旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

心底困ったカルカッタ

2014年12月24日 09時25分09秒 | エッセイ
心底困ったカルカッタ

 あれは大学五年の夏、所は印度のカルカッタ。自分にとっては二度目の印度旅行で正直印度をちょっとなめていた。当時の、今から三十年以上前のカルカッタの街は汚水があふれ、乞食や皮膚病の路上生活者がそこにある太陽と同じく、その目をギラギラさせながら迫ってきた。大きく見開いた目玉、白目に血管が浮いている。何を言っているのか、大勢で一斉にしゃべるなよ。痩せてアバラ骨が浮きだしたノラ牛が地面に落ちた野菜くずを探してよろよろと歩き回る。そんなものが落ちていたら、人が食っちまうに決まっているが、それでも死なないところをみると、誰かが餌をあげているんだろうか。
 空港から下町について安宿を探した。インドでは頼んでもいないのに、四六時中乞食、物売り、物買い(フィルム、ジーパン、ウィスキー、百円ライター他何でも)がつきまとう。その中で比較的悪党面をしていないのを選んで安ホテルを紹介させたが、炎天下広場から細い路地に入ってやたら早足でどんどん進んでいく。
 薄汚れたビルに入り、暗い階段を四階まで上がっていくと、そこが安宿だった。牢屋みたいに狭い部屋だが一応個室。天井には大きな扇風機がモーター音の割にずいぶんゆっくりしたスピードで暑苦しい空気をかき回していた。ここでいいや、疲れた。値引き交渉を宿の親父と大声で済ませて、その部屋に落ち着き夕方まで休んで、飯を食いに出かけた。やかましい街の中を乞食の集団を引き連れて歩き回り、飯屋に入ってチャパティーとカレーを食い、飲み水にボーフラが浮いているのを発見するも、もう飲んじゃったよ。コップを指でトントン叩くとボーフラが勢いよく底にもぐるので、上澄みを飲んだ。その水は脇に置いてある大きな水瓶から柄杓で汲んでいた。
 飯の後、街の大きな通りに出て、屋台の売り物等をひやかしてから広場に戻った。さしもの凶暴な太陽も西の空に消えつつあった。悲劇はそこからだった。あれ、あれ?ホテルはどこだっけ?この道だよな。いやその隣の路地か。それともあのビルを曲がるんだっけ。あせった。全財産とパスポート、荷物一式、帰りの航空券はホテルの中だ。まさかそのホテルを見失うとは。うわっ、ぞっとしてきた。こんな所でのたれ死ぬんかい。やみくもに早足で薄暗い路地から路地へと歩き回るが、ホテルのあるビルは見つからない。というかどれも同じような路地、同じような汚いビルだ。
 こんなに奥のはずがない。広場からたいして時間がかからなかったじゃないか。広場に戻り、また路地へ。迎えるのは腐臭と路上生活者の下から見上げる大きな目の数々。
もう同じ道を何度も通っている。どうしよう。途方にくれて広場にしゃがみこんだが、そんな外国人の俺をここの連中が放っておくはずがない。「ヘイ、マスター、マネーチェンジ」「ヘイ、シャチョー、ジャストミルミルオンナ、ステューデント、ノーシック」乞食もつきまとう。「バクシーシ、バクシーシ、ワンダラー」あア、もう暗くなってきた。もうすぐこいつらの黒い顔が見えなくなって目玉だけが残るんかな。参った。
 空港には恋人とはぐれ、荷物を盗まれ無一文になって途方にくれていた若い外国人の兄ちゃんがいた。あの時はこちらに余裕があったから、「街へ行って救世軍(安ホテル)にでも行けば、旅人が集まっているから何か情報が入るかも。」とか言ってジュースをおごったが、それ以上はつき合えない。それが我が身かよ。
 「おい!おい!お前、ヘイボーイ、アイロストマイホテル!」オー・マイ・ブッダ!ホテルを紹介してくれたポンちゃんじゃあないか。彼は「何だ、さっきの日本人か。ホテルが汚いとかいちゃもんつけるんじゃああるまいな。」と迷惑そうな顔をしたが、こいつは死んでも離さない。訳を話してホテルに連れていってもらった。ポンちゃんはつまらなそうに俺を案内して「ここだよ。」と言ってあっさり去った。「え、ここ?あー確かに見覚えがある。」そこは俺が座っていた広場から直ぐの所で、さっきから何度も行き来した角から一つ先の建物だった。何で分からなかったんだろう。どこも汚くて特徴が無いとはいえ、迷子になるのが不思議なほど、近くて当たり前な建物だった。
 だけどあの時は心底ほっとした。ポンちゃんが天使に見えた。あれでホテルを見失い荷物を無くしていたら、どうなっていたんだろう。その日はもう一歩もホテルの部屋から出ず、天井で暑い空気をゆっくり撹拌する大きなファンを見上げながら寝てしまった。夜中に自分がウンウンうなっている声で目が覚めた。寝汗をぐっしょりかいていて気持ちが悪い。昼間猛暑の中をしゃかりきに歩き回ったので、軽い日射病にかかったようだ。印度をなめてはあかんよ。それから数日、すっかりカルカッタがいやになってデカン高原へ向かって旅立った。

 客家とフェニキア人

2014年12月24日 09時21分41秒 | エッセイ
 客家とフェニキア人

 客家、ハッカと読む。よくご存知の方にはうっとうしい説明になるだろう。特殊な客家語を使うがれっきとした中国人、漢民族である。古くは秦の始皇帝の屯田政策によって南に移住させられ女真族、モンゴル、満州(女真族)と闘い敗れ、戦乱を避け中原の地を離れて南下した集団である。
 客家語は古代中国で使われていた、いわば中国語のルーツのようなものだが、現代北京語とはかけ離れていて通じない。日本でも古代の発音が、当時の辺境に当たる九州、薩南の島々に残っていたりする。客家は各地に分散した。福建省に入植した連中は独特な砦のような集合家屋(土楼と言う。円形は円楼、四角形は方楼)を作り、その石垣の中で数百年、民族の血と文化(言葉)を守ってきた。
 小平、「黒猫でも白猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ。」で有名な改革派の長老は、天安門事件さえ無ければ歴史に名声を残したろうに。彼は客家の出身。革命の父、孫文もシンガポールのリー・クアン・ユーも、台湾の元総統、李登輝もそうだ。ついでに言えば、フィリピンのアキノ一族も、タイのタクシン一族も客家系だ。漢民族の中で4%を占めるに過ぎない彼らとしては、やたらと革命家・政治家が多い。
 自分が初めて客家の事を知ったのは、映画[イヤー・オブ・ザ・ドラゴン]の中だった。ニューヨークの中華街を牛耳るチャイニーズ・マフィアと、それを追うポーランド系の刑事の話しで、マフィアのボスが水も滴るいい男、ジョン・ローン。映画の中で連中が使う客家語を盗聴しても、意味が分からない。刑事が通訳としてマカオにいたポルトガル人の尼さんを数人連れてきて翻訳させるのだが、会話で使っている客家語が余りに罰当たりで汚いので、尼さんが通訳を辞めたいと言い出し刑事があわてるシーンがあって面白かった。
 小学校の同級生に二人、お父さんが中国人の子がいたが、女の子の方のお父さんは台湾から来た客家系だと後から知った。そう言えば彼女、土壁で作った変わった家に住んでいたが、それは関係あるのかな。
 客家とは「よそ者」の意味である。流浪の民で土地土地に後から割り込んできたのだから、もめ事も多かったことだろう。彼らがどこまで選民思想を持っているかは分からないが、結束力が強くて決して仲間を裏切らず、外国に数多く移住し商売がうまい。だからほら、「中国のユダヤ人」とか言ってみたくなる。
 客家、ハッカ、その語感が良い。客家に対し漠然とした憧れを持っていたのだが、それを見事に粉砕してくれたのが、シンガポールで会った某君だった。この某君、商談の後の雑談の中で「俺、客家なんだ。」と言ったもんだから、オー、自分の中の好奇心と好感度が一気に上がった。某君そこで格好よく決めてくれたら、こちらもさっきの商談での値引き、半分受けてもいいかなって思ったりしたが、某君極めて当たり前の青年だった。「ポルノは日本製が一番だよな。」とか言ってこちらの憧れをぶちこわしてくれた。どうもありがと。
 あと、台湾の客家三人衆とひょんな事から仕事を共にしたことがあるが、三人の中で一番下っ端のおじさんと仲良くなった。彼はドライバー兼アシスタントといった感じで、英語はほとんど出来なかったが冗談ばかり言っていつも笑っている。街中で仲の良いカップルを見つけると、手を背中に回して「キス、キス、キスキス、ウーン、チュチュチュチュチュ」とかやって大笑い。本当にいい奴だった。「あんたまるで三国志の張飛だね。」と言ったら、「俺、俺がチャンフェイ?うれしいな。チャンフェイ大好き」そうか、張飛はチャンフェイか。すごく喜んでいた。自分は思うのだが、客家の特徴に教育熱心、政治好きに加えて、女好きを入れておいた方が良いね。
 さて所変わって自分がフェニキア人に会ったのは、古代オリエント博物館の中、ではなく自動車部品の商売で訪問したコスタ・リカだった。このお客さんは中南米にしてはまとまった注文をくれる良い顧客で、都合二回それぞれ二日間ほど訪問し注文をもらった。当時パーソナル・コンピューターの性能は低く、出張にはオフコンからプリントアウトした大量の紙資料をファイルして大きな手提げカバンに詰め、数のまとまった部品一つ一つの値段交渉と在庫・納期の状況を話し、一枚のプロフォーマインボイスにまとめる。まあ一回4~500万円の注文で、北米や中東に比べるとゼロが一つ小さいが、支払いがしっかりしていて、利益率がずっと良いので気持ちのよい注文なんだ。
 この会社の若いオーナーとはすっかり仲良くなり、他のスタッフとも気安くなった。滞在中、何度かレストランでご馳走になったが、カールネ、炭火焼きの牛肉がボリュームたっぷりで何とも美味い。突き出しの野菜も美味しい。この店には大統領夫妻もよく来るんだ。とか、この国の通貨はUS$で、軍隊が無い。など「へー」と言うような話しを聞かされていたがそのうち、「俺フェニキア人なんだ。」と言われてぶったまげた。えっカルタゴかよ。あんたハンニバル?びっくりしてよく聞いてみると、生まれはレバノン。内戦続きのベイルートを脱出して海外で生活するレバノン人(フェニキア人)は本国の倍はいるらしい。さすがは二千年前から有名な商人の末裔だけのことはある。確かに彼は、肌の色は白いが目に特徴があり、言ってみればエジプトの壁画の中のファラオや神官の目を思わせる。目に隈取りがしてある訳ではないが、今迄見たことの無いインパクトのある大きな目なんだ。まあ中南米だから色々混血しているし、イタリア系にしては東洋的な趣があるのは、インディオの血でも入っているのかな、と思ってはいた。しかしフェニキア人とは、というかフェニキアという言葉が現代の家族に充てて使われたことに驚いた。すげーな、俺フェニキア人。日本で言えば、俺、邪馬台国人なんだ。私はクマソ。
 二度目の訪問の時、商談もすっかり終え、明朝グァテマラへ移動という夕方、この親近感の増したフェニキア人と居心地のよいオフィスのソファで、コーヒーを飲んでくつろいでいた。外は風雨が強くなり、明日飛ぶのか少々不安になる。その時彼がボソッと言った。「今日家にカミさんがいないんだ。飲みに行ってセニョリータを引っかけようぜ。」えっ?大丈夫かいな。若旦那とはいえ、おっさん良く見ると腹は出てるし、髪は薄いしと正直思ったが、こっちは明日の朝まで暇だしおっさん自信があるようなのでついていった。
 実をいうと中南米の出張中、かわいい娘がうじゃうじゃいて、ニコニコしてくるのは良いが、こちらのスペイン語のボキャブラリーが悲劇的に不足していて話しが出来ないでいた。コスタ・リカといやラテン・アメリカの3Cだぜ。3Cとは、ミス・ユニバーシアードでよく優勝したり上位に来る美人の多い国のことを言う。チリ、コロンビアにコスタ・リカだ。
 ラテン・アメリカで若い娘というのは、ジロジロ眺めるものである。いい女が信号をシャラリシャナリと渡り始めると、止まっている車のドライバー、乗客の全員の目が女に集中する。渡り始めから渡り終えるまで、数十の目玉がゆっくり左右に動く。途中でたまらずヒューヒュー、合いの手を入れる奴も出てくる。いい女も視線を十分意識していて、渡り終えると初めてこちらを振り返りニコッとしてウィンクを入れたりする。すると車の中の男どもは興奮が最高潮に達して口ぐちに叫び出す。これは当たり前の光景、ラテンの常識である。ムッツリ助平ではなく、ムキダシ助平なのである。
 さて日本のムッツリ助平の我が輩と、今日まで知らなかったが、根が助平のフェニキア人は小嵐の中、意気揚々とセニョリータ狩りに車を出し、こじゃれたステーキハウス(?)に乗り込んだ。ところがガッテン、店はガラガラで娘はおろか一人の客もいやしない。我々は一瞬キョトンとなったが、表がこんなじゃ無理もない。結局そこで気勢の上がらないままボソボソと飯を食い酒を飲んでセニョリータが現れるのを小一時間待ったが、最後まで現れず我々が出たらこじゃれた店は早々に店仕舞いとなった。

ご挨拶

2014年12月24日 09時01分15秒 | コメント
過去の旅行記3部作をupしました。使い方が分からず悪戦苦闘、試行錯誤の連続でした。
最初のカンボジア旅行は2008年のもので、古い壊れたpcから写真が取り出せずにわずかに残った写真を使って編集したのが残念でした。
カンボジア旅行2部作は投稿して特別賞(何なんでしょうかね)になりました。
他に投稿で佳作、入選したものを一部紹介します。趣味の悪い自慢です。






トルコ紀行~イスタンブールは猫の街-3

2014年12月23日 18時58分14秒 | トルコ紀行
     目次

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居

○ イスタンブール編

・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと

○ トルコ編

・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに


トルコ紀行~イスタンブールは猫の街


セリミエ・ジャーミィ







 今回のトルコ旅行では世界遺産を三つ訪ねた。ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群、イスタンブールの歴史地区、そしてエディルネのセリミエ・ジャーミィ。
 エディルネはブルガリア、ギリシャとの国境にある町で、イスタンブールがオスマン帝国の首都になる前の都でした。アドリアノープルと呼ばれていたのが、なまってエディルネになったそうだが、それってなまり過ぎだろ。メフメット二世はこの町からコンスタンチノープル攻略に向かいました。イスタンブール郊外の大きなバスターミナル(オトガルと呼ぶ)からバスで二時間半、うわさ通りの快適なバスの車窓から見える景色は、畑の刈り入れも済んで単調なものです。バスはエディルネのオトガルに着き、そこからセルヴィスと呼ばれる小型バス(無料)に乗り換え、町に近づくと丘の上に四本のミナレットを持つ巨大なジャーミィが見えてきました。スィナンが八十歳を越えて造った、自身が最高傑作という世界遺産セリミエ・ジャーミィです。
 ここもスィナン得意の複合施設で、ジャーミィの下はお土産屋さんが二十軒ほど並ぶ小バザールになっています。そして付属の旧図書館、神学校は博物館になっている。イスタンブールのブルーモスク等とは違ってここは観光客が少なく、地元の信者がちらほらステンドグラスを通す光の中、広いドームにたたずんでいます。見上げれば天井の周囲は色とりどりの美しい文様のタイルに囲まれ、心地よくて静かな空間が広がっています。暑くも寒くもなく、やさしい光に包まれ目に入るのは美しい色の洪水。
 セリミエ・ジャーミィのドームは高さ四十三m、直径は三十一、五m。スィナンは八十歳を越えついにアヤ・ソフィアを越える大きさのドームを完成させました。
 エディルネの町は二十世紀に入って、ギリシャとの数度に渡る戦争で占領されたり、トルコに戻ったりをくり返しました。町の中にある小さなモスクもカリグラフィー、巨大なアラビア文字をうまく装飾に使った勇壮なものでした。モスクは同じような造りに見えて、なかなかに建築家の創意工夫が見られ、外も中も新鮮な驚きを味わえる。
 この町は日帰り旅行だったけれど、名物の牛のレバーの細切り素揚げ(アッサリした味)を食べたり、土産屋や大きなスーパーで買い物をしたりして楽しみました。

トルコ料理







 世界三大料理はフランス、中国、トルコと言われています。まあ日本人には一番馴染みのない世界三大だよね。自分は日本では食べたことが無かった。以前フランクフルトでトルコ料理店に入った時は、何だかハーブの味が強くてあんまり感心しなかった。料理より、その店に訪れてきたヒゲ男とやはりヒゲの店主が抱き合って相方のホッペにチューチューしているのを見てアゼンとした記憶があります。
 今回ガイドブックを見て期待出来るかな、と思っていたら期待を上回る美味でした。商用で散々回った中華圏(特に台湾・香港)はさておき、今まで廻った四十ヶ国の中、三本の指に入るね。今回高級なレストランには入っていないが、大抵のロカンタ(大衆食堂)で外れがない。でもトルコ航空の機内食だけは今一つだった。

① レンズ豆かひよこ豆のスープ
 濃い味をした、黄土色によく煮込まれたスープは、一軒一軒店によって味が違う。これは、と思うスープに巡り会った幸せ。でもこの店にはもう来れないという不幸せ。

② ケバブ
 誤解を正しておこう。肉類を焼いたら全部ケバブなんだ。羊・牛・チキン、素材は何でも焼いた肉料理はケバブ。串に刺して焼けばシシ・ケバブ。蒸し焼きにした壺焼きケバブも美味しい。日本でよく濃いい顔をした兄ちゃんが、まんべんなく肉が張り付けた大円柱からデカ包丁で肉をこそぎ落としているが、あれはドネルケバブ。ぐるぐる回る肉の柱がオーブンに照らされて肉汁が垂れたりしているよね。こそぎ落とした熱々の肉片を野菜(トマト・キューリ・レタス等々)・チーズなどと一緒にバゲットパンにはさんで三百円(イスタンブール価格)。これはうまい。一つでおなかが一杯になる。自分の印象では羊→牛→チキンの順でうまいが、もちろんチキンだっておいしい。だけどこのサンド、ちゃんと見ていないと、はさむ野菜の量や種類が少ないので要注意です。また食べていると猫が寄ってきて、一緒に食べよ、となります。

③ ヨーグルトのサラダ
 サラダを店のお勧めで頼んだら、白っぽいのやピンクやらどろどろした半液状物質が4-5種類大きな皿に載って出てきた。パンにつけたりケバブと一緒に食べたりするらしい。何だこれ?後で地元のテレビを見て分かったが、野菜や果実をミキサーで粉砕して大量のヨーグルトに混ぜている。まずくはないが、普通のサラダの方が良いな。特にこちらの小振りで丸みをおびたキューリは水水しくておいしい。あと甘くないヨーグルトに様々なドライフルーツを入れて食べるのもおいしい。トルコはブルガリアの隣りだものね。

④ 胡麻パン(スィミット)
 二十センチ位のドーナツ型に焼いたパンを半分に切って売っています。胡麻がこれでもかとまぶしてあって香ばしい。イスタンブールに着いた翌早朝、朝食前にホテルの周りを散策していたら、リヤカーみたいのにこの胡麻パンを山ほど乗せて引いて行くおじさんを見つけた。かなり離れていたが、ここまで胡麻の匂いが香しい。案の定カミさんが、「食べたい!」と言うので走って追いかけた。いくら(ネカダル?)返事を聞いても分からない。おじさん片手を出すから、「え、五?五リラ」と言ったら「そうだ」と言う。三百円高いな、と思ったがおじさん袋に二個入れようとするから、「一個でいいよ、いくら?」「え、やっぱり五リラ」何だか釈然としなかったが五リラ払って手に入れた。焼きたての胡麻パンうまかったなー。もっともホテルの朝食で山ほど積み上げてあったけど。
 後でその時の話しをガイド君にすると、値段は一つ一リラか一・五リラであることが判明、うう、だまされた。「ごめんなさいね」と笑い話になっちゃった。ホテルのフロントの親父は、朝食をこの胡麻パンとチャイで済ませていました。親父さんが食べているのを見ると、実にうまそうでまた食べたくなりました

⑤ お菓子
 街中に菓子の専門店が多い。その代わりに酒屋は無い。イスタンブールの高級菓子のレベルの高さはハンパじゃないよ。値段も決して安くはない。カミさんがあれもこれもと言うから、自分も色々食べたが美味しいよー。
 トルコでは日本のゆべし(柚餅子)に似たロクムという菓子が有名で、これも高級なやつはおいしいのだが、カリカリしたミニチュアモンブランのようなクッキーはピカ一。本体のクッキーはアーモンドとかが乗り、蜂蜜のしみ込んだサックリした風味だが、そこに行く前に、上にふんだんに乗ったサクサクした、形で言えばソーメンを唐揚げにしたようなものがたまらなくおいしいんだな。原則お酒を飲まないムスリムの人たちは甘いものが大好きで、おっさんでもよく食べる。街やバザールのメインストリートに店を構えたお菓子屋さんはDisplayがきれいで楽しい。

トルコの国旗

 最盛期のオスマン帝国は、ギリシャを始めバルカン半島、アラビア半島の全て、シリア、エジプト、ハンガリー、キプロスを治め、ウィーンを二度に渡って包囲している。国家という概念は希薄だったろうが、その旗印は緑に新月というものでした。荒野と砂漠に住む遊牧民にとって、万物を焼きつくすような過酷な太陽よりは、夜空に浮かぶ優しい月が友達。羊飼いは夜空を見上げる機会が多かったのでしょう。そう言えばモーゼもイエスもマホメット(ムハンマド)も若いころは羊飼いでしたね。シャカは王子でしたが。
 現在のトルコ共和国の国旗は、赤地に白抜きの三日月と星で、山の上とか目立つ所には必ず翻っていますが、この旗には悲しいいわれがあります。
 第一次世界大戦は1914年、セルビアの無政府主義の青年がオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を、ピストルで暗殺したことから始まりましたが、兵士の戦死者数では第二次世界大戦を上回る未曾有の大戦争になりました。ドイツと同盟を結んだトルコは、映画「アラビアのローレンス」ではアラブ軍に追いまくられる無能で残虐な軍隊に描かれていますが、実際には極めて勇敢な戦いぶりを示しました。
 昔も今もイスタンブールは地政学上の要衝で、特にロシアはここが落ちれば黒海が地中海に広がる。黒海艦隊は好きな時に地中海に出撃し、二つの海峡を通って黒海に下がれば、巡航ミサイル無い時代これ以上に安全な母港はありません。塹壕戦となり膠着した西部戦線の戦況を一気に好転すべく、当時海軍相だったチャーチルは、英仏連合艦隊をイスタンブール攻略に差し向けた。対抗するオスマン帝国にはまともな軍艦はないので、海岸の要塞砲がたよりです。海峡の入り口で数日示威行動を続けた後、新鋭の戦艦群が二列縦隊となって突入を開始した。当時世界最強の英仏戦艦による艦砲射撃が始まる。迎えうつオスマン軍の要塞砲はまだ沈黙している。すると突然戦鑑三隻が次々に爆発する。仏戦艦のブーヴェは艦内の火薬庫に引火したのか瞬時に轟沈、生き残った兵士は数名に過ぎなかった。ここでオスマン軍の要塞砲が火を吹く。要塞砲は艦砲に比べて射程は短いが、既に照準は合わせてあるので面白いように命中し、すでに傷ついた戦艦に加え、それを援護する別の戦艦三隻が大破した。連合艦隊の艦砲射撃の破壊力は凄まじく、オスマンの要塞を次々につき崩すが、上に向かって打ち上げるオスマン軍要塞砲の火点が分からず、全くのめくら打ちになっている。オスマン軍の要塞砲は旧式の榴弾砲であるのが幸いして、敵戦艦の甲板に当たる。艦隊同士の海戦を想定した戦艦は、横からの砲撃には厚い装甲を施しているが、真上からの攻撃には意外と弱い。山の向こうから打ち上げるようにヒョロヒョロ打ってくるオスマン軍の榴弾が効力を発揮し、やがて英軍艦二隻が沈没する。
 最初に三隻が一斉に爆発した原因は、前夜オスマン海軍の木造の機雷敷設船ヌスレット号が、一晩中かかって機雷源を埋設した所に入り込んだためだ。偶然ではない。数日前からの示威行動で艦隊が同じ地点で旋回運動をするのを観察して、仕掛けた罠に見事に引っかかった。大損害が出し、何らの戦果もあげられなかった連合艦隊は撤退せざるをえなかった。オスマン側は数十名が負傷したに過ぎない。チャーチル海軍相は罷免された。
 しかしチャーチルが主張したようにもう一度、損害を恐れずに艦隊をダーダネルス海峡に差し向けていたら、イスタンブールは陥落していたであろう。海峡を突破された後にオスマン軍の抵抗するすべはなく、艦砲射撃は凄まじい破壊力を発揮したはずだ。要塞の兵士は艦隊が海峡を突破したら解散するよう命じられていた。

 連合国はそれでもイスタンブールをあきらめなかった。海上からの攻撃に失敗した後、陸上からの攻略を目指してガリポリ半島に上陸する。海上戦の反省も無くオスマン軍をなめきり、海上から海岸の稜線を眺めただけ。敵を知らず己も知らない無謀な上陸作戦であった。孫子に言わせれば百戦して百敗する。
 時に1915年四月二十五日未明、英仏軍とオーストラリア、NZ軍団、通称ANZAC(Australian & New Zealand Army Corps)によるガリポリ上陸作戦が始まった。この時初めての本格的な海外派兵となったアンザック隊の上陸地点は、後にアンザック入江と呼ばれるが特にトルコ軍の抵抗が激しく、丘の上から撃ち下ろす機関銃、砲撃の十字砲火から身を隠す遮蔽物はなく、海岸はアンザックの兵士の死体で埋まり海は血で赤く染まった。トルコの国旗の赤地に白い半月と星は、正にこの日の夜の海に写った月と星を表している。
 つまり勝利の記念だね、と言ったらそれは違う、とガイドのアリ君に強く否定された。両軍の戦死者を悼み、二度と同じような戦争を起こさない気持ちの現れだと言う。四月二十五日は、オーストラリア、NZでは現在でもアンザック記念日としてこの日の犠牲者を悔やむ休日になっている。それほど激しい戦闘だったのだ。かろうじて海岸に橋頭堡を築くことが出来た連合軍も内陸へはほとんど進めない。
 年齢を偽って十四歳で参戦したオーストラリアの少年兵がいて、彼が故郷に出した何通かの手紙が残っている。トルコ軍も装備は劣悪で食料、医薬品、弾薬全てが不足していて、靴すら履いていない兵士もいた。トルコ共和国初代大統領になったケマル・アタチュルクは、この時大佐として指揮をしていたがケマルは言う。「お前たちに戦えとは言っていない。死ねと言っている。」戦闘の詳細は省くが、連合軍がついに翌年一月にガリポリから撤退する時までに、トルコ軍の戦死者は86,692人、戦傷者はその倍、連合軍の戦死者は44,000人、その他に連合軍側では、劣悪な環境で腸チフス、赤痢が発生し十四万人が戦病死した。十四歳のオーストラリア兵士は撤退の船に乗れなかった。ついに一通の手紙も家族から受け取ることはなく、病死して岩だらけの海岸に葬られた。
 トルコの人は敵味方を問わず両軍の戦死者を厚く弔い、その墓には百年たった今でも、アンザック戦没者の遺族が四月に多数訪れています。

* 国旗の由来はもっと古い戦争(コソヴォ戦役)から来ている、という説もあるが、ここはガイドのアリ君の説に従いました。

おしまいに

1.長くなるから省いた話し。

・ボスポラス海峡クルーズと、海に浮かぶ乙女の塔
・文化センターで見た、メヴレヴィー教団のセマー(旋回舞踏)
・新市街散策とガラタ塔
・グランドバザールでの買い物と、結婚式で使う物専門の市場
・旧競技場の広場に立つ三本のオベリスク

2.書きたかったが省いた話し。

・トルコ軍艦エルトュールル号の熊野灘沖での沈没と、トルコ軍人と熊野の住民との交流。
・クルド族のガイド君、土産物屋のチェチェン人親父とシリア難民。
・朝鮮戦争で国連軍としてトルコが参戦して、北鮮軍・中華人民軍と戦い七二一名の戦死者を出したこと。韓国が、勇猛果敢に戦ったトルコに今でも感謝していること。

3.行きたかったが行けなかった所。

・カーリエ博物館(旧コーラ修道院)モザイクとフラスコ画の宝庫。
・軍事博物館 イェニチェリ軍楽隊の演奏。
・巡礼地、エユプ(最後のアンサール)の聖廟。

次回は、亜細亜の辺境シリーズに戻ってビルマに行こうかと思う。

斯うご期待!
















トルコ紀行~イスタンブールは猫の街-2

2014年12月22日 14時07分40秒 | トルコ紀行
     目次

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居

○ イスタンブール編

・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと

○ トルコ編

・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに


トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

イスタンブール

















 イスタンブールは猫の街だ。三毛もいるが黒猫が多い。海外に出て犬はたくさん見てきたが、猫が住んでいる密度は日本が一番だと思っていた。いやあ世界は広い。イスタンブールの猫密度は日本の下町を上回る。
 総じて小柄でやせた猫が多く、とても人なつっこい。犬も多いが、あれ、こんなきれいな犬なのにノラなの?という感じでチワワのノラまでいた。猫たちに話しかけながらエサをやっている光景を何度か見たが、それはいつもモスクの内外でヒゲ面の男たち。内一人はイスラム教の導師(イマーム)でした。ついでだから言っておくと、イスラム教には僧侶、司祭、牧師に当たる聖職者はいない。世俗のイマームが先生になってイスラムの教えを伝える。イマームは先生だから当然妻帯します。イスラム僧なんて言葉は無いのです。
 一度猫と犬のケンカを見た。広場の芝生に陣取った猫と、体格がその猫の五倍はある犬とがにらみ合っていて一触即発。徐々に間合いが詰まって、犬の鼻先に猫のコンマ三秒のエアーパンチが炸裂すると、犬は飛び上がって逃げた。犬はなおも未練がましく芝生の回りをしばらくうろついていたが、芝生の中央に背を丸めてどっしりと座った猫にはかなわない。ところでここの猫はムスリム(イスラム教徒)なんでしょうか?

 黒海から流れ出た水は、ボスポラス海峡を通り抜けてマルマラ海にそそぎ込み、その先はエーゲ、地中海へと広がる。そこにはロードス、キプロス、クレタといった大小無数の島々が浮かぶ。どこを歩いても海に向かって開けたこの美しい街は石畳の坂道が多く、トラム(路面電車)、地下鉄、電車、ケーブルカーといった様々な交通手段があり、丘の上には巨大なモスク、海沿いには宮殿(トプカプ、ドルマバフチェ)とバザール、商店、食堂、公園があり、観光客と地元の人がたくさん歩いていて活気がある。長い間あこがれていたこの街に都合五泊したが、あと一日、あと二日はいたかった。たまらなく魅力的な街です。宿泊したホテルは旧市街の、ブルーモスクをちょっと見下ろすロケーションにある、こじんまりとした中級ホテルです。屋上に食堂があり、ブルーモスクへは歩いて二分、屋上からの視界の三分の一はボスポラス海峡で向かい側は新市街、丘の上にはガラタ塔が見えます。残りはマルマラ海に向かって大きく開けていて数多くの貨物船が行き交っている。その先にはアジア側の陸が見え、その陸地は広大なアナトリアの大地へと通じる。その先はシルクロードを通って長安へと続く。
 主な見所は旧市街地区に固まっていて歩いても廻れるし、トラムは3-5分置きに来るからそれに数駅乗れば楽が出来る。プリペイドの交通カードをキオスクで買うと、バスを含めて市内のどの交通にも使えて便利だ。カードは料金を追加入金でき、最終日にキオスクに渡すとデポジットの五リラ(三百円)が戻ってくる。一枚あれば二人で使える。つまりタッチしてカミさんを入れ、もう一回押して自分が入る。だけど十年前に買ったトルコのガイドブックには載っていない路線がたくさんあり、また2013年の十月末には旧市街とアジア側を繋ぐ海底トンネルが、日本の会社の手で開通し地下鉄が通ってさらに便利になる。インフラ整備はオリンピックの開催を予定していたんだろうね。イスタンブールっ子は心底残念がっていましたが、地方のカッパドキアの人達は意外とクールでその温度差が面白かった。東北や大阪の人が手放しでは喜べない、みたいな。
 
*モスク(ジャーミィ)巡り









 今は無きオリエント急行に乗って終点のスィルケジ駅に到着する。街に出るとまず目につくのは、幻想的なフォルムのモスク。海が眼下に開け、空にはカモメ、無数の船が海峡を行き交う。アヤ・ソフィアとそれに対抗するようにブルー・モスクが天に突き出たミナレット(尖塔)に囲まれ、千年の歳月を感じさせない優雅な姿で目に迫る。
 街には焼き栗、とうもろこし、胡麻パン等の屋台が並び、良い香りを漂わせている。トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、アラブ人、原色の服をまとったアフリカの人達が歩き廻っている。遠くからバザールの雑踏の音が届き、お祈りの時間になると、モスクのミナレットからアザーム(お祈りの呼びかけ)の声が朗々と流れる。
 スレイマン大帝時代のイスタンブールの人口は約四十万人。同時代のパリは二十万、ローマ十万人でした。ルネサンス以前では、世界で最も豊かで文化の進んだ都市だと言えるでしょう。中国が怒るかな。

  *イスラム教の礼拝堂をモスクと呼びます。そうです。タマネギ屋根の建物ですね。モスクの大きなものをトルコ語でジャーミィと呼んでいます。

 アヤ・ソフィア













 東ローマ帝国、ユスティニアヌス帝の時代、西暦五三七年、キリスト教会として建設された。この時日本ではまだ聖徳太子も生まれていない。
 間に柱を入れずに高さ五十六m。直径三十一~二m(多少ゆがんでいる。当初からか、地震のせいか)という奇跡のような大ドームを持つ。建築には二人の数学者がたずさわり、屋根にはロードス島で造られた軽いレンガを使っている。1453年、オスマン帝国軍によりコンスタンチノープルは陥落し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は滅びる訳だが、帝国最後の日、逃げ場を失った市民の多くは、イスラム兵士の半月刀に追われここアヤ・ソフイアに逃げ込んだ。最後の瞬間に大天使ミカエルが天から降臨し、キリストの敵を滅ぼすという言い伝えがあったが、イスラム兵が殺到しても、天使は現れなかった。
 ここを占領したメフメット二世は、アヤ・ソフィアの周囲に四本のミナレットを建て回教寺院とした。この美しい建物は教会からモスクに代わっても、調和のとれたその姿に違和感はない。内部の壁面をおおうフレスコ画は、1930年代に再発見されるまで、偶像を嫌うイスラム教徒によって漆喰で塗り込められた。現在は博物館として解放されています。壁画の規模とフレスコ画の鮮やかさは見事で、ビザンティン帝国に大金を寄進した大商人の夫婦がキリストの左右に立つ図柄などは微笑ましい。城壁の代金を寄進した商人は手に模型のような城壁を抱えている。日本の神社で町内の寄進者の名前を石の柱に堀るのと発想は同じだね。
 アヤ・ソフィアは、二階まで上がることが出来る。他のジャーミィではそれが出来ない。皇帝は馬に乗ったままスロープを通って二階に行けた。下から見上げても、上から見下ろしてもステンドグラスごしに大ドームの空間の広さが感じられる。

ブルー・モスク









 正式な名称はスルタンアフメト・ジャーミィ。内部の壁に鮮やかな青いタイルが多く使われてることから、愛称としてブルーモスクと呼ばれている。オスマン帝国の最盛期に、大建築家スィナンの弟子によって作られたモスクである。ここは人気があり、朝から大変な人出で並ばないと入れない。イスラムの建築は外光を出来るだけ取り入れて、明るく開放的でシンプルだ。彫刻や絵画が一切なく、窓には美しい色を組み合わせたステンドグラス、壁面は大てい鮮やかなタイルで覆われ、祈りをする床には一面絨毯が敷かれている。ブルーモスクは中に入れば息をのむほど美しいが、外から見ても六本ものミナレットを持ち、大きな丸ドームをたくさんのより小さな丸ドームで囲んだ姿が良い。何しろホテルから徒歩二分。毎朝五時半~六時(日によってずれていった)ブルーモスクのアザーンによって目を覚まされるが、ここの声は他のモスクのものに比べてピカ一でした。

 スュレイマニエ・ジャーミィ/リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他







  タイトルの二つのジャーミィはミマール・スィナンが作ったものです。スィナンはカッパドキアの石工の家で生まれたキリスト教徒で、ギリシャ系もしくはアルメニア系白人です。オスマン帝国は宗教には大変寛容で、特にユダヤ教とキリスト教は共に啓典の民(旧約聖書はイスラム教を併せて3宗教共通)として尊重されていた。ナザレのイエスは預言者の一人として尊敬されコーラン(クルアーン)の中に何回も登場します。ただ神の子とか復活とかは認めていません。
 デヴシルメというオスマン英国の制度があり、キリスト教徒の少年を一定数、半ば強制的に五年に一度徴用してイスラム教に改宗させ教育する。少数の賢い少年は宮廷に残し官僚とする。帝国の歴代の宰相の多くは元キリスト教徒や奴隷出身であった。残りの大半の少年はイェニチェリになる。
 ヨーロッパを震え上がらせたオスマン帝国軍の中でもイェニチェリ軍団はスルタン直属の精鋭近衛師団の歩兵隊である。全員元キリスト教徒で妻帯は出来ない。世俗の欲を断ち切り、仲間とスルタン個人への忠誠心のみで繋がっている。仲間への友情のあかしとして大ナベやスプーンを旗印とし、軍楽隊を先頭に華麗な装備で進軍し、激戦の中ここぞという所で投入され命を捨てて戦う。帝国がうまくいっている時には有効に機能したが、末期は腐敗して反乱をおこし、国防軍によって鎮圧された。
 スィナンは二十歳を過ぎてからイェニチェリの工兵隊に所属し、四十五歳のころ遠征先の戦場で橋を作りスルタンの目に止まった。スレイマン大帝以降、三代のスルタンに仕え百歳で没するまでに、四百七十七以上のモスク、橋、病院、ハマム(公衆浴場)等を造った天才建築家です。トルコのミケランジェロかダ・ヴィンチか、時代も重なっている。スィナンの造ったモスクの多くはバザール、神学校、図書館、施療院やハマムを含めた総合施設です。スュレイマニエ・ジャーミィは地上で味わえる最も美しい空間の一つと言えるが、残念ながらお祈りの時間が迫り、五分ほどしかいられなかった。ここの近くにひっそりとスィナン自身の墓がありました。スィナンはスュレイマニエ・ジャーミィでアヤ・ソフィアを超える大きさのドームを作ろうとしたが、わずかにおよびませんでした。
 リュステムパシャ・ジャーミィはドームの直径が十五mとスュレイマニエ・ジャーミィの半分ほどの大きさだが、カミさんはここが一番きれいだったと言います。何しろ全部の壁面で使われているイズミック地方で作られたタイルの色が鮮やかなんです。深みのある青、緑、地の白色が美しく図柄はユリ、バラ、カーネーション、チューリップといったいわば永遠に色あせない花園で、特に赤がすごい。青もいいね。イズミックタイルは十六世紀に最盛期を迎え、スィナンのモスクやトプカプ宮殿を彩るが、その後赤の技術は失われ、現在ではあのようにインパクトのある赤は再現出来ない。
 ところでリュステム・パシャ・ジャーミィの入り口はエジプシャンバザールの中にあり、え、ここなの?と言うような暗い階段を登ると陽の当たる場所にポッカリ出る。そこがジャーミィの入り口。ガイド君いわく、「入り口はトルコ人でも分からない。」
 他にもホテルの近くにあるスィナンが造った小さなモスク、ビザンティン時代の教会跡を作り直したモスク、新市街にあったキリスト教会(ギリシャ正教かアルメニア教会か不明)等を訪ねました。モスク見学は無料ですが、お祈りの時間は入れません。また女性は髪を出さないようにスカーフをつける必要があります。小さなモスクはすいていてゆっくり出来ます。絨毯の上に座り、ステンドグラスから差し込む光の中、静かなドームではスカーフをつけた地元の美女がお祈りをしていたり、イスラムの先生が少年の悩みごとを聞いていたりします。少年の悩みは聞くまでもない。「先生、僕、女の人のことで頭が一杯でーーー」知りたいのは先生の答えだよね。ドームの中は、宙に浮かんだ精神カプセルとでも言おうか。とても穏やかで落ち着いた空間です。ここで一日に何回もお祈りをするムスリムの人たちが鬱病にかかるとは思えません。

ジャーミィ秘話

 いかんいかんいかんぜよ。何だか学校の授業みたいな説明口調になってきた。これでは読者の皆さん、面倒くさいから読むの止めたってことになっちゃう。なので、ここらでガイドブックには書かれていない取っておきの秘話を披露しよう。主にガイド君たちから仕入れたものです。

1。第一話:ダチョウの卵

 ジャーミィのドームの天井近くにぶら下がった何やら不思議な球体。これダチョウの卵なんです。薬草と香辛料で煮込まれ真っ黒になっている。何?何なの?実はこれ、虫よけなんです。蜘蛛も羽虫もダチョウの卵を異常にきらうそうです。そういえば大きなジャーミィは日中、戸が明き放しなのに中で虫が飛んでいるのを見たことがない。

2。第二話:音響効果

 スィナンの傑作、スュレイマニエ・ジャーミィ。オスマン帝国最盛期のスレイマン大帝の絶大な信頼を得ているスィナンですが、大帝の名を冠するこの大モスクの建設予定地の丘で人を遠ざけるとイスを持ち込み、一人で水パイプをやり始めた。来る日も来る日も朝から陽が沈むまで丘の上に座り続け、やる事といったらコポコポ水パイプをふかすだけ。最初は設計の構想を練っているのだろうと、大監督で地位も高いスィナンに誰も意見をしようとはしない。
 ところがスィナン、一ヶ月たっても二ヶ月たっても動かない。他の準備もすっかり終わり、各地から集めた職人・人夫もすることが無くなった。三ヶ月、四ヶ月。スィナンは丘の上で一人でコポコポ。さすがの大帝もいらだち直ちに工事を始めるように命令を下すが、結局始めたのは六ヶ月後だった。まず耐震性を高くするため、三年間地面を6-7mも掘り下げる基礎固めに費やした。
 ジャーミィのドーム内は静かだが声がよく通る。それは銭湯の中のようにワンワンこもる音ではない。祈りの空間ふさわしく音や声が一瞬増幅され、そのとたんにどこかへ吸い込まれて消えていく印象だ。スュレイナニエ・ジャーミィには、壁の間に百三十三個の素焼きの壷が埋め込まれているという。スィナンは半年の間、水パイプの音の流れに繰り返し耳を傾け、限界まで最高の音環境を追求したわけ。ちなみに日本では、能の舞台の床下には壷が置いてあるそうです。床を踏む音がポンっと決まるんだろうね。

3。第三話 スス、炭、カリグラフィー

 モスクでは朝早くから夜になってもお祈りは続く。今では電球が天井から釣り下げられ巨大な金具の輪に取り付けられていますが、電球以前はオイルランプです。アラジンの魔法のランプね。当然ススが出て、そのままでは壁や天井が黒ずんでしまうのだが、天才スィナンがそのような事を許すはずがない。
 立ち上るスス(煙)を集めて排出する排気システムが出来ていて、天井近くにある排出口のある小部屋は永年の間の煙にいぶされて真っ黒になり、大変良質な炭が取れるそうです。その炭を用いてコーランの一句を美しく図案化して描いたカリグラファーはモスクの内外を彩ります。

4。第四話:スィナンの残した修復マニュアル

 何年か前、これもスレイマニエ・ジャーミィで大規模な修復工事が入り、日本の大手建築会社が受注したそうです。その工事の最中、天井に近い場所でスィナン自身が書いた巻物?が見つかりニュースになったそうです。
 そもそも円い巨大ドームは天頂に負荷がかかり、例えばその頂点の礎石を外したら、内側に向かって周囲の石が次々に崩れてくるのだそうです。当然その頂点は相当な圧がかかっていて痛みやすい。スィナンの書は、その礎石の交換時期・方法を詳しく書いた物であった、と言うことです。

 地下宮殿









 ここを作ったのはオスマン帝国ではなく、4-6世紀のビザンティン帝国(東ローマ帝国)です。実際には宮殿ではなくて、地下水道もしくは地下貯水池です。ですが確かに宮殿と呼びたくなる。何しろオリンポスの神々の神殿の柱を林立させているのだから。オスマン帝国もちゃっかりここを利用していたのですが、十八世紀に入り帝国が衰退してくる中でこの地下貯水池は使われなくなり、一時その存在を忘れられていたそうです。ただ床下に穴があり、そこから釣り糸をたらすと魚が釣れる家があったり、どこそこホテルは地下から無尽蔵に取水できるといった不思議がありました。
 現在は電気がついて、通路には手すりが組まれていますが、入り口は繁華街にあって、地下駐車場はここね、みたいな素っ気なさ。ここに降りた時にこれは見たことがあると思った。ジャッキーチェンの映画のロケで使われていたはずです。イスタンブールの街にはこのような地下宮殿がいくつもあるそうなので、ここかどうかは分からないけどね。1984年に大改修を行い、底に貯まった泥を二mも取り除いたところ、横向きと下向きに柱の下敷きになったメデューサの大首が現われ大変な話題になったそうです。メデューサはギリシャ神話に登場する髪の毛がヘビの怪物です。メデューサを一目見た者は石になってしまう。元々はポセイドーンの愛人で美女だったが、何やらで罰を受けおぞましい姿になった。生け贄のアンドロメダ(美しい乙女)を助けに来たペルセウスによって退治された。ペルセウスは盾に写った姿を見て戦ったといいます。メデューサはイッソスの戦いで、ペルシャのダレイオス王に迫るアレキサンダー大王の胸当てにも描かれています。
 キリスト教を国教とした東ローマ帝国が、古代の信仰を守る人々に対するみせしめとして、柱の土台にしたものです。神殿にあったメデューサの首を切り落とし、こんな事をされてばちを当てられないようでは、お前たちの神は偽物だ、と言うわけですね。品の良いやり方とは思えませんな。

コンスタンチノープルの陥落

 1453年。二十一歳、オスマン帝国第七代スルタンのメフメット二世により、三重の城壁に守られ難攻不落と言われた、東ローマ帝国の城塞都市、コンスタンチノープルは陥落した。日本では信玄・謙信の川中島の合戦が1553年だから、それに遡ること百年。兵力差は十万人対七千人でした。
 メフメット二世は開戦の数年前からハンガリー人ウルバンを重用して、五百㌔以上の石の玉を千六百m飛ばせる大砲を何門も造り、各々六十頭の牛に引かせて、当時の帝国の首都であったアドリアノープル(現エディルネ)から三日間かかって戦場に運んだ。ウルバンは最初この大砲を東ローマ(ビザンチン)側に売り込んだが、冷たく拒否され仕方なくオスマン帝国に行きメフメット二世に厚遇されている。もしビザンチン側が数門でもこの大砲を備えていたら、オスマン軍は城壁から二㎞は離れて陣を張らなければならなかったはずだ。
 また元々が遊牧民のオスマン軍は海戦が苦手で、海軍は元キリスト教徒の海賊を提督として雇っていたが、船数ではビザンチン側の数倍を保有していた。三重の城壁をめぐらせたコンスタンチノープルも海側の守りは手薄だった。七千人の兵士では陸側に配置するだけで手一杯だ。
 その代わり、金角湾の入り口を鉄鎖で封鎖し、オスマン艦隊の侵入を防いでいた。海底から引き上げられた鉄鎖を、国立歴史博物館で見たが、一つが1mもある太くて巨大な鉄の輪です。これは海の底に這わせても意味がない。たくさんのイカダを作り海上に浮かべ、その上に鉄鎖を固定して海峡の出口を封鎖した。さらに金角湾内には、少数だが海戦に習熟したヴェネチアとジェノバの艦船が巡回していたので、海側の守りは万全だと思われた。
 ここでメフメット二世は戦史に残る奇策を取った。艦隊の山越えである。今でいう新市街、中立政策を取ったジェノバ人の住む、ガラタ地区の横の小山に道を作り丸太を敷き詰める。重い装備を外して船体を軽くした木造のガレー船をそれに乗せオイルを樽から惜しげもなく丸太にかけ、人や牛を使って小山へ引っ張り上げる。小山の頂きからはやはり油をかけた丸太の道を通って、次々にオスマンのガレー船がビザンチン側の内海である金角湾にすべり下りる。一夜にして数十艘の艦船が金角湾に出現したのを見た防衛軍は、いかばかりに驚き失望したことだろう。
 コンスタンチノープルの内懐に入ったオスマン軍は、海側から艦載砲の砲撃を加える。陸側は連日に渡る巨砲の砲撃により崩れる城壁の修理が追いつかず、地下のトンネルがトルコ軍陣地から掘られ、一つつぶしても他に何本も作られ、城壁に達すると火薬を仕掛け下から城壁を破壊する。救援を呼ぶために派遣されたヴェネチアの小型ガレー船は、数日の差で救援艦隊とすれ違い、救援隊が地中海に来ていない、という絶望の報告をする為に死地へ引き返した。隣国ハンガリー王が参戦の準備を進めていたが間に合わず、間に合った法王の救援軍はわずかに傭兵二百人だった。
 ある朝、城門の一つが締め忘れられている事を発見したオスマン軍がそこからなだれ込み、ビザンチン帝国最後の皇帝コンスタンティヌス十一世は、殺到する精鋭イエニチェリ軍団に立ち向かい、ついにその遺骸すら発見されなかった程の奮戦のすえに死んだ。

トプカプ宮殿





 アヤ・ソフィアの北東、ギリシャ人がアクロポリスを作った七つの丘の一つに築かれた、面積七十万平方メートル、モナコ公国の半分の大きさを持つ宮殿。門に大砲が据えられていたため、大砲の門と呼ばれる。トプが大砲、カプは門の意味です。
 宮殿は庭園の中に点在する建物群からなり、図書館、武器庫、厨房、ハレム等が固まったり離れたりして建っている。宮殿の床や壁のタイル、窓のステンドグラスは美しいが建物自体は案外質素です。帝国が衰えを見せ始めたクリミア戦争中に作られたドルマバフチェ宮殿(1856年年落成)の方が、ずっと絢爛豪華で部屋数も多い。あちらは西欧風(バロック調、ロココ調)が加味され、階段にはクリスタルの手すり、ドアの取っ手に至るまでかわいらしく装飾された色とりどりの陶器に覆われている。中国の大きな磁器の花瓶が部屋のそこかしらに置かれ、象牙のろうそく立て、日本製の茶だんす等の調度品、部屋のタイルやカーペットの色に合わせたテーブルソファーセット。儀式の間は洋風の破風のついた高さ三十六mのドームで五トンあるイギリス製のシャンデリアが下がっている。
 一方のトプカプ宮殿は、外国の使節の謁見の間ですら、さしたる広さではない。しかもスルタンは脇の小部屋に隠れて大臣が会見する様子を盗み見している。ハーレムは広くて、下っ端の娘や女奴隷、宦官の部屋は見学出来ない。ピンク等暖色系のタイル、カーペットを使っていて落ち着く。ハレムのハマム(風呂場)はきれいだが、意外に狭くて4-5人入れば一杯になってしまう。湯船はなくスチームのサウナで汗を出し、汲み水をかける方式。カリギュラ皇帝のローマ風呂とかを想像してもらっては困る。ハレムには食堂はないので厨房から料理を運んでくるのだが、運ぶ途中で冷めないように廊下にスチームで暖め直す装置がある。
 さて厨房だが三つあり、スィナンが作ったメインの厨房は十本の煙突が出ていて、八百人の料理人が毎日四千食を作っていた。祭事の時は外から客が来るため、料理人の数は千人になった。二つ目の厨房は各種のデザートを用意し、三つ目の厨房では選りすぐりの料理人がスルタン一家の御膳を用意する。一年間に3万羽のニワトリ、2万3千頭の羊、1万4千頭の子牛が調理され、毎日膨大な量の新鮮な野菜と果実等が運びこまれた。
 だがこの厨房のすごさはそれだけではない。ここは北京と並ぶ東洋陶磁器のコレクションがあり、中国陶磁一万点以上、古伊万里を主とする日本の物が約七百点、その他朝鮮、ベトナム、トルコの釜で焼かれた皿がこれでもかと残っている。鑑賞用ではなく、毎日の食事に使用する器として残っているのだが、全く残念なことに数年前から改修工事に入り、現在厨房に入ることは出来ず、陶磁器コレクションを見ることはかなわない。
 最後にトプカプのお宝、宝物殿を紹介しよう。圧巻は世界第五位八十六カラットのダイヤモンドが回りをたくさんのダイヤで囲まれてターバンの羽飾りとなっている。このダイヤはそれを河床で見つけた職人が、その価値を知らずスプーン三本と交換して喜んだといういわれがある。次にエメラルドの短剣。直径五センチ程の緑色に透き通ったエメラルドが三個短剣の柄にはめ込まれ、その周りは金で飾られている。マフムト一世からペルシャのナディル・シャーへ贈られる途中、シャーの急死の報告を受け、引き返したものだ。映画「トプカピ」はこの短剣を盗む泥棒の話し。
 他に、宝石をちりばめ金装飾した小物入れや時計、楽器、豪華な椅子や衣装等が計四つの部屋に展示されている。武器もすごい。スルタンの親衛隊、イェニチェリ軍団が儀式の際に使うと思われるヨロイ、赤い大盾、大きな半月刀、全長二mはあろうかという銃にほどこされた装飾は圧巻で、これほどきらびやかな装備を持つ兵士が百人も並んだら宝石、金具が陽光に反射し見る者の目が眩むであろう。
 宝物殿は見物客が列をなし、特に最初の館は行列が恐ろしく長かったので割愛した。そこには預言者マホメッド(ムハンマド)の外套、剣、歯、あごひげ等が展示されている、とのこと。もっとも全て箱に納められているそうだ。「ここはいいや。」とガイド君に言うと、「そうね。日本人は大ていそう言う。」との返事が返ってきた。

* ハレムのこと








 
 オスマン帝国のハレムの美女は三百人(最盛期は千人)だから、中国のように後宮三千人まではいかない。幼い皇子、皇女の保育もハレムで行っている。女性は例外なくキリスト教徒の生まれで、アルバニア、ギリシャ、グルジア、コーカサスの出身者が多いが、イタリア人、フランス人もいた。ハレムでスルタンの子を授からなかった美女は、大商人や重臣の妻として下付される事もあった。調達は地方からの献上か、奴隷市場での購入による。ハーレムと呼びたくなるがハレムの方が語源に近い。
 ナポレオンの奥さんジョセフィーヌの従姉(エーメ・デュブック)が地中海で海賊に捕まり、ハレムに入れられました。数奇な運命に生きたエーメは、天性の気品と美貌から時のスルタンに愛され、ついには女奴隷から皇太后となり、夫と息子のスルタンを通してハレムの生活を改良し、帝国の近代化に努めました。
 一説では、ナポレオンがジョセフィーヌを離縁したことに怒りロシア遠征の際に、息子を動かしてそれまでの親仏政策を覆し、宿敵ロシアと講和を結んだという。
うわっ歴史はこんな所から動いていたのか。カミさん怖るべし。