旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

日本昔話 – お猿の婿入り

2017年01月29日 19時01分59秒 | エッセイ
日本昔話 – お猿の婿入り

 新潮文庫、『日本の昔話』柳田国男著は面白い。昔の日本はどれだけ妖しの世界と現し世が接近していたのか。山で道に迷えば、必ず山姥の家に出くわす。しかし山姥も悪い奴ばかりではない。ここは人を食う者の住居だから泊めてやることは出来ぬ、と言ったりする。
 鬼やら天狗やらはそんじょそこらにいて、人間にちょっかいを出す。狸や狐は用が無くても人を騙す。人も彼らを騙す。とんとむかし或村には、いつでも善い爺と悪い爺が住んでいる。昔話に出てくる爺婆は年寄りと思わない方がよい。年配の男女のことだ。鳥や魚を助けると、道に迷った娘になってやってきて嫁になるが、必ず去ってしまう。うちの嫁は良い嫁だ。蝦蟇だろうが蛇だろうが構わないから家にいな。こんな男はいないものかな。あと村の長者は必ず没落し、正直者は金銀ザックザク。
 数ある昔話の中で、「猿婿入り」だけは納得がいかない。いや納得出来ない話は他にもあるが、これは赦しがたい。要約するとこんな話だ。

昔々ある村の爺が、山畠で働いていた。畠は広くて骨が折れる。ああああ猿でもよいから助けてくれないかな。来てくれたら三人ある娘の一人は嫁に遣るがなあ、と言った。すると猿が一匹ひょっこり現れ、せっせと畠を耕した。こいつはこまった約束をしたわい。家に帰って三人の娘と相談すると、姉二人は猿のお嫁には行かれません、と怒る。末の娘だけがお父さんが約束したなら是非もない、私が行きましょう。嫁入り道具には瓶を一つ、その中に縫い針を沢山入れた。
次の日の朝、猿は婿様の着物を着て娘を迎えに来た。猿は瓶を背負い、仲良く並んで山へ入る。深い谷川に細い一本橋が架かっていた。その橋を渡る時、猿の婿様が話しかけてきた。男の子が生まれたならなんという名を付けよう。猿どのの子だから猿沢と付けましょう。女の子が出来たらなんと名を付けよう。その谷は藤の花がきれいだからお藤と付けましょう。そう言いながら渡るうちに、一本橋が細いのでちょっと手が触れると猿は川に落ちました。そうして瓶を背負ったまま水に流されて行きました。其時猿の婿が泣きながら詠んだ歌が残っています。

猿沢や、猿沢や、
お藤の母が泣くぞかわいや

 娘が付き落としたとは言っていないが、縫い針満載の瓶など悪意が充満している。お猿もお猿だ。一日畠仕事を手伝ったくらいでズーズーしいし、迎えに来るなら付き添いを同行しろよ。爺も独り言くらいで大げさに約束と捉えることはない。
 この話しが悲しいのは、猿が騙されたと思っていないことだ。最期の言葉が〝かわいい〟じゃあ切ないだろ。折角楽しい将来設計を思い描いていたところなのに。だいたい女はやわじゃあない。山賊が姫様を攫ってきても、しくしく泣くのは半年、三年後には「もっとしっかり稼ぎな」と煽っているさ。まったくこの話しで唯一確かなのは、もし二人で暮らしたならば、お猿は娘も生まれてくる子供たちも大切にしたに違いない、ということだ。
子供たちがこの話しを聞いたら、どう思うだろう。お猿さん可哀そう、と言うんじゃないかな。
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途中下車

2017年01月26日 19時31分31秒 | エッセイ
途中下車

 先日途中下車して、子供の頃に住んでいた家の周辺や小学校への通学路を歩いてみた。横浜市立戸部小学校は、今は無い。廃校になって養老院らしきものになった。自分が通っていた半世紀前で、すでに開校百年を過ぎていた。戸部農村の寺子屋から始まったのか。校歌の中に『ネオンの巷見降ろして---』巷(チマタ)って何だよ。説明されても子供には分かんねー。何だか色っぽいものなのかな。
 自分の家は戸部七丁目で、学校からは一番遠かった。1kmは離れていた。もう少しで別の学区(平沼小学校?)だ。ちょうど通学路の中間にある亀田病院は、建て替えたらしく以前より多少ましな建物になっていた。ここには大学の時2週間ほど入院したが、その当時でも中も外もボロボロだった。でもインターンの看護婦さんは可愛いかったな。
 50年経って随分と変わった所もあり、ちっとも変っていない場所もある。全体に開発に取り残された、変わり映えのしないところが多かった。むしろ寂れた印象だ。横浜駅の東西やみなとみらいとはえらい違いだこと。そしてどの家も場所も、子供の時の印象と比べてずっと小さい。道も驚くほど狭い。毎日のように遊びに行っていた親友の家は、周辺ごとすっかり取り壊されてビルになっていた。同級生の豆腐屋の看板は、すさまじく錆びているが全く変わりがない。でも商売はやっていないし、人が住んでいるのか分からない。
 月面着陸「アポロ」という名の喫茶店は、驚いた、まだ同じ名で飲食店をやっている。少年をドキドキさせた女性のいた床屋も、いつも混んでいた小児科医院も今はない。駄菓子屋もなくなっている。子供同士で行っていた一杯40円位のお好み屋は、ヒエーまだお好み屋さんだ。一人単価数十円、数百円の商売で50年生きてきたのね。健気なもんだ、世代交代はしているだろうに。思えば昭和30年代は、路地はガキであふれていたが、今は年寄りがチラホラいるだけ。
 同級生の女の子の家はまだ昔のままだ。でも空き家のようだ。玄関のそばにピンクのビニール傘が掛けてある。この家もこんなに小さな家だったんだ。こんなに小さくて、妖精の住処だな。この家の前の空き地は、放課後の三角ベースボール場だったが、今はアパートで埋まっている。この家のお母さんには、よく麦茶やジュースを御馳走になった。この家に住んでいたきれいな女の子は、大人になって女優になった。名前を聞けば大抵の人は分かるが、ナイショ。やはり同級生の女の子の両親がやっていた銭湯は廃業していたが、背の高い煙突はそのまま残っている。お化けダンダンは健在だ。ここは高台でみなとみらいがよく見える。こんなに小さな階段だったのね。これも驚いたことに、通学路の学校近くの狭い道にある小さな銭湯は、まだやっている。風呂釜は薪で焚いているようだ。50年、この小さな商売をよく続けたものだね。今度入ってみようかな。
 同じような感想が続くが、もう少し待ちなさい。人の感傷に付き合うのは、大人のやさしさだよ。通学路とは反対側になるが、母親とよく買い物に行った平沼商店街にも行ってみた。相当寂れている。商店街の看板が錆びちゃっている。ここが賑やかだったのは戦前の話だ。母が金太郎と名付けた威勢の良い親父がやっていた八百屋は、何だか寝ぼけたような飲食店になっている。他の店も大方は廃業、変わらないのは踏切の脇の質屋くらいか。あと写真屋さんも健在、ちょっと嬉しい。確かオモチャ屋があったのはここら辺。でも記憶違いかも。古くからある天ぷら屋は健在だったが、実はこの店で食べた記憶はない。この様子じゃあ、夏の縁日はやっていないだろうな。
 かもん山公園、横浜開港の恩人、桜田門外の変で果てた井伊掃部守の大きな銅像のある公園。ここは図書館、音楽ホール、青少年センターと隣接していて中高生の頃によく通った。そんなに変った風ではない。そういやあそこで不良に絡まれた。今はどうやら、昔の子にはそんな事がよくあった。桜の頃ならともかく、今は寒いので人は少ない。ここを今回のセンチメンタルジャーニーの終着駅としよう。キリが無いからね。ここでちょっとした感動に出会った。
 かもん山公園は、丘全体が公園で天辺に銅像、中腹に池、ふもと近くに広場がある。その広場のようなスペースには砂場があり、お母さんが子供を遊ばせている。自分が頂上を目指して歩いていると、上の方から自転車に乗った少年(まだ1.2年生くらい)と、幼稚園がせいぜいの赤い服を着た女の子がかなりのスピードで降りてきた。少年が先で、女の子がやはり自転車にしがみついて、ゆるやかなカーブを通り過ぎる。少年が大きな声で言う。「僕についてきて!」「ハーイ」と女の子。恰好ええ、女の子のハーーイも良かった。っとそれだけの話。
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ニューギニア戦線

2017年01月20日 17時20分06秒 | エッセイ
ニューギニア戦線

 太平洋戦争開始間もなく1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。ニューギニアの戦いの始まりである。真珠湾奇襲、香港占領、フィリピン攻略、シンガポール占領、インドネシア進攻と初期の作戦が尽く成功した日本軍は、広大な南方資源地帯を手中にした。そこで第二段階、ところが頭の悪い軍人はこの先の作戦が何も無いことに気づく。
 手にした占領地は広く、石油・ゴム・鉄・アルミ・食糧・労働力を確保した。ところがその先の戦略、構想は無かった。だから軍人に国を任せてはならない。付け焼き刃のように出されたのが、米豪遮断作戦と前線を固めて米軍の反撃に備えるというものであった。小国が大国と戦ってじっくり構えたら、勝てるとは思えない。小兵力士は常に先手を取って動き廻らなければ、大きな相手には勝てない。相撲なら時間をかければ大きな力士が疲れることもあるが、生産力で10倍上回るアメリカに時間を与えては、不利になるばかりだ。それもある時点からは加速して差がつき、その差が開いて行く。
 日本軍はトラック諸島に海軍基地を置き、ニューブリテン島ラバウルを攻略し前進基地とした。しかしオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から、ラバウルは爆撃圏内であった。そこでポートモレスビーに海路上陸する作戦を立案した。しかしこれではキリがない。あそこを取ればその先も、さらにもっと先まで手に入れたい。本土を離れれば離れるほど、物資の輸送のリスクとコストは上がる。輸送船の数には限りがあり、シーレーンの防衛に戦力を割くのは痛い。
 ニューギニアはグリーンランドに次いで世界で2番目に大きな島で。面積は日本の約2倍、熱帯に位置するが、山脈は4~5,000m級の山が連なり万年雪を頂いている。目ぼしい地下資源は無く、帝国主義にとって魅力に乏しいこの島は19世紀にはオランダ。ドイツ、イギリスが分割していたが、利用していたのは沿岸部だけだった。大戦当時はほぼオーストラリアの統治下にあった。
 ポートモレスビーはオーストラリアにとっては本土最後の防衛線で、フィリピンを脱出してオーストラリアに間借りしていたダグラス・マッカーサーにとっても、対日反攻ルートの起点であった。地図を見てみると分かるが、西部ニューギニアとフィリピンは意外なほど近い。1942年のオーストラリアはかなり追い詰められていた。主力部隊は、北アフリカでロンメル率いるドイツアフリカ軍団と戦っているか、シンガポールで降伏して捕虜になっていた。
 海上からポートモレスビーを攻撃する作戦は、珊瑚海海戦によって中止された。海戦は日本軍優勢で終わったが、空母部隊、特に艦載機の損害が大きくて輸送船団の護衛が出来なくなったのだ。船団に乗っていた南海支隊は北東部のブナに上陸する。そして思い付きのように2,000mを超す山脈越え、陸路でのポートモレスビー攻略が開始された。
 戦時中の『日本ニュース』の中で、ニューギニアの自然環境を「千古斧鉞を知らざる樹林」「瘴癘の暗黒地帯」「悪疫瘴癘の蛮地」と言っている。日本軍は方位磁石も持たず、案内人もいないままマラリアの蔓延するジャングルに分け入った。しかし自然環境の過酷さは、守るオーストラリア軍にとっても同じことだ。マラリア、アメーバ赤痢、デング熱、腸チフスによる熱帯性の感染症によって、両軍兵士はバタバタと倒れた。
 それに加えて日本軍は栄養失調による餓死者、病死者が戦闘による戦死者を上回った。連合軍はDDTを撒いてマラリアを仲介する蚊を駆除し、卵や飲み水まであらゆる種類の缶詰を前線に送った。キャンプ地では家畜を放牧して新鮮な肉を供給し、クリスマスにはケーキを出した。日本軍はガダルカナル島の攻防戦に全力を傾け、ニューギニアへの補給は滞りがちになっていた。制空権も徐々に失われていた。そのガダルカナルの日本兵2万に対する補給にも窮し、兵士は次々に餓死していた。
 現地で食える物は何でも食った。原住民はサゴヤシからデンプンを取り、タロイモ、バナナ、ヤシの実を食べている。日本兵はヤモリ、トカゲ、ワニ、ノブタ、ネズミ、ヘビ、カエル、モグラ、ゲンゴロウ、トンボを捕えるが、部隊で食うほどの量はない。特に山岳地帯には食べるものが何もない。オーストラリア軍は日本兵の頑強な抵抗に遭い、彼らはジャングル戦のエキスパートに違いない、と判断したが日本兵はジャングルに入るのは始めてだった。
 ニューギニアの密林で台湾出身の山岳民族、高砂義勇兵が活躍した。健脚、卓越した方向感覚は生まれつきのもので、使命感と忍耐力が抜きん出ていた。彼らは偵察と主に輜重兵として、前線の部隊に食糧・弾薬を届けた。高砂義勇兵が前線にたどり着く直前に、背のうに山ほど詰め込んだ米には手をつけずに餓死した話はあまりに悲しい。
 道無き道を行き2,000mを超す峠を越えてポートモレスビーまで直線距離50kmまで迫ったが、食糧弾薬尽き日本軍の進撃は止まった。オーストラリア軍の必死の抵抗によって時間を取ったことが痛かった。オーストラリア軍の防衛線はあと一つで、そこを抜けば遮るものがない、という両軍ともぎりぎりのところであった。ポートモレスビーの街の灯りを見つつ、餓えた日本軍は撤退した。帰りは戦死した戦友の墓標を抜き取って痕跡を消した。しんがりの部隊は、敵の反撃を2週間防ぎ全滅した。
 そのころ日本軍はミッドウェー海戦で虎の子の4隻の正規空母を失っていて、ポートモレスビーに構ってなどはいられなくなっていた。その後のニューギニア戦線は負ける一方だった。何度も攻勢を取るが、銃弾を数えて撃つような攻撃は長続きしない。最後の頃の攻撃は人減らしのためではないか、餓死より戦死を選ぶ、と思われるものになった。サゴヤシのデンプンには限りがあったのだ。
 原住民は日本軍にも連合軍にも味方し、また敵となった。元々彼らは一枚岩ではなく、谷一つ違うと言葉が変わるという。日本兵が彼らのサゴヤシを奪い、タロイモ畑を荒らすのは日常茶飯に見られた。末期のころは、原住民の人肉食の禁止令が出ている。原住民が人肉を食うのではない。日本兵が餓えて彼らを食うのだ。1943年に、駆逐艦〝秋月〟に乗せてラバウルに移送中の女子供を含む原住民と宣教師を、海上で殺して捨てた「秋月事件」が起きている。この戦争での現地人の犠牲者数は明らかではないが、4万とも5万人ともいう。
 陸軍航空部隊は、悪条件下よく戦った。最初にラバウルに送られた一式戦・隼が連合軍のロッキードP-38に対抗出来なかった。P-38は徹底して格闘戦を避け、高速ダイブで戦ったので隼では追い付かない。そこで新鋭機、三式戦・飛燕(ひえん)を送った。飛燕はライセンス供与されたダイムラーベンツ社の液令エンジンを使っている。ただでさえ整備の難しいエンジンを、補給もままならぬ最前線に送り込まれた整備兵は大変な苦労をした。しかし飛燕は優秀だった。しだいに稼働率を上げ、圧倒的に優勢な連合軍に対抗した。
 敵には無尽蔵の補充があったが、こちらは滅多に補充機が来ない。空中戦で受けた敵機銃弾の穴を何度も埋めたために、速力が低下した。しかしニューギニアの航空隊に思わぬ贈り物が届いた。ドイツから輸入したマウザー20mm機関砲である。マウザー砲を搭載した改造飛燕は、双発のB-25、4発のB-24といった爆撃機をも空中分解させる威力を発揮した。同じ20mm機銃でも、零戦に使われている国産の物よりずっと高性能だった。航空隊は驚いたことに1944年まで戦っているが、根拠地のホーランジャが大空襲を受け、残っていた装備機がほぼ全滅する。
 間もなくホーランジャに米軍が上陸し、装備機を失った航空隊は山中に撤退して抵抗した。7月には戦隊が解散し、残った最後の飛燕3機が100機以上の米航空隊と空中戦を繰り広げて散り、ニューギニアに於ける空の戦いは終わった。1944年7月といえば戦場はニューギニアの遥か後方、サイパン島が玉砕する時だ。前線のとんでもない後方でまだ戦っていたのだが、内地の誰もが忘れている戦場であった。
 敵は本土に迫り、ニューギニアなどにはもう全く戦略的な意味はない。時期を見て撤退すれば良かったのだ。撤退の案は何度か出ていたが、大本営は踏み切らなかった。逆に1943年、日本軍は将来のポートモレスビーの攻略に備えるとして、兵を続々とニューギニアに送りこむ。ガダルカナルへの投入が予定されていた第51師団をニューギニアに送った。2月下旬には7,300名を載せた輸送船団がダンピール海峡で連合軍の反復攻撃を受け、輸送船8隻全てと駆逐艦4隻が撃沈され3,600名が戦死した。
 成功した輸送もあり、また小規模に分かれた舟艇や駆逐艦による輸送により、ついには20万人をニューギニアに送りこんだ。1944年に至ってもニューギニアに増援部隊を送っている。負けた博打の金を取り戻す為に、小出し小出しでつぎ込む必敗のパターンだ。しかし制空権・制海権を失っての輸送は困難を極め、戦力の大半は到着前に米潜水艦によって沈められた。ガダルカナルと同じで、かろうじてたどり着いた兵は食糧も武器も弾薬もなく、到着した日から飢えに苦しむ。いかに精強な日本兵でも、弾丸も足らず食いものが無くては優勢な火力の前に、連合軍には勝てない。
 その後連合軍が空襲、砲撃、海岸線に上陸、日本軍は4000m級の山岳地帯を越えて撤退、また立ったまま寝るしかない大湿地帯を越えて撤退。その都度、装備と万を超す将兵を失い、兵力は半減或いは1/3に減った。山では凍死、墜落死、餓死、過労死、自決。沼地では病死、ワニに食われて、毒草を食って中毒死、自決。行軍はそのまま死者の連なる道になった。分断されたまま終戦まで生き残った小部隊もいる。
 また日本軍としては珍しく、中佐以下42名で集団降伏している(竹永事件)。ここまで見捨てられた状況で、降伏しないほうがおかしい。米軍は飛び石作戦で日本本土に迫り、遊軍と化したニューギニア残留日本軍など放っておいた。日本軍は、後を引き継いだオーストラリア軍の掃討部隊と終戦の日まで戦った。東部ニューギニア戦線に投入された将兵は16万、西部ニューギニアを含めると20万人以上が戦いに参加した。
 その内、生きて内地の土を踏んだ者は2万人。実に10人に1人の生還率であった。ニューギニアに赴いた船員などの軍族や民間人、シンガポールの戦いで降伏し、その後チャンボラ・ボースの独立軍に加わり、日本軍と共に戦ったインド兵などの戦病死者の数は明らかではない。連合軍は、オーストラリア軍8千、アメリカ軍4千がニューギニアで戦死した。
 東部戦線、第18軍の安達司令官は、温厚で将兵と苦難を分かち合いよく部下を掌握したという。戦後ラバウルに収容され戦犯容疑で裁判を受けたが、部下の弁護に力を尽くし、全ての責務を果たし自決した。
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林住期・遊行期

2017年01月18日 17時30分28秒 | エッセイ
林住期・遊行期

 この数年、ブログにささやかな我が人生と、今まで疑問に思っていたよしなし事などを書き綴ってきた。名も知れぬ庶民の小さな営みにも、案外色々な出来事があるもんだ。このように文章にして吐き出すことは、精神衛生上、大変よろしい。付き合わされる皆さん、ありがとう、ご苦労さん。読者の皆さんは入れ替わりつつ、常に毎日数十人、なかなか100人とはいかないが、大きな手応えと励みになります。
 便利な世の中で、インターネットで検索すると智識の元が簡単にザクザクと出てくる。縮小してプリントした紙が紙袋一杯になった。しかし自分で書いたことでも忘れる。マリ王国の黄金王は誰だっけ。何王の巡礼?あっマンサ・ムーサだ、とかね。
 林住期という言葉は、五木寛之氏の本によって有名になったが、言いだしたのは3,200年も昔の印度人だ。バラモン教の経典『リグ・ヴェーダ』に始まるこの考えは、仏教にもヒンズー教にも引き継がれた。人生を4段階に分けて考える思想だ。

期 原語/音読み 日本語訳 解説 年齢
1 Brahmacarya
ブラフマチャーリヤ 学生期
がくしょうき 修行に励む時期 0 – 25
2 Garhasthya
グリハスタ 家住期
かじゅうき 職業と家庭をもって社会生活を営む 25 – 50
3 Vanaprasthya
ヴァーナプラスタ 林住期
りんじゅうき 仕事と家庭を捨てて森に住む 50 – 75
4 Samnyasa
サンニャーサ 遊行期
ゆぎょうき 森を出て、天下を周遊し、人の道を伝え、
生涯の結実を世に残す 75 -


年齢はまあ大まかな目安とすれば良い。実際シャカは16歳で結婚して29歳で出家した。まあおませなお人。この四住期説が楽しいのは、森に住む林住期の後に、何やら楽しげな遊行期が待ちうけていることだ。遊行期、遊行僧、昔の印度では老人が生きている間に、家族に別れを告げて物乞いをしたり、物語の話し手となったりして、気の向くままに風に吹かれて流れ歩き、最期は草原の木陰で行き倒れて息を引き取ったのかと想像される。
 明らかに林住期真っただ中の自分は今、瞑想のトレーニングを始めた。とにかく体をリラックス。鼻で吸って口から吐く。鼻から吸って口で吐く。瞑想とは呼吸法である。何も考えないから、精神だの神だのとは無縁だ。いずれ不思議の国ミャンマーの瞑想ビザを取って、メディテーションセンターで修行だ。そのための準備の一つが瞑想のトレーニング。
 人の脳からは、微弱な電気信号が出ている。それを脳波(Brain wave)という。それは1秒間に振動する波長(Hz)によって4つに分けられる。

脳波の種類 周波数帯域 特徴
β(ベータ)波 14Hz~ ・完全に起きていて仕事や家事の日常生活時。
・あれやこれや考えている時。
・緊張や不安状態にも。
α(アルファ)波 8~14Hz ・リラックスして心身とも落ち着いている状態。
・集中力や学習能力が高まる。
θ(シータ)波 4~8Hz ・眠る直前のうつらうつらして、まどろんでいる状態。
・禅や瞑想時の状態。
・創造力や記憶力がUPする。
δ(デルタ)波 1~3Hz ・ぐっすりと深い眠りに落ちている状態。
・ほぼ無意識な状態。

通常、人はイライラせかせか、振動の大きいベータ波で生活している。またそうでなければ車に撥ねられるし、後ろから来た人にぶつかる。温泉に入ってハー気持ちエーとなった時には、アルファ波が出るそうだ。あんまりブルンブルン振れないのね。瞑想はアルファ波の先のシータ波を目指す。最初はアルファ波とシータ波の境目を、眠らないようにして行ったり来たりする。そこまで行くのが大変なんだが、修行を重ねるとシータ波が頻繁に出てくるそうだ。
しかしそれで終わりではない。高僧、先達の瞑想ではデルタ波というほとんど振幅のない脳波が出るという。ここまで行くと、睡眠は必要なくなる。おシャカ様の修行も最初の6年は断食やら苦行だったが、無駄を悟りやせ細った体で沐浴し、村娘スジャータから乳かゆをもらう。その後は菩提樹の下でひたすら瞑想を行い解脱した。
ミ ャンマーのパゴタでは経を口ずさむ人、ひたすらお祈りする人、昼寝をする人、弁当を食う家族に混ざって瞑想する人がチラホラ見える。その姿はなかなかカッコえー。とはいえラオス・タイ・カンボジア・ミャンマー・スリランカ(まだ行ったことがない)といった上座部仏教国でも、僧侶が必ずしも瞑想をしている訳ではないようだ。古代語・経典等の勉強中心、写経・読経中心とか、何もしないでノンベンダラリ寺とか、個々の寺によって修行の内容はまちまちであるらしい。
自分は坊さんになる予定はないが、瞑想によってどんな世界が開けるのかワクワクする。デルタ波の瞑想ってどんなだろうね。そこまで深く潜ると、自分でもなく、人でもなくなって何か根源的な物に触れられるのかな。

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インドのインド人

2017年01月13日 20時26分19秒 | エッセイ
インドのインド人

 たまに古本屋で下川裕治氏のアジア物の本を100円で買う。それを読むとホっとして記憶がよみがえる。この手の記憶をたくさん持っていることは幸せだ。蒸し暑い亜細亜の夜に記憶を馳せて、再びあの中に身を置きたい。甘ったるい果実の香り、遠くで鳴るクラクションとゆっくりとした抑揚の人声、チチっと鳴くヤモリは蚊を追って忙しい。雨の匂いを含んだ風、ボヨヨンと締まりのない月。けだるくて甘くて蒸し暑い、亜細亜の夜。
 でもインドは自分にとってそれほどの魅力はない。タージ・マハルは見てみたいが、北インドのあの厚かましい人達とまたやり合うのは気が重い。だいたい彼らは視線がキツイ。真正面から表情も無く、視線光線を浴びせてくる。白目と黒目のコントラストが強い。放っておいてくれないかな。何でこんなに構ってくるの。インドからネパールに入ると、全身から力が抜けてホっとした。街を行き交う人々が、伏し目がちに視線を落としてすれ違うんだ。うわっやさしい国だと思ったよ。
 もっとも自分がインドをほっつき歩いていたのは40年も前のことだ。ここはソドムかゴモラじゃないか、と思ったカルカッタも今じゃ地下鉄が走っているらしい。でもたぶん今でもあまり変わらないのではないかな。インドでは街に女がいない。表を歩いているインド人は男ばっかりだ。それが嫌だな。東南アジアじゃ、元気なのは女ばっかりなのに。中東なら最初から分かっていることだけど。
 下川氏がインドで乗り合いタクシーに乗った時、珍しく女性、それもサリーを着た飛び切りの美人と乗りあわせた。オっと思った下川氏。ところがその凄みのある美人は氏に声をかけず目を合わせず、大きなトランクを下川氏のヒザの上にドンと置いた。下川さんは唖然として、従者のようにジっとしているしかなかった。
 ハハハ、これは俺には良く分かる。似たようなことなら2度目のインドで体験した。デカン高原のオーランガバードからボンベイ(現ムンバイ)へ向かう長距離バスの中で出会った。このバス、砂漠のど真ん中でエンコした。ドライバーと乗客、いったいどこから現れたのか地元の親父、ワーワーギャーギャー話しあうが、一体いつになったら動くやら。バスの中で座っているのにも飽きて、砂漠に寝袋を出して寝ることにした。
 もう夕方で眩しくはない。動き出したら起こしてくれ、と数人の乗客に声をかけ、荷物を目の前に立てかけて寝た。何時間たったのか。インド人に起こされた。「お前、よくこんな所で寝るな。そこら辺にスコーピオンがいるじゃないか。」「えっ、そういう事は先に言ってよね。」まだ暗いが時間は分からない。前に乗った別のバスで、目つきが変な(インド人なのに目を合わさない)男が隣に座り、4-5時間かけてこっちがいねむりした時にポケットから腕時計を抜き取った。中古のバッタ品で300円ほどのものだから、悔しくても別に惜しくはない。惜しくはないが、無いと時々困る。移動の時などだ。当時のインドの空港には、壁に全然時計が無くてまた驚いた。おっと話が長々と脱線した。
 エンコした長距離バスは、結局ボンベイまで半日は遅れ24時間以上かかった。のどが渇くよね。俺はその時、インドで買ったペラペラな水筒を持っていた。チビチビと節約して飲んでいたのだが、後ろから首筋を触ってくる指がある。触れるか触れないかくらいだから、最初は気のせいかと思った。振りかえると母親と二人の娘(小学生くらい)だ。この3人が二人掛けの後席から、険しい目つきで俺を睨み口に手をやる。後でバスのエンコによって時間が伸び、渇きに苦しむことを、その時は知らなかった。
 かわいそうだから、半分以上入っていた水筒を母親に渡した。「ありがとう」ニコっ、なんてリアクションは全然なく、ひったくられた感じだ。しばらくするとまた首すじをトントン。無言で空になった水筒を戻された。振りかえると、瞬きもせず、6つの目で睨まれた。

 誤解の無いように付け加えるが、インドでもとても親切な人はいる。感じの良い女性だっている。列車で知り合った30代の夫婦からは、費用はかからないからヨガの道場に行ってみないかと、熱心に勧められた。行ってみても良かったな。
 スリナガールへ行く夜行列車で乗り合わせたビジネスマン風のオジさんもいい人だった。僕ら(日本人4人、内女性が一人)がトランプの大貧民で盛り上がっていると、しばらくして声を掛けてきた。「君たち、それってお金を掛けているの?」怒られるかな、僕らはちょっと困って言った。「ハイ、掛けています。」「フーン、いくら掛けているの?」「1ルピーです。」「1ルピーか」両目を微笑でクシャクシャにしてオジさんは、スリナガールの街のこと、注意すべきことを、僕らにも分かるやさしい英語で色々と教えてくれた。
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