紀頃には高貴な香木として使われていた。産出国はインドの他にインドネシア、オーストラリアなど。他にも太平洋諸島に広く分布する。インドのマイソール地方で産する白檀は最も高品質とされ、老山白檀という別称で呼ばれる。
 初めは独立して生育するが、後に吸盤で寄主の根に寄生する半寄生植物。宿主となる植物は140種以上。雌雄異株で周りに植物がないと生育しないことから、栽培は大変困難で年々入手が難しくなっている。芳香は樹脂分ではなく、精油分に由来する。白檀は燃やすのではなく香木としてそのまま用いられる。熱を加えなくても芳香を放つため仏像、仏具、扇子などに利用される。また蒸留して採られる白檀オイルの主成分サンタロールは薬用にも広く利用される。
こうしてみると、植物性の香りの良いものは樹木の膿だったり、寄生植物だったりとどこか不具的で無気味だ。ところが次に紹介する動物性香料はその奇形度がさらに増す。
 動物性の香料は主として以下の4つである。
①龍涎香(アンバーグリス:Ambergris) ② 麝香(ムスク:musk)③ 霊猫香(シベット:civet) ④ 海狸香(カストリウム:castoreum)

○ 龍涎香(りゅうぜんこう、アンバーグリス)
 マッコウクジラの腸内に発生する結石。灰色、琥珀色、黒色などの様々な色をした大理石状の模様を持つ蝋状の固体で芳香がある。龍涎香にはマッコウクジラ(「龍涎香」が抹香に似た香りを持っているためについた生物名)の主な食料であるタコやイカの硬い嘴(いわゆるカラストンビ)が含まれていることが多い。そのため消化出来なかったエサを、分泌物によって結石化させて排泄したものではないかと考えられるが、不明な点が多い。排泄された龍涎香は、水よりも比重が軽いため海面に浮き、海岸に流れ着く。商業捕鯨が行われる以前は、このような偶然によってしか入手できず、非常に高価な天然香料であった。捕鯨が禁止された現在、昔と同じく偶然によってしか入手出来なくなった。
 龍涎香が始めて香料として使用されたのは7世紀ごろのアラビアであった。龍涎香という名は、良い香りと他の自然物には無い色と形から『龍のよだれが固まったもの』と中国で考えられたから。日本では室町時代の文書にこの語が残っている。漢方薬としても使われた。なおメルヴィルの『白鯨』に、マッコウクジラを解体して龍涎香を入手する様子が描写されているそうだ。また『無人島に生きる十六人』(新潮文庫)は実に面白いノンフクションで、古本屋には必ず置いてある本だが、この中にも龍涎香のことが書かれているそうだ。覚えていないな。海亀をたくさん捕獲して、ひっくり返して捕まえておくのは楽しかったが。

○ 麝香(じゃこう、ムスク)
 麝香は、雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料で、生薬の一種。主な用途は香料と薬の原料。麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられてきた。アラビアではコーランに記載があり、ヨーロッパへは12世紀にはアラビアから実物が伝わっている。甘く粉っぽい香り(どんなのだ?)がし、香水の香りを長く持続させる効果を持つ。
 また興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用を持ち、宇津救命丸、求心といった家庭薬にも使用されている。以前は雄のジャコウジカを殺して香嚢(睾丸ではない。包皮腺の変化したもの。)を切り取って乾燥して得ていた。一つの香嚢から30グラム程度の麝香が採れる。ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地だが、年間1万~5万頭を殺し続けたため、絶滅に瀕しワシントン条約で商取引を禁止された。現在中国では、ジャコウジカを飼育して麻酔で眠らせて採取しているが、量は少なく宇津救命丸は条約発効前のストックを使っているそうだ。
 良い香りを持つものに麝香又はムスクの名を冠することがある。タチジャコウソウ(立ち麝香草、タイムのこと)は分かるが、マスクメロンがそうだったとは。

○霊猫香(れいびょうこう、シベット)
 シベットとも呼ばれるジャコウネコの分泌物。ジャコウネコは東南アジアと北東アフリカに分布しているが、霊猫香の採取が行われているのはエチオピアのみ。ジャコウネコを飼育して9日ごとに尾の近くにある香嚢(会陰腺)にヘラを差しこんで、ペースト状の分泌物を掻き出す。一度の採取で10グラム程度の霊猫香が得られる。
 ジャコウネコは凶暴な性格で人になつかないというが、こんな事をしょっちゅうされていたら怒って当然だ。霊猫香はつけた香水を長持ちさせる保留効果があり。また花の香りをより花らしくさせる。漢方薬としても使われる。また古代、媚薬として使われクレオパトラが体に塗っていたそうだ。霊猫香はスカトールを含有しているので糞様臭を持つが、薄めるとジャスミンを思わせる花様の香りに変わる。悪臭と妙なる香りは紙一重。


○霊猫香(れいびょうこう、シベット)
 シベットとも呼ばれるジャコウネコの分泌物。ジャコウネコは東南アジアと北東アフリカに分布しているが、霊猫香の採取が行われているのはエチオピアのみ。ジャコウネコを飼育して9日ごとに尾の近くにある香嚢(会陰腺)にヘラを差しこんで、ペースト状の分泌物を掻き出す。一度の採取で10グラム程度の霊猫香が得られる。
 ジャコウネコは凶暴な性格で人になつかないというが、こんな事をしょっちゅうされていたら怒って当然だ。霊猫香はつけた香水を長持ちさせる保留効果があり。また花の香りをより花らしくさせる。漢方薬としても使われる。また古代、媚薬として使われクレオパトラが体に塗っていたそうだ。霊猫香はスカトールを含有しているので糞様臭を持つが、薄めるとジャスミンを思わせる花様の香りに変わる。悪臭と妙なる香りは紙一重。

○海狸香(かいりこう、カストリウム)
 ビーバーの持つ香嚢から得られる香料。これは知らなかった。ビーバーはオス・メスともに肛門の近くに一対の香嚢を持っていて、内部には黄褐色の強い臭気を持つクリーム状の分泌物が含まれている。これを乾燥させて粉末状にしたものが海狸香。これはビーバーが毛皮を獲るために盛んに捕獲されたアメリカで、捕獲罠に塗る誘引剤として使われていたものを、香水用素材として見出されたのだ。
 19世紀以降の新しい香料である。レザーノートと呼ばれる皮革様の香りを出すために、香水に使用された。そう言えばゴムフェチ、レザーフェチとかは匂いに興奮するんだよね。現在はワシントン条約により取引は禁止されている。

 じゃあジャコウ牛、ジャコウネズミ、ジャコウアゲハはどうよ。ネズミや蝶はともかく、牛なら大量に麝香が収穫出来そうだ。ジャコウ牛は雄が発情の一時期だけ匂いを発するそうだ。ジャコウ牛から麝香を採ることはない。
 これで香料の話を終わるが、食に対する人類の飽くなき追求だけではなく、香りにも貪欲なことが分かってもらえたかな。


沖縄の空手   

2016年11月21日 17時07分48秒 | エッセイ
沖縄の空手   

 学生の時、空手を習っていて不思議に思ったことがある。空手の突き、パンチはどうしてこうも直線的で不自由な形なんだろう。このパンチは素手で拳を使う場合は効果があるが、もしグローブを嵌めたら全く効かない。フックやアッパーは相手の死角を突いて有効だし、動きも自然だ。何故空手はこうも窮屈なのか。
 前に出した脚を直角に曲げ、後ろ足の膝をビシっと伸ばした姿勢から正確にバシっと繰り出す前蹴りは、届く距離が長く破壊力は抜群だ。正しい距離で当れば内臓破裂は間違いない。ところが格闘技の試合、キックボクシングでもK1でも前蹴りは使われない。使ってもせいぜい距離を取るためだけだ。まあ見ていれば分かる。あのように両者の重心が高く、立って動いている状態では前蹴りは効かない。足刀を使う横蹴りも同様だ。やはり廻し蹴りか後ろ廻し蹴り、接近戦ではひざ蹴りになるのはよく分かる。
 だいたい前蹴りは、足の指をグっと反って親指の付け根を相手の下腹部(まれにアゴ)に当てる。では靴を履いていたらどうするんだ。靴の中では指を反らすことが出来ない。カンフーシューズなら布製なので、かなり自由に指が反るがいつも履いている訳にはいかない。自分は茶帯の時の試合で前蹴りを上から払われて足の親指を骨折した。しっかりと指を反らせていたのに。
 沖縄の古流の空手には、蹴りは前蹴りしかないそうだ。突きは拳を顔面又は腹部に当てる訳だが、六尺棒を持って繰り出す形と突きは同じ形だそうだ。つまりは刀を持った相手を想定しているのだ。一瞬の真剣勝負を考えている。毛ほども遅れたら、真っ二つにされる。よって最大限のダメージを与えることに何のためらいもない。そのため拳を巻き藁等固い物に当てて鍛える。人間の顔は骨に貼り付いているので、意外と固い。中途半端に当てたり、角度がずれたりしたら、指や手首を痛めたり骨折する恐れがある。
 古流の空手の型は一見、大げさなほど足を大きく開いて腰をグっと落としている。不自然に見えるが、あれが実戦的なんだ。相手は刀を蜻蛉に構えている。勝負は一撃、一瞬だ。刀を振り下ろしてくる敵に廻し蹴りや廻すパンチはあり得ない。間に合わないし届かない。一瞬早く当てるには飛び込んでの上段(顔面)突きか、電光石火の前蹴りしかない。相手は刀だ。間合いは遠い。
 しかし敵が上段から刀を振り下ろすと何故分かる?切り上げ切り下げ胴払い、どのような刀技を繰り出すかわからないじゃないか。ところが琉球の空手(唐手)家の相手はいつでも上段から振りおろしてくるんだな。それが薩摩ジゲン流だからだ。この事は後で説明しよう。
 あと棒術の型の中に、海岸の砂を棒の先端でスっと掬いあげて敵の目にかける技がある。また今は身体を鍛える型としているが、両足を大きく開いて腰を落とし、左右真横に向いて戦う型がある。これは元来、田んぼのあぜ道の上で左右から同時に迫る敵と戦う際の型だった。21世紀の都会生活とはかけ離れているが、当時は極めて実戦的な動きだったのだろう。こういうと江戸時代の琉球では、薩摩の侍に対してしょっちゅう素手や農機具を持ってゲリラ的に襲撃をしていたのか、と思うかもしれない。そんなことはなかった。薩摩の武士自体、琉球に駐在していたのはわずか数十人で、王宮とかには滅多に入らなかったようだ。間接統治で村民との接触も多くはなかった。しかし琉球人の知るヤマトンチューの剣術と云えばジゲン流だった。琉球人の中にも薩摩に住んで剣術を学んだ者がいた。当時の薩摩に北辰一刀流や鏡新明智流の使い手はいない。一部に直心影流や浅山一伝流を修行する者もいたが、大半の藩士は示現(ジゲン)流だ。琉球士族の間にも示現流剣術が普及していた。
 ジゲン流といっても示現流と薬丸自顕(やくまるじげん)流の二つがあるのだが、薬丸自顕流は示現流から出た流派なので、両者は良く似ている。両派は分家の佐土原藩を除き、藩外の者に伝授することを厳しく禁じた御留流であった。一部佐土原藩経由で延岡藩に伝わり、延岡藩が常陸の笠間に転封になり関東に伝わったが、大きくは普及していない。
 示現流の特徴は、『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』で、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。特に薬丸自顕流の斬り込みは凄まじい。幕末薩摩人に斬られた遺体は、頭と顔が両断されて誰だか判別が出来ず、他藩の者を震え上がらせた。例え一撃を食い止めても自身の刀の鍔や峰が額に食いこんで絶命するケースもあった。西南戦争では、官軍兵の持つ小銃をぶった切った上に頭に斬り込んだ。
 新撰組局長の近藤勇は隊士に、「薩摩者と勝負する時は初太刀を外せ」と指示した。しかし薬丸自顕流(示現流)の初太刀を外すことは、相当の手だれでも難しい。ここで誤ったイメージが広がった。「薩摩の示現流は初太刀をかわせば素人同然」そんな事はない。少なくとも示現流には連続技がある。上級武士が多く学んだ示現流は、複雑に体系化され技の数も多くて習得は容易ではない。
 薬丸自顕流は、元々平安時代に伴氏家伝の「野太刀の技」が源流とされ、薬丸氏によって代々伝えられたが、東郷氏の示現流の門下となって示現流を支えた。江戸後期になって示現流を離れて独立し、薬丸自顕流として藩の剣術師範家として認められた。薬丸流は難解な精神論を説く示現流と異なり、郷中教育に取り入れられて下級藩士を中心に伝わった。示現流を特化、単純化したような所があり、貧乏な郷士でも木刀一本で自習することが出来た。
 ジゲン流(両者を併せて)は江戸や上方の剣法と違い、面胴をつけ袋竹刀を用いる稽古はない。実戦を重んじて服装は問わず、稽古中の欠礼も構わない。ゆすの木の枝を適当な長さに切り、時間をかけて乾燥させた木刀を使う。蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる八相よりも刀を高く突きあげた構えで、立木に向かって気合と共に左右激しく撃ち下ろす『立木打ち(たてぎうち)』を行う。達人が立木打ちを行うと煙が出る。打つ要領は髪の毛一本でも早く、である。立木を何本も並べて飛びかかって次々に打つ稽古もある。掛け声は「エイ」だが、あまりに激しいため「キエーイ」という叫び声に似たものとなる。猿叫と呼ばれる。幕末の薩摩藩主、島津斉彬は薬丸自顕流の稽古を見て、「キチガイ剣法だ。」と吐き捨てた。
 また横に並べて縛った太い木材の山をひたすら早く重い木刀で叩き打つ。この稽古では凄い衝撃を手の内に受けるから、腰、手首と握力が鍛えられる。人や物を斬った際の強い衝撃を吸収することが出来るようになる。薬丸流は「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」先制攻撃、一撃必殺の剣術だ。抜刀術的な「抜き」も備え、「抜即斬」と称される神速の攻撃がその特徴だ。万一敵に先制攻撃を仕掛けられたら、斬られるより一瞬早く相手を斬る。もしくは
相手の攻撃を叩き落とすかで対応する。防御のための技は一切無い。
 生麦事件で奈良原喜左衛門は、背の高い西洋馬に乗るリチャードソンを飛び上がって斬り死に至らしめた。他に西南戦争で西郷軍に組した県令、大山綱良は藩中随一の使い手といわれ、他に桐野利秋(人斬り半次郎)、篠原国幹、池上四郎、辺見十郎太。政府側では西郷従道(隆盛の弟)、東郷平八郎、野津道貫。桜田門外の変で井伊直xxを斬った有村次左衛門も薬丸流の使い手であった。琉球の空手家はそんな手だれと戦うことを想定して技を磨いたのだ。どちらが一瞬早く届くか、命のやり取りに華麗な大技は通用しないのが分かってもらえたかな。
 とはいえ薬丸自顕流の使い手と対峙することは、現代ではあり得ない。相手を殺すのではなく抑え込む。戦闘力を奪う。素手同士で喧嘩慣れした相手に負けない。格闘に臨んで気後れしない。技や心構えが変わって来てもおかしくはないと思う。それこそが現代の実戦的というものだ。さて沖縄空手の発祥は薩摩藩の琉球征服と切り離せない。徹底した刀狩りが琉球で行われたのかどうかは分からないが、一般の庶民は刀を持てなかったことだろう。そこで棒術やヌンチャク(脱穀の道具)、トュンファー(臼を廻す取っ手)等の木製武器を使用する技が発展した。
 
 薩摩藩の琉球征服を見てみよう。侵略が行われたのは1,609年、関ヶ原の合戦のわずか9年後のことだ。当時の薩摩藩は一枚岩ではなかった。関ヶ原で「島津の退き口」として全国に薩摩武士の武勇を轟かせた義弘、兄の義久と忠恒(後の家久、義久の養子で義弘の実子)の三勢力が政策を巡って対立していた。親秀吉派の義弘、独立派の義久、反秀吉派の忠恒という対立の構図があり、義弘は朝鮮出兵でも関ヶ原でも過小な兵力しか本国から得ることが出来なかった。
 朝鮮出兵は明を宗主国と仰ぐ琉球にとっては、迷惑以外の何ものでもなかった。豊臣秀吉からは一方的に属国扱いを受け、朝鮮への出兵命令・軍役・兵糧の徴発を押しつけられた。琉球にとっては武力による恫喝に屈したのだが、明からはその去就を疑われた。中継貿易で栄えた琉球王国は1560年代に入ると衰退し始めた。原因は倭寇の跳粱、西欧諸国のアジア進出、明国の海禁政策の緩和、東南アジア諸国の台頭などである。日琉貿易も島津氏の台頭により従属的な立場になっていった。
 また琉球王国の外交・航海実務を担ってきた渡来中国人の職能集団「閩人(久米)三十六姓」も、交易の衰退とともに衰え、外交・航海能力が大幅に低下した。明からの船舶の提供が途絶えると、長距離の外洋航海に耐える船がほとんど残っていないまでになり、自ずと遭難・漂着事故が増加した。1588年秀吉が周辺諸国に武力征服を明言して、琉球にも服属要求が発せられた。
 時も時、尚永王が死去する。王には後継者がおらず、もう一つの王統から尚寧が琉球王に迎えられた。琉球王は、明国の冊封を受けて初めて王として正当性を得ることが出来る。しかし文禄・慶長の役と続き明国は琉球を日本の同盟軍扱いし交流を拒絶した。琉球の再三に渡る弁明と懇願によって、やっと冊封使が明国から派遣されたのは1606年のことであった。貿易の不振によって国力は衰え、王室の求心力も低下していたが、念願の冊封使を迎え琉球は日本依存からの脱却、独立外交路線へと政策をシフトしていった。
 一方徳川家康はなかなか進まない日明講和の仲介を琉球に期待し、更に日明貿易の復活を目論んでいた。そのため琉球の漂着民を2度に渡って丁重に送還させたが、琉球は返礼を送らなかった。日本に対する不信感が消えなかったのだ。島津は家康の動きによって琉球権益から外されるのでは、との危機感を持った。また慢性的な財政危機に加え、幕府から「隠知行」11万8千石の指摘、江戸城普請のための運搬船300隻建造と財政的に追い詰められていた。分裂した三派閥の深刻な対立もあり、速やかに手を打たねば島津家の存続が危うい。
 そんな中奄美大島出兵計画を忠恒が出し、家康からついに許可を得た。しかし島津家内では奄美大島だけでなく、琉球出兵へと秘かに方針を変えていた。1609年3月、三千の島津軍が薩摩山川港から出港した。ところがこの島津軍は一枚岩ではなく、三派の政争が指揮官の間に引き継がれていた。そのため統一した軍事行動を取れなかった。通常このような遠征は失敗する。だが平和馴れした琉球軍は、薩摩の猛兵の敵ではなかった。
 琉球軍は総勢四千、那覇に三千、徳之島に一千を配置する。軍備は弓500、鉄炮200。一方の島津軍は鉄炮734挺、弓117張という数字が残っている。島津家では足軽だけでなく、指揮官(士族)も鉄炮を学び戦場において用いる。刀槍術に優れているだけではなく、火力に秀でた軍隊なのだ。島津軍はトカラ七島衆を道案内にして島伝いに侵攻してきたが、統制は取れず、いがみ合って軍功争いをした。それでも徳之島の琉球軍を鉄炮の一斉射撃で粉砕し、講和の道を探る琉球側の使節を無視して村々を放火、乱取り(掠奪)をして進んだ。那覇に主力を集めていたのに、敵軍が首里に直接来た不運も重なり、琉球は簡単に降伏した。一部の戦闘で琉球側の善戦はあったが、結局島津側の戦死者は100~200に過ぎなかった。
 島津軍によって尚寧王とその随行約百余名は、鹿児島から駿府城・江戸城へ連れて行かれたが、家康と秀忠は尚寧王を一国の君主として丁重に対応した。家康は明国の出方を危惧していたのだ。琉球使は道中王子が死去し、随行員の少なからぬ者が病に倒れた。島津は琉球の統治方針「掟十五カ条」を制定するが、これに唯一人謝名親方が断古反対して断首された。謝名親方は処刑直前、琉球救援の密書を明に渡すことを画策するが、すんでのところで回収され明へは渡らなかった。
 徳川はついに明とは講和出来なかったが、薩摩占領下の琉球はしだいに対明貿易を復活して行き、薩摩の経済に大きく寄与した。明は1644年に亡びるが、琉球の清との交易は明治になるまで続いた。鎖国下の日本で、琉球使節団は異国情緒を醸し出し、上方から江戸で大変な人気を呼んだ。薩摩は実質的に琉球を占領していたが、琉球が日本化することを禁じ、対外的に独立国として振る舞うよう指導した。名を棄てて実を取ったのだ。なかなかに巧妙なやり口である。


物の数え方 

2016年11月14日 17時04分26秒 | エッセイ
物の数え方   

 日本語は良く言えば奥ゆかしく、実態はかなり面倒くさい。缶詰を考えると、缶ジュースは一本、モモ缶なら一缶、空き缶一個。中身によって使い分ける。こんなん始めて日本語を覚える外国人にとっては嫌がらせだ。日本語ハラスメントだ。
 いくつも数え方がある物もある。例えば薬:服(ふく)匙(さじ)錠(じょう)、酒:樽(たる)献(こん)席(せき)。まあここいらは形状や量によって使い分けるよね。寺:堂(どう)寺(じ)宇(う)、船:艘(そう)杯(はい)隻(せき)、矢:本(ほん)筋(すじ)条(じょう)、刀:振(ふり)腰(こし)口(く)、手袋:双(そう)足(そく)組(くみ)、2つの呼び方なら山ほどある。3つ以上なら神は、柱・神・体・座・尊、「仏は神ではないずら。」「こら異教徒、唯一のアラーの他に神はなし。」ノーコメント。
 卵(料理の時は玉子)にもいろいろある。魚の卵は腹、卵巣は対になっているから一腹で2塊り、1つでよいなら片腹ちょーだい。イカ、タコ、カニは杯(はい)、でも生きているカニは匹(ひき)でないとおかしい。海に潜って「カニを一匹見つけた。」を「カニを一杯見つけた。」と云っては意味が違ってくる。地方によっては、食品・商品のカニを尾(び)で呼ぶ所もある。
 うさぎは羽(わ)で呼ぶ。だいたいウサギという言葉はよく分からない。中国語なら兎(う)だ。サギは何かね。耳が長いから鳥の仲間?坊さんが昔、食べてもよい鳥に見立てた?いろいろな説があるが、何故羽なのかはよく分かっていないらしい。
 猪は頭(とう)で蝶も頭(とう)なのね。キャベツは玉(たま)で白菜は株(かぶ)、ブドウは房(ふさ)。草花は枝(えだ)、木の葉は葉(よう)、花は輪(りん)か本(ほん)で、花びらは片(ひら)中々風流になってきた。
 墓も古墳も基(き)、遺骨は体(たい)、棺は基(き)だそうだ。「棺桶一丁」とは言わないのね。あとウニは壺(つぼ)で、絵馬も硯も体(たい)です。鏡は面(めん)、昆布は連(れん)、箪笥は何故か棹(さお)、枕は基(き)かよ。ようかんも棹(さお)か本(ほん)で山は座(ざ)さます。