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旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

原主水

2017年04月27日 11時53分20秒 | エッセイ
原主水

 原胤信(たねのぶ)、天正15年(1587年)~天和9年10年13日(1623年12月4日)。旗本。キリシタンで洗礼名はジョアン。*受領名が主水助であったため、原主水(もんど)の名で知られる。

*受領名(ずりょうめい):前近代の日本において、主に武家や神職などの通称(仮名)として用いられた、非公式な官職名のこと。

 千葉氏の筆頭重臣、原胤栄の孫として臼井城で生まれる。父は豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条方として失踪し(自害とも)臼井城は陥落した。名族出身である事から徳川家康により、小姓として召し出された。慶長5年(1600年)ごろ、主水はキリスト教の洗礼を受け、若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢された。キリスト教を信仰する切っ掛けを作ったのは、“ジュリアおたあ”だったという。
 二人とも家康の身辺にいたから、接点があっても不思議ではない。若い男女だから恋愛感情があったかもね。もしそうなら、おたあが家康の再三の妾になれ攻勢をことごとく拒絶したのも頷ける。しかし主水の入信は、その後を考えると大変厳しいものとなった。それは主水自身にも、おたあにとってもだ。これから300年弱続く江戸時代に、キリシタンの生き残る道はない。慶長17年(1612年)の岡本大八事件を契機に、江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧を始めた。この事件は後味が悪い。
 慶長14年(1609年)、マカオで有馬晴信の朱印船がポルトガル船と問題を起こし、晴信側の水夫60人ほどが殺された。詳細は省くが、ポルトガルの当事者が乗った船が長崎に来た時、晴信はこれに猛攻撃をかけて沈めてしまった。家康は、積極果敢なこの処置を大層喜んだ。そこで晴信は、龍造寺との度重なる争いで生じた失地を報償として回復したいと思い、家康の懐刀・本多正純の与力・岡本大八に仲立ちを頼んだ。
 大八は晴信と気心の知れたキリシタンで、今回のポルトガル船襲撃の目付け役として付いていた。晴信は大いに期待して何度も大八に金を渡し、その累計は6千両に達した。遊ぶ金としては大金過ぎる。この金がイエズス会に流れたという話しも出たが、噂の域を出ない。天性の詐欺師、大八は朱印状の偽造までやってのけた。主人の正純には何も言っていない。
 晴信が結果の遅れにしびれを切らして、正純に問い合わせたことから事件が発覚した。捕えられた大八は拷問を受け、あること無いことベラベラとしゃべった。全く軽率な男だ。こいつのおかげで、どれだけの人が迷惑を受けたと思う。この事件は、長崎奉行・長谷川藤広を巻き込み、いやな展開を見せる。長谷川藤広は癖のある人物で、強引な手法で商人らの反発を買っていた。ポルトガル船襲撃では晴信と協力したのだが、家康に命じられた香木の伽羅の買い付けを巡って晴信と対立し、不倶戴天の敵というほどに関係が悪化していた。
 藤広は後にキリシタン弾圧を強力に推進する。結局賄賂を受け取り朱印状を偽造した大八は、市中引き回しのうえ火刑。晴信は改易のうえ甲斐に流され、そこで処刑された。享年46。キリシタンなので切腹はせず斬首となった。晴信には、藤広殺害の計画があったとされたのだ。その藤広には、咎めは一切なかった。この事件を契機として、江戸幕府はキリシタンへの本格的な取り締まりを始める。大八が植え込んだキリシタンへの疑心が、取り締まりを厳しいものにした。
 後はあまり語りたくないな。棄教を拒んだジュリアおたあは島流しになり、主水は出奔して秘かに布教した。やがて主水は捕えられ、棄教を拒み激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指を全て切断、足の筋を切られた上で追放された。いくら戦国の気風が残っていたとはいえ、ここまでやるなら、いっそ殺せよ。家康は主水に裏切られた思いが強かったのだろう。でもやり過ぎだ、気分が悪い。
 主水はその後も、浅草のハンセン病患者の家を拠点にして不自由な体で布教を続けた。後に密告により捕えられる。宣教師ら47名とともに江戸市中引き回しの上、高輪の辻にて火刑に処された。死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べた。暗いなー。おたあがどれほど心を痛めたことか。
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ジュリアおたあ

2017年04月23日 11時43分35秒 | エッセイ
ジュリアおたあ

 ジュリアおたあ?誰、いつの人?安土桃山時代の朝鮮人女性だ。生没年不明、実名、家系共不明だ。実在した女性であることは、疑いの余地がない。出自が不明なのには訳がある。「おたあ」は戦乱の中(文禄・慶長の役)で、拾われた子だった。戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜になった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれる。拾い主の小西行長が関ヶ原の合戦に負けて滅亡したから、おたあの出身は永遠に分からない。平壌近郊でおたあを保護した行長は、九州の自宅に連れて帰り「おたあ」は行長夫人*の教育の元、特に小西家の元の家業である薬草の知識に造詣を深めた。
*小西夫人:正妻の菊姫(ジュスタ)と思われるが、側室の立野殿(カタリナ)の可能性もある。
おたあの才気と美貌を見初めた(どこでどうやって、おたあを見たのかな)家康は、駿府城に召し上げ侍女として側近くに仕えさせた。おたあは一日の仕事を終えると、夜に祈祷をし聖書を読み、他の侍女や原主人ら家臣をキリスト教信仰に導いた。家康はどこへ行く時も、おたあを連れ歩いた。しかしおたあは、キリシタン棄教を拒絶しまた家康の側室になることを拒んだ。
キリシタンの信仰は、小西家の養女となってからだろう。親(小西家)の仇というなら、家康の侍女にはならなかったであろうから、側室拒否は娘の潔癖かジジイ嫌いか。家康を通じて影響力を持って、キリシタンを庇護する方法も側室なら無くもなかろうに。おたあの気持ちは、おたあにしか分からない。家康は怒ったのか、息子・秀忠の政策にあからさまに反対は出来なかったのか、おたあを突き離す。
慶長17年(1612年)の禁教令により、おたあは駿府を追放され伊豆大島に流された。次いで八丈島もしくは新島に、最後に神津島へと流罪にされた。罪を3回問われたという訳ではない。赦免と引き換えに、ヒヒじじい家康の妾となるか棄教をするかと迫られ、その都度拒否したのだ。
おたあは信仰を守り、見捨てられた老人や病人を保護し、自暴自棄になった若い琉人を感化したり、島民の生活の向上に献身的に尽くした。特に身に付けた薬草の知識を活用して、貧しい島民の命を救った。
そんなおたあにもうれしい出会いがあった。新島(八丈島?)で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して、一緒に一種の修道生活に入った。おたあの最期については一切不明だ。神津島で「島にある由来不明の供養塔が、おたあの墓ではないか」と言いだした郷土史家がいて、日韓のクリスチャンが毎年5月におたあの慰霊祭を行うようになった。
そして1972年、韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長らが、おたあの墓(不明の供養塔)の土を持って行って埋葬し、石碑を建てた。しかしその後、おたあ神津島終焉説を否定する文書が発見された。1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父が日本から発信した書簡に、おたあが神津島を出て大坂に移住し、神父の保護を受けている旨書かれていたのだ。
戦国から江戸初期の美女、おたあの話はこれで終わる。これ以上のことは分かっていない。ところが話はこれで終わらない。実は行長は文禄の役でもう一人のみなし子を保護して日本に連れて帰っていたというのだ。行長は博愛の精神で連れ帰ったのに違いないが、これで良かったのか。

その子は男の子で、「権」という名字の彼を行長は、長女マリアに託した。マリア夫人は対馬藩主・宗義智の妻で、宗義智自身も極秘のうちに洗礼を受けていたらしい。そしてこの男の子が「マンショ小西」に他ならない。このブログを読んでいる人にはお馴染みのマンショ小西だ。ペトロ岐部と共にマカオを脱出してゴアへ、その後別経路でローマへ渡った青年だ。実子ではなかったのね。
宗義智は妻子を捨てたことになるが、実際には助けたのかもしれない。マリアはキリシタンの上に逆臣小西行長の娘であったのだから。公的な立場の藩主夫人では助けられないが、私人として長崎に住めば状況によって海外に出られる。マンショ小西は、日本に帰国して5年間、島原半島で最後の司祭として宣教し、1625年に捕まり翌年長崎で火炙りにされた。そしてマンショ小西は、早くも1867年に時のローマ教皇ピオ8世により福者に列っせられていた。ペトロ岐部よりちょうど150年早い。
マンショ小西、別名権ヴィセンテは、日本に帰国する前に朝鮮に渡って宣教しようと試みた。朝鮮の鎖国政策のため中国経由での朝鮮入国は失敗に終わった。朝鮮語を覚えていたのだろうか、先祖の地に行こうとしたんだね。
マンショ小西が、ジュリアおたあと出会ったかどうかは分からない。もし同じ船で朝鮮から日本に連れてこられたのなら、兄妹(多分)のような意識があったかもしれない。血は繋がっていないが、二人とも意思の強さは半端ではない。別々にだがそれぞれ朝鮮からきた少女と少年は、人の心を打つ壮絶な人生を送った。マンショ小西の殉教を聞いたおたあは、衝撃を受けただろう。おたあの消息を聞いたマンショ小西は、誇らしかったのではないかな。

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それぞれの幸せ

2017年04月21日 08時51分50秒 | エッセイ
それぞれの幸せ

 以前、生まれて初めての記憶について書いたことがある。女性作家のエッセイを読んでいたら、彼女のそれはお母さんの二の腕だったそうな。自分の最初の記憶は、陽が燦々と降り注ぐ暖かい海?の浅瀬で、多分浮き輪に支えられてキャッキャとはしゃいでいるものだ。お母さんが目の前にいる。お父さんの気配もある。何故かお姉ちゃんの記憶はない。
 本当に断片的で朧げなワンシーンだ。けれども自分が大して悪いこともせず、真っ当に成長したのは、最初の記憶が暖かいものだったからかもしれない。楽しげな赤ちゃんの自分。それを見て幸せな母と父。親は子供が喜ぶのを見ると、自分のことより嬉しいものだ。自分が子供を持って分かった。楽しい一日、美味しい食事と心地よい疲労。子供たちの感動と喜びが親にとっての幸せだ。
 だけどその幸福な日の記憶は、子と親とでは共有は出来ても質は違う。人はそれぞれの個体で生きている。それぞれに体の不調や仕事なり人間関係、金銭等の悩みを抱えているので、同じ楽しい時間でも受け取り方は全く同じではない。でもそれでいいんじゃないかな。
 流石に苦労を知らない赤ちゃんは、気持ちが良くて楽しいからキャッキャ笑う。その声を聞き、その姿を見てお母さんは、愛おしさに胸がギュッとなる。赤ちゃんは何も考えずに親孝行をしているんだね。
 それも順番だ。赤ちゃんは成長して親になり、子を持ちやがて老いる。人に影響を与えるという点では、親から子もあり、子から親もある。同じ日、同じ時間を共に過ごして、それぞれの記憶を持って、やがては全員灰になる。
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高山右近とキリシタン大名 - 蒲生氏郷編

2017年04月21日 08時48分42秒 | エッセイ
高山右近とキリシタン大名 - 蒲生氏郷編

○ 蒲生氏郷(1556-1593)--- この男は格好良い。37歳で死んでしまうのが惜しい。もし戦国の世で、主君を選ぶとしたら貴方は誰にする?自分は断然蒲生氏郷だ。蒲生氏は、藤原秀郷の系統に連なる鎌倉時代からの名門だ。六角氏の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。六角氏が滅亡すると、賢秀は氏郷(幼名・鶴千代)を人質に差し出して信長に臣従した。信長は鶴千代に会って言う。「蒲生が子息目付常ならず。只者にては有るべからず。我婿にせん」美濃三人衆の一人、稲葉一徹も少年の時の氏郷を見て、その器量を認めている。
   氏郷は禅僧に師事し、儒教や仏教と学び武芸を磨いた。元服の際は、信長が烏帽子親となった。14歳で初陣を飾り、信長の次女を娶る。その後は織田軍の主要な戦いにことごとく参戦した。信長が本能寺の変で自刃すると、信長の一族を保護して明智光秀に対抗する。氏郷の日野城は次の攻撃目標にされていたから、秀吉の中国大返しとそれに続く山崎の合戦が無ければ、兵力差からいって氏郷は討ち取られていただろう。
   その後は秀吉に従い賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手の合戦で活躍する。氏郷は合戦では常に先頭に立ち、積極果敢に戦った。その後も紀州征伐、富山の役に参戦し、伊勢松ヶ島12万石を与えられた。九州征伐、小田原征伐に参戦。九州では前田利長と共に岩石城を陥とし、小田原では急な夜襲を受け、単身で敵の背後に回り槍で敵兵を次々と討ち取った。
   一連の統一事業に関わった功により、会津に移封され42万石、後に加増され92万石の大領を与えられた。これは伊達正宗を抑えるための配置で、当初は細川忠興が候補になったが辞退したために、氏郷が封ぜられた。忠興は自信が無いと言って辞退したが、本音は中央を離れて僻地に行きたくなかったのだろう。氏郷も一度は断ったが、これ以上の辞退は秀吉の気色を損ねると分かり受諾した。氏郷は、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では武功の機会が失われると泣いたそうだ。移封の際、氏郷は秀吉に条件を一つつけた。「自分は武功の家臣を多く持っていないので、もしもの場合にこの要地を警固する自信がない。今天下には主人の勘当を受けて浪人となっている剛勇の者は数多くみられる。これらの面々の勘当を解くよう仰せられ、自分に召し抱えを許されるならば、会津を充分に守護しましょう」秀吉は納得し「文臣・武臣共に召し抱えよ」と言った。このため多くの浪人と罪人が許されて氏郷に仕えた。ここに目を付けるとは偉い。普段から彼らのことを惜しく思っていたのだろう。
   会津に行くと氏郷は、会津・黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築し、7層楼の天守を建てた。氏郷の幼名と蒲生家の舞鶴の家紋にちなみ、鶴ヶ城と名付けられた。築城と同時に城下町も開発され、町の名を黒川から「若松」へと改めた。キリシタン信仰を勧め、教会を造り猪苗代に学校(セミナリオ)を建てた。氏郷は農業より商業政策を重視し、旧領の商人を若松に招き、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等の策を成した。
   文禄の役では肥前名護屋城へ参陣している。この陣中で体調を崩した氏郷は、会津に帰国したが病状が悪化した。文禄4年(1595年)、伏見の蒲生屋敷において病死した。家督は嫡子が継いだが、家内不穏の動きありとし宇都宮(12万石)へ減封された。会津には上杉景勝が入った。
   氏郷は信仰のためか、愛妻家だったのか、或いはその両方なのか側室を置かなかった。実子の二人が早世したため蒲生家の血が絶えてしまったのは残念だ。

*氏郷は利休七哲の筆頭で、利休が処罰された時、利休の子・千少庵を庇護し会津に招いた。
*氏郷は厳しい人物で、馬の沓が外れ隊列を離れた武士を軍機違反として斬り、部下が指図した位置から再三離れたので手討ちにした。
  同時に部下思いのエピソードにも事欠かない。
*月に一度、家臣を全員集めて自らの屋敷で会議を行った。その席上では「怨まず、怒らず」が約束事になっていて、長幼や禄の大小に関わらず自由な発言が許されていた。会議後には氏郷自らが風呂を沸かしたり、料理を振る舞った。
*彼は武辺談義や怪談を好む話好きで、陣屋で侍達が博打を打つことを許していた。「夜に番をしていると眠くなってしまう。博打を打てば気力がついて眠くならない」
*氏郷は有功の士を厚遇して、門閥や伝統に捕われずに家臣団の再編成を行った。家臣への恩賞として蒲生の名字と「郷」の一字を与えているが、それは譜代の者ではなく、戦国時代に同クラスだった有力一門と外様層が中心だった。
*西村某という家臣が法度を破り召し放たれたが、細川忠興の口利きで帰参した。ある日氏郷は西村を呼び相撲をとった。西村は手加減せずに二度も勝った。西村は手討ちを覚悟したが、氏郷は西村の正直に感じ加増した。
*伊達正宗が、清十郎という16歳の少年を氏郷の家臣の元に奉公させ、情報収集と共に氏郷の暗殺を狙った。政宗のこの企みは発覚し、清十郎は投獄された。氏郷は命を捨てて主命を遂行しようとした忠義に感服し、清十郎を伊達家に返した。
*玉川という弁舌豊かな才人がいた。氏郷は家臣の推挙を受けて側近にしたが、数日後に解雇した。氏郷は言う。「あいつは才能はあるが根性が気にいらない。わしと仲の良い友人の話をする時は友を褒める。だが悪い友人の時は悪しざまに罵る。俺の気持ちを推し量っておべんちゃらを言うのだ。玉川は渉外の仕事に向いているから他家でもやっていけるだろう」だがこの予想は外れて、玉川は他家で問題を起こした。
*一万石で召し抱えた家臣が酒宴の席で、「某は子を多く持っておる。10万石をくれるとあらば、1人くらい川に捨てても構わん」と豪語した。その発言を聞いた氏郷は激怒し、「そんなことを言う人間は人の道から外れている」とこの家臣の取り分を1,000石に減らした。
*佐久間某が氏郷にお目見えした時、緊張の余りか畳のへりに躓いて倒れてしまった。小姓たちはゲラゲラ笑ったが、氏郷は「佐久間は畳の上の奉公人ではない。戦場で敵を討ち取る事こそが職分の者である」と小姓を叱りつけた。
*鉄砲の音にも驚く極端に臆病な家臣がいて、周りの人々から馬鹿にされていた。しかし氏郷は「どんな人間にも必ず使い道がある」と言い、いきなり彼を部隊長に任じた。いざ合戦が始まると、その家臣が大将首を2つ獲る手柄を立て、2,000石の物頭に取り立てられた。氏郷は微笑んで言った。「見ろ。どんな人間にも責任を持たせればその職責を果たす。ただ噂や評判だけで人を決めつけてはいけない」
*会津に移封・加増された時、家臣団に対して「今までお前たちには苦労をかけた。そこで今まで立てた功労を書き出し、どれだけの俸禄が欲しいか願い出よ」と布告した。家臣は次々に加増を願い出る書面を提供した。家老らが計算すると加増分は100万石を越えていた。家老らは仰天して氏郷に報告したが、氏郷は「いいじゃないか、家臣のためだ。何とか工面しろ」と言う。
   困り果てた家老らが家臣にありのままに話すと、家臣は氏郷の気持ちを知って感動し、自ら加増を辞退する者が続出した。氏郷は自分の取り分を9万石にまで削って家臣達の希望に出来るだけ応えた。
*合戦の時の心構えを氏郷は言う。「指揮官・武将だからといって、後方にいて命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば家臣はついてくるものだ」この考えが常に正しいとは言えない。戦闘の指揮官が常に最前線では大局が見えない。だが氏郷はこれをやり通した。勇気のいることだ。
*氏郷は、新参者の部下には次のように言って激励した。「銀の鯰尾の兜をかぶり、先陣するものがいれば、そいつに負けぬように働け」その銀の鯰尾の兜をかぶる者とは氏郷自身のことである。
*一揆鎮圧において、蒲生軍は東北の極寒に慣れておらず士気が下がってしまった。すると氏郷は素肌に甲冑を着て自軍を鼓舞した。
*秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れていたようだ。秀吉が氏郷を評して語った。「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、織田軍が勝つ。蒲生勢が織田兵4千の首を獲っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれている」やはり氏郷は天下獲りには不向きなようだ。
*或る時、秀吉が家臣たちにふざけて「100万もの大軍の采配をさせたい武将は誰か?遠慮なく申してみよ」と言った。家臣達は、前田利家だ、徳川家康だと名を口にする。秀吉は頭を横に振り「違う。それは、あの蒲生氏郷だ」(大谷吉継という説もある)
自分なら蒲生・大谷(この二人の名を出すとは、流石は秀吉)の他に、立花宗茂、黒田官兵衛と島津義弘といったところか。後藤又兵衛もいいな。しかし100万揃えて誰と戦うの?鄭成功と組んで清とでもやるか。魏の曹操だって公称80万だぜ。

* イエズス会宣教師のオルガンティノは、ローマ教皇に氏郷の事を報告している。「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気ゆえに傑出した武将である」何か翻訳が悪いのか、よく分からない文章だ。
* 天正遣欧使節が帰国した時、氏郷も秀吉と共に彼らを迎えた。氏郷は会津から4回に渡り、家臣・山科勝成を団長に遣欧使節団を送ったと云う。
  これは不思議な話だ。そもそも山科勝成とは「ロルテス」というイタリア人のことで、氏郷が召し抱えて家臣にしたという。伊達正宗が派遣した支倉常長ならメキシコにもローマにも資料が残っているが、氏郷が派遣した使節の資料は欧州のどこにも見当たらない。
   ロルテス・山科勝成は名を「山科羅久呂左衛門勝成」といい、小牧・長久手の戦い、秀吉の九州征伐、小田原攻めで活躍、戦場で大砲をぶっ放したという。ローマからは鉄砲30挺を携えて帰国した。だがそれほど目立つ活躍をした山科勝成の名が、『蒲生家記』以外の資料には一切出てこない。実在を疑われる人物なのだ。遣使があったとしても、マニラ、ゴアなどへの通商団だったのかもしれない。
   何の根拠によるのか、外務省が1884年に編集した『外交志稿』によると、文禄元年(1593年)、氏郷は朝鮮に渡るための軍艦の建造を望み、西洋から船大工の調達を図って勝成らを派遣したが、遣欧船はその途中で難破して安南国(ベトナム)に漂着し、勝成は現地人に殺害されたという。氏郷がイタリア人(ローマ人)の軍人を配下にしていたのだとしたら実に面白い。信長は黒人の従者を持ち、家康は三浦安針(ウィリアム・アダムス)を外交官として用いているから、別段不思議ではない。ポルトガルに援軍を頼んだ大名もいたでしょ。
*氏郷は、最初はしつこくキリスト教を説く高山右近から逃げ回っていた。教えに感動し洗礼を受けてからは、会津を福音の国にする決意を示した。黒田官兵衛がキリスト教に入信したのは、右近よりも氏郷に勧められたのが大きいのではあるまいか。なお右近は、氏郷が床で息絶えるまで側に寄り添い信仰を支えた。
*氏郷は今でいう直腸癌で亡くなったが、辞世の句には早世の嘆きが感じられる。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風

近年京都市、黄梅院にある氏郷の墓を発掘したところ、刀を抱いて横たわる形で埋葬されていた、という。
氏郷には、まだまだたくさんのエピソードがある。今回文化面の逸話は削ったので、興味のある人はご自分で検索を。

○高山右近
 蒲生氏郷で力を出し尽くした。兄弟を仇にし、親を殺し主を殺し、将軍を殺して大仏殿を焼き払う。女をかっさらい坊主も百姓もなで斬りにする戦国の世にあって、存在が不思議なほど律儀な武将、高山右近。この人は真心の持ち主だった。
 「右近」の呼び名は私的なもので、通称は彦五郎。高山氏は摂津国三島郡高山庄(大阪市)出身の国人領主である。父の友照が当主のころ、畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀に従って大和国宇陀郡の沢城(奈良県)を居城とした。友照は奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士のロレンソ了斎の説話を聞いて感銘を受け、洗礼を受けた。そして家族と家臣を洗礼に導いた。右近は10歳でキリスト教の洗礼を受けている。
足利義昭が15代将軍となり、畿内は戦乱に次ぐ戦乱の巷となるが詳細は省く。荒木村重の与力として従っていた高山父子は、村重の突然の反乱に仰天する。石山合戦の最中、村重はあろうことか単独で信長に反旗を翻したのだ。勝算も無いだろうのに何故?荒木村重謀反の原因になったとされる、敵石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣だったようだ。まあ濡れ衣でも一度信長に疑われたらお仕舞いだと観念しても不思議ではない。
こうなると清秀は謀反の原因を作り、村重の恭順の意思を説得して翻らせ、さらに自分は寝返ったことになる。あんまりだろ。でも当時こうした出処が非難されることはなく、むしろ人望のある人物だったという。村重は自分がとろいのがいけないんだ、という訳か。中川清秀は高山右近の従兄弟で、その後も右近と出処を共にする。
 村重の謀反を知った右近は、人質を入れ翻意させようと試みるが失敗した。信長は高山右近、次いで中川清秀を切り崩そうと考えるが、右近が金や地位や領土では動かないと知っていた。信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を焼き払うと脅迫する。信長ならまゆ一つ動かさずにやるだろう。
 高山家中の意見は二分したが、右近は父の反対を押し切り、紙衣一枚で城を出て信長の元に出頭した。この功績を認めた信長は、再び高槻城主として4万石に加増する。清秀も村重を裏切った。本能寺の変で信長が没すると右近は明智光秀の誘いを断り、秀吉の幕下にかけつけ山崎の戦いで先鋒を務めた。そして中川清秀と共に奮戦し、光秀を敗走させる。その後は秀吉の下で賤ヶ岳、小牧・長久手、四国征伐に参戦した。
 秀吉の信任は厚かった右近だが、バテレン追放令が出ると信仰を守ることと引き換えに、領地と財産を全て棄てることを選び世間を驚かせた。戦国の世に自ら領国を捨てる、こんな男は二人といない。右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響力が絶大であったので、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。その結果廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料とした。
 右近は小田原征伐に、建て前上は追放の身ながら前田家の客将として参加した。小田原の陣で右近が用意した牛肉を、蒲生氏郷と細川忠興の三人で食べたという。氏郷と違い、エピソードが少ない右近の数少ない楽しい逸話だ。ちなみに氏郷と忠興は、お互いに悪口を言い合う親友だった。ついでに右近話を三つほど。
*高槻城下で村人が亡くなった時、の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させた。
*伴天連追放令を出した秀吉は、右近の才能を惜しみ千利休を遣わして棄教を促したが、右近は「主命に背いても志を変えないのが真の武士である」と答え、利休は説得を諦めた。
*織田有楽斎の『喫茶余録』による右近の茶道の評価は、「作りも思い入れも良いが、どこか“清(きよし)の病”がある」というものだ。うーん、深いな、でもちっとも分からん。

 慶長19年(1614年)加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて加賀を退出。長崎から家族、内藤如安らと共にマニラに向かった。イエズス会報告や宣教師の報告で有名になっていた右近は、マニラでスペイン総督らから大歓迎を受ける。しかし船旅の疲れや、慣れない気候のため老齢(63歳)の右近は、すぐに病を得て息を引き取った。葬儀はマニラ全市を挙げて聖アンナ教会にて、10日間盛大に行われた。右近の遺骨と画像は、その後行方不明になった。1767年マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物がマニラ大司教区の所有となり混乱したのだ。右近の遺骨を探す活動は今も続けられている。
 右近の死後、家族は日本への帰国を許されたため、現在石川県、福井県、大分県に三つの直系「高山家」がある。今回の列福は誇らしいんじゃないかな。右近の列福の話は16世紀から出ていたというから、そこから考えればやっとだ。
 蒲生氏郷が長くなったりして焦点がぼやけたが、思い起こして欲しい。今回取り上げた9人のキリシタン大名の、唯一人として途中で信仰を捨てた者はいない。功も罪もあるキリシタン信仰(カトリック)だが、血なまぐさい戦国時代に一途で魅力のある教えだったことは間違いない。逆に平静な江戸時代には向かないのかも。

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高山右近とキリシタン大名

2017年04月16日 17時01分48秒 | エッセイ
高山右近とキリシタン大名

 高山右近没後400年にあたる2015年(平成27年)、日本のカトリック中央協議会はローマ教皇庁に、右近を福者に認定するよう申請した。その理由は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」というものだ。この申請は翌2016年に教皇フランシスコによって認定され、2017年(平成29年)2月7日に大阪城ホールで、教皇代理の来日によって列福式が採り行われた。
 これによって一大高山右近ブームが始まった、とは思えない。大阪では盛り上がったのだろうか。元々大坂の武将だからな。高山右近とはどんな人物なのか。戦国の世には珍しい生真面目な人だったが、どうもあんまり好きにはなれない。痛快なエピソードに欠けるのだ。斬り合いの中で誤って味方に斬られ、首が半分もげるほどの大怪我から奇跡的に回復した。このエピソードはきもい。
 彼よりも、彼が勧めてキリシタンになった蒲生氏郷の方がずっと魅力的だ。さてキリシタン大名にはどんな人物がいるのかな。中々の個性派がいる。キリシタン大名は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信・洗礼を受けた大名のこと。秀吉のバテレン追放令と江戸政府の禁教と鎖国を受け、キリスト教は地下に潜るしかなかった。高山右近と内藤如安は最後のキリシタン大名だと言える。
 大名以外では、関ヶ原前夜に家臣に胸を突かせて死んだ細川ガラシャ(忠興の妻、明智光秀の娘)や明石全燈(宇喜多家家老、4万石)、ペトロ岐部やマンショ小西らの日本人司祭が有名。大坂の陣では、明石全燈を始めキリシタン兵が万余も集合した。キリシタン大名は9人いる。

○大友義鎮(1530-1587)--- 宗鱗といった方が名が通っているね。彼のキリスト教との出会いは、フランシスコ・ザビエルとの引見で始まった。宗鱗は極めて多才な人物で、書画・茶道・能・蹴鞠などの諸芸に通じ中央から文化人を招いた。彼のキリスト教への関心は、博多商人を通して南蛮貿易により良質な硝石や大砲・国崩し(フランキ砲)を入手すること。のみならず西欧の知識の習得に努め、西欧医術の診療所も建てている。
   しかしキリスト教のために徹底した神社仏閣の破壊解体を行ったことはいただけない。この為多くの家臣団の離反を招き、大友氏没落の一困となった。大友宗麟は一時、九州大半を手中にして毛利氏と対峙する。そのまま行けば九州は一大キリスト王国となっただろう。しかし今山の戦いで龍造寺
  に敗れて弟を失い、耳川の戦いで島津に大敗して多くの家臣を失った。その後は豊臣秀吉に臣従して何とか滅亡を免れた。信仰は最後まで貫き、キリスト教式で埋葬された。

○黒田孝高(1546-1604)--- ご存知、黒田官兵衛のちの如水のこと。秀吉の軍師。この人の生涯は余りに有名だから省く。黒田官兵衛を書き始めたら小説になってしまう。官兵衛がキリシタンになるきっかけは、高山右近の勧めだ。これほどニヒルで複雑で頭の良い男を説得したのだから、右近も大したものだ。官兵衛は領内でキリシタンの被護に努め、葬儀はキリスト教式で行われた。

○有馬晴信(1567-1612)--- 九州肥前の大名。当初はキリシタンを嫌悪していたが、洗礼を受けてからは熱心なキリシタンとなった。大友宗麟や叔父    の大村純忠と共に、天正遣欧少年使節をローマに派遣した。文禄の役では2千人の兵を率いて出陣し、6年間朝鮮で戦った。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、加藤清正と共に小西行長の宇土城を攻撃した。
   南蛮貿易に熱心で慶長14年(1609年)、幕府の命を受けて高山国(台湾)に部下を派遣し、貿易の可能性を探っている。マカオで晴信の朱印船が市民と争い、乗組員が多数殺される事件があり、その敵討ちのために長崎に入港したポルトガル船を襲撃した(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。晴信は領土を巡る諍いの中で、長崎奉行を殺害する計画をたてたとして、甲斐国に流され自害させられた。日本側の記録では切腹となっているが、家臣に首を切り落とさせたらしい。キリスト教では自殺は禁じられている。晴信存命中は領内に多数のキリシタンが難を逃れ、晴信は彼らを積極的に匿った。有馬領内ではあまり監視されなかったのだ。嫡男が家康の養女を妻としていたのと、南蛮貿易で幕府に貢献していたためである。
   しかし晴信刑死後、有馬氏は所領代えとなり旧有馬領内でキリシタンへの弾圧が始まった。これが島原の乱の遠因となって行く。

○ 筒井定次(1562-1615)--- 伊賀上野藩主。筒井順慶の養嗣子となり、織田信長の息女を娶った。信長の死後は秀吉の家臣となり、小牧長久手の戦いに参戦、その後紀州征伐、四国攻めと秀吉に使われている。定次は天正13年(1585年)の大規模な国替えで、大和国から伊賀国上野に移封された。
  京大坂に近い大和から伊賀では、いささか都落ちの感が否めない。
   定次は軍学に明るく、茶道を嗜み古田織部とも交流があった。筆も画も能楽の技巧も本職に引けを取らなかった。伊賀の侘しい寒村であった上野は、定次の整備によって大いに発展し、今でも地元では定次は慕われているそうだ。ここまでは中々の才人、好男子。信長が娘婿に見込んだだけのことはある。ところが伊賀の豪族を強硬に取り潰したり、島左近を始めとする有力な家臣の多くに離反され家勢は衰退し始めた。島左近は、その後石田三成の元で男を挙げる。三成に過ぎたるものが二つある。島の左近と佐和山の城。左近は家康の暗殺を2度に三成に進言するが、潔癖な正義感の三成は卑怯だとして採用しない。それでも左近は腐ることなく三成に仕え、関ヶ原で獅子奮迅の働きをし姿を消した。
   話が逸れちゃった。定次は、文禄・慶長の役では3千の兵を率いて参陣したが渡海はしていない。肥前名護屋で帯陣する内に酒色に耽るようになった。関ヶ原では東軍に与して活躍したが、慶長13年(1608年)幕命により突如として改易され、大名としての筒井氏は滅んだ。その理由が明確でない。一つには大坂方との内通が疑われている。
   改易後定次は鳥居忠政のもとに預けられ、やがて嫡男と共に自害が命ぜられた。何か異様に重い処罰だが、キリシタンであったことと関連があるのだろうか。定次の生涯を見ると、今一つの達成感がない。やりとげなさが目につく。歴史に名を残すほどではない大多数の大名・武将の人生などこんなものなのか。まあ定次に言わせれば、「歴史の断片をかき集めて、俺の何が解る」だろう。

○小西行長(1558-1600)--- この人は元々商人である。商家の次男坊として生まれ、商売で出入りする内に宇喜多家、次いで秀吉の目に留まり武士として家臣となった。キリシタンになったのは、高山右近の勧めだ。26歳の時だった。それにしても右近は実に巧みな勧誘者だ。正規の記録には無いが、前田利家も右近の勧めでキリシタンになったとか。少なくともシンパにはなっている。後にバテレン追放令が出た際に、改易となった右近を行長は匿っている。
   豊臣政権下では舟奉行として国内の戦さを采配し、秀吉による九州平定の後、行長は肥後半国20万石を与えられ天草1万石も所領とした。このころ天草は人口の2/3にあたる2万3千人がキリシタンで、神父60人、教会30が存在した。カトリックの学校もあり、行長はイエズス会の活動に援助を与え保護した。文禄・慶長の役では女婿・宗義智(対馬藩主)と共に交渉・戦闘で重要な役割を果たした。というか、二人で国書の偽造までして惚けた秀吉を丸めこんで戦争を止めようとしたが、失敗した。対馬藩にとって日朝貿易が途絶えるのは、死活問題だったのだ。
   文禄の役の行長は強かった。加藤清正を2番手に従えて次々に朝鮮軍を破り、漢城(ソウル)を占領して平壌を攻略、奪還しに来た明軍を撃退した。次に朝鮮軍が奪還に押し寄せたが、それも退けた。しかも何度も交渉による解決を呼びかけたのだが、朝鮮側も明もこれに応じなかった。
明との講和の話が出ると、秀吉には明が降伏する、明には秀吉が降伏すると二枚舌を使い丸めこもうとしたが、これが発覚して秀吉は激怒した。行長は死を命じられるが、前田利家や淀殿のとりなしによって一命を救われた。慶長の役では厳しい立場ながら、海戦で朝鮮水軍を殲滅する等、またもや奮戦した。武断派の職業軍人のような武将達から、「薬屋の子倅」と侮られたが行長は強かった。
しかし秀吉が死去し、朝鮮から帰国後の行長は生彩を欠く。行長には先を見越す戦略眼があったようで、積極的に家康との距離を縮めるよう努めた。それでも家康の会津征伐に際しては、上方への残留を命じられた。武断派の武将と仲が悪かったのが仇となった。関ヶ原では西軍として戦うが、大谷・宇喜多・石田隊が奮戦したのに対し、行長の戦振りは鈍い。一進一退に終始している。当日は東軍の田中吉政、そしてキリシタン大名の筒井定次らの部隊と交戦した。
敗戦の混乱の中、行長は伊吹山中に逃れたが後に捕えられ、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。行長は浄土宗の僧侶を退け、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げ、首を打たれた。時の教皇クレメンス8世は行長の死を惜しみ、7年後の1607年、イタリアのジェノバで行長を主人公とするオペラが上演された。今でもこのオペラが残っていればね。
行長の子孫は案外残っている。家康は行長に悪感情は持っていなかったろう。関東で漢方薬局を営んでいる一家があるという。先祖の職業をやっているとは面白い。行長は領地が隣接することもあり、熱心な日蓮宗信者の加藤清正と特に仲が悪かった。朝鮮軍の李舜臣に、清正軍の上陸時期を密告し清正を討ち取るように働きかけた。李は罠ではないかと疑い、攻撃を躊躇った。こんな事をしたら、恨まれても仕方がない。
島原の乱の天草四郎は小西行長の家臣の子とされているが、一説では行長自身の次男の息子だともいう。小西一族は大半がキリシタンで、行長が朝鮮で拾い、娘として連れて帰った“ジュリアおたあ”の物語は悲しくも美しい・

 ○内藤如安(1550?-1626)--- 三好氏の重臣、松永久秀(弾正)の弟・松永長頼の子。如安(じょあん)はキリスト教への受洗名の音訳。忠俊、小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンで、また茶人として名高い。
   父・長頼が人心掌握のために丹波守護代・内藤国貞の娘を正室に迎え内藤家の後見となった。畿内で血みどろな戦いを繰り広げる中、長頼は討死し内藤家は織田軍によって取り潰された。如安は牢人となり小西行長に仕えるようになった。行長は如安を重臣とし、小西姓を名乗ることを許した。元々小西家は内藤家の家系に連なり、如安とは同族一門であったようだ。
   文禄・慶長の役の際、明との和議交渉では使者となって北京に赴いた。明の記録にその名を留める。関ヶ原で行長が刑死した後、有馬晴信の手引きで平戸に逃れ、その後加藤清正や前田利長の客将となった。前田家滞在中は、同じく前田に匿われていた高山右近と共に、布教活動や教会の建設に熱心に取り組んだ。
   しかし慶長18年(1613年)、家康がキリシタン追放令を出し、如安は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋のマニラへ追放された。マニラでは、総督以下住民の手厚い歓迎を受けた。右近は熱病を発してマニラ到着後直ぐに病死するが、如安はマニラで日本人キリシタン町サンミゲルを築いた。寛永3年(1626年)病死。サンミゲル近くの教会に終焉の地の記念の十字架が建っている。如安の居城・八木城があった八木町とマニラは、如安が縁となって姉妹都市になった。

○大村純忠(1533-1587)--- キリシタン大名となったのは彼が一番早い。永禄6年(1563年)だ。再三出てくる有馬晴信は大村純忠の甥にあたる。最初は、ポルトガル船のもたらす利益と西洋の武器が目当てであったのだろう。純忠は横瀬港、次いで長崎をポルトガルに提供し、長崎は良港として大いに発展して行く。最盛期には大村領内に、日本全国のキリシタン信者の半数6万人が住んだという。長崎港が龍造寺軍によって攻撃されると、ポルトガル人の支援によって撃退している。
   純忠のキリスト教信仰はしだいに過激化した。側室を廃し正妻だけとの関係を持つのは良いが、領内の寺社を破壊し先祖の墓まで打ち壊すとは。僧侶や神官を殺害、又は追放し改宗しない領民を殺したり、ポルトガルに奴隷として売ったりし始めた。そのため家臣や領民の反発を招いた。この日本人奴隷の海外輸出は、大村領に限らず史書に散見する。多くは女性でポルトガルやマカオに連れて行かれて、ポルトガル人や船員の妾や現地妻にされた。天正遣欧少年使節では、甥の千々石ミゲル(ちぢわ、有馬晴信の従兄弟)を正使としてローマに送った。しかし千々石は帰国後、4人の中で唯一棄教した。
   千々石はイエズス会から除名され、千々石清左衛門と名を改め大村藩士となる(600石)。大村純忠の息子で藩主の喜前の前で「日本におけるキリスト教布教は、異国の侵入を目的としたものである」と述べ、喜前に棄教を勧めた。千々石は欧州でキリスト教徒による奴隷制度を見て不快感を表明するなど、早くからキリスト教に疑問を感じていたようだ。頭の良い青年だったのだな。彼は畳の上で死んだことは確かなようだが、藩政からは遠ざけられて不遇の晩年を送ったようだ。理由は不明だが藩主にうとまれ、キリシタンからは命を狙われた。同僚からは裏切り者と蔑まされた。千々石は心が弱くて棄教したのではない。キリスト教に胡散臭さを感じたのだが、それを理解する者はいなかった。
   さて大村家は龍造寺に従属したが、秀吉の九州平定によって本領を安堵された。純忠は病に陥り、秀吉のバテレン追放令の出る前に病死した。

○蒲生氏郷(1556-1593)--- この男は格好良い。37歳で死んでしまうのが惜しい。もし戦国の世で、主君を選ぶとしたら貴方は誰にする?自分は断然蒲生氏郷だ。蒲生氏は、藤原秀郷の系統に連なる鎌倉時代からの名門だ。六角氏の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。六角氏が滅亡すると、賢秀は氏郷(幼名・鶴千代)を人質に差し出して信長に臣従した。信長は鶴千代に会って言う。「蒲生が子息目付常ならず。只者にては有るべからず。我婿にせん」
   氏郷は禅僧に師事し、儒教や仏教と学び武芸を磨いた。元服の際は、信長が烏帽子親となった。14歳で初陣を飾り、信長の次女を娶る。その後は織田軍の主要な戦いにことごとく参戦した。信長が本能寺の変で自刃すると、信長の一族を保護して明智光秀に対抗する。しかし氏郷の日野城は次の攻撃目標にされていたから、秀吉の中国大返しとそれに続く山崎の合戦が無ければ、兵力差からいって氏郷は討ち取られていただろう。

To be continued,
  
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