旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

捷一号作戦 – レイテ沖海戦   

2016年08月27日 12時52分06秒 | エッセイ
捷一号作戦 – レイテ沖海戦   

 マリアナ沖海戦に大敗した日本軍は、1944年7月にサイパン島を失い、絶対国防圏はあっけなく突破された。米軍が次に攻めてくるのはどこか?主導権は敵にある。予想される進攻方面に備えて、日本軍は4つの作戦を立てた。
捷一号作戦 - 比島(フィリピン)方面
捷二号作戦 - 九州南部、南西諸島及び台湾方面
捷三号作戦 - 本州、四国、九州方面及び小笠原諸島方面
捷四号作戦 – 北海道方面
 このうち捷一号作戦は、米軍のレイテ島への進攻を受けて1944年の10月に発動された。捷2,3,4号は米軍主力の進攻が無かったため、発動されることはなかった。米軍はフィリピンに来た。油を断てば戦は続けられない。インドネシア、フィリピンの石油、ゴム、ボーキサイト等の資源を断てば、日本の戦争継続能力は枯渇する。
 しかし実は当初は、中華民国との関係を重視して台湾- アモイに至るルートが有力だった。その場合はフィリピンを素通りすることになる。米軍得意の飛び石作戦だ。しかしマッカーサーはフィリピンに多くの利権を持ち、戻って来ると約束した手前、どうしてもフィリピンに戻りたかった。ルーズベルトは、マッカーサーが共和党から次の大統領選に立候補することを警戒していた。そのためマッカーサーに手柄を立てさせないようにしたくらいだ。マッカーサーは大統領選に不出馬を宣言して、ルーズベルトにフィリピン攻略を約束させた。こんなことで台湾とフィリピンの運命が決まったのか。
 まともに考えて、マリアナで負けサイパンを失った時点で、日本には戦争に勝つ見込みが無くなっていた。日本が原爆でも持っていたら別だが、兵器と物量の差で今では子供と大人の戦いになってしまった。とはいえ帝国海軍にはまだ戦艦も空母も残っている。いかに戦力差が大きかろうと、戦う手段を持っていながら降伏することなどは考えられない。一矢報いる、ひと泡吹かせることくらいはまだ出来る。一度敵に大打撃を与えて講和に持ち込みたい。1944年10月23~25日にかけて行われた一連の海戦は、その規模と広範囲な戦域から史上最大の海戦と言える。
 連合軍(オーストラリア海軍の支援を得たアメリカ軍)の目的はレイテ島奪還。日本軍の目的は進攻阻止。この海戦によって、一時は太平洋を席巻した連合艦隊は壊滅した。海戦を細分化すればシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬海戦、サマール沖海戦の4つからなる。日本軍の指揮官は栗田、小沢、西村、志摩。米軍はハルゼーとキンケイドだ。
 参加戦力は日本が航空母艦4、戦艦9、重巡13、軽巡6他、駆逐艦34。まだこんなに残っていたのか。損害は空母4、戦艦3、重巡6、軽巡4、駆逐艦9沈没。対する連合軍の戦力は航空母艦17、護衛空母18、戦艦12、重巡11、軽巡15、駆逐艦141。損害は航空母艦1、護衛空母2、駆逐艦2、護衛駆逐艦1沈没。
 数字だけ見ると日本軍の一方的な敗北に見えるが、事実は違う。日本軍の仕掛けた罠に米軍がまんまと嵌り、日本軍は勝利をほとんど手中にしていた。どういうこと?しかけた罠とは?日本軍の目標は何だったんだ。海戦の推移を見てみよう。

 サイパン島が陥落した時点で東条は失脚し、小磯内閣が誕生した。東条が次に表舞台に出てくるのは、東京裁判だ。しかし陸軍軍人とはいえ、予備役に引いていた小磯に陸軍を抑える力はなく、むしろ陸軍、特に参謀本部の発言力が増す結果となった。
 連合艦隊は8月10日にマニラで会議を行い、捷一号作戦の内容を確認した。機動部隊(小沢艦隊)が米第38任務部隊(ハルゼー艦隊)を北方に誘い出す。基地航空隊は上陸軍の輸送船団を攻撃する。第一遊撃部隊(栗田艦隊)が米軍上陸地点に侵攻し、輸送船団及び上陸した部隊を殲滅する。栗田艦隊は敵の上陸から2日以内に突入、基地航空隊の攻撃はその2日前から始める。マッカーサーを吹き飛ばせ。物資と輸送船を失った上陸軍に地上軍が襲いかかり、海に追いおとす。
 神重徳参謀は、敵輸送船団殲滅の為なら艦隊をすり潰しても構わないと言った。目的はあくまでも上陸点の粉砕である。確かに連合軍の上陸作戦を失敗に追いやるにはこの方法しかないだろう。日本軍としては珍しくターゲットが揚陸した物資と輸送船だ。栗田の参謀、小柳は以下のように発言する。ちょっと長いが、後で重要になるので記載する。
 連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向かって突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。
 神参謀はこれを了承した。ここにこの作戦の失敗の種は蒔かれた。ぐだぐだ言わずに輸送船を根こそぎ沈めろ。海岸に積み上げた戦車や武器弾薬、食糧、医薬品を吹き飛ばせ。この海域だけで12隻いる戦艦を3隻4隻沈めても戦局は変わらないが、上陸部隊を粉砕すれば流れは変わるかもしれない。この作戦は非情だが理に適っている。フィリピンを失えば油が断たれ海軍は終わる。敵戦闘機の性能は零戦を凌駕し、数の差は今や1対10だ。米軍はパイロットを大量育成し続々と前線に送り込む。日本は航空燃料の欠乏によって、まともな訓練を行えず、ベテランの相次ぐ戦死によって技量は低下するばかりだ。空母への離発着もままならないヒヨっ子は初陣を生き残るのが至難だ。艦隊を日本に呼び戻しても、内地の重油は枯渇しているので、大規模な作戦は行えない。ならば、乾坤一擲、上陸点粉砕にかけてみよう。
 神参謀は海軍主戦派の一人だった。自分達が起こした戦争を、連合艦隊の全滅をかけてでもここで食い止める覚悟だったのだろう。ならば栗田に任せるのではなく、自分がついて行けば良かったのに。
 太平洋戦争は陸軍の暴走によって引き起こされた。その象徴が東条英機だと言われるが、実は海軍が積極的に開戦したことを忘れてはならない。陸軍軍人の良識派が閑職に追いやられたように、三国同盟に反対し対米戦などもっての他だという、米内光政や山本五十六のような海軍軍人は脇に追いやられていた。そもそも陸軍は中国大陸に釘づけにされ、100万の精兵が身動き取れなくなっていた。打つ手はなくなり、開戦の理由の一つが援蒋ルートの遮断であった。米英軍と戦う主力は海軍だ。陸軍はむしろ腰が引けていて、海軍にお伺いを立てるような有様だったのだ。開戦には陸軍だけでなく、海軍そして昭和天皇の責任もないとは言えない。
 
 アメリカ軍はフィリピン奪回の陽動作戦として、第38任務部隊が10月10日に南西諸島、12~14日に台湾を空襲した。日本軍台湾基地航空隊は全力をもってこれを邀撃、台湾沖航空戦が展開された。米軍は12日に1,398機、13日に947機、14日も出撃して台湾の航空基地を攻撃したが、日本軍の迎撃は激しかった。日本軍航空隊は夜間攻撃を含め、16日まで反復して米艦隊を攻撃し、以下のような大戦果を得た。その大本営発表を合計すると、「空母18隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、駆逐艦等艦種不明15隻撃沈・撃破」これが事実なら米機動部隊は全滅に近い。ところが実際の戦果は、巡洋艦2隻中大破に過ぎなかった。米艦隊はほとんど無傷だったのだ。
 志摩艦隊は残敵掃討に急行したが、ハルゼーの部隊とはすれ違っている。もし会敵していたら、全滅しただろう。パイロットの申告を無条件で集計したこの幻の大戦果は国民を熱狂させ、天皇のおほめに与り、一瞬アメリカの株価を急落させたが、その代償は大きかった。海軍では偵察機が壊滅したはずの機動部隊を発見して、大戦果が誤認であることにほどなく気がつく。しかし海軍は誤認を陸軍に告げなかった。そのため陸軍はルソン島での迎撃方針をレイテでの決戦に変え、決戦兵力をレイテに送り、(壊滅したはずの機動部隊の空襲に遭い)装備・物資の過半を失った。さらにルソン島の欠員を補うため台湾から第10師団をルソンへ、沖縄から台湾に第9師団を移動させた。結果的に沖縄戦で戦力の不足をきたした。沖縄戦では3個師団のうち、最も精鋭の師団を失い残りの2個師団で戦った。それでもあれだけ米軍を苦しめたのだ。もし第9師団が残っていたら。これは負の循環だ。都合の悪い情報を友軍にまで隠すとは、子供か、帝国海軍。
 ともあれ台湾基地航空隊は、この戦いで壊滅状態になり、捷一号作戦へは限定的にしか参加出来なかった。小沢機動艦隊の艦載機も台湾沖海戦に参加して著しく消耗した。最早通常の攻撃では敵にかすり傷しか与えられない。在フィリピンの航空隊も9月10日ダバオに空襲を受けた際、海岸の見張所が敵の上陸を誤認し全力出撃したため、100機に満たない数にまで減っていた。これでは1~2回の出撃で消える。このため特攻を決意するのだが、それは後の話だ。
 捷一号作戦の開始にあたって、連合艦隊は燃料の確保に苦しんだ。予定していたタンカーは次々と米潜水艦に沈められ、栗田が強引に現地で徴用したタンカー2隻をブルネイに回航したが、結局間に合ったのはこの2隻だけであった。艦隊は燃料節約の為に速度を落として航行し、待ち構える米潜水艦に測的の余裕を与えた。志摩艦隊はコロン湾で給油と言われて到着したが、タンカーはいず巡洋艦から駆逐艦に給油して凌いだ。小沢艦隊に随行した2隻のタンカーも米潜水艦に沈められた。
 一方米軍は、タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦26隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻からなる役務部隊を小グループに分割し、根拠地ウルシーとの間を往復していた。ローテーションを組み補給点には常時満タンのタンカー9~10隻が待機していた。空母への補充機と搭乗員、弾薬・備品はたちどころに補給され、冷蔵船や郵便船も用意された。本作戦では補給点は6ヶ所あり、日本軍はそれらを発見出来なかった。
 さて台湾沖航空戦の直後、10月17日早朝に米軍はレイテ湾スルアン島に上陸。現地部隊は米軍の接近を全く察知出来ず、完全な奇襲となり島の海軍見張所は上陸を告げると直ぐに消息を断った。陸軍はこの情報を信じなかった。台湾沖航空戦で機動部隊が壊滅した米軍が、上陸作戦を行うはずがない。またダバオの時と同じく誤報だろう。しかし台湾沖の戦果が幻であることを知る海軍は、ただちに捷一号作戦を発令した。
 小沢機動部隊は内地にいたが、寄せ集めの航空戦力を急きょかき集めて出港を急いだ。米軍は18日から猛烈な空襲と艦砲射撃を始め、20日になってレイテ湾最深部タクロバンに上陸を始めた。在フィリピンの陸海軍航空隊は攻撃を加え、何隻かの軍艦に損傷を与えた。21日には神風特別攻撃隊が初出撃したが、会敵出来なかった。22日朝、ブルネイで補給した栗田艦隊はレイテ湾を目指して出港した。急がなければ、海岸の物資は内陸に運ばれ拡散してしまう。少し遅れて西村艦隊(旧式戦艦2隻基幹)がブルネイを出港、スリガオ海峡を通過するコースを採る。
 栗田が乗船する旗艦、重巡愛宕は23日朝パラワン水道で待ち構えていた米潜水艦の雷撃(4発命中)を受け沈没。高雄も2本の魚雷を受け損傷、摩耶は4発受けて沈没。栗田中将は大和に乗り移った。大和には宇垣の第一戦隊司令部がいたので、そこに割り込むことになった。夕方には重巡青葉が米潜の雷撃を受け航行不能となり、鬼怒が青葉を曳航し駆逐艦浦風と共に戦場を去った。
 24日夜間に西村艦隊の最上の水上偵察機が発艦し、早朝レイテ湾の上空に達して湾内の敵戦力について詳細に報告、この報告は全艦隊に送信され貴重な情報となった。この時偵察機は戦艦4、輸送船80の発見を告げている。いた、輸送船は80隻も集合している。この後日本軍は湾内の偵察に成功していない。
 24日朝、シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は、ハルゼー率いる第38任務部隊(Task Force)による激しい空襲に遭う。栗田艦隊を守る直掩機はいない。空襲は第一次、二次、三次、四次、五次と終日続き、特に空襲を一手に引き受けた武蔵は命中10発、至近弾6発、魚雷命中11本を数え速力6ノットにまで低下し、前への傾斜が増大してあと8mで海面に着く状態に陥った。
 巡洋艦妙高、矢矧、利根、駆逐艦藤波が損傷、戦艦長門と大和も名中弾を受けたが、大和の損害は大きなものではなかった。栗田は5度に渡る激しい空襲にさらされ武蔵は沈没寸前、他艦も大きく損傷を受けた事から一時反転を決める。このままでは空襲で全滅だ。一時反転して空襲を避け、味方航空隊の攻撃を待つ。15:30に一斉回頭を下命する。
 しかし特攻機以外の味方の航空攻撃に期待しても無駄だった。攻撃隊は敵艦隊に到達する前に、レーダーで接近を知り100機200機300機とブンブン飛ぶ敵の直掩機の攻撃を受け、例えそれを振り切ってもVT信管(近接するとセンサーが働き爆発する)の対空砲火にやられる。
 武蔵は今や海上に停止し、乗員の必死の応急処置も空しく浸水は増す一方。19:15傾斜は12度を超え、艦長は総員退去を指示、自身は艦に残りシブヤン海に沈んだ。19:35沈没。乗員は2隻の駆逐艦が救助(清霜約500名、浜風約830名)し、コロンへ去った。戦死は1,000名以上、救助され移乗していた摩耶の乗組員100名以上も再度の沈没に遭った。
 しかし米軍の空襲は何故か止んだ。接触する偵察機もいなくなった。その時戦機は動いた。ハルゼーは栗田の反転により艦隊に十分な損害を与えたと思ったのだ。戦果が現実よりも過剰になるのは日本軍だけではない。またその時に北方に小沢機動艦隊を発見した、空母4、軽巡2、駆逐艦5。日本軍はなけなしの空母をこぞって出してきた。歴戦の瑞鶴もいるだろう。片をつけよう、こいつらを沈めれば戦争は終わる。合理的に考えればそうなのだが、現実には特攻という奇手が待ち構えていた。
 栗田が期待した基地航空隊は23日には悪天候で敵を発見出来ず、24日にシャーマン少将の第三群を発見して全力を挙げて攻撃をかけた(零戦105、紫電21、爆撃機44)が、かすり傷を負わすことも出来ない。ところが単機奇襲攻撃の彗星12機の内1機が、雲に隠れて秘かに近づき軽空母プリンストンに爆弾を命中させた。同機は直後に撃墜されたが、爆弾は飛行甲板に命中、格納庫内の艦攻1機を突き抜けて中甲板で炸裂、たちまち大火災となった。しばらくして各所で誘爆が始まり、3時間後に大爆発を起こし救援の為に近づいてきた軽巡を巻き込んで損傷させ、最終的に味方駆逐艦によって処分された。基地航空隊はその後、夜間攻撃まで敢行するが一式陸攻隊(12機)は敵を発見出来ずに帰投、銀河隊(8機)は敵夜間戦闘機隊に捕まり全滅する。なお米軍は攻撃を受けたのが第三群(シャーマン隊)だけであったので、ハルゼーの他の2隊(第1群と2群)は終日悠々と攻撃が出来た。
 小沢長官率いる機動部隊は24日早朝、予定地点に到着し偵察機を飛ばした。追加で出した偵察機が11時15分に敵艦隊を発見、またしてもシャーマン隊だった。攻撃機は24k機と33機に分かれ、1隊は敵戦闘機20機に遭遇し交戦、そのまま周辺の飛行場に不時着。攻撃した隊も戦果を上げられずに友軍飛行場に退避した。日本軍機動部隊の航空隊は、機数も足らず技量も未熟でやっと発艦しても、大半は着艦が出来なかったのだ。
 小沢は栗田艦隊の空襲を自らが引き受ける為に南下を続ける。攻撃機は残っていないから囮としての進撃だ。我が身を餌にハルゼーを北に釣り出す。自身の艦隊は海に沈んでも、本隊が敵上陸部隊を粉砕する。
 栗田艦隊は17時15分に再度反転、レイテ湾を目指した。空襲が止み、艦隊はサンベルナルジノ海峡を待ち伏せに合うことなく通過し、一路レイテ湾を目指して南下した。連合艦隊司令部は、「天佑を信じ全軍突撃せよ。」の電令を18:13に出すが栗田の再反転はその前で、司令部の命令によるものではない。
 本作戦中日米双方、特に日本軍の通信の不通が多く発生した。そのことは指揮官や司令部の判断に大きく影響した。特に決定的なのは、小沢艦隊が発した米機動部隊を引きつけ交戦中、の電令を大和が受信していないことだ。逆に小沢艦隊は栗田の再反転の電令を受信し損ねたらしい。艦隊は電波を発して位置を突き止められることを避ける為、微弱な電波を基地局に送り、そこが増幅して発信する。この場合、基地局は不測の事態に備えて受信を確認するまで繰り返し発進すれば良かった。事実大和の上甲板の受信室は、対空砲の増設により戦闘中は轟音と振動で受信が出来なかった。通信線は空襲でしばしば断絶し、度重なる補修で予備の電線が不足したほどだった。また武蔵が妨害電波を発し、米軍が慌てて周波数を変えている。更に太陽の電磁波の強い時期であったのかもしれない。戦争ではよくこういうことが起きる。人が荒れると自然も荒れる。それにしてもハルゼーの釣りだしを本隊が知らなかったとは、痛恨の極みだ。何の為に4隻の空母を犠牲にしたのか。
 一方西村艦隊は、25日黎明時に栗田艦隊と呼応してレイテ湾に突入する予定であった。西村艦隊は朝方空襲を受け数隻に損害を受けたが、その後は不思議と攻撃を受けなかった。西村は栗田の一時反転を告げる電令を受信しそこねていたため、栗田艦隊の遅れを知らない。他隊の状況を掴めない中、単独での突入を決意した。

To be continued, 
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ギョベグリ・テペ  

2016年08月25日 18時03分47秒 | エッセイ
ギョベグリ・テペ   

 ギョベグリ・テペ遺跡、トルコのアナトリア南東部、丘の上に在る神殿跡?ギョベグリ・テペはトルコ語で「太鼓腹の丘」を意味する。遺丘の高さは15m、直径は300m、標高は760mで、残された構造物は巨大なT字型の石柱が円を描いて並んでいる。今までに8以上の石柱を備えた溝が4つ彫り出され、さらに16埋まっていて発掘が待たれる。石柱の高さは6m以上あり、重さは約20トンだ。
 1996年からドイツチームが発掘を始めたが、まだ初期段階で掘り出したのは、現在までに分かっている遺構の10%以下だ。周辺に200本以上の石柱が埋まっていることは、地中レーダーによる調査で分かっている。驚くのはその年代の古さだ。新石器時代、紀元前1万年から紀元前8,000年に建てられたことが、木炭や石柱の付着物の炭素測定によって分かった。
 ギザの3大ピラミッドを遡ること7千年、ストーン・ヘンジより8千年も古い。しかも今後発掘調査が予定されている遺丘隣の構造物に至っては、1万4千年から1万5千年前の古さだ。えっ石器時代じゃん。これでは歴史の教科書は、最初のページから挿絵と共に書き直さなくては。新石器時代は少人数の集団に分かれて暮らし、石の槍で獣を獲り、植物を採集していたというイメージは根底から崩れる。
 20トンもある石柱の運搬には、500人が力を合わせる必要があった。丘の周辺には水場が無く、一番近い川は5km離れている。もっとも古代の遺跡周辺は緑野が広がっていた。遺跡の近くには住居も農耕の跡も墓も、今のところ見つかっていない。100~500m離れた岩盤では石を切り出した痕跡が残っている。金属利用の無い時代なので、鋭利な固い石を根気よくぶつけて石灰岩を掘りだしたのだ。加工途中の石の一つは長さ7m、頭の部分は幅3m、重さは50トンと推定される。途中でヒビが入ったのか、或いは大き過ぎて放置されたのか。この石切り場の近くでは、ギリシャ・ローマ時代にも採石を行っていた。
  石柱には浮き彫りが描かれている。図案ははっきりいって稚拙だが、実に鮮明に残っている。レリーフはライオン、ヒョウ、ウシ、イノシシ、キツネ、ガゼル、ロバといった哺乳類、ヘビ等の爬虫類、昆虫やクモ、サソリ、鳥は特にハゲワシがモチーフになっている。鳥葬が行われていたのか?また石柱の下半分に人の腕が彫られていたり、ふんどしの施されたものも小数ある。石柱は神を模したのか、トーテムなのか?
神殿は、紀元前8千年以降のいずれかの時点で意図的に埋められている。埋め戻しには瓦礫、石器片や動物の骨などが用いられている。このように埋められたことによって、これほど鮮やかに保存されたのだ。1万年の風雨に晒されたら浮彫はすっかり剥がれ落ち、石柱は倒されて再利用されていただろう。上層にはギリシャ・ローマ時代の建造物跡があり、また丘が農耕地であったため、一部の石造物は邪魔者として破損された。しかし全体的に実によく保存されている。
考古学者は言う。「ギョベリク・テペは全てを変えてしまう。」「神殿より始まり、街が興った。」農耕よりも宗教が早かったんだ。文字の無い時代だから何を言っても仮説になってしまうが、この遺跡が長い時間、千年、二千年をかけて築かれたらしいことは忘れてはならない。ピラミッドのように一代の王、数十年間で作られたわけではない。
では何の為に、どうやって、神の概念?祖先哀悼、崇拝?回答は永遠に出ないだろう。そして発掘が進めば色々な事が明らかになるとともに、山ほどの新しい〝どうして〟が出てくるに違いない。ただ古代人が考えられてきたよりも、遥かに文化的、文明的、更に精神的な生活を送っていたことが伺える。
またギョベリク・テペから32km離れたカラジャ山付近は、麦(ヒトツブムギ)の原産地である。神殿造りに伴って人が集まり、食糧確保の為に大規模な 農耕がここから始まったのかもしれない。
今後の発掘、発見が楽しみだ。ワクワクするね、ギョベクリ・テペ。
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リオ五輪

2016年08月22日 18時03分40秒 | エッセイ
リオ五輪   

 リオの五輪が終わっちゃう。今まで見てきた中で最高の大会だった。時事ネタは直ぐに古くなるので載せてこなかったが、今回はいいや。日本のメダルは8/21現在、金12、銀8、銅21の計41個で五輪史上最高、世界第6位。やったね、でも第2位のイギリスは凄い。8/21現在計66個(内金27)で豪州x29、カナダx22、NZx18の旧英連邦を加えると135(内金43)で1位のアメリカ(計116個、金43)をずんと抜く。
  英国の底力を感じるね。EUを離脱してもイギリスの未来は意外に明るい?英国はスポーツ報奨金制度が無いので、以前の日本のようにメダルは名誉だけ。日本は金500万、銀200万、銅100万円、無課税。第3位の中国(計70、内金26)は、長期的な国力の没落をスポーツの世界で暗示している?いくら国家ぐるみで英才教育を施しても、金で釣っても限界があるのがスポーツの世界だ。カタールが金にあかせてアフリカから選手を集めても、モチベーションが金だけでは人は限界以上の力をなかなか出せない。
  4位のロシアはそもそも半分の競技に出ていないんだから気の毒だが、次の東京には出てくるから要注意。5位はドイツ(計41、金17)、7位はフランス(40、9)、8位韓国(21、9)、9位豪州(29、8)10位イタリア、以下オランダ、ハンガリー、スペインと来て、14位に主催国ブラジル、15位ジャマイカ。ブラジルは男子サッカーで優勝して本当に良かった。ドイツを破っての金というのが良い。主将のネイマールは決勝ラウンドに入ってからは大活躍だが、予選では散々なバッシングに遭っていた。
 ブラジル人は熱狂し過ぎ。体操でも柔道でも、自国の選手への応援が激し過ぎて競技に支障が出た。でも入場式の時に、日本選手団へ大きな声援を送ってくれたのはうれしかった。日系移民の人達が多く来場していたのだろうね。また日系の人達が良い印象を持たれているんだろう。あとは同じ言語のポルトガルが大声援を受け、北朝鮮だけシーン。ブラジル人の正直過ぎる反応が楽しい。
  ブラジルの柔道は日系の選手がいて、技を重視する正統的な柔道だったが、なかなか結果が出なかったのは残念だったね。でも女子でスラム街出身の柔道家が金メダルを取って良かった。意志の強い目が印象的な、技の切れる選手だった。柔道といえば、中量級の男子一回戦で38歳とかのミャンマーの選手が、アフリカの若者と試合をして勝った。二人ともコーチもいない。〝指導〟など全く考えもせず、組み合って技を掛け合った素晴らしい試合だった。
ミャンマーの弟子は、先生が一度でも勝って誇らしいだろうな。
  大会は男子サッカーの無様な試合で始まり、初日二日と柔道軽量級で銅メダルが続き、体操団体予選はボロボロの4位と、決して良いスタートではなかった。そんな空気を変えたのが、400mメドレーの荻野・瀬戸の金銅、腰痛の三宅選手の銅だった。この女子最軽量級のウェイト・リフティングでは一位タイ、二位インドネシアとアジア勢がメダル独占した。ロシアの選手が出場停止になっていたのが幸いした。タイは男子でもウェイト・リフティングで金を獲得している。ところがその試合をTV観戦していたおばあちゃんが、孫の快挙に興奮して心臓発作を起こして亡くなった。祝勝会と葬式、おめでとうやら、お気の毒やら。
  柔道の金3個、大野、ベイカー、女子の田知本、よくやった、感動を有難う。他の選手も銀・銅を取って良かった。監督が代わるとこうも違うものか。締まりのない阿呆に任せていた8年が惜しい。4位に終わった男子7人制ラグビーも感動した。7人制とはいえ、あのオールブラックスに勝つとは。
ここで個人的、独善的に今大会のヒーロー、ヒロインのベスト3を挙げると、福原愛、内村航平、ウサイン・ボルトだ。他にもたくさんいて絞るのが難しいが、感動の度合いでこの3人にした。メダルの色など関係ない。ボルトはやっぱすっげーもの見せてもらったし、この人実にいい奴、リレーの日本人選手も肩を抱いてもらい褒めてもらって良かったね。
  個々の競技に言及していたらキリがないので、カッ飛びで行く。競泳ではフェルプスに0.04秒(指の関節の差?)で銀の200mバタフライの坂井、金メダルを取ることを加藤コーチ以外誰一人として信じていなかった、200m平泳ぎの金藤、男子自由形リレーの銅、感動したぜ。
そしてバトミントン、個人銅の奥原、女子ダブルスの松友+高橋、19対16からの5連続ポイントは鳥肌立った。あれで負けたデンマークチームは可哀そうだった。茫然としていたものな。バトミントンは見ていて実にエキサイティングだ。これから間違いなく人気が出るだろう。ところがギッチョンチョン、自分が注目したのはベスト8に進めなかった混合ダブルスの栗原文音だ。試合に負けても今大会のベストビューティーをあげたい。もっと彼女を見たかった。
  7人制ラグビーは別格だが、マイナーな競技では4位は意味がない。4位と銅ではゼロか50かだ。北京オリンピック女子カヌー4位の竹下百合子を覚えている人はいないでしょう。でも今回銅メダルのカヌーの羽根田は、スロバキアで武者修行10年という経歴とともにある程度記憶に残ると思う。泣いている羽根田の所にライバルの外国人選手が次々に来て、肩を叩いてゆくシーンは良かった。トランポリン4位、アーチェリー、フェンシング、テコンドー、自転車等々は残念でした。
  テニスの錦織圭、恰好いい。視聴率はかなり高かっただろう。レスリングは男女ともよくやってくれた。13日目の登坂、伊調、土性の3連続金メダルは圧巻でした。全てギリギリの逆転勝ちでしびれたが、心臓に悪いぜ。吉田が負けてびっくりしたが、勝ったアメリカの選手(彼女可愛い)のコメントがよい。サユリは憧れのレスラー。憧れのサユリに勝ててうれしい。爽やかでいいね。吉田さん、今までありがとう。貴方を責める日本人は一人もいない。
  男子の卓球も良かったが、福原愛の強さと弱さ、割とネガティブな思考、チームワーク、あとあの監督のおじさんもいいね。ああ泣いた。愛ちゃん最高。体操団体、個人総合のドラマは凄かった。僅差で負けたウクライナのベルニャエフの、記者会見での男気発言にグッときた。記者の内村への質問、「貴方は審判に好かれているんじゃありませんか?」に内村が無難に答える。そこへベルニャエフが口を挟む。「内村はキャリアの中で高い点数を取ってきた。今の質問は無駄だと思う。」内村は、もう一度戦ったらベルニャエフに勝てるとは思えない、と言っていたがそこには微塵も謙遜や世辞は含まれていなかった。ベルニャエフは東京オリンピックで強敵になるだろう。日本人の心を掴むだけでなく、審判の心証もよくしたからな。
  おっと忘れちゃいけない。デュエット、チームのシンクロナイズドスイミング。やはり地獄の鬼の井村コーチじゃないと駄目なのね。今回メダル無しじゃあ、競技の存続に係わる。井村さん、次は当然もっと上のメダルを目指すって、銀とあんなに差があるのに。
  50km競歩の荒井のドタバタ銅メダルで終わったと思ったら、最後の最後にとんでもないのが待っていた。400mリレーの銀メダルには魂消た。ケンブリッジは2秒間ボルトと並走していたものな。驚いたといえばこれが一番、やっぱオリンピックは楽しい。
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東京でオーロラ   

2016年08月19日 18時40分23秒 | エッセイ
東京でオーロラ   

 東京でオーロラが見られる訳ないじゃん。へへ、そうかな、それが1958年2月11日に出現しているのよ。北陸から関東にかけて赤い、一部では脈動や黄色も見られるオーロラだった。この日は世界中で電波障害が起き、ヨーロッパでもオーロラが見られた。またもっと最近では、1989年に北海道・東北、2000年4月に北海道陸別町で観測されている。
 その他にも、北海道では赤いオーロラを見て山火事だと思い、消防車が出動したり、新潟県で日本海上空が赤く輝き、海上保安本部が巡視艇を出している。磁気嵐の時には、日本でも比較的頻繁にオーロラが出現しているんだ。日本書記には「赤気(せっき)」として記載されている。「紅気(せっけ)」とも言う。藤原定家は明月記(1204年)に、また1770年のオーロラは40種の文献に登場し、肥前国(佐賀県)でも見られた。
 オーロラは実は、北極・南極の極点近くではあまり現れない。夜側では緯度65度を中心として、68~70度の辺りに磁気を取り巻くドーナツ状の領域に多発する。カナダのイエローナイフ、ユーコン準州のドーソンシティ、アラスカのフェアバンクス、スウェーデンのキルナがそのドーナ地帯に位置し、オーロラがよく見られる場所として有名だ。
 ただし、じゃあ行こという人は太陽の活動に注意すること。太陽フレアの発生、突発的に放出されたコロナの地球磁気圏への衝突、高速の太陽風が噴出するコロナホールの生成と、オーロラの発生には3つの原因があるらしい。それって何のこっちゃ、さっぱり分からん。ただ11年周期の当り年があるらしいので、旅行代理店に聞いてね。
 だけど本当のお勧めは、木星でのオーロラ観賞だ。これは旅行代理店に聞いても分かるまい。天王星でのオーロラもシックだが、ちと遠い。木星のオーロラは天体望遠鏡で見えるそうだ。エネルギーは地球の1,000倍、水素を反映したピンク色を基調としたオーロラだ。『ブレードランナー』のアンドロイドが宇宙の果てで見てきたような、一度見たら人格が変わるほどの凄まじい天空ショーが見られます。
さてオーロラに音があるのか?聞こえるとしても非常にまれで、強いオーロラだからといって音があるとは限らない。同時に多くの人が聞いた例もあれば、隣同士にいて一方にしか聞こえないこともある。ついでに言えば、オーロラの色の見え方は人によって異なる。緑白色のオーロラが人によっては黄緑や緑色に見えたり、ピンクが赤に見えたりする。何かオーロラには人の魂に感応するものを感じる。音だが、もし聞こえたとしても「バチッバチッ」や「シュー」「ヒューッ」といったノイズ音である。
オーロラは時としてブレイクアップし、数分間の華麗な空中ショーを展開する。整っていた巨大スクリーンが一転、かき回されてグチャグチャに破壊され、それぞれの破片が個々に破裂し、狂瀾怒濤の収拾のつかない混乱に陥り光が乱舞する。これをオーロラ爆発という。こんなのに一生に一度でも会えたら、ラッキーな人生だね。
オーロラの名称はローマ神話の女神アウロラ(Aurora)に由来する。紀元前から様々な地で確認・記録されているが、アリストテレスやセネカは天が裂けたと考えた。中世ヨーロッパでは災害や戦争の前触れ、又は神の怒りと解釈した。古代中国では天に住む赤い龍に見立てられ、やはり政治の大変革や不吉なことの前触れとされた。北欧神話では夜空を駆けるワルキューレ(女神)たちの甲冑の輝きとされ、死者と生者の世界がオーロラによって繋がっているとされる。エスキモー(イヌイット)の伝説では、生前の行いが良かった人は死後オーロラの国(天国?)へ旅立つという。
たまには低い緯度でも現れるとはいえ、やはりオーロラは極地近くで見られるものだ。南半球のオーロラは、キャプテン・クックの航海記に「天空に光が現れた。」と1773年2月に書かれている。北極近くのオーロラは主に、1845年のフランクリン隊の遭難とその捜索に向かった救助隊によって、広く世に知らされるようになった。
日本の南極観測、昭和基地では頻繁に観測されている。また戦後南氷洋で活躍した捕鯨船団の人達は、多くのオーロラを目撃したはずだ。今でも鯨、ペンギン、アザラシはオーロラの下で生活している。俺もオーロラ見てみたい。
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満天の星 

2016年08月16日 19時18分58秒 | エッセイ
満天の星   

 亜細亜の旅は大河に沿って、朝日夕日を見ることが多い。メコン河が夕焼けで真紅に染まり、しだいに暮れて行く川面を、一日の漁を終えた小舟が家路に向かう。静かで息を飲むほどに美しい。しかし夜空はなかなかどうして、降るような星、プラネタリウム状態とはならない。ラオスやミャンマーの夜空は相当な星空だが、どうしても民家や自分の泊っているホテルの放つ灯りが残り、天の川までは見せてくれない。本当に凄い夜空は2回だけ、その時は頭上に天の川が流れていた。
 一度は茨城県の鹿島沖で、夜釣りをした時だ。出港は16時半だから、夏の夕方はまだ暑さが残っている。1時間半ほど沖に出て、まだ明るさが残っている時分からイカを釣り始めた。最初はなかなか釣れない。22時ごろまで釣ったが、船は強烈な集魚灯を海面に向けて照射し、船上は釣れ続くイカの吐き出す水や墨が飛び交い、仕掛けの上げ下げに忙しくて空など見上げる余裕はない。
 その日は100杯近いイカを釣りあげた。集魚灯に惹かれてトビウオが海面を飛び、中には船に飛び込んでくるものもいた。小型のサメや海亀が寄って来て船の廻りを泳ぎ、イカの仕掛けに食い付いてきた大サバが海中を走り廻る。大騒ぎ、大忙しの釣りも終わり、仕掛けを片づけて一段落。船長が集魚灯を消すと、途端に辺りは真っ暗になった。その時、陸の影すらない太平洋の真っただ中にポツンと浮かんでいることに気がついた。
 他にもイカ釣り船は何艘かいたのだが、自分達の乗った船は速力が遅くて、廻りの船に次々に抜かれてたちまち太平洋一人ぼっちとなった。釣り場から港までは行きと同じく1時間半ほどかかったが、退屈はしなかった。船に寝っ転がって夜空を見上げると、凄い星空だったんだ。ひえー、天の川が見える。船乗りは外洋でこんな夜を過ごすのか。天測をしながら航海をしてきたダウ船やジャンク船の船乗りは、思索的で哲学的な思いになったんじゃあないかな。あのように圧倒的な星空を毎晩眺めていたら、謙虚になるのか、刹那的になるのか、どっちだろう。神の存在も身近に思えることだろう。何か芯になるものを持たなくては、あまりに孤独で無力だ。
 さてもう一つのプラネタリウム夜空は、印度のデカン高原の夜だった。標高が高いと星に近づくのかと錯覚するが、要は空気が澄んでいるんだろう。高原の夜空は星がギラギラと光っていて、まがまがしく怖いほどに思えた。星の輝きに強弱があるので、夜行虫のように生命があるかのようだ。こんな凄い夜空を毎日見ていたら疲れて昼間は起き上がれない。メゲちゃうよ。人間のチッポケさ、無力さを思い知らされるような夜空だった。きれいよりは怖い。
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