康・安国紀行
①(読み飛ばしてもよい)前振り
旅の始まりは準備から。普段履く五指靴下、しっかりとした大きめのリュックと温かいジャケット(共にブックオフの中古)、見栄えが良くて歩きやすい靴(履き心地は良かったが、脱着が不便なので、普段履いているものにした)。
そしていつもなら土地の言語の勉強と、現地のことを記した本。でも今回は時間が無かった。旅を思い立ったのが2ヶ月前だ。以前読んだティムールの本は、ブックオフに売ったのだろう、見つからなかった。サマルカンド、ウズベキスタン、たいした本は無かった。そういえばラオスの時も、本が少なかったな。
ウズベク語は結局、ありがとう=ラフマットもちゃんと覚えなかった。出発の10日ほど前に、ギックリ腰をやってまった。朝玄関で、靴を履いて立ち上がろうとしたらギギギッ背中の下の方に激痛が走った。うわ、やっちまった。これは酷い。痛みの神経がビンビンと鳴る。過去にも大小何回かやったが、今回のは重症だ。壁に手をかけ、時間をかけて立ち上がり、そのまま仕事に行った。
一歩ごとにビンビンくる。これは重症だ。脂汗を流して仕事をこなし、帰宅して一日寝ていた。寝ている分には大丈夫。しかしパパ、パンツがはけねえ。立ち上がってトイレに行くまでに5分はかかる。ジジイ歩きでそろそろ動く。
その後、良くなりかけたかと思うとビビっ。最初の時ほどではないが、メーターが最悪⇔全快の間で、悪い方にツツっと戻る。大丈夫かな。旅行行けるかな。過去の体験から、治るまで2週間から1ヶ月はかかると思う。
結果はNo problem。旅の始めは、にぶい痛みが残り、またぶり返さないかと不安だったが、途中から気にならなくなった。最後は腰痛って何?いつの話?誰のこと云ってんの?となった。
5日間の観光旅行でしょ。ホテルは中上級、ガイド付き・飯付きの観光旅行で、ウズベキスタンは正味3日。正直たいして期待はしていなかったさ。でもやっぱり旅はいいね。きれいな物を見ると、魂がリフレッシュする。
旅の発案はカミさんだった。んっサマルカンド?自分が憧れていた西域南道、敦煌~カシュガルとはちょっと外れる。でもシルクロードの要衝には違いない。ティムールよりはホラズム帝国の最後が思い浮かぶ。かつて栄えた仏教の遺跡ではないが、イスラムの建造物のシンプルで気品のある美しさ、明るい透明感。食べ物の美味さは、トルコ旅行から類推できる。
突き抜けた青い空に、モスクのブルータイルのドーム。ブハラの青空(蒼空と言いたい)は圧巻だった。よく晴れた東京の秋の日の青空、ブルー度は3。ブハラのきりっとした青空はずんと深く、ブルー度は7~8だった。もっと寒くなれば、9~10に行くんじゃないか。
ホテルの中庭の限られた空間から見た星空でも、星はかなり見えたが、氷点下の真冬になると、天の川が天空ドームに流れる凄まじい夜空が展開するんだと。ウズベギスタンは車が少なくて、都市でも空気が美味い。
今回訪れたのは3都市。タシュケント(石国)、ブハラ(安国)、サマルカンド(康国)。国名は唐代の呼び名で、玄奘三蔵の“大唐西域記”は読んでいないが、この名のはず。玄奘は往復し、マルコ・ポーロもイブン・バトューダも通った。
② 旅の始まり、ビックリ弁当
何ちゅー大きさ、何ちゅー重さ。
タシュケントには夜に着き、翌早朝にブハラに向けて発った。初日のホテルは実に立派な外観で、部屋も不必要なほどに広かったが、愛想のないものだった。お湯は出ないし、ゴミ箱もない。朝6時にチェックアウトしたため、ホテルの朝食は使えない。ランチBoxが用意されていたが、それがでかい。開けてビックリ弁当。
リンゴx2、洋梨x1、2枚の食パンに挟んだチーズやハムの正方形サンド。クッキー数枚(とても美味い)、ケーキ風クッキー、茹で卵x2、ズッキーニかな?トゲのないキューリ(絶品。シャキシャキして瑞々しい)、トマト(野性味がいいね)、水のペットボトル。こんなに食えるか。しかも特急アフラシャブ号で、軽食とお茶のサービス。
結局リンゴ等はブハラのドライバーにあげた。とてもじゃないが、食いきれん。
③ ウズベク食べ物列伝
普通、旅の日程や建造物の素晴らしさから書くんじゃない?
でもビックリ弁当のついでだから、この国で出会った珍しい食べ物をいくつか紹介しよう。
3-1. 固形ヨーグルト
固めたヨーグルトって知ってる?バザールで、径2cmほどと1cmほどの真っ白い球体として山積みされていた。試食すると、大きい方はしょっぱい。小さい方は淡泊なチーズ?
「違います。違います。これはチーズじゃあない。」と、ガイドのアリ君(仮名)。でも似たようなものじゃん。まあ自分が釣った魚を指して「これはアイナメ。カサゴは全然違う魚だって。」と言うようなものか。または「違うよ、カブと大根は別の野菜。」でも鯨とイルカは、大きいか小さいかの違いだぜ。
そもチーズとヨーグルトの違いって何?原料は同じ。共に牛や山羊、羊などの乳に乳酸菌を加えて発酵させた乳製品だ。ヨーグルトはチーズと違い、酵素を加えず乳酸菌のみで発酵して作る。通常水切りをしないので、チーズより水分があり、クリーム状をしていたり、プリンのような柔らかさがある。ほのかな酸味が特徴。ヨーグルトはチーズより低カロリー低脂肪で、乳酸菌wp多く含んでいる。
小さい方を1万スム(140円)買えばよかった。袋一杯買えたことだろう。
3-2.葡萄の葉のスープ
細かくきざんだ葡萄の葉のスープ。葡萄の葉がたっぷりと入った胃に優しいスープ。シーと呼ばれる。これ、しみじみ美味しい。葡萄の葉って食べるんだ。特に存在を主張しない、スープに調和した味だ。ロールキャベツってあるじゃん。あれ、個人的にはあまり好きじゃない。あの料理の原型は、キャベツではなくて葡萄の葉だったそうだよ。大きさと形はちょうど良いね。
ただ、アリ君の言うには、葉をそのまま使うのではなく、塩漬けにして加工するそうだ。
* ウズベク料理
3-3. ドライフルーツ
この国の物価は驚くほど安い。10ドル交換したら、お札がごそっと戻ってきた。ここではたちまち大金持ち。物価が安いと言うより、US$に対して現地通貨の相対的な価値が低いんだろう。それに加えて円が強い。
水の小さなペットボトルは、ホテルで買っても10~20円。タシュケントの地下鉄、初乗り15円。最後に空港で飲んだコーヒー、やけに高いな、空港はいかんな、と思った。でも計算すると70円ほどだった。
雑貨屋で買った豆菓子や、おこしみたいなゴマ菓子(15x20cmほどの長方形)等々は、呆れるほど安く(5~10円)とても美味しかった。スーパーではお土産用に菓子類やドライフルーツをたくさん買った。
ドライフルーツは種類が多くて、どれも美味い。特にクルミをアンズでくるんだのが絶品。清算してガクっとなるほど安かった。
自分は50$、カミさんは40$両替したが、3日間で使い切るのに苦労した。凄い札たばだったぜ。とはいえ、歴史的建造物の内部にまで店を構える、外国人観光客向けの土産物は、それなりの値段がしていたよ。
*バザールの光景
④ 移動
4-1. アシアナ航空
韓国のANA的存在、アシアナ航空。仁川乗り換えでした。仁川空港って2つあるんだ。ターミナル1と2は、車で10分ほど離れていて、双子の別空港だ。共にきれいででかい。アシアナのサービスは、可もなく不可もなし。機内食はまあまあ。
成田⇔仁川の2時間はジャンボ。仁川⇔タシケントは一回り小さいジェット機でした。帰国便は朝9時に仁川着、17:25に仁川発成田行きだった。そこで仁川空港のトランジットツアー(5時間、伝統コース)に事前に申し込んだ。10ドルかかるが、宮殿見学と食事込みだ。でも出国手続きに時間がかかり、10時発に走って飛び乗った。宮殿は、通常は景福宮だが、この日は休館日だったので昌徳宮にバスで行った。多国籍軍だ。メキシコ人、フィリピン人、アメリカ人。夕方に出るサンフランシスコ行きに乗る人が多いようだ。
李朝最後の皇太子と政略結婚した、李方子さんが住んでいた宮殿だ。清朝のラストエンペラーの弟、愛新覚羅溥傑の妻、嵯峨浩さんのことは『流転の王妃』を読んで知っていたが、梨本宮方子さんはよく知らなかった。こちらも立派な女性だ。
宮殿には、韓流時代劇に出てくるような衣装を着た男女(女8:男2の割合)がたくさんいた。撮影でもしてるのかと思った。ところが、チマ・チョゴリを着た娘たちが日本語を話している。両班風の服装をした男性が革靴を履いている。旅人のコスプレが流行っているようだ。
でも屋外に出てくるなら、衣装にしっかり金をかけてね。結構安っぽい衣装も多かった。まあ似合う似合わないの前に、日本人と韓国人の区別はしゃべらないと分からない。
ところで韓国からウズベキスタンに帰国する人々は、これでもか、と大量の荷物を積んでいる。あんたら買い出しに行ったんか。電気製品とかが多いらしい。
4-2.アフラシャブ号
スペイン製の特急列車。客の大半は観光客だ。全て指定席で、身長179cmの自分がやっと足置きに届くほど座席が広い。快適だ。カーブがなく、平の土地をひたすら真っすぐに走る。
線路は平行して2本敷かれていて、1本は在来線で1本はアフラシャブ号だ。アフラシャブ号は全部満席、キャンセル待ちだったが、結局3回とも全て乗ることが出来た。ラッキー!6時間かかるところを、2時間半に短縮出来た。のんびり旅なら在来線も面白いけどね。
長距離バスもあるが、土地の人は主に乗り合いタクシーで移動していた。乗り合いタクシー専門の乗り場がある。タシケント→ブハラで6時間かかるというから、時間は鉄道と変わらない。
ちょっとした山が見えてきたのはサマルカンド周辺だけだった。刈り入れの済んだ畑、田んぼ?草原と荒野。時々人家と池。どこに行っても放し飼いの牛・羊・山羊・馬の群れが交互に現れる。駱駝は見なかった。群れは子供や男が見張っている。
それにしてもアフラシャブ号、たいして速くは感じない。344kmで2時間半だもんね。これで6万スム(約840円)だぜ。軽食まで出る。制服を着た女の子が可愛い。
⑤ 西の蒙古襲来
アラーウッディーン・ムハンマド。西暦1220年、ホラズム王国最後のシャーは、東方から押し寄せるモンゴル軍に対して、野戦を避けて籠城戦を挑んだ。しかしこの王様、臆病で卑怯な男だった。チンギスハンからの商業使節400人を殺し商品を奪ったのは、部下の独断専行でシャーの命じたことではなかったようだ。
しかしその事件の説明を求めてきた使者の鼻と耳を削いで送り返したのはまずかった。それまでモンゴル軍に本格的な攻城戦の経験は無かったが、彼らは適応力が高く、その思考は実に合理的だった。征服した都市の住民を選別する。若くて美しい女、工芸者、職人、次の戦闘に捕虜として使える者を残し、残りは殺す、殺しつくす。5万人の首を斬ったのではないか。首は男、女、子供に分けてピラミッド状に積み上げた。
「なで斬りじゃ。」長島の一向一揆の老若男女2万人を殺した信長は、槍で突き、押し込めて焼き殺している。刀で数万の首を斬るのは、大変な重労働だ。刀も傷む。何故そこ迄首切りにこだわったのか。
モンゴル軍は一つの都市を攻略すると、専門の職人に投石機や櫓等の攻城具を作らせ、住民を盾としてモンゴル兵の前に追いやった。捕虜は後ろからモンゴル兵に斬りまくられるので、前に進まざるを得ない。そのため城中の守備兵は同胞に向かって矢を射ざるをえない。
モンゴル軍は心理戦に長けている。首のピラミッドで恐怖を浸透させ、人間の盾で厭戦気分を増長させる。諜報戦にも長けていて、ロシアや東ヨーロッパには、侵攻の数年前から傀儡、曲芸団が東方からやってきた。
当時のサマルカンドは、現在のサマルカンドに隣接する丘の上にあった。アレキサンダー大王が、想像以上に美しいと言い、貴族の娘で絶世の美女ロクサネを妻に迎えた所だ。当時の住民は、ペルシャ系のソグド人だった。マラカンダと呼ばれていた。
現在そこはアフラシャブの丘と呼ばれ、今でも荒野で発掘調査が行われている。特急列車の名前は、ここから来たのね。丘の一部は、墓地になっている。サマルカンドの人口は蒙古襲来で1/4に減り、ティムールによって再興されなければ、名前が消えていただろう。給水システムが破壊されたのが致命的だった。
ブハラも徹底的に破壊された。ブハラ攻防戦で、チンギスハンの孫が流れ矢に当たって死に、怒りをかった。ホラズムのシャーは、サマルカンド攻防戦の始まる前に逃げ出し、最期はカスピ海の小島に閉じこもって死んだ。
チンギスハンの故郷の草原には、モンゴル人とトルコ系の遊牧民が混在していた。チンギスハンも若い時からトルコ系の部族長に助けてもらっていた。彼に人種的な差別意識はない。宗教についても、中国から道教の老師を招き、またイスラム教の導師から教えを聞き、共に厚遇している。占領地から耶律楚材のような優秀な人材を次々と採用した。
残虐な反面この開放性、合理性、進取の精神には、時代の扉を開く一面があった。シルクロードの安全も確保され、東西交易が盛んになった。
モンゴル軍には致命的な弱点がある。兵力が少ないのだ。せいぜい数万の騎兵、大遠征でも10万がやっとだ。赤壁の曹操軍80万、とかはとても集まらない。それだけの人口がいない。従ってモンゴル軍は、占領した地に駐屯軍を置く余裕が無かった。一部隊づつ占領地に駐留したら、遠征の先端は徐々に先細りになる。
モンゴル軍は、占領地に10人ほどの行政官を派遣した。この10人を守るものは、骨の髄までの恐怖感だ。蜂起すれば10人を血祭に挙げられるが、その報復たるやいかに。
日本軍の中国侵略がこの罠に落ちた。八路軍(共産軍)は、前線の精鋭部隊との戦闘を徹底的に避け、徐々に後退して農村や都市を明け渡す。その代わりに兵を後方に浸透させた。彼らが狙うのは、日本軍の兵站線(補給路)や、小規模で離れた所の駐屯地だ。
10倍の兵力で襲撃し、必ず殲滅する。武器・食糧を奪うのが目的だ。日本軍は連戦連勝、中国全土を占領する勢いだが、実態は疲弊していた。広大な中国大陸をどうしたら統治出来るのか。
日本は1941年12月8日の対英米蘭開戦を前にして、1940~41年の間に135万人から211万人に兵力を増強している。しかし師団数は、関東軍で1個師団増えた他は変わっていない。1941年の師団数は本土・朝鮮11師団、関東軍13師団、中国27師団、計51師団だ。
関東軍(満州駐在)と中国戦線を併せて40個師団。80%の兵力を中国に置いて、いったいどうやって米英と戦う積りだったんだ。本土と朝鮮・台湾を空にする訳にはいかない。では帝国陸軍は、米英軍に対して4-5個師団(戦力の10%)で戦えると思ったのか。
馬鹿じゃないの。でも時の勢い、日本軍は5個師団だけでシンガポール、フィリピン、インドネシアを落とし、太平洋を席巻してニューギニアにまで攻め込んだ。10%でだ。だがここで力尽きた。帝国陸軍には、孫子の言葉を贈る。「彼を知り、己れを知れば百戦殆うからず。彼を知らずして己れを知れば一勝一負す。彼を知らず己れを知らざれば戦うごとに殆うし」
さてホラズム帝国が、籠城戦でなく野戦を選択していたら?歴史は変わったか?モンゴル軍の圧勝で終わったことだろう。戦闘は兵士を強くする。血みどろの内部抗争で鍛えられたモンゴル兵が、機動力を争う野戦で負けるとは思えない。
関ケ原は、裏切りの連鎖で東軍が勝った。ホラズム帝国は、遊牧民族の寄せ集め的な帝国だった。勢いのあるモンゴル側に寝返る部族が続出しただろう。この事情が、ホラズム帝国に籠城戦を選択させたとも言える。
チンギスハンに好敵手ジャムカあり。ティムールに終生のライバル、トクタミシュがいた。チンギスハンは、元親友にして最強の敵ジャムカを壮年にして倒した。ティムールは晩年までトクタミシュに手を焼き、一度は遠征中に後方を突かれてサマルカンドを奪われている。そして晩年になり、和解して降伏を許した。
チンギスハンは壊し、ティムールは造る。サマルカンドとブハラは、ティムールによって蘇った。モンゴルによる破壊の前のサマルカンドは水利システムが完備され、各家に清冽な水が行き渡り、市内には美しい庭園が多く旅人から「庭園都市」と呼ばれた。ティムールはその庭園を復活し、1,000㎡ある12の庭園を造った。残念ながら現存はしていない。
*かつて存在した庭園は想像の中だが、名前が残っている。
「天国」「心を魅了する」「北からの風」「世界の絵」「幸せのある所」etc
西の蒙古襲来を終える前に、シャーの息子ジャラールッディーンの胸のすくような抵抗を書くことにしよう。ジャラールッディーンは、抵抗する勢力を集めてはモンゴル軍に挑んだ。一度はチンギスハンの宿将の大軍を打ち破った。チンギスハンは、最も古くからの部下である将軍を罰し、司令官の職を解いた。
ジャラールッディーンは敗戦すると西に逃れ、キリスト教国のグルジア等を滅ぼし、また反対勢力を集める。チンギスハンはゲリラ戦を挑むジャラールッディーンを重要視し、最優先で追う。
ついにチンギスハン自ら指揮するモンゴル軍団に追い詰められた。インダス河畔の断崖絶壁に、単騎巻き狩りのようにして包囲された。部下は戦死し、残りは四散した。ジャラールッディーンは、鎧兜を脱ぎ、馬を励まして7mはある崖の上からインダス川に飛び込んだ。モンゴル兵は意表を突かれ、インダス川を馬と共に泳いで渡るジャラールッディーンに矢を射かけた。
チンギスハンは、それを見て言う。「矢を射るな。見ておけ、あれが勇者だ。」
そのジャラールッディーンだが、最期はあっけなかった。モンゴル軍に追われ、単身山岳地帯を歩いていた彼は、とある居酒屋でクルド人の騎士と言い争いになる。そして決闘をして死んだ。
クルド人。クルドの騎士。自分の中でクルドがIN PUTされた。高校生の時だ。
義経伝説ではないが、ジャラールッディーンは生きている。生きて今でもモンゴルと戦っている。うわさが中央アジアに広まった。
⑥ブハラ
うわー、やっと観光だね。後は写真で見て。でもちょっとだけ。
カラーンのミナレットがいいね。46m、内部105段。でも今は中には入れない。チンギスハンがミナレットを見上げると、帽子が落ちた。「俺におじぎをさせるとは大したもんだ。おい、壊さないでおけ。」
このミナレットの夜景は圧巻でした。光が、彫刻された装飾の隙間からあふれ出て、地上から天辺まで光輝き、澄んだ夜空にそびえ立つ。
ブハラの旧市街、歴史地区はまとまっているので、歩いて半日で見て廻れる。メドレセ(神学校)、アルク城、モスク。
最後のブハラ・ハーンの父親の宮殿に行った。ブハラ・ハン国は、1868年にロシアによって滅ぼされた。この年、日本では江戸時代が終わり、明治と改元された。
後宮30人の美女が入浴する池が残っている。ブハラ・ハーンは高台のテラスでそれを見て、気に入った女にリンゴを投げ、その夜の相手を決めるそうだ。でもテラスと池は結構離れている。小さいリンゴだったのか。それとも近くまで行ったのか。
宮殿を見て分かる通り、ブハラ・ハーンは相当な金持ちだ。彼は日本の磁器が好きだったようで、コレクションが充実している。大つぼが多い。長崎出島のオランダ商館から出荷され、東印度会社によってジャカルタ、マラッカ海峡、アフリカ南端・喜望峰を廻ってヨーロッパへ渡った有田焼、柿右衛門。しかしここブハラへは、全く別のルートを通って来たに違いない。
はっきり言って、趣味が悪い。サムライ、振袖、高島田。琉球経由か朝鮮か。海を渡って中国に上陸した磁器の大つぼは、駱駝の背に揺られて玉門を超え、西域南道を通ってブハラにやってきた。途中で割れてしまったものも多かっただろう。
ここから先、オスマン帝国の首都、イスタンブールに行ったものもあるだろう。オスマン帝国のトプカプ宮殿の厨房には、日本の磁器の大皿小皿が数千枚残っている。普通の日で数百人分、祭典の日には外部の料理人を加えて数千人分の料理を作っていたのだから、皿はいくらあっても足りない。
⑦ サマルカンド
モスクよりもメドレセ(神学校)が素晴らしい。メドレセは中庭を囲んで、一階は教室や礼拝所、二階は生徒たちの個室になっている。ティムール帝国では、イスラム圏の各地から優秀な若者が集まり、イスラム法典、数学や天文学、医学等を学んだ。
そのレベルは、ルネサンス直前のヨーロッパを遙かに超え、世界最高峰であった。ティムールの孫ウルグ・ベクの没年が1449年。その3年後にレオナルド・ダ・ヴィンチが産声をあげた。現在のウズベキスタンでも神学校が活動している。しかし生徒はウズベキスタン人だけだ。
このドーム屋根、平面なのだ。どう見ても上に窪んで見える。
黒い墓石がティムールのもの。一番大きいのは、ティムールの先生。
*シャーヒズィンダ廟群
アフラシャブの丘の近くにあるシャーヒズィンダ廟群が素晴らしい。緩やかな細い登り道に沿って、ティムール帝国時代の王子、王孫、妃や将軍の墓が、小道の両側に連なる。墓所は美しいタイルに覆われ、歩くにつれ次々にその個性的な姿を現す。道は微妙にカーブしているので、先は見通せない。どこまで続くんだろう。
大抵の墓所は主の名が分かっているが、中にはunknown(誰の墓なのか不明)があり、想像をかきたてる。何となく建物の外観から、墓の主が男性か女性か、武将か若者か、分かるような気になる。想像するのも面白い。
タージ・マハルは見ていないから、これほど美しい墓に出会ったのは初めてだ。死が静謐な美しさに彩られて、楽しくさえある。
この廟群はイスラム教徒にとって、相当重要な巡礼地らしい。濃いい、コテコテのムスリムの人達が集団でお詣りをしている。その服装といい、容貌といい、500年前の人々が不意に現れたようだ。
スゲー、どこから現れたんだろう。じっと見ていたら、サラーム、挨拶された。
余談だが、イスラムの放浪僧。一人で荒野をさまよい、たまにフラっと村や町に立ち寄る男。奇抜な服、変な帽子、こぶこぶの木の杖、瓢箪の水筒。おまけに笛を吹くというから、こりゃ虚無僧だな。
そんな乞食坊主、流浪者のことを
ダルビッシュというそうだ。
*ウルグ・ベク
ティムールは文盲だったが、記憶力が人並み外れていたそうだ。孫のウルグ・ベクは王様でありながら、天文学者、詩人で自身も教壇に立っていた。当時のサマルカンドの天文学のレベルは、世界レベルを200年も先取りしていた。ウルグ・ベクの図書館は素晴らしい蔵書だったのだが、現在に至るも所在が不明だ。この人、王様になりたくなかっただろうな。学問の世界に没頭したかったに違いない。
ウルグ・ベクは長男の謀反で王座を追われる。マッカ(メッカ)巡礼を希望する父に、長男は刺客を送り首を斬り落とす。享年55歳。その長男もまもなくウルグ・ベクの忠臣によって暗殺され、ティムール帝国は滅びる。その子孫は北印度に行き、ムガール帝国を興した。
これはティムール
⑧ ウズベキスタンあれこれ
・親日的な国だ。日本語学校が各地にあるらしい。日本の企業は進出していないのにね。シベリア抑留中の日本人捕虜が好印象を与えている。彼らが作った劇場は、地震に耐えて多くに市民の命を救った。
・日本人観光客が意外に多い。大方は団体旅行客で、年輩の人中心。彼らは朝の出発が早いので、朝一番のホテルの食堂は、日本人によって占領される。夜は一人も見かけなかったのに。
・博物館のような場所でもトイレがない。観光中はトイレにご用心。
・治安がよい。通関・入出国の手続きがスムーズ。VISA不要(30日以内)。ただ出国時にホテルの宿泊証明が必要なので、貧乏旅行には向かない。
・お札(米ドル)はピン札でないと、両替所で拒否される。ちょとのしわでも嫌がる。
・キルギスを含む周辺スタン国の中でも、産油国のアゼルバイジャンと並んで、ウズベキスタンは豊かで将来性が高い。国土をアム川とシム川が並行して流れている。
国土は日本の1.2倍で、人口は3,212万人。石油と天然ガスが出る他に、金の埋蔵量は世界4
位、石炭10位、ウラン7位だ。新しい大統領は、観光に力を入れ、教育に熱心だ。
・旅はいい。綺麗な物を見ると日常の嫌なことなど、実に些細な出来事なのだと思うようになる。サマルカンドは行くべし。後悔はさせないよ。